チョコレート館                   
                               草原克芳     
 
「どういうことなのかしらねえ、まったく。自分たちの生活を逐一、人様に報告するというのは。なにもそうやって、母さんが洗濯しているところの写真まで見せることないじゃないの。みっともないったらありゃしない」
 眉を思い切りしかめた母は、太い両手を伸ばして、まだ水滴をしたたらせている色とりどりの靴下を、庭先に張られてあるロープに一足ずつ吊るしていった。
 庭木の間に下げられた靴下は、赤や青の小鳥の群れのように鮮やかだった。新しい白いシャツの向こうには、雲から覗いたばかりの和らいだ日が差して、金色の光が透けた。
「だって、凄い反応なんだよ。インターネットで毎日アクセスがあるんだ」
長男の浩一は少し興奮気味に声を押し殺すようにいった。
「そこどいて浩一。そんなとこつっ立ってないで、バケツをとってちょうだい。メグミ、あんたもてっきり手伝ってくれるのかと思ったら、邪魔するばかりなんだからね、もう」
 洗い終わったシャツや下着類を、母は腰をかがめて取り出した。水がしたたり落ちて、日の光にきらきらと輝いている。太りぎみの彼女は太い両手の水を不器用に払って、目をむきながら上半身をゆっくりと伸ばした。
 すぐ脇で、ジーンズのポケットに手を突っ込みガムを噛みながら、浩一がいった。
「そっちから写すより、ここら辺の角度からの方がいいよ、メグ」
「うるさいわねえ、お兄ちゃんはいちいち。今そうしようと思ってたの。これを一枚、撮ってからだってば」
 妹は、銀色に輝くデジタルカメラから顔を離して、不服げに口を尖らせた。
「……あたしをそうやって動物園の珍獣みたいにからかおうってんだね。大体あんたたち、勉強もロクにしないで、ゲームだのパソコンだの、そんなことばっかりやっていていいの。母親にばかり家事をさせておいて、いいご身分だねえ。ふう、疲れた」
 ぽんぽんと左の肩を叩く。
「ああ、くらくらするよ。血圧、また高くなっちゃっているのかしら。お肉もついちゃったしねえ」
母親は自分の脇腹の肉をつまんでみて、うんざりして溜め息をついた。
「知ってる? お母さん、わたしたち話題の人なのよ。お母さんにもファンレターが来てるんだから」
 カメラを中腰で覗き込みながら、少しずつ後ずさりして、妹の萌美がいった。まるでプロのカメラマンが「いいねえ、素敵だよ。ウン、とても君、いいねえ」とでもいいながらモデルをあやすような調子であった。
犬小屋では自分に注意を向けさせようと、パピヨン犬の子犬がしきりに吠えている。
「チョコレート館の荒本家といったら、いま、ホームページの世界では、ちょっとしたスターなんだ」
 浩一は、庭に出ている水道の肩に片足をかけた。彼は高校時代はバレーボールに熱中し、体格がよかった。大学に入ってからはアルバイトに忙しく、何もしていない。そのため体が鈍るのか、ボクシングのポーズを無意識にとったり、いきなり空手の真似をして庭木を蹴ったりする癖がある。 
母がスイッチを入れると、壊れかけた脱水機が、ゴトゴトと物憂い音を響かせ、回転を始めた。こぼれた水が水蒸気になって、蜉蝣のようにゆらめいている。彼女は大きなあくびをひとつして、腰をポンポンと後ろ手で叩き、二人の子供たちを呆れ果てたように見比べた。そしてエプロンを顔に押し当てて、額を拭った。
 正午近くなり、日の光がしだいに強くなっていく。樹木に囲まれた庭の内部が明るい黄緑色に染まり、温室脇に転がっているサボテンやアロエが、くっきりと立体的に浮かび上がってきた。このところ、温かくなってきたためか、雑草がいたるところで猛烈な勢いで繁茂していた。   
この荒本家では、家屋の作りが昔風なので台所が狭く、洗濯機はその側面に少し突き出した形で設置してあった。庭は狭いが、そこには物干し竿、植木鉢、自転車、盆栽、すでに使われていない大工道具など、考えられる限りのありとあらゆる黴臭いガラクタが、所狭しと置いてあった。植え込みの間では、隣の家猫が出入りし、近所の猫とじゃれあい、それを荒本家の愛犬パピーが追いかけた。この犬は耳ばかり大きなパピヨン犬で、座敷犬のくせにうるさいので、ある時期から外で飼われている。
 庭の広さにしては樹木が多く、玄関脇のさるすべりの樹が特に目立った。塀際の棕櫚のぎざぎざの葉からこぼれてくる光の模様が鮮やかだった。光線の加減では、地面に影絵のようなシルエットが映っているときがある。気候のいい季節の朝などは、苔で縁どられた石畳に、金色の木漏れ日がちらついていたりして、見る者を和やかな気持ちにさせた。
 萌美が腰を落として再びカメラを構えると、母はあわてておおげさに片手で遮り、ストップをかけた。
「嫌ねえ。上からは撮らないでよ。ちょっと薄くなってるところがあるのよ最近。いま髪を直してくるから、待っててくれない」
「いいんだよ母さん。そのままの方が、生活実感みたいなのが出るんだから。変にまた作ったりすると、リアリティがなくなって不自然だよ」
 浩一は、両手の指で四角を囲って構図を測り、映画監督のようにもったいぶって注文をつけた。
「おお嫌だ。リアリティなんてご免だよ。あんたたち学生とは違ってね、母さんの家事は、毎日イヤらしいくらいリアルなんだから。廊下を雑巾がけして、夕飯の献立考えるのだけでも、もう、うんざりだよ。いっとくけど今夜の晩ごはんは、メンチとコロッケだからね」
「そうじゃなくて。普段の自然なくつろいだ感覚が勝負なのよこういうのは。あ、お兄ちゃん、陰になるよ、そこいると」
「ああ。わかった。この洗濯機まで入れようって狙いだな。なるほど。OK、OK」
母は舌打ちした。
「あんたたちのいうことは、いつもわかんないよ。構図がどうの、感性がどうの、難しくて」
 そのくせ母は、一瞬ぴたりと動作をやめて、妙に生真面目な娘のような微笑を浮かべ、一枚だけ写真を撮らせた。そして用が済むと、もとの生活の労苦を刻印したような顔に戻り、「よっこいしょ」といって、サンダルを抜ぎ捨て、廊下から家に上がっていった。
 春の微風が、湿った緑のトンネルの中を吹き抜けていく。鉢植えのパンジーの花々や、丈の高い雑草がいっせいに揺れる。
 また陽が射してきて、庭の中が明るくなった。
洗濯物から銀色の水滴がしたたり落ちている。
母が奥へと消えていったのを確かめると、兄と妹は、日差しを避けるようにして、縁側に並んで腰をかけた。薄暗い家の奥をのぞき込んでから、ひそひそ声で話し始めた。
「だめだなァ、変に意識してやんの。品のいい奥様か何かに見せようとして。でもあんな作り顔じゃな」
「しょうがないじゃん、シロウトなんだから。そのうち慣れてくるわよ、お母さんだって」
「本当には嫌がっているわけでもないらしいというのが、ややこしいんだよな」
「そう。まんざらでもなさそうなのよ。以前とは、態度が違ってきたもの。開けてきたわね、だいぶ」
「まあ結局、親父の目論み通りってわけか」
 兄はチュウインガムを一枚、妹に渡した。彼女もガムを口に入れて、膝の上で頬杖をつきながらもぐもぐと噛み始めた。
 門の方から庭へと廻る入り口には、最近父が作った薔薇のアーチがあった。その少し入った辺りには、鳥の餌箱が用意され、庭木の枝には林檎や桃など、季節の果物が刺してあって、ときどき珍しい野鳥が啄みに来る。これらはすべて、「チョコレート館」のための演出なのであった。
二人が視線を送る度に、犬小屋では子犬のパピーが耳を大きく開いて、パッと表情を変え、立ったりしゃがんだり、敏捷にしっぽを振ってみせたりしている。
「確かにお父さんの計画通りだけど、まあ、面白ければいいじゃん」
「でもさ、お前がここまで乗ってくるとは思わなかったな」
「うん。だって最近さあ、荒本家の価値が高まったって感じしない? 張り合いが出てきたっていうか。ねえ、お兄ちゃん。あたしも撮ってよ。せっかく髪形変えたんだから」
 妹は、口をすぼめて思わせぶりな含み笑いをしてみせると、両手を髪にあて、ファッションモデルのようにポーズを取った。
「ねえ、あたし色っぽい?」
つんとした顔で、横を向いた。
「馬鹿。体操でもしてるのかよ。そうだ、パピーの奴も入れてやろう。こいつも人気急上昇だからな」
パピヨン犬はわけもわからず、小屋の前でくるくる廻った。とにかく家族に相手にされたのが嬉しくて仕方ないらしかった。妹は、しばらく緊張して我慢していたそのポーズに自分自身で照れてしまい、白い歯を見せて笑い出し、大きく前屈みになって両手をパチンと打った。
その瞬間、兄はにやりと笑い、シャッターを押した。
 春の埃っぽい風が、また庭に吹き込んできた。
白い粉のような花をつけた雑草が、まばらに揺れる。屋根の脇では濃緑の扇子のような棕櫚の葉が、かさかさ鳴った。
 
 荒本家は、数十坪の敷き地に長細い二階建ての家屋が建て付けられている平凡な日本家屋であった。しかしこの家が「平凡な」といえたのはおそらく昭和四十年代から五十年代あたりまでのことで、当時は、新宿の外れであるこの辺の街では、隣もその隣も、荒本家と似たりよったりの民家が建ち並んでいたのであった。家の壁面は全面タールを塗ったチョコレート色の板で覆われているのだが、こんなものは最近あまり見当たらないので、近隣の欧米風輸入住宅や大手住宅産業の作った何とかホームと比べても、ちょっと暗い印象を与える。玄関前には、鰹節のような色合いをした太いさるすべりの樹と、二本の背の高い棕櫚が生えていて、左の客間の窓からは、どういうわけか白いトルソが覗いている。手足のないギリシア彫刻、画材店などによくあるビーナス像のレプリカなのだが、これは先代の完治氏の趣味であった。こんなものを置いておくと、文化的に見えるだろうぐらいの通俗的なコンプレックスの現れなのであった。
 子供たちがまだ幼かった頃、手前の細い道路は三輪車遊びには、絶好の小空間であった。ところがバブル経済の前後、向かい側にあった民家数軒がいきなり消えて、手前の道路脇が茶色い殺風景な空き地になった。また、駅に向かう道路を拡張したので、その影響でひとつ向こうの道路とこちらの道路とを繋げることになった。
アタッシュケースに札束を詰め込んだ怪しい男がこの付近を訪問し、「切り崩し」にかかっているという黒い噂が流れた。どうやらマンション建設のために、二、三の不動産屋が絡み、謎めいたノンバンクや知らん振りを決め込んだ銀行の財力をバックに、土地を買いあさっているらしいのであった。
 頑固な老人―先年亡くなった荒本完治氏―は、この小さな土地は田舎の田畑を売ってやっと手に入れた土地だから絶対に手放さないとの覚悟で、マンション建設の反対運動を率先して展開していた。晩年にはそれがほとんど彼の生きがいのようになってしまった。やはり血気盛んであった息子の荒本健介氏、つまり現当主の二人が中心となって住民運動を展開していたが、そのうち完治氏はどういうわけか惚けてしまい、何を聞いてもただテーブルを拳で叩いて激怒するだけの不快な老人となってしまった。
 顔中褐色の老人斑に覆われた完治氏は、不動産業者やマンション建設者だけでなく、食事でも、入浴でも、おむつにでも、何にでも条件反射のように「反対」してしまうのであった。そのうち、下半身の始末の問題もあって、人前には出せないような状態になった。灰色の鈍い目をびっくりしたように見開いて、手品師のようにシーツを口に押し込んだり、布団の綿を際限もなくつまみ出しては床に並べて見入っていたりした。彼は呆けてお漏らしをするようになってからは奥の四畳半の部屋に閉じ込められた。ドアの鍵穴から一日中、中腰で家族の様子を覗き見し、人の気配がする度においでおいでをするような格好で、「ちょっと、ちょっと開けてくれませんか。折り入って、話があるのです」などと話しかけた。
浴衣の前を開き肋骨をあらわにしたその凄まじい様子は、平安期の飢饉を描いた絵草紙の餓鬼を思わせた。
もちろん、彼は子犬と同様、部屋の外に出たいだけであった。   
最初、『土曜会』(土曜日の夜集まってお酒を飲みながら反対運動を展開する会)などを開き、意気軒昂に反対運動を展開していた周囲の人間たちは、完治氏の引退をひとつのきっかけとし、荒本家の目を盗むようにして、一軒減り二軒減りといった具合に、どこかに消えていった。まるでそれは、沈没する船からネズミの集団が消えていく様を思わせた。もちろん、彼らはそれ相当のものを貰って―中には、ぎりぎりまで踏ん張ることによって、立ち退き料の最高値をせしめた果報者すらあった―この一画を去って行ったのである。
 荒本家の人々が気がついたときには、昭和四十年代の木造家屋の荒本家の両隣には、それぞれ趣向の違った斬新な巨大ビルの建造が始まっていた。
右隣りはほとんどポストモダンふうの色とりどりの積み木を重ねたような丹下建設の建物。そして左隣りには、中村興産ビルディングといって、全面ガラス張りのオフィスビルが建てられた。
 頑固な荒本家に対してはさすがの地上げ屋も音をあげて、当初の計画も余儀なく変更せざるを得なくなり、この一家の敷地だけを鳥獣保護区のようにそのまま残すという、変則的な扱いとなってしまった。やがて、かつての東京近郊によく見られた赤土と雑草とで覆われた不思議に郷愁をさそう崖には、ブルドーザーやパワーショベルが乗り込み、下の土と上の土とが入れ替えられ、大量のコンクリートが流し込まれた。そしていつのまにか威風堂々たる四階建てのマンションが、城壁のように出現した。
 こうしてチョコレート色の横板で覆われた木造二階建てのみすぼらしい荒本家は、まったく体質の違う明るく現代的な都市風景に包囲された形となった。
 もし荒本家を初めて訪問した者は、その昭和四十年代の空間が、東京の一角にかくも極端なサンプルの形で残されていることを発見し、ある感銘を受けることとなるだろう。奇しくも浩一の友人の一人は、荒本家の庭を形容して、進化から取り残された「ガラパゴス諸島」といった。かつては「平凡な日本家屋」とも形容できたこの家の存在は、現在ではひとつのファンタジーと化してしまった。その風景はきわめて貧乏臭いともいえたし、暗いけど懐かしいともいえたし、あるいはまた明晰で論理的な散文の間に挟まれた古風な一行の詩のようにも、思えないことはなかった。
 
