海蝕洞窟

     

 塚田吉昭

 吉見の一周忌が近いのに適格もないし、気にもなったの でわたしの方から出向いた。彼の家は鵜羽山大権現を祭る 海蝕洞窟の先にあった。崖め上に鬱蒼と緑が茂る海岸線が 続く景色のきれいな場所だった。  玄関でベルを鳴らすと彼の妻の瑞穂が出てきた。細面の 日本的な顔立の女だった。切れ長で、目と日の間が少し離 れているせいで、すましていると、冷たく見える。  瑞穂は一瞬、意外な顔をしたが、すぐに笑顔を見せた。 笑うと、淋しげな表情が一きわ際立った。肩や腕をむ書出 しにした白っぽいノースリープのワンピースを着ていた。 肌の艶もよかった。いくつも若返ったようにも早える。納 骨で逢ったときの落胆さはなかった。 「よく、いらっしやいました」 「お元気でしたか」 「ええ、元気でしたわ。お待ちしていましたのよ」  わたしは連絡なしで来たのだ。それを待っていたとは、 気にはなったが訊かなかった。 「線香をあげに参りました」 「それはご丁寧にありがとうごぎいます。お入りください」  瑞穂が扉を手で押さえたまま、からだをひいて道を開け た。黒い脇毛が見えた。ひとり暮らしでルーズになったの だろうか。しかし化粧はきちんとしている。わたしが来る のを待っていた素振もあった。  瑞穂の案内で仏壇のある座敷へ行き、線香をあげた。終 えて振り向くと、瑞穂が膝をそろえて、かしこまって坐っ ている。目が合うと、 「暑いなかをわざわざありがとうございます」と言った。 「早いものですね」 「そうですね」  目元が涼しげだった。 「なかなか来れなくて、失礼をしています」 「いいんですよ。ここより応接間がよろしいですわ。風も 通りますし、海の眺めがいいですわ」  わたしたちは応接間に移った。どの窓からも夏の海が見 える明るく大きな部屋だった。海は眩しく輝いていた。  瑞穂は、冷たいものを用意しますから、と部屋を出てい った。ひとりになると潮騒の音が大きくなった。白い壁に 反響する。突然、屋根の上でパラパラと何かがあたる音が した。にわか雨かと外を見たが明るく晴れている。  瑞穂がビールを盆に乗せて戻ってきた。庭瀬の音がぴっ たりとやんだ。向こう側に坐ってビールをついでくれよう とする。 「線香をあげに来ただけですから結構です」と遠慮した。 「ビールはお好きだったでしょ」 「ええ」 「それなら、よろしいじゃありませんか。暑い日はビール が一番ですわ。吉見のためにも呑んでやってください」 「陽の高いうちから呑むのも……」 「今日は特別ですよ。このまま帰してしまっては吉見に怒 られますわ。わたしもお付き合いしますから、どうぞ」  瑞穂は前屈みになってビールをついでくれた。豊かな胸 の谷間が奥のはうまで見えた。汗でうっすら濡れて光って いる。漿液のように感じられた。  「さあ、呑んでくださいな」  と勧められて、呑みはす、とついでくれる。また胸の客 間が丸見えになる。瑞穂もグラスについでひと息に呑んだ。  「瑞穂さんが呑むとは知りませんでした」  「そうですか」  ついでもらいたいような教をする。わたしは披女のグラ スを満たした。瑞穂はそれも呑みはした。息をふうっと漏 らして、目を細めて笑ってみせる。両の頬に大きな笑窪が できた。 「いい呑みっぶりですね」 「あなたがいらっしやつて、お相手ができなかったら困り ますもの」 「付き合いで呑むのは気の毒だ」 「気にしないでください。吉見から言われているんですよ。 あなたは遠慮するだろうから一緒に呑んでやれ、とね」  目を細めて微笑んだ。笑窪が色っぽかった。三十半ばを 過ぎて、いちだんと色気を増したようだ。雰囲気に惑わさ れていたが、会話がちくはぐな気がした。さきはどの、待 っていた、という言葉がいよいよ気になる。 「さきはど、待っていた、と言いましたが、わたしが来る のを知っていたのですか」 「そんなことを言いましたか?」 「玄関でそう言ったじゃありませんか」 「憶えていませんわ」 「つい、さっきのことですよ」 「いいじゃありませんか。呑んでくださいよ」  ごまかすように笑う。  外が急に明るくなって、室内が呟しく輝いた。陽射が直 接、女にあたったので、わたしは目を細めた。瑞穂が驚い た頻をした。気になって訊いた。 「どうかしました?」 「何でもありませんわ」 「本当ですか?」 「本当ですもの」  何かに気がついて、ごまかしたように見て取れた。