あ や か し の 十 月  (小説図鑑・第10号)
 
                          塚  田  吉  昭
 
 
 十月のある日、村里法律事務所にやってきた客は、若いくせに、顔色の悪い元気のない女だった。村里と向かい合って坐ると「これを預かってほしい」と風呂敷に包んだものを広げた。手垢にまみれた古い鼓が出てきた。どこかの土蔵から引っ張り出してきたような、カビ臭い、価値のないものに見えた。「なんでこんなものを」と訊くと「いじめられたので逃げ出してきた。これは腹癒せに盗んできたものだ」という。穏やかな話ではない。「泥棒じゃないですか」「その心配はありません。盗難届けを出せるものじゃありませんから」というが、いかがわしいものに変わりない。断ろうとすると、テーブルに福澤諭吉が十五枚並んだ。「預かってくれれば、もう十五枚出します」村里は迷った。三か月も客が来なかった。こうなると福澤諭吉は十倍にも二十倍にも魅力的に見えてくる。へそくりになるかも知れない。魅力に負けて、預かり書を書いてしまった。女はそれを受け取って帰ってしまった。扉をすり抜けたように見えた。
 先輩が仕事を辞めるときにもらい受けた大きな金庫に、鼓をしまっていると、廊下で争う物音がした。ものが倒れる。ガラスも割れる。女の悲鳴もした。依頼客が襲われている。鍵を閉めて廊下に飛び出した。しかし、だれもいなかった。ガラスも割れてなければ、倒れたものもない。幻聴だったのだろうか。それにしては、はっきり聞こえた。室内の空気が動いたので振り返ると、白髪の老婆が依頼人のいたソファに坐っている。わずかな時間にふたり目の客である。これは驚いたと思いながら、老婆の前に坐った。「鼓を嫁に持って行かれた」と泣きはじめた。どうやら金庫に入れたものらしい。「あの鼓は当家の家宝だから返して欲しい」同情を引くように話す。ここにあることを、もう知っている。おかしい。聞いているうちに、老婆は正体を現わしはじめた。皺だけの顔がゆがんで、ガマの背中のような疣がいちめんにできた。疣の先から水がぽたぽた落ちはじめた。びっくりしていると、大きな手が老婆の頭上に降り下ろされた。老婆がソファと一緒に、ハエか蚊のようにたたき潰された。村里は飛びのいた。しかし、潰された老婆もいなければ、ソファも壊れていなかった。大きな手も消えていた。びっくりしていると、天井から太い声が響いた。「鼓を返せ。そうすれば、なにもしない」「脅しか」いい返すと、大きな手が今度は村里の頭上に落ちてきた。垢に汚れて黒くなった掌をはっきり見た。目をつぶった。突風が頬の数ミリ先を吹き抜けただけで、なにも起きなかった。からだにも損傷はなかった。幻視だ。天井の声は埃を落としながら脅迫してくる。「驚いただろう。今度は容赦しないぞ」「脅しには屈しないぞ」睨み付けると、天井裏が騒がしくなった。天井が波打って揺れる。天井板を抜く勢いだった。だれかが取っ組み合いをやっている、と気がついたとたん、天井板が抜けて、黒いものがふたつソファの上に落ちた。応接セットがまた木っ端みじんになった。ふたつの影は狭い事務所のなかを転げまわる。家具を壊し、書類が紙吹雪のように舞い上がる。事務所が減茶苦茶になる。逃げ場を失っているところに、取っ組み合ったふたつの塊がぶっかってきた。村里は気を失った。
 気を失ったのは、一瞬だったようだ。ぶつかった衝撃も痛みもなかった。起き上がって周囲を見まわすと、応接セットも壊れていないし、書類も散らばっていない。きょろきょろしていると、また声が聞こえてくる。声は室内に移動していた。「鼓を返す気になったか。おまえには関係ないものだ」声のほうを見ると、客からアフリカ土産としてもらった黒い仮面がかかっている。ぽっかり開いているはずの目の穴に大きな目玉が詰まっていた。仮面の唇が動いた。「さあ、渡せよ」「鼓のひとつになんで大騒ぎをするんだ」仮面に向かって怒鳴ると答えた。「おまえに関係はないことだ」「そうだ。おまえには関係ない」別の声が割り込んだ。反対の方向だった。そちらを見ると、壁にできた大きな染みが、だんだんと人の顔になってくる。意地の悪さがにじみ出た老人の顔のようにも、鬼のようにも見える。仮面が慌てた。壁の顔が村里を見た。「こいつに渡す必要なんてないからな」仮面がいい返した。「なにをいいやがる。小賢しい手を使って、盗みだしやがって」「おまえらばかりに、いい思いをさせておくものか」「あんな女を使うことからして、汚いぞ」罵りあいがはじまった。反目しあっている間柄のようだ。気味の悪い連中に付き合っていられるかと、早々に店仕舞いをして事務所から逃げ出した。
 太陽から流れ出すはらわたのような真っ赤な雲が、空いちめん棚引いていた。どの家の窓も室内が火事のように赤く輝いている。胸騒ぎを起こさせる夕焼けの町を自宅へ向かった。景気のいい時代に、妻にせがまれて、身分相応ではないと知りつつ、マンションのてっぺんの部屋を買ってしまった。ローンがあと三十年残っている。
 エントランスに小さな管理人室があって、プーさんと呼ばれる管理人が常駐していた。村里が帰る時間に合わせるように、いつもなにかを食べている。今日もそうだった。食べている様子を横目で見ながら、エレベーターへ行き、部屋のある十一階へ上がった。
 家では不機嫌な妻が待っていた。この三か月、生活費を持ってこないので、虫の居所が悪かった。まして、誕生して半年も経たない赤ん坊の教育方針でもぶつかりあっているから、一週間ほど口をきいていない。強情な女と諦めていた。村里は自分で鍵を開け、台所にいる妻に声もかけずに、西陽の差し込む仕事部屋へ行った。部屋の壁は夕焼けに染まっていた。村里は上着も脱がずに、仕事机の前に坐った。都会の建物の向こうに海が見える。海上では真っ赤な雲がしきりに動いている。その雲が一か所で滞留しはじめ、大きな顔に形づいてきた。睨みつけてくる。事務所の壁に現われた顔に似ているようでもあり、その兄弟のような気もした。弱味を見せると付け込んできそうで、村里は睨み返した。相手も負けなかった。しばらく睨めっこが続いた。周囲から時の刻む音が引いてゆく。夕焼け空の顔もしっかりと居座っている。睨み合いを続けていると、妻が廊下のほうで悲鳴を上げた。仲が悪くても、同じ屋根の下に暮らす同居人だ。廊下に飛び出した。妻がお尻を丸出しにして、トイレから四つんばいで逃げだしてきたところだった。「どうした!」「トイレに顔が」それだけいうと、へなへなとなってしまった。トイレをのぞいたが、だれもいない。ふと、便器のなかを見ると、野球のボールほどものが浮かんでいる。のっぺらぼうみたいだが、顔に見えないこともない。にやりとしたような気がした。失礼なやつだ、と水を流すと、悲鳴を上げて流れてしまった。