 ―ところで問題は一年前の冬、一台のパソコンが何箱かのダンボールに詰め込まれてこの家に届いたことから始まった。
 このささやかな機器は、進取の気性に富む荒本健介氏が「IT時代に遅れまいとして」購入したのであるが、それが彼の新たな生活スタイルを作り上げてしまった。
 荒本氏は、豊島区にあるあまり大きくもない印刷会社の営業部長をやっているのだが、パソコンがやってきてからというもの、会社から帰ってくると夕食もほどほどにして、二階に閉じこもることが多くなった。この古畳の敷かれた陰気な二階の部屋には、祖父の遺影を添えた仏壇とパソコンが向かい合うという、日本的で奇怪な光景が出現した。
 もともと饒舌であった荒本氏は、それ以来、無駄なことを喋らなくなってしまった。彼は痩せた中背の体格で、ちっともじっとしておらず、いつも手足のどこかを動かしているような活力のある中年男であった。地下鉄に乗れば、一車両に十人は見つかるようなタイプで、よく座席の片隅で足を組み、スポーツ新聞を開いている。いたって顔の色艶はよく、笑うと前歯が兎のように出て、ちょっと愛嬌がある。動作がキビギビしているので、かなり精力的には見えた。そのちっともじっとしていられない健介氏が、部屋に籠もりきりになるようになったのである。
 長男の浩一は大学生で、アルバイト以外の時間はほとんど暇なのだが、しょっちゅう梶原という同じ商学部の友人の家に入り浸り、缶ビールを片手に、アダルトビデオやかなりきわどいホームページをその友人の部屋で見るという習慣があった。この梶原という友達こそ、浩一の家の一角を「ガラパゴス諸島」と形容した眠たげな目をした神経質げな男であった。浩一は、あまり父親がパソコンを独占し過ぎるので、その執着心に反発し、めったに近づかなかった。いずれ自分の金で、ノート型パソコンを買うことに決めていた。
 ある日、梶原の部屋で新しいサイトを検索中、偶然『チョコレート館へようこそ―アラモト通信―』というタイトルがひっかかった。その瞬間、彼はどうしたことか一種独特の重苦しい胸騒ぎがした。粘っこい泥のようなものが、喉元までせりあがってきた。
 厭な予感に襲われながらもクリックして、フロントページから次のコーナーに飛んでいくと、幕が開かれるようにして、どこかで見たようなチョコレート色の二階建てのボロ家の映像が現れた。
 巨大ビルに左右を挟まれた昭和四十年代の木造二階建ての荒本家。その象徴的な映像が、あたかも現代の良心のように、堂々とディスプレイに浮上してきたのである。玄関脇の太いさるすべり。やたらに丈の高い二本の棕櫚。手足のないギリシア彫刻のビーナスの白いトルソ。もう間違いない。普段住んでいる家をこうしてメディアであらためて確認して見ると、何とも生臭く、気恥ずかしいものであった。
 このホームページのサブタイトルには、「ある平凡な家族の生活と意見」とあった。不思議そうに画面を覗く梶原の脇で、浩一はしだいに血の気がひいていくのを感じていた。そこには、家族の記念写真はもちろん、室内の光景、廊下、庭、二階のベランダ、犬のパピーなどの写真も掲載されていた。
 『チョコレート館へようこそ―アラモト通信―』のコンテンツには、さまざまなコラムが設けられ、「けんすけ夢日記」とか、「今昔逍遥エッセイ」、「ケンスケ一刀両断」おまけにどういうつもりなのか「荒本流オトコの手料理」なるコーナーまであった。
 もちろん、犯人はわが家の父以外にありえなかった。
 つまりこれが、荒本健介氏がインターネットを始めてから、妙にこそこそと二階に上がっていくようになった真の理由であった。当初は知人とメールの交換などをして他愛なく喜んでいたらしかったが、そのうち誰の入れ知恵なのか、別の野望がムクムクと湧いてきたようなのである。こともあろうに一家の主が家族に無断で、「ある平凡な家族の生活と意見」を開陳したホームページを始めたわけである。
 しかし、たとえ荒本家を訪れたとしても、この『チョコレート館』という通俗的で甘ったるい、ほとんどひっぱたいてやりたくなるようなネーミングから連想されるようなメルヘンを感じることは、まるで不可能だ。要するに、ただ単に茶褐色にタールを塗られた貧乏臭い古い二階家が、のっそりと無愛想につっ立っているだけなのである。どこかの寒村の旧式の小学校の校舎の一角にも見えないこともない。荒本健介氏の頭のどこをどう押せば、こんなヘンデルとグレーテルの童話のお菓子の家のような、珍妙な名前が飛び出てくるのだろう。
 荒本健介制作の『チョコレート館』のホームページでは、かつてのマンション建設反対運動のあらましや、元同志の癖に大金をせしめた裏切り者への批判、彼らへの公開質問状、自己批判要求、まあ、いささかやりすぎとはいえその辺まではわかるとしても、さらには最近世の中を騒がせた奇妙な殺人事件に対する健介氏の所見、今月読んだ本の感想、近所の風景十選など、わけのわからない情報を披露していたのであった。ちなみに健介氏は、チョコレート館館長という肩書である。
 恐ろしいことには、家族の一人一人を紹介したコーナーまであり、それぞれの近況が事細かく述べられてあった。プライバシーもへったくれもなかった。
 例えば、浩一については、こうである。
『荒本浩一。長男。小生に似て、人はいいがオッチョコチョイ。最近、美穂ちゃんという彼女ができたらしいが、まだ父親の私には紹介してくれません。小生、若い女の子とは存外話の合う、魅力的な熟年なんだがなァ』とある。
 また、妹の萌美の欄には、こう書かれてあった。
『荒本萌美。長女。わが子ながら美人。先月、髪をカットして、ボーイッシュにしてしまったが、父さんとしては、昔のロングヘアーの方がいいんけどネ。最近だんだん女っぽくなってきて、パパとしては妙にどきどきしている』
 どうやら父は、生活環境のあらゆることに何かしらコメントを加えたいらしいのである。そしてその意見を誰か他の者に聞いてもらい、尊重して欲しいようであった。もともと社内では一言居士の異名もあり、ちょっとしたことでも何かいわないと気が済まないところがあった。営業マン荒本氏のごく平凡な個性の中には、抑圧されたエキセントリックな青白い火花が、地下のマグマ溜りの熱のように、ちろちろとゆらめいていたのであった。
 偶然にもこのホームページを発見した浩一は、ほとんど怒りに近い感情を覚えた。それを抑えながらむっつりとした顔で帰宅すると、すぐに妹を呼んで一緒にパソコンの画面を覗き込んだ。妹も、水を浴びせられたような顔で目を丸くして、ディスプレイに見入っていた。
 というわけで、この件に関して深刻な家族会議が開かれた。
「一体、親父は何を考えてるんだよ。友達がみんな見て笑ってるんだよ、あの馬鹿なホームページを」
「お父さんねえ。だいたいあたしがこないだ竹下通りでTシャツ五枚買ったことまで、なんであんなとこに報告しなきゃならないのよ」
「実はあたしもさっき子供たちに見せられて初めて知ったんだけど、あれじゃおちおちスーパーも歩けやしないわ。顔が赤くなっちゃうわよ」
 家族の反対は、猛烈なものがあった。健介氏ひとりのいい気な自己満足だというのである。
「いや、かつてのマンション建設反対運動を、世間に知らしめたくてね」腕組みをした健介氏は、来るべきときが来たという顔で、うそぶいた。「今後、市民運動などやる人たちにとって、参考になる情報というか、運動のモデルケースというか、社会的に意義ある情報が盛り込まれているかも知れないじゃないか。NPOとかな。あれだってひとつの歴史だからね、無名の市民の」
「何言ってるのよ、あなた。そんなふうに屁理屈つけるとえらくもっもらしいけど、事前に私に何の相談もなかったじゃないの。そんなんだったら、二階で隠れるようにこそこそやる必要ないじゃないの」
「こそこそ隠れるようにはやっとらんさ。人聞きの悪い」
「家の間取りまでイラストにしてあるのには、びっくりしたわ。それにしてもお父さん、よくあんなイラスト画けたじゃない」と萌美。
「そうか、まあまあだろメグ。美大志望者がほめるんじゃ、そこそこのレベル、かね」
「ほめてなんかないわよ。そうじゃなくて。あれじゃ泥棒に、案内しているようなもんじゃない」
「盗むものなんてあるのかしら、この貧乏家に」と母。
「あのな。百歩譲って、反対運動はわかるとしても……けんすけ夢日記とか、荒本流オトコの手料理とか、あと何だっけ? そう、ケンスケ一刀両断とか、あの馬鹿な、タレント気取りのエッセイは一体何なんだよ。あんな駄文に、社会的意義なんてあるわけないじゃないか」
 長男の舌鋒は、さすがに鋭かった。
 この家族会議の問題の焦点となったのは、父のホームページの内容に、はたして社会性といえるものがあるのか、それとも身辺雑記や私的なつぶやきや自己顕示欲に過ぎないのか、ということらしかった。しかも、家族といえども、一人一人のプライバシーをどこまで尊重するかという問題も発生してくる。
「まあ、それはそうだが……。堅い話題の中で、ホッと息抜きというようなコーナーがあったっていいかと思ってさ。それにしてもお前、よくあんなマイナーなサイトを見つけたな」 
浩一はこの瞬間だけ、ギクリとして唾を飲んだ。
 この日の家族全員からの突き上げには、形勢不利のまま抗弁する健介氏であったが、二、三日の間はそれでも何の音沙汰もなく、息を潜めるように神妙にしていた。
 ところが数日後、浩一が例の友人の梶原宅で、缶ビールを片手に検索してみると、二日前の日付で、次のような文章が加えられていた。
『ファンの皆さん、恐れていたことが的中しました! このホームページ、ついに家族に発覚してしまったのです。連中は全員、大反対。……トホホホ。この後どうなるかわかりませんが、とにかく艱難辛苦にめげず、何とか皆さんの期待にお答えできる充実した内容にしたいと、不肖アラモト健介、はりきっております』
 長男は、すぐさま家に帰って、妹と母親を祖父の遺影のかけられている薄暗い二階に呼びつけ、パソコンの画面を見せた。
 三人は、ディスプレイの青ざめた光に顔を晒しつつ、犯罪の決定的証拠を押さえたかのように、目をぎらぎら光らせてその全文を読んだ。家族に関するあることないこと、会社や仕事への不満、春の社員旅行のほとんど意味のないエピソードなどが、ホームページの名のもとに世間に公開されているのであった。もちろん「けんすけ夢日記」、「今昔逍遥エッセイ」、「ケンスケ一刀両断」「荒本流オトコの手料理」のコーナーは健在である。その手料理のコーナーでは、ときどき自分で夜中に作っているオリジナルな酒の肴のレシピを紹介しているようであった。一体なんのために―。しかも前回見逃していたのか、家族の寝姿までこっそりと撮ってある。それはほとんど、家長による犯罪といってよかった。
「うちのお父さん、どういうつもりなのかしらねえ」
「まるでわたしたち、見世物じゃないのこれじゃ」
「『息子への期待』。くそッ、なんなんだよコレ。まさか詩のつもり。みっともねえな。書くなっていうの。ああ、また友達の笑いもんだぜ」
 ちなみにその詩は「息子よ、羽ばたけ」という出だしで始まる何か島崎藤村ふうの明治時代の新体詩でも思わせる奇妙な、居心地の悪いものであった。詩を捧げられた本人としては、何とも困惑せざるをえない。しかも、もともと長男本人にはこの詩の存在など知らされていないのだから、この作が本当に息子への愛情に裏打ちされた作品なのか、それともサイバースペースの画面作りのために早急にでっちあげられた模造品にすぎないのか、それは定かではなかった。 
そもそもこの長男は、高校時代に父と大喧嘩して、一週間ほど家出した前歴があった。あまり親子仲はいいとはいえない。その事件の後は、父と息子との長く気まずい冷戦状態が続いている。ひょっとして淋しい健介氏は、メディア上で独りよがりの家族愛を謳い上げているうちに、画家が実際の風景にはありもしない薔薇の花を一輪描き込みたがるように、何となくこんなものを添えてみたくなっただけではないのだろうか―。
 とにかく、ホームページ上で、彼自身と家族の生活を再現すること、そして人目を引くこと、それは荒本健介氏にとっては、戦慄すべきひとつの創造であった。
 もちろん新たなコラムや家族の写真が発覚したその日は、夕食を待つまでもなく、全員で父を吊るし上げにかかった。キッチンでは蛍光灯の弾けるような光が、しらじらしくもさんさんと降り注いでいた。誰もが深刻な表情をして無言で腕を組み、異様に険しい目をしていた。蛍光灯の加減か、皆、目の下に隈ができて見えた。.
 父は「わかった、わかった」といって急に改まって背筋を伸ばし、テーブルに両手をついて謝った。そして、上唇を伸ばして兎のような前歯を包み、おもむろに顔を上げた。それはクライアントの前で仕事上のミスを謝る営業部長の妙に慇懃な、低姿勢の演技を思わせた。政治家や官僚なども、汚職を追及されると、テレビカメラの前でよくこんな格好をしてみせるものだ。
 この件は、ともかくこれで一旦、和解となった。
ところがその三日後の画面には、性懲りもなくこんな書き込みがされていた……。
『どうやら皆さん、長男の浩一は、検閲官になり仰せてしまったようです。わが家の文化的無理解も、ここまでひどいとは情けない。これは、小生の教育不十分、不徳のいたすところであります。それはともかく、まあ、何としてもこの家庭内言論弾圧に抵抗し、アラモトは表現の自由を死守し続けたいと愚考します。皆さんの応援だけが、頼りです。家庭の平和をとるか、表現の自由をとるか―。この問題に関する皆さんのご意見を、どしどしお寄せください』
 