呑み すぎを指摘できないのかと思った。念のために、掌で顔を 触ってみると、ひんやりしているが、気分はいたっていい。 悪酔いしたとは思えない。  長居も失礼なことだから、帰ることにした。  玄関で靴をはき、挨拶をするために振り返った。そのと きに言われた。 「あの、来週の日頃日はご都合がつきますかしら」 「日曜日? 何もありませんが‥‥何か?」 「吉見の法事をしようと思っているんです。できればお顔 を出していただきたいと思いまして」  案内のハガキもなく、思いついたように言われたが、断 る理由はなかった。 「そうですか。出席させていただきます」 「ありがとうございます」丁寧に礼を言われた。  家を後にした。道は白く渇いていた。雨の痕はなかった。 家のなかで聞いた音は錯覚だったらしい。  日盛りの海沿いの道を歩いた。海蝕された縞模楼の地層 が続く。海蝕洞窟の前を通り過ぎる。しらっ茶けた脆そう な岩肌にぽっかりと開いた人の背丈はどの雨音だった。  そこを過ぎて、少し行くと、崖の陰にぼつりと海の家が あった。編んだ竹を壁にした安っぽい小屋だ。氷のノポリ が海からの風で涼しげに揺れている。来るときには気がつ かなかった。  渇きを憶えて、氷でも食べようと立ち寄った。外は光の 微粒子が溢れているので、室内がまっ暗だった。奥に見え る海が眩しかった。  声をかけて入口近くの縁台に坐った。中央の太い柱の辺 りの黒々とした影が揺れて、すーと天井に伸びると、ウエ ストのくぴれた黒いビキニ姿の女が生まれた。生地に負け ないはど日焼けしているので、影に溶け込んでいて気がつ かなかったのだ。逆光のなかで肌が野性味を帯びて輝いて いる。産毛も金色だ。若いようでもあり、それなりの年に も思える。思い切り肌を露出させるようにカットされた小 さな水着に驚かされた。 「氷を頼むよ」 「氷ですか‥‥切らせているんです」  申し訳なさそうに答えた。わたしは彼女を見た。  「ビールでは駄目ですか」 「ビールはいま呑んできたよ。ジュースはないのか」  「ジュースも切らしています」  「それならビールでいいよ」  彼女は缶ビールを盆に乗せて持ってきた。近寄ってくる と、夏の匂いがした。肌に塗ったオイルの匂いだった。ぎ こちなく置いた。わたしに怯えているような気がした。  彼女は奥に戻って柱の陰に坐った。影に溶け込んでしま ったように、気配がなくなる。その向こうは蒼い海が広が っている。潮騒が遠くで静かに轟いている。  酔いのおかげで口のまわりがよかった。 「そこに洞窟があるね」 「海水に漫蝕されてできた洞窟だそうですよ」  姿のない人間が答えているような感じがする。 「曰くのある洞窟らしいね」 「ずい分とむかしですけれど、あの洞窟の周囲は物騒だっ たらしいですわ。雨音のなかには大蛇が棲み着き、周囲の 森には鵜が群棲して、沖を通る船や漁師を困らせたそうで すよ。それを聞いた偉いお坊さんが十一面観音を彫って、 その法力で悪さをする大蛇や鵜を退治したんですって」 「それがいまの鵜羽山大権現かい」 「よく知っていますね」 「友人が近くにいてね。そいつから訊いたんだ。いまでも 変なものが、いそうだな」  「そうですね」 「観音さまはまだ南岸のなかにあるのかい」 「洞窟の風化がひどくなって観音さまを近くのお寺に移し たんですが、そこが火事になって焼失してしまったそうで す。それも昔の話です」 「それはもったいないことをした」 「用が済んだのですから、必要ありませんわ」 「ずい分と合理的に考えるね」 「あの南岸もいま少しすれば崩れてなくなってしまいます。 ここらの地形も変わります。毎日、毎日、海風にあたって 風化しているんですよ」  そのとき表でドサッとした音がして、地面が少し震えた。 びっくりすると、彼女が教えてくれた。 「岩ですよ。岩が落ちたんですよ。裏山からよく落ちてく るんです。岩盤は脆いですから仕方ありませんわ」 「物騒なところだな」 「岩が落ちるのに怯えていたら、ここで生活はできません」 「怖くないのか」 「怖いときもありますよ。でも、この店を夏の間だけ任さ れているんです。いいお金になるから我慢もしますよ」  屋根の上で音がする。今度は小さい石のようだ。吉見の 家の屋根の音もこれではなかったのか。天井に目を向ける と、女が訊いた。 「大丈夫ですか?」 「岩ぐらいで怯えるものか」と強がってみせた。 「岩のことじゃありませんよ」 「じゃ、何だい?」  