「小説家」100号

人身事故

     

結城五郎

 待合室はごった返している。次々と患者を呼び入れる看護 婦の声。小児科診察室の前では、待ちくたびれた幼児が泣き わめき、受け付け前のホールでは患者教育用のテレビがつけ 放してある。雑多な騒音が耳鳴りのように、木田幸治の鼓膜 を震わせている。  幸治は診察室の前の壁にもたれ掛かって、もう二時間も 立っている。定年退職してから、歩く機会が少なくなったた めか、急に足が弱ってきた。立っているだけでふくらはぎの 筋肉がこむら返りを起こしそうだ。  胃内視鏡検査を終えた幸治は、看護婦の指示通りに、十時 過ぎには内科外来の前に戻っていたが、朝からの混雑は正午 を過ぎても一向に解消する気配がない。喉から食道にかけて、 いまだに箸をのみ込んだような胃カメラの不快な感触が残っ ている。咳払いをしても、水を飲んでも、拳で胸を叩いても 治らない。  それにしても、いつまで待たせるのだ。腰を下ろす場所も ない。幸治は視線を油断なく左右に向けて、空いた座席を探 している。名前を呼ばれて、三メートルほど先のベンチから、 腰の曲がった老婆がよろよろと立ち上がった。やれやれよう やく坐れそうだ。幸治は小走りで空いた席に足を急がせた。 「ママ、空いたよ。ここ、ここ。早く」  園児ほどに見える小憎らしい顔立ちの子供が、素早く座席 に手をのばしてどこかに手招きをしている。幸治は舌打ちを して足を止めた。  がっかりすると急に尿意を催した。だが、トイレに入って いる間に名前を呼ばれる可能性もある。呼ばれた時にいない と後回しにされるかもしれない。我慢しょうか、と悩んだが、 尿意は切迫している。思い切って、幸治はトイレに向かって 走った。  ホツと息をついて放尿していると、あとから中年の二人連 れがにぎやかに話しながら入ってきた。 「この病院は、癌の患者には、誰にでも告知する主義らしい よ。アメリカ式ということだ」 「だけどさ、人を見て告知してもらわないと困るね。俺なん か気が弱いから、いきなり癌だなんて言われたら、首を吊る かもね」  二人は放尿しながら楽しそうに話している。幸治はぞっと 背筋を冷たくしてトイレを出た。  やはりそうだ、と幸治は思う。癌だから、すぐに帰してく れずに、待たされているのだ。胃内視鏡検査が終わった時、 担当の生真面目そうな若い医師がしかつめらしい口調で言っ たのである。 「しばらくお待ちください。ただいまの検査結果はすぐに医 長が説明しますので」  その瞬間、不吉な予感がした。やはり胃癌だ。胃癌に間違 いない。  胃が重い。食欲もない。体がだるく、七十六キロだった体 重がこの三カ月で五キロも減った。彼の家系は典型的な癌家 系である。父は食道癌。叔父は胃癌。母も長兄も胃癌。長女 は結腸癌。すべて消化管の癌で死んだ。同胞で生き残ってい るのは次男の幸治と次女の万里子だけである。 一週間前の朝食時に、胃の症状を訴えたら、妻の美代は箸 を持つ手を休ませもせず、口から飯粒を飛ばして幸治を叱り つけた。 「すぐに病院に行きなさいよ。あんたは決断が遅いからね。 手遅れにしたらどうなるのよ」 「そのうちに行くよ」と答えると、美代はさっさと立ち上が り、身支度をし、気の弱い幸治が逃げ出すのを監視するよう に、病院へひっぱっていった。色々な検査を受け、胃内視鏡 検査は、一週間後の今日ということになったのである。 「あんた、今日は一人で行きなさいよ。子供じゃないんだか らね。はい、これが診察券」  幸治は今朝、診察券を放りつけられ、尻を叩かれるように して家を追い出された。 「木田さん、根本さん、村崎さん。中待合室にお入りくださ い」  ぎくっと心臓が鼓動をうった。いよいよ順番が釆た。この 診察室を出る時、一体、どんな気持ちでいるだろうか。まだ 死にたくはない。定年になって、これからは何か趣味を見つ けてのんびり暮らしたいと思っている。せめてあと五年、六 十五までは生きていたい。  ドアを開け、幸治は中待合室の椅子に腰を下ろした。あと から二人の男が続く。不安と焦燥で、幸治は何度も大きな溜 め息をついた。  診察室の声が筒抜けに聞こえてくる。