 とはいえ、そんな攻防戦が続いたのは最初の二か月ほどで、そのうち状況が変化してきた。友人や知人から「見たわよ、お宅のホームページ」「ユニークな面白いお父さんじゃない」「読んだぜ、きのう、チョコレート館」「お父さん、ここ二、三日サイトを更新してないじゃないの。忙しいのかしら」「あたし、仕事から帰ってから、チョコレート館を覗くのを楽しみにしてるんです」などという、「励ましの言葉」「叱咤激励」「熱烈なエール」がぼちぼち聞かれるようになってきた。
となると、もともと特に固定した主張を持っていない荒本家の家族たちは、次第に悪い気がしなくなっていった。
 というより、最初から何となく自分たちも父の道楽に理解があり、温かく見守ってきたようなつもりになっていったのである。形勢が逆転してきたことを天性の鋭い動物的直感で見てとると、荒本氏はがぜん息子や娘の協力をおおっぴらに要求した。そしてほんの冗談ぽく、みんなの呼吸を伺うように「これからは、お父さんではなく、館長とでも呼んでみたら、ちょっと、楽しいかも知れんぞ」とすらいった。
「実際、何が面白くてこのホームページを毎日覗くのか、私自身もわからないのです。退屈といえば退屈。でも、何なのだろう。何かがあるの」
 と、金沢市のOLと称する女性ファン三十歳は、感想のメールを入れてきた。
「ただ、荒本さんのお宅が、今日も無事で過ごしているなあと思うと、何故かほっとするところがあったりして。これって、暮らしのペースメーカーってやつ? なんでもないような生活の細かい出来事が書き込んであるので、うちと同じだなあなんてしきりに感心したりして。ちなみに、私、健介氏と愛犬パピーちゃんの大ファンでーす。あの犬、パピヨンですよね。むかし実家で飼っていたんで、何かなつかしくなっちゃって。また、読ませていただきます」
「今ふうの言葉でいえば、癒される……というのであろうか。チョコレート館をあえて心の故郷と呼ぶ私の我がままを、お許しいただきたい。荒本健介館長さんのユーモラスな奮闘ぶりには、身につまされるものがあり、何かしら日本男性の悲しいサガというのか、人生の深い悲哀を感じさせるものがある」
 これは岡山の七十二歳の男性(元教員)である。
 どうやら人気の秘密は、この時代に置き去りにされたようにな貧相でせせこましい、それでいてどこか懐かしい木造家屋そのものにもあるらしかった。こんな貧乏所帯を見せ付けられると、ちょいと小金を貯めてマンションを購入した者や、郊外の瀟洒な邸宅に住んでいる連中は、「私たちは物質的豊かさと引きかえに、何か大切なものを失ってきたのではないだろうか」などという、いらぬ反省が湧くらしいのだった。
左右の巨大ビルに挟まれたチョコレート色の荒本家の映像には、日本人特有の判官贔屓の心理が働き「ウチはまさかここまではみすぼらしくはあるまい」というきわめて微妙な憐憫の情がわいて、見る者の精神衛生に好影響を与えているようであった。
 また、生活の細部を、プライバシーの限界を越えて克明に報告しているのもウケたようだ。
 どうやら荒本健介氏には通常の意味での羞恥心がないらしい。というより彼の場合は、自己顕示欲が羞恥心を上回っているらしいのであった。たとえば、パチンコで幾ら勝ったとか負けたとか、あるいは調子の悪い電子レンジを修理しにいったら新しいものを買えといわれただの、最近外食していないので家族に責められているだの、味噌汁の具のことで妻と言いあっただの、そんな愚にもつかないことまで、実に克明にこの極私的ホームページに逐一報告しているのであった。大したドラマも変化もないにしろ、作為を加えぬ日常生活の生きた連続性があることだけは確かであった。
そのため何度か覗くと、ベランダの植物が日々成長するのを観察するように、わずかながらの違いが確認でき、それが病みつきになってズルズルと後を引いてやめられなくなってしまう。     自分が荒本家の人間の一人になってしまったような、一種不可思議な懐かしさとシンパシーを感じてしまうらしいのだ。誰かが、お茶漬けの味と評した。
 中には深読みして分析してみせる暇人もいて、チョコレート館の存在に「大国のスーパーパワーに挟まれた島国日本の悲哀」を読み取ったり「現代的なシステムに圧迫される緑と自然のエロコジカルな風景」を重ね合わせる無名の論客もあった。
 実際、新宿区の外れのこの地域には、ある時期から次々と現代的なビルやマンションが建ち始め、緑らしい緑があるのは荒本家の庭だけだったのである。棕櫚や、バナナの樹や、途中まで作られかかって投げ出された小温室、そして狭い家庭菜園で構成された柔らかな黒土の一角。荒本家の数十坪の敷地は、ごしゃごしゃとした植物の生命力の渦巻く不思議な空間であった。オオバコ、ブタクサ、エノコログサ、ドクダミなど、昔ながらの雑草が暗緑色の色合いを帯びてわんさかと生えていた。特に、じめじめした石塀と家屋の狭い隙間には、不吉な感じのキノコが、幾種類か小さな傘を並べていた。その赤や黄色の不健康な色合いからして、毒キノコではないかと思われる。とにかく生態系といったレベルで見れば、ここ数百メートル四方の範囲の中では、ユニークな生物、微生物が無限の彩りをもって観察されたことだろう。
 総アクセス数が千から万を数えるようになってきた時点で、完全に形勢は逆転した。
 荒本健介氏としても、これまでの人生の中で、これほど人々の注目を集めたことはなかった。
 人生が、輝き始めた。
彼は画面を睨みながら不敵で愚かしい笑みを浮かべ、「見たか、世間」と密かにひとりごちた。
 各方面から「コメント」が寄せられ、友人が面白がって自分のホームページや趣味のサークルのそれにリンクしてくれるので、意外なフリの客が好奇心で『チョコレート館』にアクセスしてくるようになった。
 これに気をよくした健介氏は、木造二階建ての家のあちこちを、鉢植えの季節の花々でいそいそと飾るようになった。赤と白とのシクラメン、青いラベンダー、紫や黄色のパンジー、マリーゴールド、ブルーデージー。
黄色いチューリップを玄関脇に花壇のように並べたこともあった。どうやらスイスやオーストリアあたりの山荘をイメージしているらしい。ところが、家そのものが薄暗いせいか、これが妙に効果的で、鮮やかな絵の具をたらしたように花々が引き立ち、一種独特のどこにもないような楽しげな童話的空間ができあがってしまったのである。
 勢いづいて鼻息の荒くなった健介氏は、今度は狭い庭にも空色のパラソルを立て、白い椅子やテーブルを置き、客が訪れるとコーヒーや紅茶でもてなした。
のみならず、ごつごつした赤レンガを買い込んできて、ふうふういいながら一日がかりで積み上げて、庭先にバーベキューコーナーまで作り上げてしまった。そして最後にとどめとして、薔薇のアーチを作り、野鳥たちのために積み木細工のような巣箱と餌箱を用意した。実に思いもよらないようなエキゾチックで華やいだ絵画的な空間が出現した。まるで、山小屋か何かを改造した都会嫌いの趣味人による避暑地のちょっとした喫茶店のように思われた。
 さらに健介氏は、とある日曜日、手拭を頭に巻いて、両手の幅ほどもある厚めの板に、『チョコレート館』という文字を彫り込んだ。そして、刷毛を使ってペンキで塗り分けてから、脚立を使って玄関に掲げた。こうして、サイト上の世界は、あれよあれよという間に立体化され、インターネットや口コミでひっかかってくる来客を、息を潜めて蜘蛛のように待ったのである。
 彼は各企業やNPOのホームページのアクセス数と、自分のホームページのそれを比べ、まんざらでもない気がした。ともすると口元に傲慢な笑みすら浮かべるようになった。ここのところ家族としての結論は、「いまさらホームページをやめろとはまさか言わないが、あまり家の恥を外部に漏らすようなことは常識的に考えてもよくない。何事もほどほど、中庸が肝心」といった辺りの曖昧な見解にまとまりつつあったのである。
 
「ごめんください。あのう、荒本さんのお宅でしょうか」
 玄関前に立っている二人の少女は、持っていた地図をしまって、一呼吸してこういった。大学生ぐらいの年齢だが、プラダだのグッチだの、なかなか高価なブランド物を身につけている。
「はじめまして。私、野口です。いきなり午前中お電話して、申し訳ありませんでした
「吉沢と申します。わたしたち、チョコレート館のファンなんです」ともう一人。
「あら、ホームページご覧になった方ね。よくいらしてくれたわ。こんな家でよかったら、さ、どうぞどうぞ。散らかっているけどお茶でも飲んでいらして」
 もともと社交的で訪問客の大好きな荒本夫人は、こんなやりとりだけでもすでにうきうきしていた。エプロンで手を拭いながら、二人の若い女性を客間に案内した。客は「つまらないものですけど」と近所の主婦のようなことをいって、カステラか何かの包みを差し出した。
「残念ねえ。日曜なんだけど、館長はたまたま留守にしてるので、私が副館長としてお相手しているのよ。最近、わが家にお見えになる方、増えてるんですよ。とくに若い女性の方とか」
 夫人はにっこりして、何度も大きくうなずきながら客間に案内した。夫のことを館長、自分のことを副館長と、確かにいった。
「ああ、写真に出ていた通りですねえ。さっき玄関の前に立って、感激しちゃって。さるすべりがあるでしょう。ああ、この木だなって思って」
「外から見える白いビーナスのトルソもね」ともう一人の女性客がつけ加えた。「本当に、都会のオアシス。昔、こういう造りの家って、よくありましたよね」
「そうですわねえ。こういう生活文化の保存というものに、日本人は鈍感よねえ。特に東京の町って、懐かしい風景の保存ということにはとても無関心なのよね。風景だってあなた、立派な文化遺産よ、考えてみれば」
 この意見は亭主の受け売りであった。
「どう、お気に召して? この家では心が癒されるっておっしゃられる方も、多くいらっしゃるのよ」
 夫人は、まるで個展で自作でも披露しているベテランの女流画家のように、余裕ありげな微笑を浮かべていた。
二人の女性客は、ソファから立ち上がって天井や壁を見渡した。そして扉を開けて、縁側に出た。
「この庭がまたいいんだなあ。まさに自然を愛する人の家だわ。私、幾何学的なフランス庭園より、自然なイギリス庭園の方が好き。……こういうふうに物干し竿に洗濯物が干してあって、庭には苔がはえてて。えっ、何これ、ノキシノブじゃない。素敵。うわァ、トクサまで生えている。見て見て、野鳥が来てるじゃない。シジュウカラが果物食べてる」
「あれは、オナガじゃないの?」
「きっとカケスよ。どうでもいいわそんなこと。もう、答えられないわねえ。これって、高度経済成長以前の東京の原風景よねえ。月島の路地裏を散歩して以来の感激だわ」
 しかし実態は、別にどうということはない時代遅れの貧相な家屋なのである。
 