女は言いずらそうに口を開いた。 「顔色がまっ青ですよ。海で溺れた男の人を引き上げると ころを見たことがあります。その人の顔色とそっくりだわ」  縁起でもないことをいう。デリカシーのない女だと思っ たから答えなかった。  ビールを呑み終えて、海の家を出た。遠い浜辺に海の家 が立ち並ぶのが見える。ノポリも揺れている。この店だけ が一軒離れてある。  もう一度、海の家をのぞいた。ぽっかり開いた洞窟のよ うに見えた。向こうの海が洞窟の奥から見るような気がし た。女の姿は影に溶けてわからなかった。  日曜日、吉見の家へ出かけた。  ベルを鳴らして待つと、タンクトップにショートパンツ という普段着姿で、瑞穂が玄関に出てきた。はみ出した黒 く長い脇毛が丸見えだった。法事という感じはなかった。 瑞穂はちょっと戸惑った表情をしたが、すぐに頬に笑窪を 作って笑い、どうぞ、とスリッパを足元に出してくれた。  妙に思いながらも靴を脱いで上がった。先日の応接間に 通された。海は晴れて眩しかった。家中に甘い匂いが薫って いる。むかしに嗅いだ匂いだった。何の匂いか思い出せな かった。  瑞穂がお盆にビールを乗せて入ってきた。 「暑いなかを大変でしたね。喉を潤してください」 「ありがとうございます。法事が終わってからいただきま す」 「法事? 法事は来週ですよ」瑞穂が不思議な顔をした。 「先週、来たときは今日と聞きましたよ」 「わたしが言いましたか?」 「そうです」  目を見開き、まっすぐにわたしの顔を見る。あなたが間 違えましたよ、とその目が言っている。瑞穂さんの勘違い ですよ、と言っても無駄なようだ。 「そうですか。それならあらためて来週、参ります」  素直に折れて立とうとすると、訴える目をした。 「せっかくいらっしゃったんですから、ゆっくりとなさっ ていってください。このまま帰してしまったら、吉見に叱 られますわ‥‥呑んで行ってくださいな」  懇願されて、一杯だけのつもりでご馳走になった。グラ スを空にすると瑞穂が足してくれた。一杯が後を引いた。 立て続けに呑んで気分がよくなった。わたしがひと息つく と、彼女もグラスについで呑んだ。白い喉元が美しく動く。 「ずい分とおいしそうに呑みますね」 「そうですか」  テーブルに戻したグラスの縁が紅で汚れていたが、彼女 は少しも気にしない。ルーズな面を見たような気がして、 顔を見た。瑞穂は眉まで描いて、しつかりと化粧をしてい た。着替えば、出かけられる。外出するときに来てしまっ たような気がして訊いた。 「どこかへ出かけるところでしたか」 「いいえ」  外出の予定もないのに丁寧に化粧をするとはどういうこ とだ。やはり、わたしを待っていたのではないか、と疑っ た。  屋根を叩く音がはじまった。海は晴れている。先日とま ったく同じだった。小石が風に乗って飛んでくる音とは違 うようだ。瑞穂が心配そうな顔をした。 「ご気分がお悪いのですか?」 「ビールをご馳走になって、いい気分ですよ」 「でも、少し顔色が悪いですわ。洗面所でたしかめられた らいかがです」  うっすら悲しみが薫る表情を真剣にさせて言うので、洗 面所を借りることにした。  洗面所は女性的な柔らかい雰囲気があった。床のタイル はピカピカに輝いている。トイレとバスタブはピンクだっ た。トイレの蓋には黄色いバラが彫られてある。  鏡の前に立って、顔を写したが普段と変わりはなかった。 瑞穂に担がれたような気がした。  応接間に戻ると、瑞穂は新しい瓶を持ち出してきて、ひ とりで呑んでいた。わたしが坐ると、 「いかがでした」と訊かれた。 「何でもないようですが」 「そうですか。それならよろしいですわ。じや、呑みまし ょう」  あっさりしたものだった。ビールをついでくる。 「もう結構です」  わたしは呑む気がしなくなって、グラスを遠くに置いた。 瑞穂が悲しそうな顔をして言った。 「どうしたんですか。吉見に呑んでもらうように言われて いるんですよ」 「どうして吉見が言うんです?」 「最期まであなたに心配してもらったからですよ。吉見が 言っていました。毎日、病室まで見舞ってくれたそうです ね。元気になったら酒を呑もうと励ましてくれたと聞いて おります」 「わたしが‥‥ですか」 「ええ」 「申し訳ないが、吉見が死ぬとき、わたしは仕事で日本に いませんでした。納骨にやっと間に合ったような状態です。 