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子供の幸福

(カプリチオ１２号) 　　　　　　　　　　

明森　まつり

　ナオちゃん、喉かわいたでしょ。あそこでジュース買ってあげよう。マミイ、タバコも買いたいし。ちょっと、涼んでいこうよ。　高級住宅街にこつぜんと現れた「塩と酒とタバコ」と書いてある看板の下がった雑貨店を、こおどりせんばかりの勢いで指さしながらアツ子は言った。久しぶりに一緒に出かけたせいか、嬉しくて、ナオちゃんは汗ばんだアツ子の手を離そうとしない。　あとチョットだけがんばって！　マサコさんに電話でちゃんと教えてもらったんだから間違うはずないわ、もうじきつくわよ、とアツ子だけが音をあげている。　えっとぉ、ナオコ、キティちゃんのジュースのもうかなぁ。マミイ、お金、まだあーる？　さっき電車の切符を買うとき、ナオちゃんは子供心にも心細いとわかるアツ子の財布の中を覗いてしまったのでそんなことを言う。それでアツ子はやれやれというように首を振ってから、だいじょうぶ、だいじょうぶと繰り返し言ったのだけれども、お金ならちゃんと持ってるから、という言葉は囁くように小さかった。だからナオちゃんに聞こえたかどうかはわからない。　アツ子はナオちゃんを連れて住所を頼りにマサコさんの家を捜している。梅雨が明けて急に炒りあげるように強くなった太陽を浴びつづけて、もう三十分もたつ。ナオちゃんのクセのある耳のあたりで切りそろえた栗色の髪の毛が、まるで発熱して溶け始めたかのように赤く透き通ってみえる。　ナオちゃんの白いレースのついた帽子は、ゴム紐を顎から外して首にずらしているので肩のあたりでふわふわしている。　ホラ、お帽子、ちゃんとかぶらないと。お日様カンカン照ってるでしょうが......とアツ子は何度目かの注意をする。　だって、このお帽子ちいさくなっちゃったんだよ。ナオコ、四さいだもん。かぶるとここんとこきついからやだ、やだ！　ナオちゃんは額を指さしながら、しかめツラをしてみせ、それからアツ子を見上げていった。　ねぇねぇ、マミイ、こんどセンちゃんにあったら、キティちゃんのおリボンついてるお帽子買ってもらっていい？　センちゃんに？......いいわよ、いいわよ、でも、どこに売ってるかなあ？　アップルマーケットにあったよ。ナオコ、こないだセンちゃんと行ったとき見つけたもん。センちゃん、マミイに内緒で買っちゃおうかっていったけど、ナオコがダメっていったんだよ。マミイとのお約束だもんね。　ああっ、しゃべっちゃった！　といってナオちゃんは両手で口を押さえる。ああ、おどろいた！　ナオちゃんはちゃーんとお約守れる、おりこうさんなんだね。マミイびっくりしたなあ。　アツ子がおおげさに驚いてみせたので、ナオちゃんは口を滑らせてしまったことなんか忘れたように、得意気にまた、二つ三つスキップをした。アツ子はこういう仕草を見る度に、ナオちゃんと一緒にいられてよかったと思う。　とはいうものの、このところいい子すぎるナオちゃんが不憫でたまらない。アツ子との約束があるとはいえ、センちゃんにカッテカッテとねだってもいいと思う。三人で暮らしていた頃のようにだだをこねて欲しい。別れたとはいえ、センちゃんは本当の父親なんだから、ナオちゃんにとって、それは、もう、未来永劫変わらない真実なんだから、そんなにいい子でいなくてもいいと思う。　そんなことをナオちゃんに話したって、理解できないのはわかっている。女の子にしては男の子顔負けのやんちゃな子だったのに、どうしてこんな風になってしまったんだろう。　ナオちゃんは、もう赤ん坊ではなくなったという証拠なのだろうか。それとも、やっぱり、もう親子三人で暮らしていないからだろうかとアツ子は悩む。　ナオちゃんから約束をまもったよと打ち明けられても、素直に喜べないでいるのはそんな心配が先立つからだった。　別れる時アツ子が親権をとったものの、一年もたつと予測したとおり経済的な逼迫が始まった。このままつづけば、約束どおり親権はセンちゃんの方に行ってしまう。　なにしろセンちゃんには、将来の跡取り娘としてナオちゃんをなんとしても必要としている強力なバックがあるのだから、そうなったら必ずナオちゃんを連れていくだろう。　小さいうちは子供は母親と一緒にいるのが一番いいと思うのだが、法律の見解は何やかやとややこしい。経済力のない母親を認めない。　