診察室と中待合室と は、衝立同様の壁で仕切られているだけである。 「やはり、癌なんですね?」  幸治の耳に、おずおずとした男の声が小さく聞こえてくる。 「お気の毒ですが、肺癌です」  続いて、医長らしい中年医師が歯切れのよい声で言った。 と同時に、患者の妻らしい女のすすり泣きが診察室の衝立を 飛び越えてきた。 「そんなに悲しがることはありません。手術をしましょう。 このまま放置すれば、余命は二年。手術と放射線療法と抗癌 剤を併用すれば、五年以上生きられる可能性は十分にありま すからね」  自信に満ちた医師の態度に、泣き声がやや静かになった。 「可哀相ですね」と、隣に肩を並べた若い男が診察室を指差 しながら幸治にささやきかける。 「そうですね」と答えたが、五分後には自分の身の上かもし れない。  「突然のことですので、手術のことは、しばらく、考えさせ てください」と、患者のか細い声。  「結構です。よくお考えください。しかし、決断はなるべく 早く。手遅れにしてからでは、責任は持てませんよ」  医師はちょっといらだっている。 「入院手続きだけでも、なさったらいかがです」 今度は看護婦の声。優しげな思いやりのある声である。 「分かりました、手続きだけでも」と、患者の妻の声。 「それでは、あちらの部屋へどうぞ」  ドアが開いた。よろめくような足取りで、肺癌を告知され た男の患者が姿を見せた。予想していたよりもよほど若い。 まだ六十そこそこのようだ。続いて現れた妻らしき女性はま だハンカチで目頭を押さえている。  泣いてくれる女がいるだけでも幸せだ、と幸治は思う。夫 が胃癌かもしれないのに、美代は今頃テレビを見ながら、煎 餅をばりばりとかじっているだろう。 「木田さん、どうぞ」  ついに、その時が来た。幸治は大きく息を吸い込んで立ち 上がる。親父が発病したのは七十二歳。兄は七十歳。自分は まだ六十歳だ。いずれは癌になるにしても、今度ばかりは癌 でないように、と祈るように思った。  五十年配のゴマ塩頭の医師は、ちらりと幸治に眼鏡越しの 視線を投げると、机に顔を向けカルテにボールペンを走らせ ている。幸治は丸椅子に腰を下ろす。鼓動が次第に激しくな る。際限なく吐息が出る。心臓が破裂しそうだ。  医師はカルテを書き終え、幸治に顔を向けると、厳しい眼 をそのままに口を動かした。 「木田さんですね。誠にお気の毒ですが、先週の検査と胃カ メラの結果、癌であることが分かりました」  眼の前が暗くなった。医師の顔が灰色に見える。 「だいじょうぶですか、木田さん」  後ろから看護婦が背中を支えている。頭にちょろちょろと 血が流れ込んできた。俺は何と運の悪い男だろう。ちらりと 絶望が頭をかすめる。だが声は、自分でも意外に思うほどに 冷静だった。 「そうでしたか、やはり癌でしたか」  医師の眼差しが和んでいる。 「覚悟しておられたんですか」 「はあ、我が家は濃厚な癌家系ですので」  胃カメラのフィルムを見せながら、医師は丁寧に説明を続 ける。だが、幸治の耳に医師の言葉は殆ど入ってこない。言 葉の断片が切れ切れに頭に残るだけだ。手遅れ。進行癌。首 のリンパ腺と肝臓の転移。放置しておけば寿命は半年。抗癌 剤。入院。一刻も早くこの場を離れたいという思いでいっぱ いになって、幸治はひたすらうなずきを返していた。  看護婦に屑を叩かれて、ようやく自分を取り戻す。 「木田さん、あちらの部屋で入院の手続きをしていってくだ さい」  幸治は立ち上がり、顔を能面にしてドアを開けた。中待合 室の若い男が同情にたえないという顔をしている。  もう一つドアを開け、待合ホールに出た。周囲の情景が灰 色になっている。色がない。耳には院内の喧騒は何一つ聞こ えない。静寂の世界だ。 「木田さん、こちらですよ」  看護婦に腕を取られ、診察室の隣の小部屋に案内された。 入院申込書にサインをした。幸治の娘ほどの年齢の看護婦は 鼻の頭に汗を弾かべ、頼に作り笑いを浮かべて、ひそひそと しゃべる。 「木田さん、力を落とさないでくださいね。あたし達も、一 所懸命に看護しますから」 「ありがとう。どうかよろしく」  幸治はしきりに頭を下げ、ようやく立ち上がる。  