見舞いなんて行けるわけがありません」 「でも、吉見は申しておりました。息を引きとる前に、あ なたとの約束が果たせなかったのが残念だ。あなたが来た ら、かならず呑み交わしてくれ、ってね。そればかり言う んですもの、気味が悪かったですわ」 「危篤の人間が人の酒の心配をするなんておかしい」 「あなたとの約束が気になっていたんですよ」 「吉見は菌で脳を冒されたと聞きましたよ。誰かと間違っ ているのではありませんか」 「最期は熱が続いて尋常ではありませんでしたわ。でも一 度だけ、意識がはっきりしたことがありました。いろいろ 頼まれましたけれど、このことも念を押して言われました もの」  からかっているではないか、と瑞穂の顔を見る。日のま わりがはんのりと赤い。酔っているようだ。 「おかしな話ですね」 「おかしくても本当ですわ」 「納得がいかない」 「いいじゃありませんか。吉見のために呑んでやってくだ さい」  瑞穂は自分のグラスを一息に空けた。 「酒が強くなりましたね。吉見と一緒にいたときは勧めて も呑まなかったのに」 「わたし、吉見の酒の呑み方が嫌でしたから、呑まなかっ ただけですわ」  吉見は呑むとだらしなくなったが、毛嫌いするほどのも のではなかった。もっとひどいやつは星の数ほどいる。そ れを我慢できないのは、彼女は潔癖な性格なのか。グラス についた紅を気にしながら顔を見ると、目を逸らした。彼 女の視線の先には夏の海が輝いている。その輝きが彼女の 顔に反射する。屋根でまた跳ねる音がはじまった。神経に さわる音だ。 「屋根の上で音がしていますね」 「はあ」  瑞穂は気が付いていなかった。不思議な顔をして天井を 見た。音はもうしなかった。説明をするのも面倒になって、 「聞きまちがいでしょ」と答えた。 「そう、空耳だと思いますわ。この辺りは静かですから、 慣れないと変な音を聞くことがありますわ」 「そうかも知れません。ここらは夜になると静かでしょう ね。心細くありませんか」 「仕方ありませんわ。主人が残してくれたところはここし かありませんから」 「むかしは華やかな世界にいらっしゃったのでしょ。慣れ るまでは大変だったでしょうね」 「そうなことはありませんわ。実家は普通の勤め人でした し、わたしもつまらない事務員でしたもの。こうした暮ら ししか知りません」  また、話がかみ合わなくなった。吉見からはホステスを していたと聞いていた。彼が仕事で客を連れていったクラ ブにいて、それから親しくなって結婚した。グラスの持ち 方や、染めた爪の色などから、その時代の色香を充分感じ るので、いまのいままで信じてきた。環境はその時代のこ とを隠したいのだろうか。それなら悪いことを口にしてし まった。  気になるのか、瑞穂はもう一度、打ち消す。 「吉見にだまされたんですわ。あの人、からかうのが好き でしたから」 「わたしの前では吉見は冗談ひとつ言わない、真面目な性 格でしたよ」 「猫を被っていたんですわ。本当はいたずら好きなんです よ。担がれたんですわ」 「わたしが誰かと勘違いをしていたんでしょう。申し訳あ りませんでした」           死んだ吉見に押しっけるのは気の毒だから、そう答えた が、やはり瑞穂が過去を隠しているように思えてならない。 彼女の瞳が浮き浮きしている。嘘をついてやったのよ、と でもいうように輝く。  窮屈になってきたので頼ることにした。瑞穂はちょっと 不満そうな顔をしたが、黙って立ち上がった。  サンダルを履いて外まで出てさた。日向は光の粒子が乱 反射していた。瑞穂の顔が少し火照っていた。見かねるよ うに言われた。               「わたしのはうはかまいませんから、休まれて行かれたら いかがです」  「何ですか?」  思わず聞き返した。瑞穂は目を見開いた。たしかに動揺 した。いけないことを口にしてしまったような素振りをし て、 「それならよろしいですの。よけいなことでしたわ」と答 えた。 「気になりますね」 「いいんです。気にしないでください」  話を避けている。わたしは瑞穂の態度を気にしながら道 へ出た。  道は真の陽射に白く乾いていた。  発酵したビールのゲップが上がってきた。食道を抜けて くるとき、甘い感じがした。水飴の味だった。水飴に匂い があるかどうか知らないが、吉見の家に薫っていたのも同 じものだと気がついた。陽射にキラリと光った水飴の色が 蘇る。