「象」39号

中国の底力

――蘇州・上海のぜいたく漫遊――

     

 谷口葉子

  

 十七年前


 二度目の中国旅行なので、どうしても十七年前の83年の そのときと重ねてしまうのである。照明の暗い夜の街なみ と、朝からいっきに氾濫する働く人民たちのしゃりしゃり しゃりという自転車の音が印象的だった。旅行会社のツアー に友人と参加した桂林の璃江下り中心のツアーながら、見 せてくれるのは有名観光地の表通りだけで、十五分の休憩 があつても自由はなく、欲求不満の残った旅であつた。  蘇州の運河の印象が残っている。時間切れでホテルに泊 まっただけで、どこもみなかった上海にも心残りをおいて いた。  それが、この五月に蘇州と上海へ行くことになった。蘇 州生れの二十四歳の容子さんと結婚したいとこの恩に子供 が生れ、一歳四か月になつた聡美ちゃんを連れての容子さ んの里帰りに同行することになつたのだ。恩の母親、私に とっては叔母と恩の姉の由美子とその三人の娘たちという 総勢九人の旅立ちだった。成田空港から二時間三十五分で、 快晴の上海に到着した。空港の出口には容子さんの両親が、 蘇州からマイクロバスをしたてて首を長くして待ってくれ ていた。  日曜日だというのに上海から蘇州への道筋は閑散として いて、爽快だった。季節は麦の秋、山はなく、ひろびろと 田畑があり、土壁の二階建ての家並が遠くに続く。舗装さ れた道の街路樹は、細く低いまだ若木のくすのきだった。 司馬遼太郎の『街道を行く・江南のみち』篇を思い出す。「蘇 州のみどころは郊外の家並みが美しいことだ。だが観光コー スはそれを見せてはくれない」 これを読んだとき、司馬と いう作家の旅を羨やんだものだったが、今回は私にも、司 馬よりはかなり落ちるにしても、ぜいたくな気分の予感が 満ちていた。  同じような家並が整然と続き、所々に建設中の五階建て くらいの総合住宅があったりして、冷房のきいたマイクロ バスは、蘇州の中心街にはいっていっきに賑やかになった。  早々と拙政園という広大な庭園と北寺塔を案内された。 蘇州は東洋のベネチアといわれる運河の街ではあるが、庭 園の街でもある。拙政園のほかに、留園、獅子林、網師園、 槍浪亭、西園、拾園など。いわば文化革命以前はお金持ち が多かったということだろう。拙政園は失脚した高官が、 愚か者が政治を行なっていると嘆いて造園し、命名したと いわれている。それにしても中国はスケールがちがう。行 けどもいけども、行き止りのない五万ヘクタールの池を中 心にした庭園である。わびさびをこめた鎌倉の小さい寺の ことを思い出していた。

熱烈歓迎

 容子さんの実家は千将東路というやはり繁華街の一筋裏 にあつた。真向かいに蘇州大学の校舎やホテル、大きな商 店も立ち並ぶのだが、裏路地は暗く、日本でいえば、戦後 間もなく建てられた公社住宅のたたずまいに似ていた。さ び果てた自転車がなん台も転がっている。二階ですといわ れて、毛宇家にはいった。  一歩はいって、眼をみはる。ぴかぴかのフローリングの 応接間に、豪華なソファーである。大きなテレビとかりん の家具である。そのほかにベッドのある部屋が二つ、トイ レも水洗である。ここは容子さんの実家ではあるが、二人 の娘は結婚して、今は両親だけの暮しの住居なのである. 驚いている間もなくライチや黄色い西瓜、中国の木の実の お菓子がふるまわれた。蓋つきのうつわでお茶もご馳走に なった。ひとりひとりに扇子のプレゼント、その上、手提 の紙袋に菓子や薬のはいった土産が手漬されたのである。 その間毛宇家にとっての可愛い初孫の聡美ちやんは、まだ 慣れない中国の祖父と祖母の手をいききしながら泣いてお り、容子さんとの甲高い中国語もエネルギッシュな喧嘩ご しに聞こえる。叔母にとっても聡美ちやんは、長男である 恩の初の内孫だった。だがここではひかえて、カカカと破 顔一笑している。  「言葉が通じないっていいよね」  かなりの皮肉ながら、通じないよさもある面白い風景が 展開されたりする。容子さんの両親は、安易な表現をかり れば、あの山崎豊子の「大地の子」に出てきそうな、やせ 型で素朴と活力を合わせた印象を受けた。日本語は通じな いが、誠意を手振りや眼で語ってくれるところがいい。眼 と眼でこんなに対話したのは久しぶりのことだった。応接 間の窓から外をのぞくと、すぐ下を三メートル幅の運河が 流れている。静寂である。  夜は松鶴楼菜舘での晩餐だった。やはり晩餐というのが ふさわしいご馳走の数々であつた。二七〇年もの歴史のあ る料理店で、なにもかもがおいしかった。建物の古さや欠 けた器もなんのその、うなぎの揚げ物、蟹の麻ぼう豆腐、 空豆のいためもの、桂花魚の揚げ煮(鯉こく)など。由美 子の三人の娘たちは、でてくる料理の皿をカメラにおさめ ては、胃袋にせっせとはこんでいた。末娘はまだ中学生次 女は大学二年生、長女はことし大学を卒業して就職したば かりだ。静かな娘たちながら、どこかしっかりした芯があっ てほっとする。  そしてこの日の眼の保養は、蘇州の花嫁さんたちだった。 中国にも大安というのがあるのだろう。繁華街の百貨店や 料理店の前に、挙式を終えた花嫁が、チャイナドレスでは ない、日本と同じ真っ白のウエデングドレスに深紅のばら の花束を持って、写真を振られたりというか、ご挨拶中で ある。五月二日のきょうの一日のあいだに大袈裟ではなく、 十五人近くの花嫁をみた。もちろんそばには花婿もいるの だが、視線は花嫁のほうにいってしまう。晩餐のあとは、 メーデーのお祝いのための豆電球のイルミネーションの残 る通りを歩いて帰り、その夜は、毛宇家の真向かいにある ホテルに泊まった。     