 衣服を直してやってから、リビングに連れていった。水を持ってきてやろうと、キッチンへ入ると、土鍋がぐずぐずと煮えている。火の先が土鍋の周囲を嘗めている。火の色がやけに赤い。火であって、火でない感じがする。見ていると、火の先がどんどんと伸びてゆき、土鍋を包み、換気孔まで達した。びっくりして火を止めようとすると、使用していないふたつのコンロからも、ボッと炎が吹きあがり、ガス台が火の海になった。炎が瞬く間に天井に燃え広がった。妻も悲鳴を上げた。キッチンが炎に包まれる。これはたまらない。村里はリビングへ逃げ出した。大きな花瓶があったので、キッチンに向けて投げた。ガシャンという大きな音がした瞬間に、壁を嘗め尽くしていた火が消えた。ガス台の土鍋に花瓶が当たったらしく、鍋と花瓶が割れて水浸しになっていた。作りかけのおかずは台無しだった。文句をいわれると思ったら、なにもいわない。村里だけの錯覚ではなかった。妻もいまの火を見ていたのだ。これも鼓を取り戻しにきた狐狸妖怪の類いの仕業だろう。
 心臓の高鳴りが治まらないうちに、寝室のベビーベッドに寝かせていた赤ん坊が火のついたように泣き出した。ふたりで赤ん坊のところへ駆けつけた。村里が抱き上げる前に、妻が横からさっと手を伸ばして取り上げて、リビングに連れていってしまった。そのあとベッドを調べると針が落ちていた。針が刺さって驚いたのだろう。これも化け物のいやがらせらしい。
 命じられて、汚したガス台を掃除していると、玄関のベルが鳴った。妻は赤ん坊を抱いたまま、ソファから立ち上がろうともしない。村里が行って玄関の戸を開けると、隣の奥さんがにぎりの大器をかかえて立っていた。「おばあちゃんの誕生日なんですよ。お裾分けです」といって渡された。立派なにぎりである。化け物が姿を変えてきたのではないか、と後ろ姿を見ていると、ちゃんと扉を開けて入っていった。化け物なら扉を開けるような面倒な真似はしないだろう。
 リビングに戻って寿司器を見せると、妻は喜んで食べだした。あんたの働きではこんなものは滅多に食べられないわ、という嫌味のひと言も忘れない。妻は黙々と食べる。これで夕飯を済ますつもりらしい。ぜんぶ食べてしまいそうだ。おかしなところもなさそうだし、このままでは夕飯を食いそこなう。手を出した。うまいにぎりだった。ふたりでぜんぶ平らげてしまった。
 村里はタバコを吸いたくなった。部屋のなかでの喫煙は禁止されていた。いつものようにベランダに出て、宵風のなかでタバコに火をつけた。明りが密集した町並みの向こうに海が見えた。空に浮かび上がった顔も消えていた。化け物どもは金庫を開けて、鼓を取り出す力はないようだ。あいつらに出来るのは、幻覚や幻聴などで脅すだけのようだ。我慢をすれば帰ってしまう。頑張っていれば、残りの金も入る。頑張ろう、と覚悟を決めたが、ふところの福澤諭吉が気になった。木の葉にでも変わっていたら大変だ。内ポケットから取り出して丹念に確かめたが、偽物ではないようだ。盗んだものかも知れないが、福澤諭吉氏の品格を落とすものではなかった。金をポケットに戻したところで、隣の家が来客用の寿司の大器がひとつ足りないと騒ぎ出した。さては先ほどやって来たのは隣の主婦に成り済ましたあの輩だったのか。人様のものを失敬してくるとは、あつかましいやつだ。といって、腹に入れてしまったのだから、謝りに行くのもおかしい。知らんっぷりを決め込んで済むしかなかった。
 ポケットに入れた福澤諭吉の隠し場所をどこにするかも困った。スーツは妻が調べることがあるから、安全とはいえない。ちょっと考えて、仕事部屋の神棚を思い付いた。妻は神学の女学校を出ていたが、お高くなることばかり憶えてきて、信仰はさっぱりだった。妻が手をつけるようなことはないだろう。さっそく仕事部屋に入って、神棚の鏡の下に札を隠した。
 リビングへ戻ると、赤ん坊がまた泣き出した。今度も異常な泣き方だった。ただなら気配があった。気配がだんだんと強まると、食卓テーブルがふんわりと宙に浮いた。空中で回転をはじめると、唐紙を破って、隣の部屋へ飛んでゆき、別のところを突き破って戻ってくる。妻は泣き叫ぶ赤ん坊を抱き締めて、部屋の真ん中に坐り込んでしまっていた。電燈が割れた。破片が妻の頭上にふりかかる。赤ん坊を守るために、からだを小さくする。事務所で書類や応接セットが飛びまわったときと同じだった。それならじっとしているのが一番だ。村里は食卓テーブルの飛ぶなかを妻のところへ駆けつけ、抱き締めてかばった。食卓テーブルは村里たちに向かってくるが、一瞬のところで逸れて、耳元にブーンという音を残して遠ざかる。箪笥までがふわりと浮いて向かってきた。鼻先をすり抜けて、窓ガラスを突き破って夜空でUターンすると、勢いをつけて戻ってくる。が、決してあたらない。部屋は電球が壊れているのだから真っ暗なはずなのに、照明がついているように明るかった。妻子を抱き締めて我慢していると、泣き叫んでいた赤ん坊が疲れて眠ってしまった。周囲も静かになった。顔を上げると、食卓テーブルも箪笥も元の場所にあった。照明も壊れていなかった。しらりとした室内を明るく照らしている。壊されたはずの唐紙も窓ガラスもなんともなかった。
 ほっとしたところに妻からの攻撃があった。こちらは具体的に悪さをするから、もっと質が悪い。乳飲み子を持った動物の本能をむき出しにして、どうして、こんなことが起きるんだ、と猛烈に追及してきた。仕方ないので事務所で起きた出来ごとを、鼓のことを触れずに話した。「こんな気味の悪い家にいられるものですか。実家に帰させてもらうわ」といい出して、荷物をまとめると、赤ん坊を抱えて出ていってしまった。家庭の危機を聞けば、少しは協力的になると思ったら、このザマだ。薄情な女だ、と怒ったが後の祭だった。
 布団を敷いて寝てもなんだか騒がしい。部屋のなかをばたばた駆ける子供の足音がしたり、遠くで電話が鳴っているような音がする。赤ん坊が妻と外泊しているので気になるが、からだが重くて起き上がれない。苛々しているうちに、ベルが止んだ。村里も眠りに落ちた。すぐに自分の鼾に驚いて目が醒めた。しかし、瞼が上がらない。瞼を押さえられている気がした。そのうちに眠ってしまった。また部屋のなかを子供が走りまわるような音がはじまった。おちおち眠れないままに、朝が来た。