 兄と妹は、客間をこっそりと覗き込み、廊下で耳打ちをした。
二人は階段のいちばん下と二段目の段に腰をかけていた。妹は背中を柱にもたせかけている。
子供の頃、背中が痒くなると、二人ともよくこの柱にごしごし背中を押しつけて掻いたなじみの柱である。さっきコンビニエンスストアで買ってきたハムサンドとソーセージパンを頬張っていた。
「なんだよ。母さん、普段はあんなこといってるくせにさ、けっこう乗り気じゃないか。それにしても、プラダのバック持ってた方の子、けっこう可愛いかったな」
「お兄ちゃん、しっかりチェックしてんじゃん。……そうなのよ。実際にはね、お客が来ること自体は好きなんだから、うちのお母さん」
「下らない世間話はもっと好きだからね。そのブラウスお似合いねえとか、無意味におだて上げられるとどこまでも舞い上がるんだ」
 兄はソーセージの切れ端を落としそうになって、慌てて押さえた。
「ほら、皮肉ばかりいうから、落としてやんの」
「あのなあ、メグ。俺、考えたんだけど、キャラクターが弱いんじゃないかなァ俺たち」 
サンドイッチを頬ばり口をもぐもぐさせていた妹は、大きな意味ありげな目で兄を見た。
「そうなのよ。そこなの。あたし、それ、家族会議で提案しようと思ってたんだ」
「親父はさ、地で行けると思うのね。地で。でも、俺とかお前とかさ、とくに母さんなんか、もうちょっとパンチがひとつな」
「あたしって、地味かなァ」
「というか、特徴が欲しいわけよ。わかりやすい」
 二人はしばらく考え込んだ。
「あたしって地味?」訴えるように眉をひそめる妹。
「地味とかじゃなくてさ。つまり、もっとメディアに乗りやすいキャラ、というかな。何か事件とか起こるとインパクトが出てくるんだな。俺の友達もいってたんだ。そこがクリアできれば、もっとアクセス数が増えるって」
「どうせそんなこというのは、梶原さんでしょ。いつも眠そうな顔して、クドクド細かい分析ばかりしている。でもそうね。お父さんみたいに、やたら細部の情報に凝って、つまんない家の隅の写真入れたりするよりか、その方が印象強いかも」
「なにしろホームページでのヴィジュアル効果を考えて、ただそれだけのために薔薇のアーチまで作っちゃったんだからな。でもあれ、浮きっぱなしだよな、この辺の風景から。それに親父は自分の反省や心理分析入れたりするだろう。あれが恥ずかしいよな。だいたい平凡な常識的感想を出ないしな、あのコラムって」
「うん。あれ陳腐だってヒロコもいってた。むしろ無意識に滲み出してしまう能天気さの方が、ぜんぜん面白いって」
妹は頬っぺたを膨らませ「そうか、キャラクターとドラマかあ。なるほどねえ。お兄ちゃんはもっと、毒舌家になればいいのかもね。地を生かして」といった。
「……フム。お前、いい線ついてるかもな。こう、斜に構えて、物事をもっとシニカルに解釈するわけだな。もともと俺には知的な側面があるからな。それに俺はなにしろ、言論の自由、表現の自由を封殺する検閲官というわけだしな。親父によると」
「怒らない、怒らない」
「それはともかく……ホームページ『チョコレート館』を充実させるには、家族が自分自身の役作りから始めた方がいいってことだよ。多少の事件というのも必要だ。盛り上がりのためにな。ただし、あまりにも大袈裟すぎても共感されない。リアリティを失うわけさ」
「ドラマといったってさ、殺人事件とか起こっちゃったら大変だもんね」
「何も必要以上の幸福な家族を演じたり、家庭崩壊を演じる必要はないさ。要するにさ、計画というか、シナリオをしっかり作っておくんだ、俺たちの方で」
「うんうん。それといわゆる、コンセプトってやつ?」
「そうそう。うちのコンセプトって、何だ。メグ、本質的なことを考えようぜ。荒本家とは何か……。荒本精神とは? アラモト的なものとは?」
「なんか、テレビのプロデューサーとかディレクターの打ち合わせみたいで、面白いね。ふふっ。でもそんな、ウチに脈々と流れるものなんて、あるのかァ」
 妹は腕を組み、眉を大袈裟にひそめた。
「困ったね。家風なんて上等なもの、もともとないしね。ねえ、ウチって士族?」
「ああ、たぶん。でも足軽かなんかだろう。いや、庄屋っていってたっけかなァ。そういえば、死んだ爺さんの福島の実家の寺に、過去帳があるはずだろ。今度、あれを調べに行くか。夏休みにでも」
「いいね、いいね」
 二人が乗り気になって話していると、玄関の方で「すいませーん」という男の声がした。
 ガラリと玄関が開くと、青いナップザックを背負ったのっそりとした二十代ぐらいの撫で肩の青年が、目をパッチリ見開き、驚いたような顔をして現れた。
「あのう。僕、ホームページ見たんですけど、お宅拝見させていただいて、よろしいでしょうか」
 浩一はぎょっとしながらも、愛想よく客間に上がらせた。客はあまりぱっとしない格好をしたどこかの浪人生のような若者で、田舎の博物館でも訪れたように、室内を無遠慮に見回した。
手にはパソコンからプリントアウトしてきた『チョコレート館』の数枚の紙片が握られ、ときどきメガネに手をかけながら、実物とコピーとを、生真面目に照合させていた。
「いったいこの家は、どうなっちゃうんだね。……なんなんだよ、アレ。ああいうの」
「フリーターか何かじゃないの。ふふっ。面白いじゃん。こういうの好きだよ、けっこうあたし」
 妹は、拳骨にした両手を口に当てて、両足を小さく床で踏み鳴らし、笑いを噛み殺した。
 浪人生らしき男は、縁側から庭に降りて「あ、パピー」といいながら、旧知の間柄のように首を撫で、頬ずりをした。
もっさりとした無表情な青年が、いきなりこんなことをするので、兄妹はびっくりした。もちろんパピーは、チョコレート館のアイドル犬として、できる限りのサービス精神を発揮し、オテをし、お座りをし、ワンと吠え、ハアハアいいながら小さな桃色の舌を出して、歓迎の意を示した。
 浪人生ふうの青年は、それから腰を落とし、しみじみとした表情で庭土をつまんで眺めていた。
匂いを嗅ぎ、目を閉じた。
土は指の間から、はらはらとこぼれた。彼はほとんどその土くれを、ナップザックに入れて持ち帰らんばかりであった。
 
 そんなこんなで荒本健介氏は、ことある毎に「うむ、これは書ける!」とか「よしっ、いいネタ見つけた」などと独り言をいって、二階に勇んで上がっていくようになった。気になるのは、会社で社長や常務に叱責されても、同僚と諍いをおこしても、「うむ、書ける!」ということになり、それら些事のてんまつのすべてを、復讐心にも似た被害者意識でホームページに書きつけるのであった。すると翌日、『全国数千人のファン』から、応援や励ましの言葉、私もかつて同じ目に合ったなどの同情の声が、続々とメールで送られてくるのであった。彼はその言葉のひとつひとつを読み上げ、自分が「ファン」から熱く支持されていることを感じ、同時に憎き上司や同僚の顔を浮かべ、仇をとったかのような満足を覚えた。そのたび、思わずにんまりと頬をゆるめるのであった。
 ある日、若い社員がこのコーナーを見つけて上司に言いつけた。以来、何度か専務からの警告があった。しかしそんなことでひるむような健介氏ではなかった。
「場合によっては、うちの会社の不正の全てを、ファンの前に暴露してもいいんだ」
ご多分に漏れず、この企業も同族会社にありがちな、どんぶり勘定のいいかげんな経理内容、財務内容だったのである。 
こうして、現実では負けてもホームページでは勝つという、健介氏にとって都合の良いパターンができていった。生活の中でのマイナスの札を集めると、彼の手持ちのメディアではプラスの札に変化するというわけである。しかも、どういうわけか失敗談の方がむしろ「書ける」のである。いまや、クライアントに無理難題を押し付けられ、ペコペコと謝って廻る営業の地味な仕事よりも、パソコンを相手に好き勝手に自分好みの世界を編集しているときの方が、よほど生き生きとしていた。そちらの方こそ、天職のように思われた。
なにしろ世界のもろもろの価値や善悪の評価が、荒本氏のホームページの中では、彼一人の采配によって、誰の指図も受けずに独断的に再検討されるのであるから。
 しかし、いいネタがなかなか見つからないときは、悲惨であった。腕を組み天井を睨み、大股に廊下を歩き、家族としても迷惑この上ない。
会社の方もこの不況でキリキリ舞いしているのに、実際のところ、営業部長がこんなことをやっていていいのかと思われるほどであった。仕事中も会社のパソコンで自分のホームページを開いてこっそり見入っていたり、植木の成育振りでも眺めるようにアクセス数を覗いていたりしていた。構想を練っているつもりなのか、ぶつぶついいながらオフィスを歩いているのを見られて、さすがにチョコレート館のことを知らない社員からも「最近、荒本部長、ちょっと様子が変だよ」などと噂されるようになっていた。
しかし荒本氏本人は、そんなことは一向に気にかけなかった。
何しろ自分はすでに数千人の支持者を従えているのだ。ちょっと気に入ったコラムが書けたときなど、それこそ天を舞うような気持ちになって、二階の部屋で「ワン、ワン!」などと吠える真似をし、犬のような格好でくるくると這い回ったりしているのであった。浄土真宗の金色の仏壇と先代の遺影が、この狂態を見下ろしていた。
健介氏の最近の口癖は、「そろそろあの欄も、更新しなきゃならないな。私のファンが首を長くして待っているし」というのであった。もちろんこんな作業は、誰に頼まれたわけでも社会的な使命があるわけでもない。
彼は何十年もの人生の中で、生まれて初めて自己表現のうまみに目覚めたのだった。
 最初、遠くからわざわざ『チョコレート館へ、ようこそ』を見て訪れてきた客には、過去のマンション建設反対運動の経験などを話して丁重にもてなしていたが、そのうちそんなことは退屈になってしまったのか、自分自身の人生談義、理想の家族とはどうあるべきか、地域社会作りのヒント、あるいは床屋政談なみのヨタ話などをとうとうと聞かせて、相手を面食らわせるようになった。
ひょっとして荒本氏は、自分を人生の教師か何かと勘違いし始めているのではないかと危ぶまれた。近隣からは、都議選に出馬するつもりらしいなどというあらぬ噂すら流された。
 ある日、夕食をかねた家族会議で、意気軒昂な館長から、次のような宣言があった。
「これからは毎月第二土曜日に、わが荒本家では、オープンハウスデーを設けようと思うんだ」
「オープンハウスデー?」
 その日の夕食のメニューは、豚肉のたっぷり入ったカレーライスであったが、またうちの親父がとんでもないことを言い出したぞという緊張感が、食卓に走った。
「まあ、懇親会だね。わが家のホームページは、すでに万にならんとするアクセス数となっていて、わざわざ全国から訪れる客も多い。したがってだ。父さんの話を聞きたがるファンも増えてきたし、またこの家を見学に来たがる心ある人々に対して、公開の義務があると思うんだよ」
「義務ねえ。……確かに、一種のフェチの対象になってるんだな、この家」
 長男は不快そうにつぶやいた。
「館長、発言していい?」萌美が、大きなスプーンをあげた。
「どうぞ、許可します。発言しなさい」館長は、満足げにうなずいた。
「あたし、ノートを置いたらいいと思うの。チョコレート館の思い出ノート、ペンションみたいに。大学ノートを一冊そのために用意して、来てくれたお客さんに自由に感想を書いてもらうの」
「うん。そりゃいいアイディアだ。母さんメモしとけ」
 メモ帳はどこいったかねえ、などといいながら、母が腰を片手でさすりながら億劫そうに座を立った。
「それから、ね、聞いて聞いて。チョコレートを置くのよ。明治とか森永の昔の板チョコ。記念に食べてもらうの。だって、チョコレート館っていったって、チョコレートとの関係って、いまのところなんにもないんだもの。家の色だけでしょう。無茶よ。ネーミングに根拠がなさすぎるもん。……あ、そうだ。バレンタインデー。バレンタインのデートコースっていうのは、どうかしら。相当ダサイけど、そこが逆にウケちゃったりして」
「なるほどな。うん。グッドアイディア」館長が渋い声でいった。「これだから若者の発想も、聞かにゃあならん」
「お客さんにチョコレート配る役は、あたしが担当するから」と萌美。
「いっそ、ラブホテルにでもしたら?」からかうような調子で、浩一がいった。
「止めなさい、浩一」と母。
「辛いなあ、それにしてもこのカレー」
「あらそう? 中辛なんだけど。別に十何種類のスパイスセットとかいうやつも入れてあるのよ。マサラなんとかいうの。……その、チョコレートはいいんだけどねえ、来客へのお茶代のことだけど、先月だって馬鹿にならないのよ。かといって、何も出さないわけにいかないしねえ。いくらうちが貧乏だからといって」
 メモ帳をめくりながら母が溜め息をついた。現実をつきつけられた父は、不快そうに咳払いをした。
「あたし、ぜんぜん辛くないよ。このくらいのカレーが好き」
 コップの水にむせながら、萌美がいった。
「うむ、今日のカレーはうまいよ。うまいうまい。実は父さんは、ホームページの方を、会費制にしようかと考えてるんだ。年会費、そうだなあ、三千円くらいにして、チョコレート館を訪れる人には、入場料割り引きのシステムがある……というのはどうかね。あるいはむしろ、民宿ふうにしてだな、一泊四千円くらいの低料金で、下の部屋を解放するというのはどうだろう。何しろ毎日アクセスしてくる地方のファンもいるくらいだからな。上京の折りにはぜひとも訪ねてきたいというんだよ」
「このボロ家自体が稼いでくれると、ありがたいんだけどねえ」と母。
「あの、大丈夫、二人とも?」
長男は信じられないというふうに眉をひそめ、スプーンを握った手で、片頬を押さえた。
「本当にそんな夢みたいなこと、実行可能だと思ってんの」
「それとね、この間お父さんとも話したんだけど」
母は息子を無視したまま、ボールペンを動かした。
「インターネットで、通信販売を始めようと思っているの。チョコレート館ブランドを生かして」といった。
彼女はカレーを煮込んでいる途中で、キッチンでさんざん味見をしすぎたので、それ程おなかが減っていないのである。
「通販っていったって。商品は何なのよお母さん。明治の板チョコ売るわけにいかないでしょ。あっ、脂肉。お兄ちゃん取って」
「あたしの作った袋小物とかポシェットとか、携帯電話のストラップじゃ駄目かしら。主婦の作った編み物や縫い物、という点をセールスポイントにするわけよ。手作りの味っていうやつ? いままではタダで知り合いや親類に配っていたからね、それをきちんと商品化するわけ」
「あ、わかった。それを全部、可愛いくチョコレート色にしちゃう!」
 萌美は目を輝かせた。
「馬鹿な」と長男。「なんという愚かな家族」
「萌美はなかなかアイディアマンだな。それに、否定的な考えからは、何も生み出されないからな」
 自分の敷いたレールの上での各自の個性の主張なら、荒本氏は寛大で、機嫌が良かった。ただし、長男へのやんわりとした皮肉も忘れなかった。浩一は、いつのまにやら孤立しつつある自分を感じていた。なにやら自分の家族が、どことなく家畜じみて見えた。
「それにしても、この年になって、こういう夢のあることが出来るとは、思ってもみなかったわ。なかなかスリリングだしねえ。こういうのが、今の世の中に求められていたんだわねえ」
「そうだろう。そうだろう」我が意を得たりという顔の主人。「最初はみんな、父さんの表現の自由を抑圧してくれたんだからな。ところが父さんは、ひたすら自身の自己実現欲求に忠実に純粋に行動した……。そして結局最終的には、父さんのいうところにみんな賛同してくれた。まあ、それはいい。それは、いい。先駆者の悲劇というか、勝てば官軍というわけさ。ハハハ。……それとだなァ、この間の萌美の指摘で、わが家にはドラマが足りないということをいわれて、父さんもナルホドと思った。それで、今度ハイキングに行こうと思うんだ。予算がないから、近いところで、丹沢あたり。河原でバーベキューをやって、それを全部ホームページに載せる。どうだ」
「賛成!」と萌美。
「この肉固くて、ちぎれないな」
 浩一は議題を無視し、腹立たしそうな顔つきで、大きな脂肉の一片と格闘していた。
「さあ、カレーもっと食べて。お代わりしてちょうだい、メグ、浩一。残しておいてもしょうがないのよ。片付けちゃってよ」と母。浩一は「ああ」とそっけなく答え、こんな馬鹿げた家族会議よりカレーを食べることの方がよっぽと大切だといわんばかりの顔で、ひたすらスプーンを動かしていた。
 