 中国の変化

 二日日の朝食は毛宇家での朝粥だった。  おいしかった。もち米いりだという。ごまと蓮根の花に つく実だというころんとしたものがはいっている。中国の 朝粥は、晩餐にこってりしたご馳走を食べた次の朝の知恵 のような気がする。おめでたいときにしか食べないという 餅も振る舞われた。甘い菓子のような餅で、今は冷凍で売っ ているという。毛宇家の熱烈歓迎ぶりが伝わってくる。  この日もマイクロバスつきで、観光が組まれていた。容 子さんと毛宇氏の企画だろう。お母さんはすっかり馴れた 聡美ちやんの子守りに徹している。先ず虎丘へ行く。  春秋時代に呉王が父親の闔閭を埋葬したところで、埋葬 三日後、丘に白い虎があらわれ墓を守ったといわれる。父 親の遺体とともに三千本の剣が埋められたという「剣池」 と、九六〇年代に建てられた八角柱の七階建のレンガの塔 が、七度の火災でかたむき、今では虎丘斜塔とか中国のピ サの斜塔とかいわれて有名である。十七年前にもきたとこ ろだが、岩の鋭さとか、石畳の美しさに気が付かなかった。  目立ってちがうのは、中国の人たちの眼の柔らかさであ る。十年前のあの天安門事件はなにかを変えたと思ったり した。十七年前は殆どの中国人にはカメラが珍しくて、私 たち日本人の持ったカメラに視線が集中したものだった。 今はみなといっていいくらいに、カメラをしかも最新式の ものを手にしている。飲み水にも不自由したものだったが、 行き交う中国の観光客の手には、ミネラルウォーターかウー ロン茶のボトル、あるいは手製のウーロン茶のいれものを 持っている。そしてみながにぎやかである。例の甲高い声 で、喧嘩ごしにしやべり合っている。  寒山寺で初めて日本人に会った。  月落鳥啼霜満天‥…・唐詩「楓橋夜泊」 で有名なこの寺は 日本人の好むところだった。ここも石畳が美しかった。幸 運を願って鐘もついた。  容子さんは、昼食は屋台よといったので、期待していた。 だが、日本のイメージの屋台ではなく、セルフサービスの 普通の食堂だった。ラーメンやぎょうざが食べたいという 希望がかなえられた。麺がきて高菜のいためたものが別々 にきた。ぎょうざは水ぎょうざである。あっさりしている。 いためた高菜をのせて食べるラーメンもあっさり味で、ま あまあおいしかった。日本では味わえないものだろう。小 さい万頭もおいしかった。だがここにはビールもなく、水 もなかった。容子さんのお母さんがウーロン茶を買いに行っ てくれて、マイクロバスのなかで飲んだ。  長いドライブになった。どこへ行くのかわからない。お なかいっぱいになって、居眠りする人もいる。聡美ちやん も眠った。だが私は次々に過ぎていく風景に眼を奪われた。  毛宇氏の甲高い声がみんなを起こした。きらきらそして、 のったりした太湖に長い橋が伸びている。太湖のそばのコ ンパクトな別荘は売出中で、三百万円だってと容子さんが いった。日本では買えない安い金額である。中国の安い賃 金と物価を象徴しているが、どのような人が買うのだろう か。夏場は混雑もあるかもしれないが、今は閑散として、 売店の商人も私たちに寄ってくる。ここではトイレがケッ サクだった。中国のトイレ事情を知っている人も多いと思 うが、普通の厠所にはドアがないことになっている。ここ のもドアがないが、横むきに並んでいるのである。その下 を水が流れている。若い娘たちはそこでも写真を撮って、 笑いあっている。  太湖には女の漕ぎ手の小さな舟が客を待っていた。どこ へ行っても女性の働き手が目立つ。  待ちに待ったショッピングになった。お父さんの毛宇氏 は国営の絹織物工場の工場長のような立場にいる人なので、 割引のきく店を案内された。蘇州は絹の産地。絹のパジャ マが三千円以下で買える。ブラウスにしても質はいいがデ ザインが落ちるのは仕方のないことかもしれない。その上 興味があって少しでも触ったりしようものなら、店員がす ぐによってきて、あまり自由に店内が歩けない。どうして も容子さんの中国語が必要になる。容子さんだけでなく、 毛宇夫妻も私たちのあいだを精力的に歩きまわって、買い 物の手助けをしてくれた。朝ホテルで両替した五千円がた ちまちのうちに消えてしまった。  街は雨になつた。  この夜も中華料理店での晩餐だった。昨夜のところより は、新しいたたずまいだ。一室の大きなテーブルを囲んで、 昨夜の料理と重ならないように、容子さんは注文に気をつ かっている。メインデイシユは伊勢えびのおつくりだった。 刺身で出てきて、しつぽを揚げ物に、頭をだしにつかって 汁にするのは日本と同じである。驚くのは一階、二階の各 部室とも満員で、大きなまるいテーブルを囲んで打々発止 と甲高い声で話し合っては、食欲を満たしている風景だっ た。中国は今も一夫婦に一人の子供しか持てないことになっ ているはずだが、核家族という雰囲気はない。「  十七年前にも思ったことだった。これだけこってりした ものを食べて、中国には肥満体がいないのはなぜか。ウー ロン茶のせいではないか。よく働くからではないか。油が ちがうのではないか。容子さんにしても、その両親にして も、動きが素早い。からだつきも細身である。  店を出ると、雨が降り続いていた。二人乗りの人力車が 用意されていた。人力車といっても若者が自転車で二人乗 りの車をひいて走るのである。これが面白かった。私は年 齢順で叔母と組まされるのだが、この二人を運ぶ若者は不 運だった。叔母は背も高く体格もいい。私は小柄だがやや 肥満である。がんばれがんばれとエールを送って、笑い転 げながらホテルに着いた。由美子の娘たちは、ホテル前で ばちばちと、人力車をこいでくれた若者たちと写真を撮り あっている。ああ面白かったと明るい。