病院の外へ出た。初秋の陽光は真夏と少しも変わらずに、 幸治のはげ上がった頭頂部にぎらりと照りつける。太陽の光 の重みに耐えかねたように、幸治は肩を落とした。気持ちは さらに滅入って、思考力は零になっている。  病院前のプラナタス並木の通りを、渋滞した車の排気ガス を浴びながらまっすぐに歩いていく。ようやく思考回路がの ろのろと動き出した。首に転移があると手遅れか。あと半年 とはちょっと早過ぎるじゃないか。  銀行員。万年乎社員。人の金を勘定し、上司にはひたすら 頭を下げ続けた。首になるのを恐れて、いつもおどおどして いただけの人生。幸治の脳裏を三十八年にわたる銀行員とし ての生活が、瞬時のうちに通りすぎる。自分の一生は何だっ たのか。小さな悪いことは少しだけしたが、いいことも何も しない平凡で実りのない六十年。くだらない生涯。  家庭では、妻の美代に小馬鹿にされ、たった一人の息子も、 大学を卒業すると、俺はフリーターだ、とか威張って、殆ど 家に寄りつかない。癌になったといっても、誰も本気で悲し んでくれるものはいない。幸治はひたすら足を前に運んだ。  とにかく暑い。この太陽を何とかしてくれ。  並木の木陰に入って地べたに尻を下ろし、一息つくと、こ れからどうする、と幸治は自問する。医者や看護婦の言うよ うに、入院することになるのだろうか。だが、今はやりのス パゲッティ人間になって死ぬのは嫌だ。兄がそうだった。管 を取ってくれ、とわめきながら死んでいった。家で死ぬ? あ の美代が看病してくれるはずがないじゃないか。癌だと言っ てやったら美代はどんな反応をするだろうか。とにかく電話 だけはしておいてやろう。幸治は自虐的な気持ちになって、 美代に電話をすることにする。  しばらく歩くと電話ボックスが見えてきた。中で若い男が 電話をしている。長電話だ。幸治はドアの外で待つことにし た。立っているだけでも、汗が滲み出てくる。ハンカチが濡 れるほど顔を拭いた。五分は待った。若い男は大きな口を開 けて、にたにたと笑いながらまだ電話をしている。  あっ、こいつ。電話ボックスの中で携帯電話をかけていや がる。幸治はこぶしを握りしめてドアを叩いた。 「何だよ、じじい」  若者は眼と口を尖らせて、ドアを開けた。 「ここは、携帯をかける場所じゃねえぞ」 「うっせえな、むかつくじじいだ」  若者は体当たりするように、幸治の横をすり抜けていく。 若者への怒りが、手遅れの癌であることを数秒だけ忘れさせ てくれる。  プッシュボタンを押す。 「はい、こちらは木田ですけど……」  いつもながら、ぶっきらぼうな美代の声だ。 「あっ、俺だ」と幸治は言った。哀れな自分の立場に喉がつ まった。涙が出そうになる。真実を話したら、美代はどれほ どショックを受けるだろう。黙っていようか、と幸治はため らった。  途端に、美代の声がボンボンと飛び出してくる。 「あんたなの。今、何時だと思ってるのよ。食事どうするつ もり。片づかないから、食べないなら食べないと、連絡して くれないと困るしゃないの。……それで、どうだったのよ、 検査は」  頭に血が上る。幸治は唇をかみ、一言も口を利かずに受話 器を置いた。あのやろう、とんでもない女だ。とても許せな い。亭主が生きるか死ぬかで悩んでいるのに、あいつは……。 憤りで呪詛の言葉もあとが続かない。入院なんかするものか。 どうせあと六カ月の命だ。体が動く限リ、やりたいことをし て過ごしてやる。  美代の態度が幸治を居直らせた。  電話ボックスの中で財布を改める。二万五千円と小銭が 少々残っている。今日一日遊び暮らすのに不足はない。振り 込まれる年金はすべて美代の管理下にあり、月々二万円の小 遣いをもらうだけであるが、幸治にはへそくりがある。残高 が二百二十三万の普通預金だ。三十歳の時に思い立ち、それ から定年まで、美代に秘密の銀行口座をつくり、毎月積み立 てておいた。彼が自由に出来る金はそれだけである。その金 があれば、あと三カ月ほどの遊ぶ金には困らないだろう。金 が尽きたら入院して、潔くスパゲッティになって死ぬまでだ。  