 白い雲の層が割れ、黄色い太陽がゆっくりと覗いて、丹沢山系の広々とした斜面を金緑色に照らしていた。うららかな山道では、渓流の音とカッコウの声が響いていた。
「新緑って、やっぱりいいよねえ。なんか、自然のパワーを感じる」
「ああ。……ところでお袋、だいじょうぶかな」
 二人は強くなる陽差しを避けるようにして、木立に囲まれた砂利道を登っていった。
「うん。歩くの遅いけど、何とか後ろからついてきてるよ。お父さんはスタスタと先に行っちゃうし、お母さんは腰が悪いし、中間の速度で歩くのって、案外難しいよね」
 車を途中の砂利道に置いて、渓流に降りられる場所を探しに、しばらく歩いてきたのであった。
リュックサックには、缶ビールや食べ物が入っているので、かなり重くなっている。
「そろそろ休憩にした方がいいかもな。傾斜がこの辺の道、きついからな」
 兄は、杖代わりに使っている長い木の枝を振り回して、側の笹藪を乱暴に叩いた。
「それにしても何か変な方向へ行ってやしないか、最近のわが家」
「うん。ちょっとね」並んで歩いている妹は、うつむいて坂道を眺めながら応えた。
「何かさあ、ホームページのために、生活しているみたいだもんね」
「そこなんだよ」兄はぴたりと止まった。そして杖を山道に突き立て、胸を反らした。
「あべこべになってるんだ、すべて。いままでこんなピクニックだか、ハイキングだかやるなんてこと、なかったろう。俺はこのために、美穂とのデートを断ったんだぜ。本当は丹沢行きは来週のはずだったんだ。ところが、親父の都合でいきなりスケジュール変更だもんな」
「わかるよ、アニキ。美穂さんにフラれたら、大変だもんね」
 妹はリュックを背負い直し、同行者の肩を、ポンと叩いた。
「でもこれが、新しい家庭内コミュニケーションということなんじゃない。お父さんもイニシアチブがとれるようになったんで、内心喜んでいるのよ」
「俺がこだわってるのはだ。何でまたいきなり、絵にかいたようなホームドラマを演じなきゃならないハメになったんだ、ということだよ」
「たぶん、コンセプトが間違ってんだよお父さんの。お兄ちゃんこっち向いて。一発いくよ。はい、チーズ」
 萌美はデジタルカメラを兄に向けた。憤懣やるかたないといった表情の兄は、一瞬だけ商業的な笑顔を作り、撮影が終わると、すぐにまた普段の無愛想な顔に戻った。
「まったく妙なことに、親父の頭の中にある幼稚な家族像に、俺たちまで奉仕しなきゃならんわけだ。何のために長年あんな狭い家で暮らしているんだよ、まったく。バブルの時に売っちまえば、いまじゃ多摩川の向こう辺りで、悠々自適の郊外暮らしだったのにな。要するにあのヒトは状況を見ずに、愚にもつかんようなつまんないことに固執して損してるわけさ。いつも」
「そこまでいうか。まあ、外に道楽があるわけじゃないしさ。見逃してやろうぜ」
「しかしなァ、客がどんどん来ちゃうしな。こないだなんて、夜の十時まで居座ったんだぜ、あのOL四人組。なにせ親父のやつ、自分でとっておいた新潟の吟醸酒なんか持ち出して、妙ちくりんな日本女性論をぶち始めやがったからな」
「お兄ちゃん、呼ばれなかったから僻んでるんだよ。いまお父さん、ちょっとしたスターだしね」
「スター? まあいいや。僻みねえ、まあ、それもある。それも、あるかも知れん。……だけど一昨日なんか、変な高校生が勝手に裏庭に入り込んで写真撮っていたのには、びっくりしたぜ」
「高校生。あ、そう」
 蝶々が二人の前を、もつれ合い戯れ合いながら、白い小石だらけの山道を登っていく。
二十メートル先の坂道を一人で黙々と歩いていた父が、ふと立ち止まって片手をあげて、「ここからおりるぞー」と大声をあげた。正面には、光を浴びた大量の明るい緑が、焔のように渦を巻いていた。兄と妹は、母が追いつくのを待って、恐る恐る斜面を渓流の方へと降りていった。
 
 冷たい透明な水を前にして、彼らは歓声をあげながら谷川のせせらぎに両足を浸け、しばらく山歩きの疲れを癒した。浅い水底の緑の岩の模様が鮮明に見え、覆いかぶさった放射状の枝が、ごつごつした岩場に薄紫色の陰を落としていた。河原いちめんに敷き詰められた丸石は、すでに太陽の熱で温められていた。
大きな雲の影が、谷を横切る。
 家族は昼食の支度を始めた。数本の缶ビールが、指を切るように冷たい岩間の浅瀬に沈められた。さっと、黒灰色の小魚が走った。比較的平たい河石を並べて、おにぎり、サンドイッチ、チキンの唐揚げ、そしてビールが並べられた。
「よしっ」父は缶ビールを持って、陽あたりのいい河原に立ち上がった。
「萌美、撮影の方は任せたぞ」
「また演説かよ」丸石に座った長男は、唐揚げをまずそうにむしり取って齧った。
「父さんはな、最近非常に、楽しくて仕方がないんだ」
 家長は少し高くなった岩に立つと、兎のような前歯を向いて、ビールを一口飲んだ。そして片手を腰に当て、渓谷全体に満席の聴衆でもいるかのように、甲高い声で喋り始めた。
「長年やってきた活動が、チョコレート館という形で、一般市民の理解と賛同を獲得したわけだ。しかし、これほど評価されるとは思わなかった。こういった手応えというか、確かな生きがいを感じる日々というのは、ここ何十年とやってきた会社の仕事では、経験できなかったことなんだ。つまり、これは父さんのライフワーク、といえるかも知れない」
「なんか、いってることおかしくないか?」醒めた調子で、長男がいった。
「あたしもそう思う」妹は、黄色いスクランブルエッグの入ったサンドイッチを丁寧につまみ、小指と人差し指についた卵をなめた。「昔からちょっと、エキセントリックなとこあったけどね」
「だって、別に親父の生き方や思想がウケているわけじゃないもんな。チョコレート館の人気なんて、単なる世間の覗き見趣味以上のものが、はたしてあるのかよ」
 渓流は片面が崖で日陰になり、高い梢ではカッコウが鳴いている。
「わがホームページのコーナーには」と館長は続ける。「毎日何十件何百件とアクセスがあり、こうしている間にも、内容の更新をせっつかれている状態なんだ。『荒本さん、まだ次のできてないんですか』『荒本館長、今度はどんなテーマで迫るんですか』ってね。予想以上の大反響だ。いまや、わが荒本家の存在は世間の広い支持を獲得し、父さんの考え方や人生観もまた、熱い共感を呼んでいる。生一本。嘘は、嫌い! ま、父さんは、そういうふうにして、生きてきた。日本のこの、企業社会の中で、ひたすら自分に忠実に、純粋に生きてきて、そういう生き方に、いまや意識の目覚めた市民たちは……」
 健介氏は、少しふらふらしながら、二本目の缶ビールを煽った。首筋まで赤くなっている。
蜂が一匹飛んできてこめかみにとまったので、彼はあわてて払った。そしていかにも取り繕うように、咳をひとつした。
「いや、中には、人生の師と呼ばせてくださいなどという、嬉しい見当違いをいってくる方もいらっしゃる始末で……。先日などは、北海道のある牧場主の方に、『世直し健介』などというユーモラスな渾名まで、頂戴した。ハハハ。最近始めた私の政治批評が、なかなか舌鋒鋭いというんだな。北海道に来た際はぜび、牧場へ寄ってくれと。……それに比べて、だ。会社の連中は、どうも私が小さなメディアを持っていてそれが人気を博しているというだけで、気に食わないらしい。ケツの穴の小さい奴らだ。実際、父さんは会社じゃちょっと、何ていうか、昔から煙たがられていたもんでね。一本気で正義感が強いというのか。許せないことに関しては、個人攻撃とまではいかなくても、サイトでどんどん告発しているわけなんだ。もちろんNとかIとかのイニシャルだから、彼らに実害はないはずだが」
「何とも異常な、躁状態だな」と兄。
「何か妙なものが憑いてるって感じ」と妹。
「会社だけじゃないぞ。先日、ゴミの集積所で、向こう隣の中村さんの奥さんが、燃えないゴミを燃えるゴミの日に出していた。初めてじゃないんだなこれが。私が注意すると、そのときは愛想よく持って帰ったのだが、翌日その息子が怒鳴り込んできた。中三の子供がだぞ。二、三日旅行に行くんだからしょうがないじゃないかというんだ。この件に関しては、『ケンスケ一刀両断』のコーナーで、広く全国のご批判を仰ごうと思って……。あの家のどら息子は、学校でもいじめの親玉になっているらしい。この親にしてこの子あり、だ。中学生なのにタバコを喫い歌舞伎町のゲームセンターに出入りしている。いつかあいつは少年犯罪に走ると俺は見ている。それからその奥さんは、よく近所の酒屋のアルバイトの若者と、カラオケに行ってじゃれ合ってるんだな。これは特ダネなんで、こっそりと写真を撮っておいたよ。あれをコメントつきで公表したら、中村家も、面目を潰すだろう。この町に、いられなくなるかも知れない。そんなことも、出すか出さないかは、父さんの一存にかかっている。ハハハ」
「おい。何か厭なものを感じないか。あのヒト、とんでもないとこにはまり込んだんじゃないの。あれって、地域のCIAだよ」 
「浮気できるなんて、羨ましいわねえ。ところで浩一、あんたビールはいいの?」母は日除けのツバの広い白い帽子を被り直し、ハンケチで太い首筋を拭った。
「うん。どうせ帰りは俺が運転手だろう。そんなことはどうでもいいんだけど、親父さ、言ってることちょっとヤバくない。何でもかんでも気にくわないこと、チョコレート館で弾劾してるんじゃないの。会社のこととか、近所のこととか」息子はおにぎりの梅を酸っぱそうにしゃぶった。「人のこと、検閲官呼ばわりしたくせに」
「ガス抜きだからいいじゃないの。誰も本気にしやしないわ。この演説、父さんに家でやられたらたまったもんじゃないけど、大自然の中だからちっとも近所迷惑にならないしね」母はほてった顔を、小さな花柄のハンカチでひらひら煽った。
「ガス抜きで済むかしらね」とオレンジジュースを紙コップに注ぐ萌美。「ちょっと強気過ぎない?」
 渓流の音が響き、緑色に染まった木漏れ日の中で、家族の食欲は大いに進んだ。
 ひとり極端に浮かれている健介氏は、でこぼこの石の間を大股でやってきてナップザックを覗き込み、二本ほど持ってきた日本酒のワンカップを、自分でこじ開けた。ほとんど社員旅行の宴会の乗りである。
「お父さん、そんなに飲んじゃっていいの?」
「なに。今日は楽しく、ハイキングだ。荒本ファミリーのハイキングの巻ィ―。ちゃんと巧く撮影してくれよ萌美。館長の一挙一同は、いまや全国数千万人の注目の的なんだからな」
 本当は数千人というべきところを、酔っているせいか、とんでもない数に拡大している。
 健介氏は「よし」といってズボンの裾をまくりあげ、どういうわけかジャブジャブと川の中に入っていった。そして両手で顔を洗い、すぐ側に魚が走っていったのを見つけて、「こら!」とか「うりゃ!」とかいいながら、中腰になって目をギラギラ光らせ、水の中を追い回してはしゃぎ出した。渓流の真ん中で、銀色の水の飛沫が飛び散った。
「こら、魚たち。一匹、二匹、三匹四匹五匹六匹―。群れろ群れろ群れろ。もっと集まれェ」健介氏は、すでにズボンの半分が濡れているのにもかまわず、なおも川の奥へと進んでいって、水面をバシャバシャと煽った。
温められて乾いた白い丸石が、どんどん濡れて黒く染まっていく。
「ほらほらほらほらー。俺は、重要人物だぞお。全国区の男だぞお。怖いかァ。こらこらこらー。魚どもォ」
 あっ、と思う間もなく、一家の主は水の中でつるりと滑り、両手を開いたまま仰向けになって倒れた。流れ込んできた水が、彼の体にぶつかり、あふれる波のように青黒く大きく膨らんだ。水の塊りは一瞬健介氏を飲み込み、彼は二度三度、立ち上がろうとして、中腰になりながらもまたもや滑り、頭までびっしょりと濡らしたまま、降参したようにへたり込んでしまった。
アクションだけは大きいが、大した深さではない。かなり酔っているのだ。
「お父さん、何やってんのよ。だいじょうぶ」
河原から、萌美が叫んだ。
 対岸の崖の下では、緑の淀みになった重たい水が、静かな暗い水面に渦状に葉を浮かべている。
淀みの手前の浅瀬だったためか、深さは座った状態でも、せいぜい胸のあたりまでであった。父は、びっしょりと濡れた髪のまま、放心したように下流を向いて、子供のように両手で水を跳ね返すと、
「なんのなんの。これでまた、ホームページが充実するわけだ。ドラマだドラマ。人間アラモトの、一側面てやつだ。萌美、はやく撮影しろ」といった。 
 