 一晩中うるさかった家のなかを調べたが、変わったことはなかった。赤ん坊を気にして妻の実家に電話をした。妻は出てくるなり「気味の悪い家に帰りたくはないわ」といって切ってしまった。赤ん坊のことを聞く暇もなかった。なにもいわなかったから、問題はないだろうが、身勝手な女だ。無理して買わせたマンションを、あっさり見捨てて出ていったことにも腹が立つ。妻の実家に行ってみる手もあったが、家族ぐるみで文句をいわれるのがおちだ。事務所が荒らされてないかも気になる。鼓を確かめる必要もある。村里は着替えて事務所に行った。事務所はきれいなものだった。鼓は金庫のなかに収まっていた。
 午後になると天井裏がうるさくなった。ネズミかな、と独り言をいうと、チュチュと申し合わせたように鳴いた。古い建物だが、昨日まではネズミはいなかった。それがとつぜんのネズミである。様子がおかしいと思うと、相手は人の心が読めるらしく、ネズミのふりをするのをやめて、どしんどしんと歩きはじめた。天井が波打つ。雲にも届きそうな大男が天井板を踏み付けているように感じた。天井が抜けるのではないかと心配になる。気持を読まれた。バリバリと音がして、天井を踏み抜いて大きな裸の足が頭上に落ちてきた。反射的にその脚を両手で押さえた。火のついたタバコを持っていたので、足の裏につけてしまった。その主は悲鳴をあげて、足をひっこめた。天井裏の騒がしさはぴたりと止んだ。この騒ぎにも雑居ビルの住人たちはいっこうに反応しない。踏み抜かれたあとも残っていなかった。幻覚、幻聴の一種らしい。
 夕方近く、きれいな婦人が離婚の相談と称して戸口に立った。顔形が整い、服装も流行のものを着ていたが、何日も風呂に入っていないように臭かった。目も死んでいた。廊下の姿見には村里が写っているのに間に立つ婦人の姿はなかった。例の類いと気がついた。とっさに扉を閉めた。室内に入ろうとしたときだから、婦人は扉とまともに接吻してしまった。扉の向こうで風船の中身の古い空気が漏れるような音がした。廊下の様子をうかがうと、昆虫を潰したときのくさい臭いがしてきた。扉を細目に開けてみた。女の姿は消え失せていたが、床が黒く濡れて、硫黄のような臭いが立ちのぼっていた。
 扉を閉めて机に戻ろうとすると、タキシードできちんと決めたにやけた二枚目がソファに脚を組んで坐っていた。臘のような顔色だった。だれだ、と聞いてみた。「まあ、まあ、お坐りなさい」自分の家みたいに返答する。「ここはぼくの事務所だ」間違えられては困るので、はっきりと言った。二枚目は村里の言葉などまったく聞いていない。「まったく見事なものだ。見事に仕留められた。溜飲の下がる思いです」褒めてくる。いまの女のことだろう。褒められる筋合いでもないし、キザさかげんも気に食わない。「どこから入ってきたんだ」詰め寄ると二枚目はバネ仕掛けの人形のようにぴょんと後ろに退いた。意外と度胸のないやつだ。強気に出てやった。「とっと消えうろ」「話し合いましょうや」下手に出てくる。「こっちにはなにもないぜ」「ぼくは野蛮なことは嫌いです。話しあえば理解できますよ」「勝手に嫌っていればいいだろう。さあ、帰ってくれ」「そうはいわずに……」へっぴり腰の二枚目を壁に追い詰めた。後がない。けれど、都合のいい世界に住む輩だった。そのまま壁に溶け込んでしまった。まだ潜んでいるやつがいるのではないかと事務所を点検していると、鼓を入れた金庫が貧乏揺すりのように揺れ出した。静かな部屋でがたがた音がする。気味のいいものではないが、我慢するしかなかった。すぐに止んだが、金庫が定位置から十センチも動いていた。運び出す気だったのだろうが、その力はないようだ。鼓も金庫のなかにあれば、安泰というわけだ。金庫を元の位置に直すのに、一汗かいた。これだけのことをされたのだから、意地でも返すものか、と思った。
 客も来ないし、定時になったので、事務所を出た。自宅に向かうと、ついてくる気配があった。背後を気にしていると、ビルの合間から大きな満月が顔を出した。その月を見ながら歩いていると、別の方角にも月が出た。最初の月は東の空にある。さては、と気がついたとき、東にあった月がとつぜん笑い出して、パッと消えてしまった。あやうくだまされるところだった。
 エントランスの管理人室ではプーさんが、大きなからだを丸めてギョーザを食っていた。ギョーザではなく、ギョーザの形をした大きなイモ虫だった。夢中になって食べている。吐気を催した。それも幻視かも知れない。黙って通り過ぎて、エレベーターに乗った。
 部屋には電気がついていなかった。やはり妻は帰っていない。いよいよ別居生活に入る予感がした。鍵を開けてなかに入ると、腐ったたまごの臭いが充満していた。電気をつけると、大きなムカデが廊下の壁にそって横たわっている。尻尾がリビングの入口近くまであって、全身の脚を休みなく動かしている。気味が悪いが、このままでは部屋に行けない。勇気を出して、動く脚に触れないように、廊下の隅を歩いた。ムカデは醜い脚を動かすだけで、襲っている気配はなかった。リビングにたどり着いて振り返ると、ムカデはいなかった。リビングの照明をつけると、今度は食卓テーブルの上でもそもぞしているものがある。蛆の塊だった。一匹、一匹が照明に鈍く輝きながら蠢いている。吐き気を催したが、これも幻覚だと考え直して、シャワーを浴びて戻って来ると消えていた。冷蔵庫からビールを取り出してテーブルに行こうとしたが、坐る気になれない。ソファで飲んでいると、仕事部屋で天井からなにかが落ちた。どたばたがはじまった。反目する同士の乱闘らしい。関係ないことだから、見には行かなかった。明日は仲間うちの朝食会がある。寝不足で行くのも辛いので、さっさと布団に入ってしまった。
 深夜になると、天井からぽたぽた冷たいものが落ちてきて、顔にあたる。照明を付けて確かめると、蛭だった。びっくりしたが、街中のマンションに蛭がいるわけがない。幻覚を見せられているのだ。それなら悪さをするものではないだろう。頭から布団をかぶってじーとしていた。ぽたぽた天井から落ちてくる音はしていたが、いつの間にか、寝入ってしまった。朝起きて、リビングへ行くと、コップがひとつ割れて、水浸しになっていた。昨夜、争いがあったようだ。仲間同士の争いといっても人間さまのものを壊した。脅しだけではなくなったような気がした。時計を見ると、朝食会の時間が迫っている。戸締まりをして出かけた。会場に集まった仲間に、このふつかほどの不思議な体験を聞かせた。いかがわしい金をもらっている手前、鼓のことはいわなかった。それでも充分な刺激だった。迷信派と現実派に別れて、たがいに意見を戦わしたが結論の出るものでもない。今夜、検証へ行こうということになって、朝食会を終えた。