周囲にあの透明な、薫るような甘い匂いが立ち込め てくる。瑞穂の薄い皮膚の下の内臓や子宮から薫る漿水の 匂いのような気がした。  酔いのせいか足が重く感じた。海蝕洞窟の前を通る。先 日の様子と景色が変わったように思えた。大きな崖崩れで もあっただろうか。しかし岩の落ちた形跡はなかった。  海の家の前を通ると、日銭けした黒い水着の女が向こう にからだを倒して洗い物に専念していた。下半身がよく発 達して肉感的だった。  わたしの気配に気がついて、裸の背中がビクツと動いた。 用心しながら、からだを起こして振り返った。先日は暗が りではっきりしなかったが、短い髪を後ろになでつけた髪 形や、小さな黒いビキニから同じ人間だろう、と察した。 からだつきは若々しいのに、顔が老けていた。頬のあたり が萎び方がひどかった。整った顔立だけに老いが目立った。  目が合ったので、頭を下げた。彼女も挨拶を返してきた が、ぎこちなかった。  喉も渇いていないし、通り過ぎようとした。彼女は視線 を逸らさない。 「どうかしたかい?」  気になって、立ち止まって聞いた。 「いいえ」声が震えている。 「様子が変だよ」 「今日は氷はありますよ」突拍子もなく言った。 「氷?」 「前に、氷はないか、と言ったんじゃありませんか」 「ああ、氷ね。今日は喉が渇いていないからいいよ」  わたしはそのまま町のほうへ向かった。背後に彼女の見 守る視線を感じた。海はぎらぎら揮いている。砂道から立 ち上ぼる熱気が強い。眩しくてたまらない。  向こうから地場の子供らしい腕や脚の細い女の子が黒い 水着でやってきた。まっ黒に日焼けをしていた。その女の 子の顔を何気なく見た。相手も気丈夫に見返してきた。子 供ながら気が強かった。目を逸らす機会を失った。女の子 もわたしから目を誰さずに擦れ違った。はっとしたものを 感じた。そのとき女の子の声が背中でした。 「おっかねえ」  わたしは思わず立ち止まってしまった。崩れる浪の音が 消えた。女の子の砂を踏む足音だけが気味悪く耳に届いて くる。陽射が恐ろしく感じられた。  しばらくしてから天空の太陽を見た。太陽は琥珀に輝 いていた。きらきら輝いている。この色はどこかで見たよ うな気がした。光線を通した水飴の色だと気がついた。  水飴の匂いから、母に手を引かれて死の床にいる叔母を 家まで見舞に行ったときのことを思い出した。  人が死ぬという意味も、しっかりとわからない幼い年ご ろの記憶なのに、叔母の記憶ははっきりしている。という のも、その乳房に触れたような記憶があるからだ。いつだ ったか思い出せないが、冷たく、青白く透き通った乳房だ った。その肌から水飴の匂いが薫っていた。  叔母の家までは竹薮の道が続いた。笹の葉がさらさらと 鳴っていた。道の上で小さな光の玉がおたがいに追い駆け っこをしていた。  歩くのも嫌になるころに叔母の家が見えてきた。竹薮に ぐるりと囲まれた、古い作りの小さな家である。  高い敷居をまたいで玄関に入った。薄暗く、ひんやりと している。玄関の坂壁は濡れたように黒光りをしていた。 盛り上がった木目の縁の輝きが美しい。二間の平屋で玄関 から奥の座敷まで見渡せた。そこには青い蚊帳が張られて あった。病人のいる家の匂いもあったが、別に薫るも のもあった。  蚊帳のなかでほっそりした影が起き上がった。それが叔 母だった。そこだけに濃い空気の粒子が沈殿しているよう だった。恐ろしいものが隠れているような気がするのに、 母は平気で声をかける。 「どうなの?」 「よくも悪くもならないわ」  蚊帳のなかから弱々しい声が返ってきた。 「寝てていいのよ」 「上がってくださいな。うちの人もそのうち帰ってきます から」  靴を脱いで上がる。足の裏がゾクツとした。畳が湿って いた。母はわたしを手前の部屋に置いて、叔母のいる奥の 座敷へ行った。母が蚊帳の脇に坐った。 「気分はよさそうね」と母が言った。 「似たようなものよ。うちの人にも迷惑をかけてしまった わ。もう少しだわ。もう少しの辛抱‥‥」 「何、気の弱いことを言っているのよ。‥‥どうしたの、 あの人は」 「水飴を買いに行ってもらったわ」 「また、水飴。あなたも好きね」 「最期だから好きにさせてくれるのよ」 「精をつけさせようとしているのよ」 「どちらでもいいの。水飴をたっぷり食べたいだけ」 「相変わらず、わがままね。優しくしてくれるからと言っ てわがままを言ってはいけませんよ」  明るい外では笹が鳴っている。