「おお凄いな。また増えてる」
 暗い二階の部屋で健介氏は、いつものように背中を丸め、目を血走らせて画面を覗き込んでいる。まだ夕食も食べていない。
このところますます、何かに憑かれたかのようである。パソコンに食い入る健介氏の背中を、先代の完治氏の餓鬼めいた遺影と、薄暗い仏壇が見下ろしている。「ちょっと、折り入って話があるのです」とでもいいそうな生前そのままの梅干じみた顔であった。
 妻がスルッと障子を開けた。
「あなた、夕食もう準備できてるわよ。電気つけたら、そんな暗いところで。目が悪くなるっていつもいっているのに」
「うん。つけてくれ。……ほら、どんどん増えているんだアクセスが、毎日毎日」
夫は機関士のように、前を向いたままだった。
その孤独な背中の丸みを見て、妻はかすかな愛情を感じた。
「それだけ我が家が注目されているってことだな。ある人にいわせると、現代のモデルファミリーなんだそうだ。おい、これ読んでみろ。この名古屋からのメールだ」
 妻は億劫そうに腰をかがめて、ディスプレイを覗き込んだ。
「どれどれ。ええと、何ですって。『……ある恋愛につまづき、人生に意味が感じられなくなっていたのですが、荒本館長のコラムを読んで、もう一度逞しく生きてみようと思いました。二八歳。初めて不倫した女』……。へーえ、またわけがわからない」
「な、どうだ。俺の影響力は。最近は、人生相談もやってるからな」
「初めてっていうのは、今後もやるつもりなのかしらねえこの娘。ところであたしはチョコレート館ブランドで、何を作ったらいいのかしら」
「うむ。もうだいぶ暖かくなってきたから、マフラーや手袋じゃ駄目だな。とりあえず、ポシェットでも作っておけ」
 それから、健介氏が腰が痛いと訴えるので、妻は畳の上に寝かせて、しぶしぶ腰を揉んでやった。
先日の丹沢の川で滑ったときに、どうやらしたたかに川底の岩に打ちつけたらしい。
しばらくして、パソコンの画面が自動的に閉じた。夫婦は水入らずで「まったく、人生というものはいろんなことがあるもんねえ、あなた」「そうだなあ。なんだかんだで、すべてはこうしてうまくいくのさ、お前」「でも無茶しちゃ駄目よ。もうあたしたち、昔のようには若くないのよ」などという会話を、しみじみと交わしていた。
 と、そのとき、一階でいきなり悲鳴がした。
 母が不審に思って下に降りていくと、長女の萌美がまた小さな悲鳴をあげて、洗濯物の籠をヒステリックに投げ出した。
「盗まれてるのよ、また―」
「盗まれたって、お金のこと?」 
 萌美は、Tシャツやジーンズを、床に叩きつけた。
「ちがうわよ。下着が盗まれてるのよ、あたしの」
 そして彼女は腕を組み、憤りを抑えるようにして猛然と天井を睨み、大股で歩きだした。
ただでさえ大きな瞳がいっそう大きくなって、可愛らしく見えた。良かったわこの子、あたしに似ず美人になって、と母は見とれた。
「今回だけじゃないの。これで四回目。夕方、庭先の物干しに引っかけてあったでしょう。暗くなってすぐだわきっと。ちょっと仕舞い込むのが遅れただけで……。わかった。パピーが吠えていたときだわ。あの子、なんにでも吠える馬鹿犬だから相手にしなかったんだけど。あの時、すぐ出ていけば犯人の顔が見られたのに。もう、やんなっちゃう」
 玄関が開いた。兄の浩一が戻ってきた。そして、家の騒ぎをよそに、むっとした顔つきで一階の奥の部屋に大股で入っていった。
「お兄ちゃん聞いてよ。わたしノイローゼになりそう」
「ああ」兄はうかない顔をしている。「どうしたんだよ」歩きながらバッグを隣の部屋に放り出し、ぞんざいに応えた。
「下着が盗まれたわ」
「下着? そんなこともされているのか」
 兄は真面目な顔で、妹をじっと見下ろした。
「そんなこともって」
「いや、何でもない」
「前はこんなの、なかったよねえ」
兄はぴたりと止まった。
「ああ。そうだよ、これは『チョコレート館』が、始まってからなんだ、すべて」
「すべて?」妹はじっと窓の外をにらんでいる兄の横顔を見ながら、不審そうにいった。「まだ、ほかにあるの」
「いや……」
「怖いよあたし。これからどうなっちゃうんだろう。あたし思うんだけど、ホームページにアクセスしてくる人たちって、決して好意的な人ばかりじゃないんじゃないの。毎日毎日、数字がじわじわと増えてくるでしょう。あれを考えると、とっても怖いの。わが家が崩壊していくのをみんな楽しんでいるんじゃないかしら」
「崩壊?」
「そうよ。白蟻みたいなものよ。カチャカチャカチャカチャ、とぎれなくうちのホームページにアクセスしてきて、何千人もの人たちが、白蟻のようにこの家を崩しているのよ」
「チョコレートだけに、蟻が群がるかね」
「ふざけないでよ」
「ふざけてないさ。……後で俺が親父に直接交渉してくる。止めさせるよ、もうこんな馬鹿げたこと」
 頬っぺたをふくらませた妹は、兄の強い口調にいささか驚き、うつむいたままくるりと反対側を向き、何かを軽く蹴るような真似をして、しょんぼりとして去っていった。
 浩一はポケットからタバコを取り出し、階段下の柱に背中をもたれかけ、そのままふて腐れたようにずるずると無気力に滑り落ちていって、床にすとんと腰を落とした。そして、ふーッと一息ついて、タバコの煙を吐いた。
 ―腹が立って仕方がなかった。
その日、大学での講義が終わると、明るいうちに友人の梶原の家にいき、いつものようにビールを飲んで時間潰しをしていたが、そのときある事実を知ったのである。
家のパソコンは、父親が独占し、ほとんどしがみつかんばかりの状態になっていたので、彼は嫌悪を感じて近づかなかった。
ホームページに何が書かれてあるかは、大学で見るか梶原の家で見るかという習慣になっていた。
つまり浩一は、あれからも密かに「検閲」を続けていたのである。
その日も『チョコレート館』のホームページには相も変わらず、どうでもいいような瑣末事が几帳面に書き込まれてあった。会社の幹部たちのやり方への批評が、やや激しくなっていた。
 途中、ディスプレイを覗き込みながら、梶原がおすおずとある事について語り出した。
「あの、荒本なあ。いいにくいんだけどさ。俺、変なものを発見しちゃったんだ」
 浩一が「なんだよ」というと、「いいから見てみなよ。俺は論評を控える」といった。 
梶原が眠そうな目をしながらマウスを左右に操作すると、しだいに『チョコレート娘』というタイトルで画面が現れてきた。
 いつ撮影したのだろう。風呂場で体を洗っている妹の萌美の後ろ姿が写されている。頭にタオルをまいて、少しからだをひねり、ほっぺたを丸みのある左肩につけるようにして、シャワーで背中を流しているポーズであった。体の四分の一ほどは石鹸の泡で包まれているが、片方の乳房は桃色の尖端までまるごと写っていた。つるつるした腕や背中の水滴まで鮮明に再現されている。どうやら妹は着痩せするタイプらしい。コメントには、萌美が通っている学校名や、「予測されるスリーサイズ」、好きな食べ物、趣味などの個人情報が、細かくマニアックに書かれてある。
 友人は、さらに無言でキーボードを操作した。『戦利品!』と称してチョコレート娘のパンティーやブラジャーが出てきた。次の画面に進んでいくと、高校の校門前で友達とはしゃいでいる制服姿や、バス停で一人しょざいなげに鞄を抱いて、バスを待っている妹の姿が写されている。
「メグちゃん、可愛いからなけっこう」
 こちらを見ずに同情を混じえた静かな声で、友人はいった。さらに画面を追っていく。少し前に萌美が無くした定期入れや財布の映像が出てきた。どうやら何者かによって、妹が集中的に狙われ、マークされているようである。
「お宅さ、世間の好奇心の、オモチャになっているんじゃないの?」
 梶原は少し白けた声で、突き放したようにいった。画面を進めると、今度は陽あたりのいい縁側で、片方の膝を立て、顎をのせるようにして右足の爪を切っている短パン姿の萌美が出てきた。パピーが脇でちょっと賢そうに首をかしげ、耳を垂らしている。
「もういいよ」
 憮然としてチョコレート娘の兄はいった。「ぶっ殺してやる」
 吐き捨てるように浩一はいってから、シャドウボクシングの構えで、見えない敵に向かって二、三度殴りつけた。
 
 浩一は、しばらく呼吸を整えて、二階の仏壇とパソコンのある部屋に上がっていった。 
いつものように父は顎を突き出し、パソコンに食い入るように向かっていた。まるでお猿の運転士だな、と息子は思った。
彼は、プリントアウトした紙切れを一枚、デスクにぴしゃりと置いた。梶原の家でホームページから引き抜いてきたやつである。妹のことを考えて、一番ひどい内容のものは伏せておいた。
「要するに……親父一人の自己顕示欲のために、家族のいちばん弱いとこに歪みがきたんだぞ」低い力のこもった声で、長男はいった。
「だから、何なんだ」
「いいかげんに、止めてくれよ」浩一は、ある意志を込めてごつんと拳骨をデスクにぶつけた。「これじゃ、世間の好奇心のオモチャじゃないか」
 妹が入ってきた。兄はあわてプリントアウトした紙片を隠した。萌美もいつになく、ぷりぷりしている。
「どうしてくれんのよ。お父さんのせいよ、あたしの下着盗まれたの。前はこんなことなかったんだからねえ。わたしたち家族と、ホームページの、どっちを取るのよお父さんは」
「何も、そんな大袈裟なことじゃないじゃないか」
憮然として父はいった。「じき沈静化するさ」
「沈静化?」今度は長男が、眉を釣り上げた。 
 騒ぎを聞きつけ、怖る怖る様子を伺うように、母親が障子を開けた。クッション役として、自分が加わっていた方がいいだろうと判断したらしい。
「つまり、だ。このコーナーで、そういう良識を外れたことはやめるように通告するさ。チョコレート館は、健全な市民のためのホームページなんだ。館長の私が直接いえば、ファンの暴走はじき収まるだろう」
空気が、冷えた。
「馬ッ鹿じゃねーの」
「馬鹿とは、なんだ」
父は鼻白んだ。椅子を回転させて息子を見上げ、指でずれたメガネを戻した。兎のような前歯が現れた。緊迫した瞬間だった。
「言いたかないが。お前たちだって、最初反対してたが、ちょっと友達とかにちやほやされだしたら、いつのまにか賛成派になったじゃないか、浩一。……お前の言ってることだって、ずいぶん矛盾してんじゃないのか。最初反対して、途中で賛成して、また反対陣営に回ったのかね。日和見主義者か、お前は」
「そんなことじゃないだろ!」
 長男と父親は睨みあった。母と妹はハラハラして見守っている。
「親父、もとに戻ってくれよ。おかしいよ、あんた最近」
「あんただと。親に向かって、あんただ?」
 この時、何かしら得体の知れない感情が、健介氏を襲ったようだ。心の奥底に抑圧してきた青白いちろちろとした狐火が、いきなり燃え上がったのである。浩一が高校生のとき、何度か猛烈にやりあったときの不快感が、再び蘇ってきた。あのとき息子は、自分に唾を吐きかけ、テーブルを蹴って、家出をしたのだ。
「おかしいよだと?」
父は口をへの字にして、メガネの奥の目を、大きく剥いた。
「誰のおかげでお前、そこまで育ったんだ。親父より、首ひとつでかいじゃないか。俺はな。はっきり言う。言ってやろうか。……俺はなァ、長いこと生きてきて、この人生がな、どうしょうもなく、くだらなく思われてきたんだ。どこまで行っても、何の意味も見出せない。そのくせ、年だけはとっていく。体は利かなくなっていく。働き蜂のようにアクセク生きてきて、家族にはちっとも尊敬されず、感謝されず、家ひとつ新築できないといわれてきて。自分の信念を曲げなければ曲げないで、また周りから馬鹿にされて、貴様らからも……」
「お父さん、いいのいいの。もうやめましょう。さ、浩一もね。謝りなさい」
 気が気ではない母は、言葉だけではなく、ほとんど物理的に父と子との間に押し込んできた。
「……営業部長とはいうものの、あちこちに頭を下げてきて、ちょっとした仕事も買い叩かれて。給料といえば雀の涙。一体、俺は、俺はどこにいるんだ―。無意味だ無意味だ無意味だ。そう思って、三十年もやってきたんだよ。やってきたんだんよ。惨めなもんさ。いいか。よし、言ってやる。ここまで俺に言わせるのは、お前のせいだぞ」
鼻水が、垂れた。父の言葉はほとんど涙声に近かった。
「お前は、ちっとも親父を尊敬してこなかったじゃないか。いつもそうやって斜めに構えて、親の生き方を批判してな。人の気持ちを逆撫でするようなことばかりいってな。楽しいだろ、ああ? ところが俺もな、こうやって人に注目されて、支持者が増えてくると、がぜん人生が、意味を持って輝き出してきたんだ。初めてまともに俺個人の意見が聞かれ、尊重されているんだ」
「何を言い出すの、あなた。そこまで言わなくても」 
 妻もほとんど貰い泣きしていた。
「続ける。俺は、断固続ける。ずーっと、父さんは、これまで十分、善い人でいたんだ。小市民だの、古臭いだの、個性がないだの、通俗的なことしかいえないだの、ワンパターンだのと馬鹿にされながら、お前らの学費払ってナァ。飯を食わせてなァ。それが、いま俺は、俺自身の居場所が、はじめて見つかったんだよ。ああ、そうだとも。つまんねえ人生だよ。笑うなら、笑え」
 長男の両手の拳は、ぶるぶると震えていた。
「くッだらねえ男だなァ、まったく」
「ナニを」
 父と息子は、真っ正面から睨み合い、ほとんど殴りかからんばかりになった。ただ、長男の方が十センチ以上背が高かったので、健介氏はやや見上げる形になった。
「……お父さんだって、会社でも問題になってるんでしょう。あなたがいろいろ書くことについて、専務さんとか社長さんとか、たいそうご機嫌斜めだというじゃない」
 恐る恐る妻がいった。
「それが、何だ―。言論の自由が保証されていない国なのか、この国は。ホームページで真実を追究することの、どこが悪い。どこが、悪いんだァ!」
「この野郎。なに夢みてんだよ」
 目を剥いてすっかり形相を変えた長男が、パソコンの前の父につかみかかろうとした。
「この野郎だと? 親父に向かって、この野郎だァ?」
「もうやめて。もういいの。お兄ちゃんもやめて。あたし、下着盗まれたっていいもん」 
泣きべそになった萌美が、間に入ってとめようとした。
「お風呂の写真、写されたっていいもん」
 浩一は、ぎくりとして拳を握りしめた。「おい、メグ。お前、知ってたのかよ」
「当たり前じゃん。だって、カメラ小僧っていうの? あたしの周りにうろついている変なオタクみたいなやつ、何人かいるもん」
 兄は愕然としていた。そして、ポケットの中の写真をきつく握った。
「お父さんもよく考えてね。これまでも、一徹過ぎて損ばかりしてきたんだから、あなた。こんなことやっていたんじゃ、そのうち会社も馘になってしまうわ。そうしたらあたしたち、身の破滅よ。一家心中するしかなくなっちゃうじゃないの。お父さんも、新宿のホームレスよ。あんなダンボール生活、夏はいいでしょうけど、冬はつらいわ。いままで営々と築き上げてきたものを、たかがチョコレート館なんて、馬鹿げたお遊びのために」
「馬鹿げたお遊びだ? 馬鹿げたお遊び。もう一度いってみろ。これはな、面白みのない堅物の変人といわれた俺の、唯一の、やっと見つけた場所なんだ。ライフワークなんだ。魂の、置き所なんだ。誰よりも、俺自身が、救われているんだ。そんなこともわからずに、荒本健介の女房が、よく務まるなあ。お前、もう一度言ってみろ」
 今度は父が立ち上がり、妻につかみかかろうとした。いままでの子供たちとのやり取りで溜まりに溜まった鬱憤を、もっとも馴染んできた相手に一挙に押し付けようという魂胆であった。
 と、その時玄関の方で、人の声がした。
全員、凍りついた。
 母親に目で指示されて、萌美が涙をハンケチで拭きながら出ていくと、小さな男の子を連れて紙袋を下げた女性が一人、にこにこしながら玄関に立っていた。
「すいませーん。チョコレート館って、こちらでしょうか。あの、わたし、静岡の小林と申します。初めまして」
 所帯じみた感じだが、人の良さそうな女性である。彼女は幼稚園児ぐらいの男の子の頭に手を当て、「こんばんはは、どうしたの?」と促した。
男の子は口に指をつっこみ、はにかむようにちらりと母親を見上げた。そして小さな声で「コンバンワ」といって、ぺこんと頭を下げた。と、たちまち照れてしまい、母親の太い腰にぎゅっとしがみついて、顔を埋ずめた。
「お利口ね、ボク」
 興奮を押し鎮め、濡れた目をぱちぱちさせながら、萌美は微笑んだ。
「もう、甘えん坊でねえ。……お宅のホームページ、いつも見させていただいてるんですよ。たまたま今日は東京の親類の法事があったんで、寄らせていただこうと思って。メールでは館長さんと、もう何回か。七時くらいまではどうぞと書いてあったんで、ご迷惑かとは思ったんですけど、伺ってみたんです。館長さん、いらっしゃいますでしょうか」
 そして「これ、静岡のお茶ですけど」といって箱を差し出した。そして廊下の奥を覗くようにして、「いいですわねえ。荒本さんのお宅って、いつもアットホームで。あの、冬になったら、家の畑の蜜柑、送りますわ」といった。萌美はぎこちなく、笑った。
 