 事務所に戻り扉を開けると、一瞬前まで大勢のなにかがいたような気配が漂っていた。金庫も少し動いていた。開けてみると鼓は大丈夫だった。金庫を閉めて机に戻ると、部屋が揺れだした。小刻みな震えが、しだいに大きくなってくる。机の上の書類が床に崩れ落ちた。幻覚ではなかった。いよいよ相手も実害を及ぼす悪さをはじめた。落ちた書類を元の場所に片付けているうちに揺れは治まった。続いて天井がミシミシいいだした。昨日の大男が歩きまわる感じではなく、小さな、たくさんのものがぞろぞろと歩いている感じだった。不快な音だ。神経戦でくる気か、と天井を見上げていると「さっさと消えうせやがれ」と荒っぽい声が響いて、ドタンバッタンとやりはじめた。鉢合わせしたようだ。うるさいのを我慢していると、音が遠ざかっていった。
 仲間の弁護士が自宅へ来てくれるので、定時に事務所を引き上げた。7時過ぎから、仲間が集まり出した。リビングの家具を退かせて、バットやすりこぎを身近に置いて車座に坐った。大の男が集まって、なにもしないのも退屈なので、呑み会がはじまった。警戒心も薄れて、がやがやしているうちに午前0時をまわった。仲間のひとりが、尻を触るんじゃない、と怒りだした。相手はわけのわからない顔をする。ふたりの間が険悪になる。すると別の男が女の子みたいな悲鳴を上げて飛び上がった。座布団の下から黒い手が伸びて、そいつの尻をくすぐっていた。化け物が現われた。その座布団をめがけて、いっせいにすりこぎやバットを降り下ろした。仕留めた、と思って座布団をめくったがなにもない。フローリングを傷だらけにしただけだった。別の座布団の下から手が出ている。たたきつけて、座布団をめくると、これも逃げられたあとである。モグラたたきのこつだが、ひとつもあたらない。座布団を敷いていると、またやられるので片付けて、じかに坐った。積まれた座布団の間から黒い手がにょきにょきと出るが、だれも相手にしない。手も諦めたのか、出なくなってしまった。今度はひとり多い。だれかが紛れ込んでいる。数えても、だれだかわからない。居合わせた全員が、隣のものを疑った。おたがいに猜疑心の目で見る。酔っているものだから遠慮がない。厳しい罵倒が飛び通う。いいかげん揉めたところで、だれかが窓を開けてひらりと飛び降りたように見えた。全員が窓に寄ったが、落ちた形跡はなかった。人数を数え直すと、元の人数に戻っている。リビングに戻って坐り直すと、床が大きく波打ち出した。地震だ。丸っこい男が達磨のように転がった。だれもが投げ出されないように近くのものにしがみついた。家具が倒れる。建物が崩壊してしまう、といいかげん騒いだところで「何時だと思っている。静かにしろ」隣からベランダ越しに怒鳴られた。その声にわれを取り戻した。床は波打っていなかった。周囲の家は少しも騒いでいない。家具が倒れたり、コップや酒瓶がわれているのは、自分らが騒いだときにやったものだ。しらりとした空気が流れた。ひとりが用事を思い出した、といって帰ってしまった。続けて、もうひとりが帰った。あとは雪崩現象だった。あっという間にひとりになっていた。朝までは大した時間ではなかったが眠らないと、こたえる。少しでも眠ろうと、布団に入った。床の下からどんどんとたたく音がはじまった。うるさくて、寝付かれない。外が白々として、やっと静かになった。しばらく眠った。
 寝過ごしてしまった。急いで事務所のある雑居ビルへ駆けつけると、廊下でテレビ局のディレクターという人間が待っていた。プロレスラーの悪役をさせたほうが似合う、色の黒いずんぐりした男だった。名刺には野瀬とあった。尻尾でもないかと注意したが、同じ世界に住むもののようだ。昨夜、自宅に来ただれかがマス・メディアに情報を流したのだろう。抜け目ないやつがいるのものだ。取材を申し出てきた。廊下でやり取りするのは、ほかの事務所に迷惑をかけるので、なかに入ってもらった。隠すこともないので、いままで事務所で起きた出来ごとを訊かせた。「ぜひ、そのシーンをカメラに収めさせてほしい」野瀬ディレクターは化け物も怖がるだろう、大きな顔を突き出してきた。収録できるれば、科学で説明できない世界を証明する画期的なことだと唾を飛ばして熱弁し、村里が了解する前に、下で待っている部下たちにケイタイで連絡をして、カメラを持ち込ませてきた。ひとりで心細く事務所にいるよりは増しなので、勝手にやらせておいた。セッティングをしていると、照明が倒れて壊れた。社会的な義務でやっている、と威張っていた野瀬ディレクターの黒い顔が青ざめた。どうやら、社会的貢献よりも、機材を壊して会社から咎められるほうが辛いようだ。それは瞬時のことだった。すぐに気を取り直して、予備の照明を持ち込んできた。セッティングを終えれば待つだけだった。だれもが口を利かないから緊張が高まる。ピークに達したとき、バアーンという変な音が室内に響いた。霊の出てくるときの現象だ、とだれかが叫んだ。さっちゃんと呼ばれていたミニスカートのキャスターの娘が黄色い悲鳴を上げた。背中に老人の顔をした赤ん坊が憑り付いている。さっちゃんは振り払おうと部屋を走りまわった。相手は振り落とされまいとしがみつく。野瀬ディレクターが追いかけて、機材をふり降ろした。かじりついていた化け物が飛び下りたので、機材がさっちゃんの頭にあたり、気絶させてしまった。爺の赤ん坊は走りまわり、だれかれ関係なく背中に飛びつく。テレビ局の連中はむきになって追いまわした。狭い部屋の大捕物である。事務用品や録画機具を壊したあげく、取り逃がしてしまった。全員がしょんぼりした。散らかした部屋の後片付けをして、破損したものは弁償します。請求書は社へ送ってください、といってあらわな格好で気絶しているさっちゃんを背負って帰ってしまった。
 送り出して机へ戻ってくると、背中にあたる窓に張り付いた真っ赤な顔があった。こちらを睨んでいる。放っておいてもいいんだが、目付きがいやだった。机の上のペイパーナイフを眉間に刺してやった。ぶずりと五センチほど入ったが、相手は表情も変えないし、刺した感触もしなかった。抜こうとしたが、抜けない。眉間にペイパーナイフを刺した赤い顔と睨み合いが続く。相手も負けていない。強情なやつだ。諦めて背を向けたとき、カチンとナイフが落ちる音がした。振り返ると、真っ赤な顔が消えていた。ペイパーナイフは床に落ちていた。
 照明が必要なほど暗くなった。電気のスイッチを押したが、つかない。押すたびにチリチリと漏電しているような音がする。繰り返しているうちに、電気のコードから火花が上がった。見る見る大きくなって、線香花火のように跳ねだした。こげ臭さが充満してくる。これも悪さだろう、と驚かなかった。仕事にもならないので、線香花火が華やかな事務所を出た。鍵を閉めた瞬間、なかの音はぴたりとやんだ。
 階段に向かうと、子供のように小さい、白い和服の、腰の曲がった老婆がよちよち上がってきた。見かけたことのない老婆だった。用心すると、老婆は壁際によけた。擦れ違うとき、魚屋の生ごみのような臭いが漂った。臭さに我慢できなくて振り返ると、老婆の姿はなかった。