上海へ

 三日日の朝である。最初の日マイクロバスがクーラーを いれるはど暑かったのに、雨が降ったせいか寒かった。私 は早目に起きてひとり散歩をした。ホテルの玄関を出て右 の方向へ歩くと、大きな橋があった。一早目といっても、午 前七時を過ぎている。しやりしやりと自転車で、通勤して いく人たちがふえている。その人たちを相手に路上で、粉 をこねて揚げパンをつくり売っている商人がいる。少し行 くと、橋のたもとに市場があって、既に忙しい風景が展開 していた。  中国の道路事情を説明すると、自動車と自転車と歩く人 の共存である。蘇州では信号を一つだけみたが、殆どない とみていい。繁華街には自動車と、自転車と人間の通る道 が柵で分けられているところもある.だが今私が歩く通り は、三者共存である。橋の向こう側へ行って写真が撮りた い。かなりの神経をつかって自転車の切れ目を待ち、車に び−び−警笛を鳴らされながら、横切るということになる のである。容子さんや毛宇夫妻がいるとだれかが私の腕を とってサポートして渡ってくれる。かつての流行語、みん なで渡れば怖くないである。だが、今はひとりで渡った。  いい風景だった。大きな橋の下は海へそそぐ運河である。 毛宇家の下を流れる細い運河はここへ流れているのである。 水上生活者らしい船もある。ツアー旅行では見られない風 景だった。私はカメラをパノラマにして運河を撮った。  ホテルに戻ると、毛宇氏が聡美ちやんを連れて朝のご挨 拶である。にこにこ顔の聡美ちゃんはいちだんと可愛い。 日本語と中国語に混乱していることなどなく、日本と中国 のかけはしのような笑顔である。毛宇家の朝粥をご馳走に なっている時間はなく、マイクロバスが到着した。きょう は蘇州駅から汽車で上海へ行くのである。聴美ちやんを毛 宇夫妻に預けて、恩と容子さんも私たちについて、上海へ 行く。  蘇州駅の構内は最小限度の照明の、やはり日本人には暗 いといえる中で混雑していた。中国は電力に苦労している ようである.普通の家庭では決められた電力を越えると、 金額がかなり高くなると聞いた。  汽車に乗る.なぜかわくわくする。指定席が手配されて いて、私は中国の若い青年と隣り合った。リュックサック とカップラーメンがつめ込められた紙袋を持っている。中 国のカップラーメンをみたいものだと思ったが、中国語が わからない。そのうちその青年が話かけてきた。といって も、時計を差し出しているから、時間のことだと判断して、 腕時計を見せることになるだけである。寒いほど冷房のき いた汽車だった。中国もどこかで無駄をするようになった のかもしれない。  上海駅では容子さんの友人の陳さんが、容ちゃん、容ちゃ あ−んと大声を上げて、迎えてくれた。陳さんは三年ほど 東京にいたことがある。二人は手を取り合って再会を喜び あった。容子さんもそうだが、日本ナイズされたすてきな 女性である。中国の人はごまかすずるい人が多いからと、 はっきりいう。買い物はニセモノを買うなという。陳さん の友人が運転するワゴン車に乗って、日本でいえば上野の アメ横みたいなところへ行く。眼にふれるものがみんな珍 しい。伝統的な建物があったりするから、緑園なのだろう か。