百年生きても、五十年生きても、五年で命がなくなっても、 その人間にとって一生は一生だ。問題はどれだけ生命を充実 させられるかにかかっている。残りの六方月を有意義に過ご せばそれでよい。どこかで読んだ言葉が頭を巡ると、幸治は 少し気が楽になった。  電話ボックスを出て、腕時計を見る。午後一時半を過ぎて いた。少し腹が空いている。これだけの精神の衝撃を受けて も人間は食べることを忘れない。見渡すと、五十メートルほ ど先に、「生そば」の看板が見える。うどんでも食べようか。 そばは消化が悪いからな。  店の中は寒さに震えるほどに冷房がきいている。すぐに汗 はひいた。一番高い鍋焼きうどんを食べて、店を出た。今夜 は夜遅く帰ればいい。美代が怒鳴ったら怒鳴り返してやる。 いつも美代を恐れて生きてきた。これからは自由だ。今日は、 二時から十二時までの十時間が、幸治に与えられた自由時間 である。幸治は最寄りのJR山手線の駅に向かって足を速め て歩いていく。  海を見たい、と幸治は思った。幼い頃から、海や川が好き だった。次から次へと打ち寄せる波や川の水の流れを、三時 間も四時間もぼんやりと見つめて、よく母親に叱られたもの だ。不意に故郷の海と川を思い出す。幼い頃の自分を思い出 して涙ぐむ。  今日は土曜日だが、夏休みも終わったから、海はそれほど の人出もないだろう。日が暮れるまで昼の海を見て過ごし、 水平線に落ちる夕陽を見て、それから海辺のレストランで豪 勢な食事をする。飲めない酒を少しだけ飲んでみよう。赤ワ インは癌を予防するらしい、と聞いたが治す効果はないのだ ろうか。  食事のあとで、今度は夜の海を見るのもいい。時間があっ たら駅前でパチンコをやろう。そうだ、体が動かなくなるま で、毎日こうして過ごすのだ。幸治は胸がわくわくするほど に楽しくなってきた。胃癌は運命と諦めるしかない。問題は これからの命をどれだけ充実させるかだ。 東京駅から湘南電車に乗る。小田原行きの電車は混んでい て、とても坐れそうにない。新橋まで立っていたが、グリー ン車に乗ってみようと思いついた。生れて初めてのグリーン 車。けちけちするな。これからは金持ちになったつもりで、 堂々と振舞おう。  グリーン単に乗り換える。冷房が程よくきいていて、幸治 はホッと息をついた。立っているものはいないが、座席はほ ぼ満席である。前から後ろまで歩いていくと、一カ所だけ空 いている席があった。二つの座席が向かい合わせになってお り、四十過ぎに見える男が、横柄な態度で通路側に腰を下ろ し、前の座席に足を投げ出している。窓側には若い綺麗な女 が、これも細い足を投げ出している。坐るとしたらここしか ない。 「ここ、空いていますか」  幸治は腰をかがめて挨拶した。男はじろっと幸治をにらみ つけ、チッと舌打ちをした。大ぶりな顔は浅黒く、細い眼は 鋭い。顔つきは一見してかわはぎを連想させる。眼鏡が人相 の悪さをいくらか和らげているが、大きな体がいかにも恐ろ しげに見える。若い女の方は少しは礼儀をわきまえているの か、あわてて伸ばした足を下ろした。  幸治は女と対面する窓際の座席に腰をかける。男は幸治が 中に入ると、再び足を長々と投げ出した。むれた靴下の臭い が、幸治の鼻を刺激して吐き気を感じた。さっき食べた鍋焼 きの天ぶらも胃の中でもたれている。胃が重くなってきた。 病院でもらった胃薬を飲もうと思ったが水がない。幸治は錠 剤を二つ口に放り込むと、しぼり出すように唾液をためてか ら、ようやく飲み込んだ。  吐き気は少しおさまったが、靴下の臭気は依然として鼻の 粘膜に張りついて幸治の気分を悪くしている。先程までの ちょっと高揚した気分は、たちまちしぼんでいく。手遅れの 胃癌。六カ月。転移。手術不能。  それでも幸治は少しだけうとうとしていたようだ。 「グリーン券をお願いします」  車掌の声に目覚めると、電車は多摩川を渡っていた。河川 敷ではゴルフの練習をしている人間や、野球に興じている子 供らが蟻のように見える。皆屈託がなく元気そうだ。  前の座席の男はビールを飲み始めた。女も付き合うつもり らしい。綺麗だが安っぼい美しさだ、と幸治は負け惜しみの ように思った。