 ビルを出て自宅に向かった。マンションのエントランスを通ると、管理人室でプーさんがまた食べていた。見ると小蠅がぎっしりと詰まったギョーザだった。ぼろぼろこぼしながら、うまそうに頬張っている。からだがひとまわり大きくなったようだ。このままでは太りすぎて管理人室が出られなく日も遠くはないだろう。プーさんは日々、おかしくなる。そのままエレベーターで階上に登った。
 玄関前で物々しい白袴の、鶴のように痩せた老人が待っていた。老人は真陰流免許皆伝、進藤栄太郎と名乗った。ふところから紙入れを取り出して、うやうやしく名刺を渡された。テレビ局の人間に聞いて、義憤にかられてやってきたという。先祖伝来の関の名刀というものを抜いて見せた。鎧でも斬れるそうだ。自慢話を聞いていると、廊下の涯に五月人形のような甲冑姿の武者が現われた。忍の緒で顔はわからないが、目のあたりがぽっかり抜けている。中身が入っていないのだ。抜き身のまま、甲冑の擦れる音を立てながら近づいてくる。進藤老人が村里をかばって前へ出た。なかに入られよ、と命じられて村里は玄関に逃げ込んだ。鍵を締め、扉に耳を当てると、太刀のあたる音がする。凄まじい殺気が鉄の扉のこちら側まで伝わってくる。鍔迫り合いの音がはたと絶えた。どうしたんだ、と思っていると、扉がたたかれた。「やつはなかに入った。開けられよ」興奮した進藤老人の声が響いた。奥で甲冑の擦れる音がした。村里は慌てて扉を開けた。進藤老人が飛び込んできた。廊下の突き当たりのリビングに抜き身の武者が立った。進藤老人が斬りかかった。勢い押されて、武者は奥へ引いた。ものが倒れる。村里はリビングの戸口に駆けつけてのぞいた。その瞬間、進藤老人の一太刀が武者の首を跳ねた。首は天井にあたり、床に転げ落ちた。しかし武者は倒れなかった。太刀を振り上げて、進藤老人に襲いかかる。武者が振りまわす太刀は、天井や柱にはあたってもすり抜ける。進藤老人は負けじと応戦する。鎧武者が疲れてきた一瞬をついて、進藤老人は小手を打った。右の手甲がだらりと垂れた。武者は戦意を喪失して、後退りをして壁のなかへ逃げ込んでしまった。進藤老人がその壁に注意をはらっていると、転がっていた首がふわりと浮いた。忍の緒をつけた顔を進藤老人の背に向けた。村里は叫んだ。振り向きざまに首が襲った。進藤老人が太刀をふり降ろすのと同時だった。兜ごと頭がまっぷたつに割れた。元よりこの世のものでないのだから、血飛沫は飛ばなかったが、割れた兜は物凄い音を立てて壁にあたって、床で砕けた。進藤老人の太刀も根からぽろりと折れた。進藤老人は唖然とした。信じられないという顔をして、へなへなとその場に坐り込んでしまった。折れた太刀をじっと見つめている。先祖伝来の宝物をこんなにしてしまって申し訳ない、といい年をして泣きだした。どう慰めればいいのか困っていると、進藤老人はとつぜん折れた太刀を腹に突き立てた。血が部屋中に飛び散った。からだを崩して倒れた。止める暇もなかった。脈をみたが、よくわからない。手遅れかも知れないが、救急車を呼ぶために、受話器を取った。ダイヤルをまわしたが通じない。邪魔をされているのだ。呼びに行くしかない。玄関へ走り扉を押したが、向こうでだれかが押さえている。諦めてリビングに戻ると、進藤老人が窮屈な形で伏している。気の毒なので、布団を敷いて寝かせてやった。布団をかけると、見る見る血が滲んでくる。
 枕元に線香を上げて坐っていると、午前2時ごろ、チャイムが鳴った。こんな時間にだれだろう。首をはねられた武者が帰ってきたのではないか、と警戒しながら玄関へ行き、のぞき穴から見た。気のよさそうな、似た顔立ちの三人の男が立っている。扉ごしに、どなたです、と聞いた。「わたしたちは進藤の子供であります。父がこちらへうかがうといったまま、帰って来ないもので、心配で迎えにまいりました」と返答が戻ってきた。どの顔も進藤老人に似ている。村里は扉を開けた。今度は簡単に開いた。玄関先で、今夜起きた惨劇を説明すると、その場で三人は泣きだした。リビングに連れていって、面会をさせると、もっと大声で泣いた。泣き終わると、遺体を連れて帰る、といいだした。警察に報告しなくていいのか、と訊いたら「そのほうはこちらで行います」と答えて、畳に進藤老人の遺体を乗せて帰ってしまった。ふに落ちないところもあったが、疲れて考える気もしなかったので、仕事部屋へ行って毛布に丸まって寝てしまった。
 夜が明けて、リビングに行くと、壁に飛び散った血がなかった。進藤老人を運んだはずの畳もあった。おかしい。ポケットを探ると、進藤老人の名刺が出てきた。半信半疑で名刺のところに電話をすると、進藤老人その人が出た。棚に置いた紙入れがなくなって大騒ぎをしている最中だった。お忙しいところを申し訳ありません、と謝って電話を切った。あの化け物は進藤老人の紙入れを盗み出してやってきたわけだ。なかなか手の込んだことをやる。警戒しなければならない。
 事務所にいると、昼ごろ、野瀬ディレクターが訪ねてきた。さっちゃんもいっしょだった。野瀬ディレクターは昨日の非礼を詫びながら、十年来の友人のような顔をして入ってきた。ソファに坐って、撮影をやりなおしたい。今日は霊媒者も連れてきたという。またまた了解もしないうちから、廊下にいる霊媒者とスタッフを呼び入れた。霊媒者は大きな帽子に、黒いマントを羽織った、いままでの化け物よりも気味の悪い、小柄の男だった。かれらが来てご機嫌を損ねたらしく、事務所内に地面からはい上ってくるような地鳴りがはじまった。野瀬ディレクターは気にかけず、セッティングの指揮に夢中だった。その間にいろいろなことが起きた。野瀬ディレクターはタバコに火をつけようとして、髭を焼いてしまった。さっちゃんはなんど描いてもタラコ口になってしまうと嘆いている。録画用のビデオテープの何本かがからまって使用できないことも判明した。段取りに手間を取っていると、霊媒者がなにか察したらしく、虫眼鏡の大きなようなものを取り出して、壁を観察しはじめた。観察していた霊媒者が悲鳴を上げて尻餅をついた。壁からびっくり箱の人形のように、人の爛れた顔が飛び出したからだ。爛れた顔は首をぐいっと伸ばして、霊媒者の首に噛みつこうとした。その一瞬前に、恐ろしい顔をしたキツネがどこからか飛び出してきて伸びた首を噛みきって逃げてしまった。首が霊媒者の上にどさっと落ちた。首は蛇のようにのたうった。動かなくなると、一本の荒縄に変わっていた。霊媒者は青ざめている。じつに頼りない霊媒者だった。