 荒本家では、しばらく家に客を入れることは謹むようになった。オープンハウスデーは中止となった。小さな庭が色とりどりの花で埋められる季節になると、建物全体が緑に埋まり、印象派絵画のような風景へと変貌した。風変わりな喫茶店か自然食レストランのようにも見えなくもない。そのため一時期は、人の出入りも多くなった。しかし、テラスでコーヒーや紅茶を飲むぐらいはいいとしても、勝手に縁側にあがり込まれたり、挨拶もなくトイレを借りられたり、ひどい場合には寝袋で庭に寝泊まりされたりする例も出てきた。わざわざバーベキューの食材を持参して現れるアウトドア愛好のグループすら何組か訪ねてきた。当然のことながら、こんな連中を相手にしていたのでは、まともな生活を続けることなど、不可能であった。
 家族に相手にされないためか、健介氏は必然的に、ますますホームページに没頭するようになっていった。父と息子との関係も、お互いに故意に無視しあうような、怒りのこもった冷戦状態が続き、家庭生活も重苦しいものとなりつつあった。しかし自分のコーナーを維持し、書くことそれ自体がもはや自己目的になってしまった健介氏は、「チョコレート館」の崩壊の過程そのものを、ひとつのドラマとして語ることに、暗く皮肉な愉しみを見い出すという悪循環にまで、追い込まれていった。
 残酷なことに、彼の手作りの小メディアが、彼の拠って立つべき現実を、貪婪にむさぼり始めたのである。「チョコレート館」には、生活というナマの素材を、次から次へと薪のようにくべなければならなかった。まさに自分のしっぽを食う蛇の状態であった。ごく平凡な小市民である荒本健介氏は、必死になって話題やトラブルを再生産し、常に何かおどけたことをしていなければならなかった。
となると、ホームページの読者も敏感にその微かな毒気を察知し始めたようであった。その影響は少し遅れて、アクセス数に正確に反映してきた。じりじりとした株価の下落が与えるような肌寒い失墜感を、家族は感じた。訪問客もそんな空気を読んだのか、目に見えて減っていった。
 あの怒鳴り合いの一件以来、父親と長男はまたほとんど口を利かなくなった。日曜日の食事のときでも目をあわさず、無言で箸を動かし、お互い静かな火花を散らし合っていた。
ある日、浩一は、家を出て自活すると宣言した。
母は「なにか欲しいものあるの? 浩一、何でも買ってあげるわよ」などと持ちかけてみたが、もはやそんな次元でどうこうできる問題ではなかった。
 健介氏は、会社から戻ると、ただひたすらパソコンのディスプレイに向かって目を血走らせる毎日となった。ややもすると、夕食は二階で一人でサンドイッチをほお張って済ませることすらあった。
少なくなったとはいえ、画面の向こうには荒本ファミリーという虚像を信じ続けている数千の善男善女が待っているはずであった。彼はその虚像を演じ続け、家族の信頼とは何か、人生とは何か、サラリーマン社会での真の生き方とは何かといったような漠然としたテーマに沿って、『ケンスケ一刀両断』など、ますます鋭いコラムを書き散らし、人生相談をさばいていった。それらのコメントを書き付けている間、胸は高鳴り、鼻息は荒くなり、一人の闘将として、世界と人生を支配し、再編成していくような快感があった。できることなら、現実の人生から永遠に逃亡し、ディスプレイの中に身投げでもするように、ずぶずぶと頭から潜り込んでしまいたかった。
 そんなある日、荒本健介氏は、社長から呼び出しを食らった。
 ―それは、解雇の言い渡しであった。
少し間をおいて、梅雨明けぐらいを目処に退社せよというのである。表向きは円満退社にしてやるという。不意を襲われ蒼白になっている健介氏に向かって、社長は書類の端を太い指で弄びながらいった。
「君のやってる何とかいうホームページに、このてんまつを書くのだったら、書きたまえ。こちらも対抗手段は取らせてもらう」
 頬にたっぷりと肉のついたどこかブルドックを思わせる小太りの社長は、メガネをつけ直し、黒革製のずっしりとした椅子を四分の一ほど回転させた。
そして老眼のせいか、片手に取った書類を少し離し、ふんぞりかえったまま眺めていた。
「君は、僕や岩崎君のことも、いろいろ批判してるそうじゃないか。僕のやり方に不満があるのだったら、昔みたいに、面と向かって具体的に言ってきたらどうなのかね、一言居士さんよ。会議のときはずっと黙っていて、インターネットとかそういうとこで陰口を利くことはないだろ。君の業務態度については、ずいぶん前から苦情が山積みなんだよ、得意先から。チェックが甘い。電話を入れて、来いといってもすぐ来てくれない。指定した指示を守ってくれない。しょっちゅうヌケがある。要するに全部、仕事が部下任せだからだろう。自分がヘッドとして、責任をもって最終チェックしてないからだろう。エネルギーが、仕事じゃなくて、余計な方向へ行っておるんじゃないのかね」
「いや、そういうわけじゃありませんが、私はただ……」
「弁解無用。君のホームページとやらを見せてもらったよ。何だねアレは。……自己実現や自己表現がそんなに大切かね。自分の時間をそんなに確保したいかね。精神性とか真実とか魂とか、舞い上がったことばかり言っておって。この不況に。昨年以来、新規開拓の方もさっぱりじゃないか。営業が、小まめに自分の足で動いてない。それで会社が成り立つかね。そういうところに出てるんだよ、すべて。……まあ、どうなんだかねえ。同じ釜の飯を食ってきた人間を、あんなふうに普通、批判できるもんかね日本のサラリーマンが。ま、僕は楽しく読ませてもらったよ。……しかし会社は、そういう人間はいらない。少なくともこのご時勢に、ウチみたいな弱小企業は、いらないよ」
「社長、ちょっと私、今日は混乱しておりまして、少しお時間をいただけませんか」
 健介氏は、兎のような前歯を見せて、弱々しい愛嬌を示して媚びて見せた。
「時間? 最後通牒はすでに出しておいたつもりだ。なにかね、あの『ケンスケ一刀両断』というのは。ご大層な企業論を展開しているじゃないか。君は、いっぱしの経済評論家かおエライ先生のつもりでいるらしいが、一サラリーマンが自分のメシの種を一刀両断したらどうなるか、君もこれから身に染みてわかるだろうよ」
「申し訳、ございません。変更しろ、削除しろとおっしゃるのでしたら、今夜にでも。しかし社長……。お言葉を返すようですが」
「返してくれなくていい。持って帰ってくれ給え。そんなことにつきあってられる暇人じゃないんだ僕は。これから新橋の太田広告に行かなきゃならないんでね」
 逞しいブルドックは、ちらりと腕時計を見た。
「あ、太田広告さんでしたら、私もご一緒に」
「なに。君は来なくていいよ。担当から外す。実はその件の挨拶で行くんだ。後任は藤崎君にやらせる。経験は少ないが、彼の方が、素直で真面目だからね。若くて将来性もある。僕はこの、素直で真面目でういういしいというのが、何よりも大好きでね。部下はイエスマンに限るよ」
 社長は立ち上がり、ブラインドをめくり上げ、しばらく後ろ手を組んだまま窓の外を見ていた。
このときほど健介氏は、代表取締役社長の小肥りの後ろ姿に、侵し難い威厳を感じたことはなかった。孤独なボスは目を細め、遠くを見ながら続けた。
「それと、君の勤務態度がズサンになったのは、ほんのここ半年ばかりのことだ。したがって、退職金については、それなりのことはさせてもらう。君も、これからという息子さんや娘さんがあることだし。……ま、会社もいま大変だがねえ。何しろ君も十何年間、いちばん忙しいときに身を粉にして勤め上げてくれたわけだからね。その点については、僕は心から感謝してる―。何か疑問があったら、後で聞く。以上」
 目の前が真っ暗になった。両足が小刻みにふるえて関節が合わず、へなへなとその場に崩れそうになった。社長室の外に出ると、細長い廊下が霊安室へと続く病院の通路のように見えた。  
もちろん、健介氏は帰宅すると、一番風呂に入り、ビールを一本開けてから、気を取り直し、さっそくこの事態をあらためてホームページに書き加えた。
『全国の荒本ファンの皆さん。以上のような次第ですので、私の解雇問題に関する積極的なご意見、ご感想をお待ちしてまーす!』というわけである。
 