場末のスナックのホステスのような美しさ。 だが、幸治はこんな女とはまったく縁のない生活を送ってき た。幸治が知っている女は、美代ともう一人。三十代の頃に たった一度だけ入った風俗店の女。  女は立ち上がリ、棚から紙袋を下ろした。うっと、幸治の 鼻を悪臭が襲う。ハンバーガーである。玉葱の臭いがたまら ない。すえた靴下の臭いと相乗作用となって、幸治を悩ませ る。ほかに空いた席はないかと、後ろを見回したが、立って いる男がいるほどだから、空席はなさそうだ。我慢するしか ない。 「なあ、いいだろう。横浜で途中下車してさ……」  ハンバーガーを右手に持ち、男は左腕を女の肩に回してさ さやいている。女は歯茎をみせてケッケッと笑った。 「あのダイヤの指輪、買ってくれるの、本当に」 「ああ、買ってやる。これで、決まりだ」 「でも、横浜より鎌倉までいかない。何とかいうホテルがあ るんでしょ。小説の舞台になったわよね。ムードがあるって 評判の……」  にやりとした男は、幸治の顔に毛虫を見るような一瞥をく れてから、口を尖らせて女の顔にキスをしようとする。 「だめよ、ケチャップがつくじやない。あとでね」  女はまた下品に笑う。幸治の胸に怒りと憎しみと、わずか に嫉妬の混じったむかつきがこみ上げてきた。胃癌のためで はない。病気とはまったく異質のむかつきである。  横浜でまた人が乗り込んできた。誰も幸治の隣の席には坐 ろうとしない。食べ終わったハンバーガーの臭いは、まだ周 辺に立ち込めているし、正常な神経の人間が一目見れば、男 がまともな職業人でないと分かるのだろう。君子危うきに近 寄らず、が現代を生きる賢い人間である。  男のスーツのポケットで携帯電話のベルが鳴り始めた。車 内での携帯電話の使用はご遠慮ください、と何度もアナウン スがあったが、男には耳がないらしい。 「ああ、俺だ。……何だって、一億五千万で手を打ったはず だ。社長を出せ、社長を」  車両中に響きわたるほどの大声だ。幸治は塞え上がった。 男は人の迷惑など一切関知しない性格らしい。 「社長はいない? ほんにゃろ、ぶちのめしてやる。いいか、 一億五千万は男の約束だ。絶対に守らせてやるからな」  男の饒舌は延々と続く。幸治は自分の病気のことはすっか り忘れていた。男への憎悪がさらに体の中に高まってくる。 車掌がグリーン券の検札に通り掛かった。年老いた車掌は男 の面構えをちらりと見ると、携帯電話を注意もせずに通りす ぎようとする。だが、二つ先の座席に坐っている若者が、男 を指差して車掌に抗議をした。車掌は露骨に不快そうな顔を したが、責任を果たさないわけにはいかない。 「お客さん、ちょっと申しわけありませんが、携帯電話はデッ キでお願いします」  車掌はさえずり程度に注意すると、逃げるようにその場を 立ち去った。車掌の声は男には蚊に食われたほどの痒みも感 じさせなかったらしい。 「それじゃな、社長によく言っとけよ。あの土地は絶対に落 とさなくちゃならないんだ。弱気しゃ駄目だ。徹底的にぶち かますんだ」  ついに最前の若者が立ち上がった。頬の筋肉をこわばらせ てはいるが、細面の顔は凛々しく見える。  背後から男の肩に手をのせて、 「すいませんが、携帯電話は向こうでかけてくれませんか。 皆さんが迷惑してるもんですから」  男は携帯電話を切ると、顔をぶっと膨らませ、若者の手を 払って振り向く。 「何だって、もう一度言ってみな」  車内はしんと静まり返る。幸治はこの場にいあわせたこと を後悔した。グリーン車なんかに乗ったからいけないんだ。 逃げようとしても、男の足が邪魔をして、とても逃げられな い。若い女は無関心に窓の外を見やっている。勇敢な若者は 同じ言葉を繰り返した。 「ほう、そうかい。皆さんが迷惑しているか。ほんとかね。 ひとつ訊いてみようじゃないか」  男のぎょろりとした眼が幸治に向けられる。 「おい、どうだね。おたくは迷惑しているかね」  男は下顎をしゃくって幸治に声をかけた。過去に経験した ことのないほどの怖い一瞥である。銀行の上司にもこんな恐 ろしい男はいなかった。  「い、え、私は、特に、迷惑など、してません」  にやりと笑って、男は若者に言った。 