 なんとかセッティングが終り、一服していると、金庫が震えはじめた。村里のほかは初体験である。カメラを向けるのも忘れて、震える金庫を見入っている。ドスンと大きな音がした。現象がはじまったのかと思ったら、霊媒者が失神して倒れた音だった。さっちゃんの頑張りも限界だった。失神した霊媒者を見て悲鳴を上げると、はいはいで逃げ出していった。それからは総崩れだった。われ先にと逃げ出してしまった。大の字で伸びた霊媒者が横たわっている。こんなものを残されても困るので、機材といっしょに廊下に放り出しておいた。それからも地鳴りが聞こえてきたり、金庫がカタカタしたりした。
 定時に事務所を出て、マンションに戻ると、プーさんが背中を向けてラーメンを食っていた。からだがまた膨脹したようだ。管理室いっぱいになっている。外へ出るとき、どうするんだと心配してのぞき込んだ。ラーメンと思ったのは、黄色い蛇だった。割り箸に絡み付く蛇を口に押し込んでいる。顔付きも恐ろしいものになっていた。村里は黙ってエレベーターに乗った。
 自宅は出かけたときのままだった。妻に逃げられて五日目だ。その間に電話ひとつない。こちらも一回しかかけていないから、おたがいさまかも知れない。村里は冷蔵庫から缶ビールを出してベランダに出た。涼しい風が心地よく吹いている。隣の団欒の声が聞こえる。暖かみのあるざわめきである。それにひきかえ、村里の家は寒々としている。妻は帰ってこないかも知れない。性格の不一致。それでもいいような気がする。センチになったとき、ビルの陰から黄色い月が登った。本物ではないだろう、と無視して部屋に入った。
 次の日は休日だった。空腹が我慢できなくなるまで寝ていた。起き抜けに冷蔵庫へ行くと、食べ物が腐っていた。蛆がたかっているものもある。気分が悪くなって、トイレで吐いた。何も食べていないのだから、胃液しか出なかった。それにしても昨夜、ビールを取り出したときには何でもなかった。それが一晩でぜんぶが腐るとはおかしい。これもいやがらせか。
 仕方ないのでファーストフードに出向いて、満腹にさせた。帰ってきてもすることがなかった。ソファでぼんやりしていていると、しきりと赤ん坊が気になった。妻の実家に電話を入れてみた。母親が出た。「娘はあなたと話したくないそうです」電話を切られてしまった。親子揃って気の強いところはそっくりだ。もう一度、電話を入れれば怒りだすだろうから、我慢をした。赤ん坊の乳臭い感じが懐かしくて、ベビーベッドのところへ行った。布団の上に放り出してあったがらがらが、ふわりと浮いた。まとわりついてくる。蠅のようにうるさい。追い払うと、かえってうるさくなる。リビングに退散したが、ついてくる。追っ払うのも、面倒になったので放っておいた。がらがらも疲れてきて、ぱたんと床に落ちて動かなくなった。拾ってみると、何の変哲もないがらがらだった。がらがらを元のところに戻すために寝室に入ろうとすると、畳の目から小さなダニのような黒い虫が湧きだしている。幻覚と思うんだが気味が悪い。リビングに戻ると、フローリングの目にもその虫がぎっしりといる。黒い虫はみるみる溢れて床を覆った。足の踏み場もなくなる。黒い虫が脚を登りはじめた。皮膚に引っ掛ける虫の何百、何千本の脚の感触に鳥肌が立つ。めまいをぐっとこらえて、しっかりと床を見ると、虫はどこにもいなかった。
 報道陣は自宅まで訪ねてこなかった。彼らも休養して鋭気を養っているんだろう。天井裏の連中だけには休暇はないようだ。時々、鉢合わせもする。どたんばたんやるが、すぐに止む。しばらくすると、またはじまる。事務所の金庫も心配だが、確かめに行く気にもならない。
 夕方になると、地響きがはじまった。それは夜まで続いた。夜が更けて床に入ると、さっそくだれかが枕元にやってきて、嘆き出した。今度は泣きの手を使ってきたかと、そのままにしていたら、諦めて帰って行ってしまった。
 週明け、事務所へ行くと、廊下が取材陣でごった返していた。弁護士稼業以外ですっかり有名になってしまった。人数が少なかったら、入ってもらってもいいのだが、これだけ入ると、窓から落ちるものも出てきそうだから、遠慮してもらった。
 事務所に入ったときから、天井が小刻みに揺れていた。特別に機嫌が悪そうだ。人間ぎらいのようだから、これだけの取材陣が集まれば機嫌も損ねるだろう。金庫を開けて鼓を確かめてから、机に行った。
 その日は大きな事件も起こらずに終えた。報道陣も暇を持て余していた。
 事務所からの帰り道、妙な集団に出会った。大人も子供も男も女も季節外れの浴衣を着て、縁日の晩のようにぞろぞろと歩いている。気が別のところにあるような感じだった。みんなが鼻筋に白い白粉のようなものを掃いている。列を組んで前方を横切ってゆく。避けたほうがよさそうなので、横道にそれると、そこでも前方を横切ってゆく。別段、悪さをするようでもないが、流れを避けながら家へ帰った。マンションのエントランスに入って、管理人室を見ると、プーさんが背中を向けていた。部屋いっぱいに膨らんでいて、身動きができなくなっている。なにかを食べているらしいが、見たくもないので早足で通り過ぎた。
 部屋に入っても、外が騒がしい。最上階の部屋なのに、窓の外を人がぞろぞろ歩いている気配がする。先ほどの連中が追いかけて来たのか。確かめるためにベランダに出るが、さわやかな夜風が海から吹いているだけだった。部屋に引っ込むと、歩く気配がはじまる。これも脅しの一種だろう。警戒しても相手しだいだから、どうにもならない。それなら起きていてもやることがない。用心のために木刀を持って、早くから床に入った。
 電気を消すと、パチパチと音がする。リビングの曇ガラスが赤い。火事だ。飛び起きて、ふっ飛んでゆくとなんともない。しばらくすると今度は風呂場のほうで音がする。風呂場の曇ガラスがまっ赤に染まっている。開けると火はない。夢でも見ているような気分である。部屋に戻ってくると、隅で火が上がっている。消しにかかると、なくなってしまう。次は仕事部屋のほうでぼおっと火が上がる。駆けつけると消えてしまう。今度は廊下だった。幻覚だと思いつつも、気にかかって、火を追いかけるが切りがない。疲れて寝床の上に坐り込んでしまった。寝室の端で火があがるが、消しにゆく気にならない。止むと、また別のところで上がる。危害はないようなので、布団に潜りこんでしまった。焦げる匂いが漂ってくる。知らんっぷりをしていると、リビングのほうで、争う音がはじまった。じっとしていると、音はやんだ。