「お父さん、これなによ」
 日曜日、下の客間でぼんやりとタバコをふかしている父に、娘はいった。
 長男の浩一は隣の茶の間で寝転がってテレビを見ていた。二人の間に、微妙な距離が保たれていた。
会社から解雇を言い渡されて以来、父はしょぼんとして、少し痩せたようだった。職場でも事情が知れ渡ったらしく、同僚や部下たちからも、老いた病気の獣のように、冷淡に扱われるようになっていた。
すでに、後釜の営業部長も確定していた。新任の部長は、実に慇懃に、それでいて目元に嬉しさを隠し切れない表情で、健介氏に「何か私に、できるようなことはありませんか」といった。
皆、遠巻きに、もうすぐ退社する老兵の噂話を楽しんでいた。
どう抵抗しても無駄だと思い知ると、有給休暇がだいぶ余っているのに思い至り、小さな復讐でもするかように、頻繁に休んだり早退したりすることが多くなった。
「お父さん、これなによ」といった萌美のただならぬ気配に、父と兄は振り向いた。
「『先日、娘の下着が盗まれた。これは偶然か、それとも我が家の有名税か。しかし、釈然としないものがあることも確かである。わが家の新しいミステリーの始まりであろうか』―これ何よ。何なのよ、この文章!」
「いや」
「そんなことも書いているのか。病気だな、もう」
 長男は奥の茶の間で、横になったまま顔だけ向けると、聞こえよがしにいった。
「答えてよ。何もここまで娘のプライバシーを人目にさらすことないじゃないの。こんなことまで書かれるとは、思わなかったわ。顔から火が吹いたわよ、学校で」
「……父さんは、ただ」
「ただ何よ」
「実生活の中で起こった真実を、ありのままに、忠実に、嘘いつわりなく、赤裸々に書いただけなんだが」
 無表情に教科書でも朗読しているようなこの弁解は、これまでになく空虚に響いた。
「それが悪いっていうの」
「悪いかどうか、それは……」
父は肩を落として目をそらし、溜め息をついた。「何て答えればいいのかね。父さんはこれから、どこへ行けばいいのかね」
 萌美はぷいとそっぽを向くと、手の甲で涙を拭いながら、サンダルをつっかけて、庭の外へと行ってしまった。
 
 数日後、夕方近くになって、大学から帰って来た浩一が、玄関の戸を開けようとすると、裏庭に続く生け垣の暗い枝葉が、妙にもぞもぞと動いているのに気がついた。大方、父が会社を早退してきて、庭仕事でもやっているのだろうと思った。
しかし、様子が少し変なので、奥を覗いた。すると、太り気味の色の生白い少年が、おびえたように顔をあげた。
「……お前、何なんだよ」
 おかっぱ頭のずんぐりした少年は、手に銀色の小さなカメラを持っていた。
 あわてて垣根の隙間から身を乗り出して逃げようとしたので、浩一は藪の中に潜り込み、相手の腕をとって、力いっぱいねじ伏せた。そして「なんにも、してねえよ」と子供っぽい声で抗議してしゃがみ込む少年を、ずるずると力任せに引きずって来た。
垣根と家屋の間の狭い空間は、褐色の落ち葉でいっぱいになっていたので、少年も浩一も、枯れ葉まみれになってしまった。相手は途中、野生の小動物のように浅ましいほど抵抗し、むきになって枝にしがみついたり壁を蹴ったりした。
その物音に気づいた妹が、外に出てきた。
「どうしたの、お兄ちゃん。その顔、引っ掻き傷だらけじゃん」
 小太りの色の白い少年は顔をあげて萌美を見た。そして「あ」といって目を伏せた。
「この野郎、名前を言えよ」
 少年は、片腕を大きくひねり上げられ、顔を玄関前の石段に押しつけられた。
「言えってんだよ、こら」
 浩一が、ぎゅっと強く捩ると、相手は「折れる、折れる」などといって、泣き出しそうな声をあげた。
「一本ぐらい、折ってみるか」
「……保田、明夫」
浩一は、保田というカメラを持った少年を、羽交い締めの格好のまま萌美の前に立たせた。
格闘技の真似事が、こんなときには役にたつ。
「お前が、盗撮してインターネットにいろいろ流しているやつだな。データ、全部消すぜ」
 浩一は、カメラを奪った。相手は痛くてたまらないのか、苦痛に歪んだ顔をしている。
 庭の方では、子犬のパピーが何事が起こったのかと、鎖をぴんと張って前足を上げ、立ち上がった。褐色の耳だけが、やたらひらひらして大きい。子犬は立っているのに我慢できなくなると、またくるりと廻って耳を立ててこちらを見る。役立たずのくせに、こんな時は一家の一大事とでも思ったのか、甲高い声でしきりに吠えている。
 すでに夕暮れになっており、金色の光が屋根を染め、あたりは青く沈んでいた。
 サンダル履きの妹は、つかつかと前に進んだ。
 後ろ手を組んで、ずんぐりとしたおかっぱ頭の少年の上から下までを見た。
珍獣でも観察するような顔である。兄は、妹が平手打ちでもするのだろうと思って、身構えていた。もしこの小太りの少年が抵抗したら、再び思い切り地面に顔を押しつけてやるつもりだった。
 しかし萌美は、一歩前に出て大きく首を傾げ、こういった。
「あたしって、可愛いい?」
 押さえつけられている少年は、びっくりしたように顔をあげた。
 そしてかすれるような声で「……ええ」といった。「キュートって、いうかぁ」そしてもう一度目をむいて、唾をゴクリと飲み込んだ。
 さっきから笑いたいのをこらえていた萌美は、上目使いで相手を見てから、ゆっくりと片手を伸ばし、胸を反らして少年の鼻をつまんだ。そして、茶目っけたっぷりにくすくす笑った。
 されるがままになっている少年は、みるみる耳まで赤くなり、目を伏せた。 
萌美は、相手を覗き込むと「……ばか」と小さくいってから、真面目な表情で、「帰んなよ」といった。
 兄も少年も、驚いたように顔をあげた。「帰していいのかよ。警察につきつけようぜ」
 兄は不満そうにいって、威嚇するように、ギュッと力を加えた。羽交い締めにされている少年は、たちまち絶望して、顔をゆがめ、首を縮めた。
「風呂場なんて写すの、犯罪だぜ。警察だよ警察」
 妹は後ろ手を組んで、含み笑いをしながら、
「べつに、減るもんじゃなし」と、すました顔でいった。
「それに、チョコレート娘なんだし、あたし」
 兄はびっくりした表情で、妹を見た。
「いいよ。もうやらないよネ。あたしが直接いったんだもん。館長じゃなくて」
「あ……ハイ」少年はかすれたような声を出した。「もう、しません」
 萌美は手を伸ばして、小指を出した。
 指きりげんまんをしろというのだ。生白い少年は情けない格好のまま、弱々しく小指を出した。
 彼女は、げんまんをしている間じゅう、大きな
瞳で少年の目を正視していた。「そうだ」と彼女は
覗き込んだ。
「バレンタインデーのチョコなんて、貰ったことないでしょ君は。もてそうにないもんねえ、全然」
 口をとがらせ、片手をひょいと出し、小さな板チョコを渡した。
「あげる―。でも別に、君のこと好きじゃないからね。誤解しないでよ。そういうシーズンでもないし」
 相手は何か聞き取れない言葉を小声でつぶやき、チョコレートを握った。そして、ぺこんと礼儀正しく頭を下げた。
 妹の命令で、兄はしぶしぶ少年から体を離した。
 解放されたカメラ小僧は、何度か振り返り、不器用そうにお辞儀をした。体が痛むのか、蟹股歩きで、遠く小さく消えていった。
 妹は、「そうか。あたしって、キュートだったんだ」とつぶやくと、さっぱりした顔をして、短パンのお尻を両手でぽんぽんと叩き、縁側をあがっていった。
 兄の浩一は、その後ろ姿をあっけにとられたように眺めた。彼はしばらくのあいだ腕を組んで空を見上げ、夕闇の庭先に立ち尽くしていた。
 
 あれほど、テラスやベランダや二階の窓辺を鮮やかに彩っていた鉢植えの花々が、ある日を境に、みるみる腐り始めていった。しばらく水をやっていなかったせいか、はじめに白と赤とのシクラメンが一つ一つの花を下げ始め、つぎにチューリップ全体が、病気にでもかったように萎れ出した。少しみずみずしさを失うと、いくら水をやっても、植物たちはどんどん茶色く変色して、気落ちしたようにうなだれていった。
それからは、家中のあらゆる花々が生気を失い、まるで奇妙な伝染病でも蔓延しているように思われた。
 そしてどういうわけか、あの得体の知れないキノコ類が、軒下や雨樋の脇などじめじめした日蔭で、とぼけたように増えていった。まるでこの家の不吉な兆しが、鈍く毒々しい色をして、あちこちにひとかたまりずつ、陰鬱にこんもりと群らがっているようであった。 
スイスかオーストリア辺りの山荘ふうに見えなくもなかった絵画的な『チョコレート館』も、まるで魔法が解けたかのように、もとの古ぼけたみすぼらしい民家へと色褪せていった。壮麗な夢の馬車は、かぼちゃに戻ったのである。なんのことはない。一時の興奮が去ってみれば、それは初めから、現代的なオフィスビルに囲まれた時代遅れの焦げ茶色の木造家屋に過ぎなかった。
 荒本健介氏本人も、かつての憑き物でもついたような勢いを失ってきた。そればかりではなく、腰の具合も悪化してきた。丹沢の渓流で転んだとき、背中や骨盤をしたたかに打ち付けたのである。腰骨をずらしたのかしきりに痛がり、庭を歩くのにも足を引きずっている。
 
 数週間が過ぎた。浩一は、父親との重苦しい冷戦にうんざりし、とうとう引っ越しすることに決めた。
 その日曜は、朝からてんてこまいで、ガールフレンドの美穂や、梶原など友人三、四人の手をわずらわせ、ワゴン車を借りて汗だくになって荷物を運び込んだ。昼には、宅配のピザやスパゲッティをふるまった。四時過ぎになった今、作業はようやく一段落した。
「やっぱり、今日行っちゃうの、お兄ちゃん」
 友人の車を何度か往復させた後、一人残って縁側でぼんやりと感慨深げに缶ビールを飲んでいる浩一の隣に、妹は腰をかけた。
「ああ。これでもう、大体荷物は杉並のアパートに運んだからね。六畳一間の狭い部屋だけどさ、善福寺公園のそばで緑がいっぱいのいいとこだ。この時間だと渋滞だな。あとは手荷物だけだから、俺一人で電車で行った方が早いだろ。みんな待っているし。メグも、そうだな、明後日あたり来て部屋のコーディネイト手伝ってくれないか。得意だろ」
「いいけどさあ」妹は、不服げに膝の上で頬杖をついている。
「今夜は多分、引っ越しを手伝ってくれた友達と、部屋で飲むことになると思うんだ。もうこの家にはいられないしな。親父とはやってられんよ。……それに俺だって、そろそろ独立して生活してもいい頃だろ」
「でも最近、お父さんのチョコレート館の内容も、尻つぼみだよ。アクセス数もどんどん減っているし」
「あれって、しっぽを食ってる蛇みたいなものだもんな。まあ自業自得、というわけか」
「まあね。それよりか、体の方がちょっと心配だけど」
「俺たちがいなくなったら、書くこともなくなっちゃうだろう。そうしたら、あのコーナーもめでたく自然消滅だな」
「お兄ちゃんの家出のことは、書くと思うよ。……あたしも美大行くようになったら、一人暮らししたいんだけどな」
「今日は、向こうの部屋に泊まるの、浩一」
 台所から、何かを抱えて母が出てきた。それを廊下に下ろすと、太い二の腕をぽりぽり掻いた。
「うん。試しに、一泊してくるよ。毛布とかは運んであるから」
「これ、母さんの作ったポシェット。誰も注文してくれなかったけどね。せっかく作ったんだから、持っておいき。それと卵焼きとロールキャベツ。みんなでお食べ」
「ああ、サンキュー」
ポシェットのデザインの古臭さに苦笑いしながら、浩一は受け取ってバックに入れた。
 生け垣を透かして、父の姿が見えた。
 背中の肉が少し落ちた父は、ホースで庭に水を撒いていた。体を傾け、腰をかばうような歩き方をしている。銀色の水しぶきが撥ね、トタン板に当たると大きな音を立てた。ときどきこちらを見ていたが、浩一が無視していたので、何もいわず、そのまま作業を続けていた。つい先日の夕食の時、父が妙に明るい調子で「久しぶりに、どこか旅行でも行くか。今度は、ホームページの件抜きで」と提案した。しかし皆、食べ終わると、無言で茶の間を去っていった。 
犬小屋では散歩に連れていってもらえるとでも思ったのか、パピーが首輪がちぎれるほど跳ね回っている。
妹は、用済みになった余りものの板チョコを兄に渡した。
「もうお客さん来なくなっちゃったから、あげる」
 ときどき水しぶきを浴びたバナナの樹や棕櫚の木の枝が、大きく上下に揺れ動いた。
 浩一は庭木の間を透かして、横目で父を見た。
薄いセーターを着た背中に木洩れ陽が当たって、金色のまだら模様になっている。父は庭の水道の水を両手ですくうようにした。疲れたのか、メガネを外して目元をつまむ。顔を手のひらでごしごしこすって、洗った。それから腰を庇うようにして身を屈め、恐る恐る蛇口から水を飲んだ。上を向き、大きな音をたててうがいをし、水を吐いた。
 ―それにしても、なぜあれほどまでに父は、自分のホームページ作りに熱中し、いじましいまでに執着したのだろう。その理由は多分、自分がいちばんよくわかっているかも知れない。ただ、それを父に告げてやりたいとは、思わなかった。
 浩一は、チョコレートの銀紙をむしり、口に放った。暗くしつこいような甘味が、口腔に広がった。
 そして、いまやかつての華やかさがすっかり褪せてしまい、妙にうらぶれた雰囲気ばかり漂っているわが家を、少しの間眺めた。童話めいた木の看板も、鉢植えの花も、脱色した夢の残骸のように思われた。
 太いさるすべりの赤茶けた幹が、鈍く眠たげな光沢を放っていた。子供の頃、この斜めに伸びた木に、よく跨ったものだ。
彼はバッグを置いてじっと睨むと、両手で空手のポーズを取った。そしてゆっくりと片足を上げ、さるすべりの木に蹴りを入れる真似をした。
 夕闇の中で、犬がまた吠えた。
 晩春の物憂い埃っぽい風が吹き込み、乾いた枯葉を舞い上げ、扇状の棕櫚の葉をがさがさと大きく揺らした。彼はバックを抱え直すと頭を反らし、夕日の差し込む玄関前の石段を、大股に降りていった。                    (了)
                                    
 
作者HP
http://203.174.72.111/grasshouse/
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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