暗いのは家のなかだけだ った。母がぽつりと言った。 「あなたが、しっかりしてくれていたらね」 「いまさら言っても仕方ないじゃない」  叔母が少し声を荒立てた。 「わかっているけれどね。あの子を見ていると‥‥」  おとなしく答えた母がわたしのほうを見た。 「そりゃ、姉さんに大変な迷惑をかけたことはわかってい るわ。でも、どうにもならないじゃない」  叔母が泣き声になった。 「泣いてどうなるのよ」  母が励ますように叱った。叔母は答えなかった。  わたしはふたりの会話よりも家についた匂いが気がかり だった。薬品の匂いではなかった。甘く優しい匂いだ。し ばらく考えて、水飴の匂いだとわかった。わたしは舌の上 でとろりと溶ける感触を想像した。  庭からは笹の擦れ合う音が聞こえている。小川のせせら ぎのように心地好く耳に届いてくる。匂いに包まれて、庭 の音をおとなしく聞いていると叔母が声をかけてきた。 「来てくれたのね。ありがとう」  青い静脈が浮き出した叔母の白い乳房を思い出したよう な気がして、恥ずかしくて顔が上げられなかった。顔を赤 らめたことがわかった。 「大さくなったわね」  叔母は優しく話しかけてくれる。わたしはもじもじする だけだった。 「つっ立ってないで、こちらへ来て挨拶をするのよ」  母が言うのを叔母が止める。 「うつるから来なくていいのよ」 「大きくなったところを見たかったんでしょ。離れていた ら見えないわ」母が言った。 「見えるわよ。目も霞むようになったけれど、今日はよく 見えるわ」  蚊屋のなかで叔母が動いた。病人の匂いが流れてくる。来るように、と母がくどく催促する。 「来ては駄目よ」  叔母がか細い声で止める。 「少しなら大丈夫だから」母は執拗だった。 「いいのよ。充分に見たから」  明るい陽射を背負って男が入って来た。ずんぐりとした 黒い影だった。母が顔を向ける。母の目の辺りに外からの 白い光がさした。男は玄関先でペコンと頭を下げて挨拶を した。 「留守をしていてすいません」 「水飴を買いに行ってくれたんですって」 「ええ」照れくさそうに答える。 「迷惑をかけるわね。甘やかしたものだから、わがままば かりを言って」 「気にしないでください」  男は丁重に答えてから、蚊帳のなかの叔母に声をかける。 「おい、水飴を買ってきたぞ」 「早く食べさせて」 「すいませんね、本当に」  母が恐縮する。  「いいんです。水飴好きなんですから」  自分の優しさに照れて答える。口のうまい男ではないよ うだ。男がわたしのほうを見た。 「坊っちゃんもよく来てくれましたね」  もちろん答えなかった。 「水飴、食べますか」  気遣って訊いてくれた。 「この子は駅前の食堂で食べてきたばかりだからいいのよ」  母が割り込んで断ってしまった。  男は座敷に上がると、胡座をかいて坐った。  開け放した玄関からの白い光を背に受けるので、男の顔 はわからない。男は紙袋から透明なものが入った小さな瓶 を出してかざした。 「いい水飴だ。透き通っている」  満足そうに言う。瓶を通して光がわたしの顔にあたった。 目を細めながら透明な瓶を見守った。瓶の中身はどろりと して重厚な琥珀色の光沢を放っている。  男が瓶を畳に置いて力を入れて蓋をまわした。蓋が開く と、香りが薄暗い座敷にたおやかに広がった。叔母の乳房 から薫るように思えた。胸に教を押し付けたときの感触の ような気がして、わたしはまた顔を赤らめた。懐かしくも、 恥ずかしい思いがからだを熱くさせる。  男は台所から割り著を持ってきて、蚊帳のなかに潜り込 んだ。叔母と向かい合った。  割り箸の先に水飴を賂ますと叔母の口元へ持っていった。 叔母が子供のように口を開けた。幼く見えた。甘えている のだ。男が食べさせる。割り著を口から離すとき、艶のあ る銀色の水飴が長く伸びて、光線にきらきらした。  あの場所がどこかもさだかではないのに、叔母の乳房あ たりで薫った水飴の匂いは、はっきりと蘇る。  叔母の乳房の匂いを吉見の家で嗅いだ。  法事の日、時間に間に合うように吉見の家へ出向いた。 水飴の匂いを期待していたのか、浮さ浮きするものがあっ た。  海は晴れていた。空気はからりとしている。雲ひとつな い海上では雷がごろごろ鳴っているが、にわか雨の気配は なかった。  ビキニの女が店番をする海の家はノポリを海風にそよが せている。