 明るくなってからリビングへ行ってみると、あれほどものの壊れる音がしていたのに、きれいなものだった。今日も寝不足である。着替えて、事務所に向かった。廊下は昨日よりも報道陣が増えて、事務所に入るのにもひと苦労した。相変わらず地鳴りがしている。村里は日課となった金庫の中身を確認をした。閉めて顔を上げると、金庫の上に真っ裸の男がしゃがんで睨んでいた。形相が恐ろしかった。あばら骨が浮き出すほど痩せているのに、下腹が異様に突き出ている。寺の掛け軸で見た餓鬼とそっくりだった。はっとして身を引いたときには消えていた。
 その後、化け物どもはなりを潜めた。その代わり廊下が騒がしい。報道陣の追っ払いにかかったようだ。悲鳴が上がったり、ものの壊れる音を聞いているうちに、陽が暮れた。廊下をのぞくと、報道陣は姿はどこにもなかった。椅子が倒れていたり、食いかけの弁当や飲み物が散らかっている。とうとう村里と切り離す策が成功したようだ。さっぱりしたと自分に言い聞かせて、帰り支度をはじめた。事務所を出るときに、鼓を確かめるために金庫を開けた。なにかが飛び込んだ。鼓がふわりと持ち上がった。村里は鼓をひったくって閉めた。金庫のなかで騒ぐ声がする。逃げ損ねたようだ。閉じ込めたのは成功だが、鼓をしまえなくなった。家へ持って帰るしかないから鞄に入れて、事務所を出た。
 人の途絶えた大通りを歩きはじめると、ざわざわとたくさんのものがついてくる。振り返るがだれもいない。町は秋の宵の青い空気に満たされている。歩きだすと、ざわめきがはじまる。たがいに蹴ったり、罵ったりしながら、ついてくる。
 マンションの管理室にいるプーさんはまた太って、部屋いっぱいに膨脹していた。今日も背中を向けていて、なにかを口に運んでいる。ヘビやいも虫ではなかった。濡れた血がべっとりついた生肉の塊に見えた。人肉のような気がした。
 エレベーターで上がり、玄関の前まで来ると電気がついていた。用心して開けると、夕餉の匂いがしている。妻らしい。体裁を考えて帰ってきたのだろうか。妻が気ついて赤ん坊をあやしながら玄関まで迎えに出てきた。十分で食事が出来るから、といってすぐに台所に引っ込んだ。村里はリビングのソファに坐った。妻が赤ん坊を抱いて、また顔を出した。赤ん坊は寒くもないのに頭まですっぽり毛布をかけられて、顔がわからなかった。「で、どうなの」その後の状況を聞いてくる。「あいかわらずだ。……帰ってきてくれるとは思わなかったよ」「返したらどうなの。それで終わるんでしょ」その言葉に村里は妻の顔を見た。妻は気がつかずに笑顔を見せた。村里は堅い顔をした。だれにも鼓のことは話していなかった。どうして妻が知っているのだ。まさか、と思ったとき、赤ん坊を抱いた妻のからだがはじき飛ばされ、ベランダの手摺を越えてしまった。悲鳴が長く尾を引いた。びっくりしてベランダの手摺にいって見たが、暗くてわからない。それでも様子を見ていると「気にするな」と室内から声をかけられた。歌舞伎の石川五衛門のような異様な出で立ちの大男が、リビングいっぱいに胡座を組んで坐っていた。千日鬘を思わす、ぼさほざ髪は何年も洗っていないように脂ぎり、髭だらけの顔は半分が赤く、もう一方はまっ青だった。竦む眼光で睨まれた。「だれだ!」村里は叫んだ。「おれか。おれは日の元日本左衛門だよ。おまえらが魑魅魍魎と呼んでいる輩の総まとめをやっているものだ」と答えた。鼓を取り返しにきたのだ。鼓は鞄に入って、日本左衛門の右膝の下にある。しかし日本左衛門は気がつかないのか、見向きもしない。「明日から十一月だ。風も冷たくなる。なかへ入れ」という。練習用のパターが立て掛けてあったので手に取った。日本左衛門は用心してすーと引いた。壁のなかに大きな空間があって、納まったように見えた。村里の坐る場所ができた。なかに入り、鼓を入れた鞄の近くに胡座を組んで坐った。黴の臭いが充満している。鞄に手を出そうとすると、日本左衛門の左膝がぐうっと伸びて押さえてしまった。鼓に気がついていた。左膝だけが長く伸びている。なんていうやつだ、と驚いていると、左膝の長さに合わせてからだが出てきて、一メートル先で止まった。村里と同じ大きさになっている。魚のはらわたのような生臭い息を吐きつけながら、横柄にいう。「度胸のいいやつだな。八日間も、あの輩どもの脅迫に屈服しなかった勇気は褒めてやる。話を訊いたとき、どんなやつか顔が見たくなって、こうして旅先から草鞋も脱がずに来たわけだ」草履は泥だらけだった。「化け物に気に入れられても、なんの得もない」日本左衛門は赤と青のツートンカラーの顔を歪ませて、臭い息を吐きつけて大声で笑った。壁が揺れた。笑い終わると、からだを乗り出してきた。「ところでおれの鼓を持っているらしいな」「あの鼓はおまえのか」「そうよ。あれは蔵王権現からもらったものだ。ひとつたたけば、三千世界に鳴り響くという代物だ。どこにもある鼓とはちょっと品物が違うぞ」「どんな鼓か知らないが、化け物が神さまと関係があるとは知らなかったぜ」「紙一重みたいなものさ。それが証に神無月には、おれも出雲に呼ばれる。一か月のお勤めが解かれて帰ってくれば、このザマだ。おれの目が届かないのをいいことに、妾同士は喧嘩をする。日ごろ、仲の悪かったバカものどもは尻馬に乗って、まっぷたつに割れて騒いでいる。挙げ句の果てに、おれの大切な鼓まで持ち出しやがった。おまえに預けたまではいい。だが、だれも取り戻すことができず、おまえひとりに手を焼いている。呆れてものがいえん」日本左衛門は怒りを思い出したようだ。村里はパターを握り直した。日本左衛門は気ついてからだを引いた。「おれをあの輩といっしょにしたら大変だぞ。げんに今度の争いに荷担したやつは、ここに来る前に全部を握りつぶしてきてやった。いまのが最後だ」この男ならやるだろうと思った。もう福澤諭吉などはどうでもいい。「返せばいいだろ」と震えながら叫んだ。「返せば済むものではないわ。これだけ荒らしておいて、おまえにお咎めなしとは不公平だ」顔が怒りで膨脹してくると、頭上から空気を裂いて落ちてくるうなり音がした。瞬間的に村里はパターを突き出していた。乗り出してきた日本左衛門の顔面を砕いた。顔が奥へ吸い込まれるように裂けて宇宙のような真っ暗な空間が見えた。村里のからだが顔のなかにぶずぶずと吸い込まれた。顔のなかで一回転して、放り出された。振り返ると、日本左衛門の苔で汚れた陣羽織が目の前にあった。肉体を通り抜けてしまったのだ。反射的にパターを横にはらった。振り向きざまの日本左衛門の頭にあたった。押さえ付けたゴムマリのように頭が伸びた。いびつな形になったまま直らない。日本左衛門もさすがに慌てた。鞄から鼓とハサミが床に飛び出していた。ハサミを拾って、目の前にあった日本左衛門の右足の甲を突き刺した。床に付きささった感触が掌にあったが、相手は化け物だ。悲鳴をひとつ上げずに、鉄棒を降り下ろしてきた。村里をかすって、床を激しくたたいた。