「……だそうだ。てめえは、いつからこの車両を取りしきっ ているんだ。車掌に言われるのなら分かるが、てめえに、と やかく言われる筋合いはねえ。俺に謝れ」 「謝る必要はありません」と若者はあくまでも冷静である。 「謝らないなら、謝らしてやろうか」  男は立ち上がった。身長は思っていたよりもずっと大きい。  若者の顔の位置は男の下顎ほどしかない。  幸治は一言男に言葉を投げつけたかった。過去の幸治はこ のような場面では、常に関わり合いになるのを恐れてきた。 謹厳実直であるべき銀行員が、やくざ者と喧嘩などしてはな らなかったのである。  車内放送がまもなく大船であることを告げている。幸治は 大船で下車して、横須賀線に乗り換えて鎌倉まで出るつもり でいた。  この無法な男、許すわけにはいかない。それに、眼の前の 女は品はないけれど、幸治には生涯縁のない美しい女だ。こ んな女を金の力だけで自由にする男は、許してはおけない。  言葉が喉元にせり上がってくる。言えるか。声を出せるか。  木田幸治、一生に一度の喧嘩をしてみろ。どうせ半年後に は死ぬ運命じゃないか。何も怖いものはない。  男は太い声で若者の耳元でわめき続けている。 「おい、次で下りろ。決着をつけようじゃないか」  若者の顔色はさすがに青ざめている。 「お前みたいな、正義漢ぶるやつがいるんだよな。肝っ玉は 小さいくせによ」  ついに幸治の口から言葉がほとばしり出た。 「あ、あんた、わ、悪いよ。こ、この若い人が正しい……」  だが、車内放送が幸治の声をかき消していた。 「大船、大船でございます。お降りの方はお忘れ物のないよ うにお願いします」  幸治は途中で言葉を飲み込んだ。十数人の客が大船駅で降 りた。男と女、若者、幸治もその中に含まれていた。ホーム はごった返している。 「昌代、ここで待っててくれ」と、女に言い残し、男は若者 のあとをぴったりとついていく。相当に執念深い性格のよう である。若者は群集の中に姿を消そうと焦るが、 「おい、ちょっと顔を貸せ」と、男は肩をつかんで離さない。  幸治は男のすぐ後ろにいた。憤怒と憎悪が入り交じって、 鼻血が出そうなほどに興奮している。自分のことはどうでも よくなった。生涯に一度だけでも、正しいと思、つことを貫き たいと思う。最後の生命を充実させなければならない。  男はホームの外れまで若者を引っ張っていく。若者は、そ れでも、謝ろうとはしない。男の挙が若者の顔面にめり込ん だ。若者は口から血を流した。男は若者の顔に唾を吐き、よ うやく背中を向けた。群集は殆ど無関心である。腕力ではと てもかないそうにない。どうする。どうするか。  上りの電車がホームに滑り込んでくる。アナウンスがやか ましい。幸治は男の一メートル後ろを歩く。それにしても、 ひどい暑さだ。不意に、幸治の鼻の粘膜で、むれた靴下と玉 葱の臭いが踊り始めた。一層の憎悪が体を震わせる。殺して やる、と幸治は思った。  男は女のいる場所に戻ろうと、ホームの黄色い線の外側を 急ぎ足で歩いていく。 「そこの二人、黄色い線の後ろに下がって」  アナウンスが絶叫している。  男はまったく意に介さない。電車が追ってくる。あと十五 メートル。警笛が鳴る。やるなら今しかない。幸治は背後か ら抱え込むようにして男に体当たりをした。男はよろける。 線路の上に転げていく。落ちた瞬間、男は恐怖の張りついた 顔で幸治をにらんだ。甲高い悲鳴が聞こえる。激しい急ブレー キ。電車は男の体を乗り越えていく。ざまあみろ、幸治は誇 らしい気持ちで、誰にも聞こえない声で腹の中に叫ぶ。  誰かが幸治の腕をがっちりとつかんでいる。 「この男が突き落としたんだ」 「人身事故だ」  ざわめきの中に明瞭に聞こえる声。  これで、せっかくの余生が台無しになる。二百万のお金は 美代に取られてしまう。でも、俺は後悔しない。俺は死ぬ前 に一つだけいいことをした。  幸治の頭の中を、そんな考えがぐるぐると回っていた。                           (了)

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