海蝕洞窟の前を通る。大きな石がひとつ落ちて いた。また崖の形が変わったようだ。磯の浪の音が一きわ 大きく感じる。  玄関でベルを鳴らすと、瑞穂が胸の食い込みが深い、下 着のような黒いドレス姿で出てきた。乳房の膨らみが零れ だすほどあらわだった。法事で着るには派手すぎる。 「お待ちしておりましたわ」  めずらしく弾んだ声で迎えられ、応接間に通された。心 地好い浜風がレースのカーテンを揺らしている。水飴の匂 いが薫っていた。先客はまだいなかった。  瑞穂がまたビールを持って入ってきた。 「法事でしたね」たしかめた。 「そうですわ」 「他の方がまだなようで」 「あなただけですわ」澄まし顔で答える。 「わたしだけですか?」訊き返した。 「そうですわ」  奇妙な法事に出席したものだ。  瑞穂はテーブルの脇にひざまずいて、呑む準備にかかっ た。わたしの位置から胸の谷間が奥深いところまで見える。 張のある乳房は内から明りがともされているようで、しっ とりとした乳白色をしている。肌がうっすらと濡れて光沢 を持っていた。  冷やしたグラスにビールをついでくれた。細かい泡が涼 しげにたつ。まず、瑞穂がおいしそうに呑んだ。法事がは じまる気配はなかった。 「法事はまだですか?」  気になって訊いた。瑞穂が目を丸々と見開いて答える。 「もう、はじめておりますわ」 「坊さんも来ていないようですが」 「呼んでいませんわ」 「それで法事をするのですか?」 「妨主は呼ぶな、と吉見が言っておりました」 「吉見がですか?」 意外だった。 「ええ、そうですわ」 「吉見が言うなんて思えない。言ったとしても、熱で冒さ れていたときでしょ。本心ではありませんよ」 「正気に戻ったときに言いましたわ。毎日、心配して病室 に来てくれたあなたが来ればいい、とね」 「おかしな話だ。先日、お邪魔をしなかったら、わたしは 今日の法事を知らないままだった」 「でも、いらっしゃっているではありませんか」 「先週、訊いたからですよ」 「お知らせしなくても、あなたは参りますわ。人間の運命 なんて、はじめから決まっているものです。知らないのは 本人だけですわ」  妙な話に付き合うつもりはない。わたしは友人として世 間と同じ法事をやってやりたかった。 「墓参りに行きましょう。五分で行けるじゃないですか。 わたしはそのつもりで来たんです」 「お墓に行って何をするのです。吉見の霊魂なんて墓の下 にはありませんわ。吉見の骨は全部、海に撒いてしまいま したもの」 「納骨をしたではありませんか。わたしも立ち会いました」 「骨壷のなかは右ころですわ」  目を細めて笑った。笑窪が深くなる。 「石ころ?」 「生前、吉見は墓などには何もないと言っておりましたわ。 光沢もない白い骨を拝むなんて滑稽だそうですよ。そんな 面倒なことをするなら撒いてしまえ、と言われました」 「吉見がそんなことを言うはずがない」 「でも、言ったのですよ」  目を逸らさなかった。瑞穂は表情を崩さず喋り続ける。 「右に名前を刻み、骨を埋めれば、死者の記憶がいつまで もこの世に残るなんて馬鹿げていますわ。石で墓を作って も百年もすれば消えてしまいます。死者の霊魂などせいぜ い、それくらいのものだそうです。いちばん、長持ちをし ても千四百年とか言っていました。吉見は、そんなに残る のは未練たらしくていけない、と言っておりました。吉見 はあっさりと消えたかったのでしょうね」  吉見は達観をするやつではなかった。どこにもいる俗人 だ。霞を喰う仙人のような考えなど一度も訊いたことがな かった。わたしは瑞穂が嘘をついているように思えてなら ない。  外が昏くなり、空気がじっとりとした湿り気を増した。 暑苦しい。頸筋を汗が流れる。屋根でばらばらがはじまる。 いよいよひと雨くるか。雷が近づいてくる。  わたしは蒸し暑さに閉口しながらハンカチで汗を拭いた。 しかし瑞穂は平気な顔をしている。肩や腕は汗で光ってい るのに、顔はかいていない。 「どう思います?」  湿めた不快な暑さに耐えていると訊かれた。 「どうって、何を?」 「いまの話ですよ。死んだら何も残らないものでしょうか」 「わたしにはわかりません」 「わたしにはわかるような気がします」 「どうしてわかるのです」  瑞穂がこちら側にまわってきて、足元に坐ると、わたし の腿に手をかけてきた。ギクツとした。下からわたしを見 上げる。豊かな胸が丸見えだ。