マトンのやきとりや水ぎょうざも買って立ち食いする。 こうなるとビールも欲しい。冷えてないビールを容子さん がストローつきで買ってきてくれた。中国は清瀬でないか らという。  ここでもまた、容子さんと陳さんが精力的に買い物の手 助けをしてくれた。一度ならず店員と険悪なやりとりになっ て、買えなくなったこともある。  足が疲れたので、日本でいえば喫茶店のようなところで 中国的飲茶を楽しませてもらった。もちろんビールなどは なく、セットでいろんなものがついてくる。飴や木の実や 甘い梅や小さいちまきのようなものまで、飲茶はなん杯で もおかわ打がきき、なん時間いても追い出されないのだと いう。喫茶店内はピークを過ぎたのだろうか、閑散として いて従業員が手製の弁当を食べる姿が印象的だった。  上海の中心街にきた。ビルの林立する黄浦江のそばであ る。十七年前のときニクソンが泊まったという和平飯店に 一泊し、暗いホテルで食べた夜と朝のどの中国料理もおい しくなかった。船の航行で夜どうし汽笛がうるさかった記 憶がある。上海は帰りにゆっくり回りますからと楽しみに してしていたが、予定がずれ込んで、というのはあの頃の 観光旅行は予定通りにはいかなかったのだ。十日間の旅も 最後の上海をはしょられて、飛行機の予約だけはいきて、 帰ったことがある。  眼の前にある黄浦江もまた船の出入りが頻繁で、汽笛も 激しい。ちがうのは対面、黄浦江をはさんでの向こう岸に もビルディングが立ち並んでいるのである。現在は和平飯 店付近よりも、向こう岸の東浦開発地区にさん然と立つ東 方明珠塔という、高さが四六入メートルもあるアジア最大 のテレビ塔が、新上海の象徴になっているという。この夜 私たちが泊まるホテルもその付近にあるという。  対面へ行く船に乗ることになった。行って戻るだけの三 十分に充たない時間に満足する。私たちのような観光客よ りも、オートバイや自転車で乗り込む生活者が目立つ。上 海の活気を感じる。江というのは海ではなく、大きな河を いうのだろう。  黄浦江を往復して、再びショッピングになった。容子さ んと陳さんは、日本のアパレル・メーカーが経営する伊都 鋸デパートへ案内してくれた。私は時間と集合場所を確認 してすわっと外へ出た。そのとなりは大きな薬屋で、白衣 をきた先生たちがキャンペーンを張っていた。そのとなり の食品売り場にはいった。私は筆談で杓己の実や木の実、 ゴマ菓子を買った。若い娘の店員と眼でやりあうのはいい ものだっ.た。  そしてその夜の晩餐は圧巻だった。陳さんのご主人が経 営する中華料理店は、狭いながらも賑っていた。鶏の足の 指をゆでたのや、蛙を目玉ごと料理したもの、スッポンの 甲羅をのせたスープ、長く太いうなぎにいたってはぐるぐ るとぐろ巻きにした蒸し煮。頭を中央にのせているから、 まさに蛇である。どれもこれもスケールがちがう。汚い、 くさいだけではなく、グロテスクをもご馳走にして、まさ に日本料理のはるか対岸にある。私は招興酒をひたすらの みながら、中国の底力を感じていた。

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