これではたまらない。村里はリビングから廊下に逃げだした。追いかけてこようとした日本左衛門が足を取られて大きな音を立てて倒れた。標本の昆虫のように足をハサミで止められているから動けない。が、化け物の凄いところだった。からだが狭い廊下を伸びて追ってきた。恐ろしい形相だった。顔の真ん中がへっこみ、頭は押し潰れている。村里は仕事部屋に逃げ込んだ。扉を閉めたが、あっという間に突き破られた。村里のからだが打っ飛んだ。壁にあたった。日本左衛門の大きな泥だらけの手が襲ってきた。これで終りだと目をつぶった。ドスンという音が轟いただけで、村里の首に手はかからなかった。目を開けると、神棚の鏡が砕け落ちて、その下で日本左衛門は息絶えていた。首に鏡の破片がぶすりと刺さっていた。こんなもので参るとは思えない頑強なやつだが、神様のものだから威力があるのようだ。とにかく、化け物の大将は鏡の破片が命取りになったわけだ。遺骸の上に、隠しておいた福澤諭吉がぱらぱらと落ちてきた。村里は立ち上がり、日本左衛門の長いからだをよけながらリビングへ戻った。右足はハサミで床に止められたままになっていた。なんて大きなからだ、と感心するばかりだ。仕事部屋からリビングまで伸びた遺骸の片付け方を考えると、途方に暮れる。壁によりかかってしゃがみ込んで、うなぎのように長い日本左衛門の遺骸を眺めていると「よくぞ、仕留められましたな」と声をかけられた。顔をあげると、ベランダに子供の背丈もないくせに、顔だけは一人前に年を取った白髪の老人が立っていた。真っ赤な甲胄に身を固めて、厳めしい出で立ちだった。背丈の五倍はある長い槍を立てている。びっくりして、日本左衛門の足をとめていたハサミを抜いて構えた。「慌てなさるな」老人は慌てて膝を折ると、頭を深々とさげた。「今日からあなた様が、われわれ一族のオサでござる」顔をあげる。「化け物のオサなんて沢山だぜ。こいつを連れて帰ってくれ」「もちろん、遺骸は処理いたします。しかし、あなた様の天下であることも間違いありません」「かってに決めるな」老人は隅に転がっている鼓に気がついた。「鼓もあるではないですか。これこそ、大将の証し。あなた様はわれわれの立派な大将ですぞ」「化け物と一緒にされてたまるか」「怒られるな。世界には昼と夜があるように、表と裏があって成り立つもの。いわば共にあるものです。それならどちらにいても、大して変わらぬもの」「ぼくは人間た。化け物と違う」「これはおかしなことを。あなた様の世界から見ればこちら側はおかしく見えるでしょうが、こちら側から見ればあなた方が奇形。あなた方に都合があるなら、別の都合があってもいいはず。いいですか。あなた方だけで、世界は成立しているものではありません。ともにあって成り立っているもの。それなら、どちらでもさして違いないでしょう」「そんなのは屁理屈だ」「すぐにはご理解できるものではないでしょう。とにかく、今夜は遺骸を片付けて引き取らせていただきます」言葉が終わらないうちに、日本左衛門のからだがずるりと動いた。息を吹き返したのかと悲鳴を上げたが、遺骸の下に無数の黒いものが集まり、遺骸を担ぎあげて動かしていた。蟻ほどの人の形をしたものだった。思い思いの戦仕度をしているが、だれひとりとして満足な形をしたものはいなかった。ひとつの足が二倍以上に長かったり、手が三つあったり、頭が半分欠けたものばかりである。どれも異様な風体をしている。いつの間にか老人のまわりにも、同じような甲胄に身を包んだ人の形をしたものがぎっしりといた。似たようないびつな形をしていたが、こちらは嬰児ほどの大きさだった。槍の先や抜いた刀が月光にぎらぎら光る。仲が悪いらしく、自分の場所に近付けまいと小競り合いをしている。ベランダに乗りきれないものは、手摺にからだを揺らしながら立つ。それでも溢れたものは天井からコウモリのようにぶら下がっている。そこでも陣取りで争うから、誤って地上に落ちる。だれも気にしない。自分のことしか考えていない。三十年も借金が残っているマンションがお化け屋敷になってしまった。唖然としていると、海上に黄色い月が顔を出た。今夜はやけに月が近くにある。こんなとき考える必要がないことが脳裡をよぎる。と、一点に黒い染みができた。染みが見る見る大きくなる。なにかがこちらに向かってくる。太い縄だった。それがするすると伸びてきて、ベランダの手摺に届いた。月まで続く一本の空中の長い道ができた。日本左衛門の長いからだが運び出され、空中の道をどんどんと上ってゆく。蟻が芋虫の死骸を運んでいる姿に見える。「それでは、またいずれ」仲間に紛れ込んでいてわからなかった例の老人が姿を見せた。一礼すると、くるりと背中を向けると、仲間を踏み付けて、素早く空中の道に飛び乗ると、駆け上っていった。黒い人の形をしたものたちも先を争って、道へ押し寄せる。ぶつかりあって、またまた地上に落ちてゆく。前のものを踏みつぶしてゆくものもいれば、裏側を走るものもいる。みんなが飛び乗ってしまうと、太い縄はするすると黄色い月のなかに消えていった。その後は秋の澄んだ空気のなかで、月が明るく輝いている。今夜は満月だっただろうか、と思った。空を探したが、他には月が出ていなかった。
 次の日、事務所に行ったが、何も起きなかった。報道陣も顔を見せない。来なくなると、ちょっぴり淋しくも感じだが、これが平常である。かれらも商売だ。いつまでも正体のわからないものを待っても、金にならない。新しいネタを見つけて、そろっていってしまったのだろう。
 その日は何もなく過ぎた。客もなかった。定時に事務所の鍵をかった。マンションに帰り、エントランスを抜けるとき、プーさんの管理室の前を通る。プーさんははばかることなく、こちらを向いて、毛のない柔らかな肌を持った動物の腹を裂いて、手でつまみ出して食っていた。口のまわりや手がどろりとした血で汚れていた。見慣れたのか、顔をしかめるほどではなかった。目が合ってしまった。プーさんはニヤリとした。いっしょにされたくないから、エレベーターへ向かった。
 部屋の前に来ると、電気がついていた。妻が帰ってきたとは思えない。そおっと扉を開けた。家中の電気がついているように、眩しいくらいに明るい。しーんとしている。人の気配も感じなかった。リビングに続く突き当たりの扉の向こうには宇宙のような時間の流れを包含する広漠とした空間があるように思えた。玄関の壁に鏡がある。鏡に写った姿を見て、村里は悲鳴を上げた。鏡のなかに、昨日、誤って死んだ日の元日本左衛門が、やはり村里を見て、驚いた顔をしていた。              《了》

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