その谷聞から立ち上ぼる匂 いがあった。水飴の匂いだった。瑞穂のからだから薫って いる。叔母の白い胸の思い出と重なってくる。懐かしさと、 蚊帳の奥の気味悪さがまざまざと蘇る。瑞穂と叔母がダブ リはじめる。瑞穂のどこかに叔母のてい俤があったのだろうか。 戸惑いながらも、叔母の顔を思い出そうとするが、顔すら 憶えていなかった。腿に乗っている手の感触はもう叔母だ った。瑞穂のなかに叔母の匂いを嗅いだ。あの家の匂いが 生々しく甦える。涙が出てくるはどに愛しく思えた。  そのからだに手を伸ばそうとしたとき、窓の外で雷が炸 裂した。窓ガラスが大きく震えた。その音に自分を取り戻 した。とんでもないことを考えていた。  わたしは瑞穂から離れようと立ち上がった。そのとき、 膝があたって、瑞穂のからだをつき倒してしまった。ドレ スの裾が捲れた。脚がむき出しになった。素足だった。乳 房と同じ乳白色の染みひとつない肌をしていた。瑞穂は驚 いたふうもなく、また、あらわになった脚を隠そうともせ ずに、グラスに手を伸ばした。脇毛が見えた。ぴっしょり と濡れている。艶やかな輝きもあった。水飴の照りに似て いた。  謝ることも忘れて、 「今日は帰ります。あらためて線香をあげに参ります」  と、さっさと応接間を出た。瑞穂も玄関までついて来た。  靴を履くと、瑞穂がいまのことなど憶えていない顔で言 ってきた。 「お大事になさってくださいね」 「お大事に?」  思わず動きを止めて聞き返した。瑞穂は少し表情を曇ら せて、気遣ってくる。 「ええ、ずい分と辛そうですよ」 「そんな感じはしないのですが」 「それならいいんですけれど」  と答えるものの、瑞穂はわたしの言葉を信じていなかっ た。気遣って表情を曇らせている。わたしは気分が悪いわ けではなかった。家のなかが蒸し暑くて、たまらないだけ だ。早く外に出たくて、瑞壊への挨拶も早々に家を出た。  おもては海見がそよいでいた。太陽が明るかった。眩し さに頭がくらくらした。にわか雨はどうした? 庭先の砂 まじりの土も白く乾いている。言は海上で鳴っているだけ だ。室内で聞いた雨の音は何だったのか。  夢から醒めたような気分で、日盛りの道を歩きはじめる と、風がぴたりとやんだ。太陽の陽射が明るすぎる。太陽 の暑さは感じるが、肌はさらさらしていた。喉がむしょう に渇いてきた。  海蝕洞窟を過ぎて、海の家が見えた。そこだけは風があ った。ノポリがそよいでいる。休もう、と思いついた。  まっ暗な小屋に入って縁台に坐ると、ビキニの姿の女が 現われた。陰の深い色のから生まれたように見えた。おど おどと近づいてくる。そんなことは、どうでもよかった。 喉の渇きばかりが気になった。 「氷はあるかい? 昼間から呑んだせいで喉が渇いた」 「あいにく、氷を切らせてしまって」 「またか。じや、ビールでいい」  いらいらして荒っぼく言ってしまった。  彼女が慌てて缶ビールを持ってきた。置くときの手が震 えていた。頼みかたが悪かったか、と心配して、彼女の顔 を見た。薄暗い小屋のなかでも、彼女の顔がはっきりわか った。日焼けした顔が少し蒼っぽい。 「顔が蒼いよ」  よけいかも知れないが言ってみた。 「そうですか。風郊でもひいたのでしょう」 「夏風邪はよくない。何か羽織ったらどうなんだ」 「大丈夫ですよ」 「熱があるんじゃないのか」       「熱なんてありません。本当に大丈夫ですから、放っとい てください」 「気になる」  わたしはむきになった。彼女の脚がガタガタしてきて、 ドスンと尻餅をついた。助け起こそうと手を差し出すと、 彼女は悲鳴をあげて後退りをした。わたしは事情がわから なかった。彼女が叫んだ。 「あなた、あの洞窟から来たんでしょ」 「南岸じゃないよ。その先だ。その先に友人の家があって ね」 「嘘をつかないで。あの先には大きな墓地があるわ。洞窟 じゃなかったら、お客さんはそこから来たのよ。はじめか ら、わかっていたわ。海で溺れた人とそっくりだもの」  わたしはぞおっとして言葉を失った。彼女の老けた顔が 歪んで、やっとのこと悲鳴を上げた。  わたしも驚いた。止めさせようと立ち上がると、彼女は 四つん這いの不様な格好で、港の家から裏の海岸に逃げ出 した。                     《了》

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