そもそもアツ子とナオちゃんの不幸は、新婚二年でセンちゃんが骨の髄から女性にからきし弱い性格だということが判った時から始まった。いや、ナオちゃんがお腹の中で育ちはじめたときから、不幸の種は撒かれていた。知らないのはアツ子とナオちゃんばかりだったといえる。　結婚の当初から、センちゃんは土曜日の夜から日曜日の昼まではいない。ゆくゆくは大きなリンゴ園を営んでいる東北の実家の事業に役立たせようと勤めている外食産業の会社の、週に一度の宿直で帰ってこれない......はずだった。（それが、そんなに重要な問題だったとは思わなかった）　アツ子が、いってらっしゃいと言って、ナオちゃんの小さい手をつかんでバイバイをさせて送りだす。センちゃんは名残惜しそうにナオちゃんのほっぺに髭面をすりつけ、アツ子にも小さいキスをして出ていく。　しばしの”幸福な別れ”は、アツ子にとってちっとも辛くはなかった。センちゃんは、アツ子とナオちゃんの為に働きに行くのだから。アツ子とナオちゃんのために......と心底思っていたので、幸せは留守中に膨らみさえした。　ある土曜の夜、ナオちゃんが突然ひきつけた。救急車で病院に運んだその夜、センちゃんは”宿直”していなかった。　守衛の人がそう言った。後日、ナオちゃんは三度ひきつけた。熱性痙攣だから心配ないと顔見知りになった医者から言われても、そんな時は、どうしてもセンちゃんが側に居て欲しかった。いずれも土曜の夜だったのに、何故センちゃんは、 ”宿直”していなかったのだろう。　センちゃんの言い訳は、守衛が知らなかったり、ちょうど食事にでかけていたり、携帯電話の電源が切れていたり、だ。　マアそうだったの、運がわるかったんだわと、アツ子は信じた。センちゃんも顔色一つ変えず言った。　運よく携帯電話が繋がった時があった。短いけれどはっきりと女の嬌声が混じって聞こえたとたんに、解った。　アツ子の頭の中をこだまする甘ったるい声で、気が付いた。　センちゃんに、女がいる。　大空のようにアツ子とナオちゃんをつつみこんでくれる優しいセンちゃんだと思っていたので、天地のひっくり返ったような現実だった。　アツ子は、数日、内蔵をすっぽり抜き取られた魚のようになった。心が空っぽになるとは、なんとつまらないことなのだろう。泣いても笑っても感情が心に留まるということがない。泣いたすぐその後で大笑いができる。泣いているようでないていない、笑っているようでそうでないのだ。見えるものは目を素通りするし、聞こえる音も耳の穴を通り過ぎる風のようなもの。どんな感覚も感情までにはまとまらないし、だから心の中にひっかかるものがなくなってしまう。それが空っぽということだ。　アツ子がどんなに頼んでもセンちゃんは、言葉とはウラハラに市ヶ谷に住んでいるという女と別れる素振りが見えない。　センちゃんの言葉は身体と関連していない。もう決して行かないよと約束したそばから、足が勝手に向かってしまう。　でもアツ子はまだ、センちゃんが好きだった。ナオちゃんのためにも、女に取られてなるものか。そうだ、土曜日の夜から日曜にかけて、センちゃんはどこかで蛇か鬼になる、そういう病気なんだ、と自分にいいきかせてみる。　それはナオちゃんとアツ子のあの大好きなセンちゃんになるために必要な治療で、だからセンちゃんは家にいない方がいいと、理屈をこねてみた。　でも、そんなごまかしは一日ももたなかった。　センちゃんは蛇にも鬼にもなっていなくて、女と一緒にアツ子とナオちゃんをどうやって殺そうかと計画を練っていた。　センちゃん、止めて、止めてよ！　汗をぐっしょりかいて夢からさめた。醒めて、自分が哀れで胸がつぶれた。　アツ子がスグに別れなかったのは、ナオちゃんには良い父親だったからだ。早くに父親を亡くしたアツ子にとって、それはなによりも嬉しいことだった。会社から飛んで帰って来てはナオちゃんをお風呂に入れ、ミルクを作り、おむつもとりかえる。離乳食をつくり、赤ちゃん体操もさせる。絵本を読んでやり、時間があれば、ナオちゃんが満足するまで散歩につきあう。　センちゃんは殆ど完全だった。完全な幸せは、十カラットのダイヤモンドのように希少価値があると思う。アツ子とナオちゃんのダイヤモンドは、土曜の夜から日曜の昼まで、石ころになるだけだ。その後はまたダイヤモンドになるのだから、我慢しようと言い聞かせてみる。センちゃんを嫌いにならないために、あれこれ努力したのだ。　そんなアツ子の気持ちが一瞬で反対の方向に向いてしまったのは、女の存在を、実家が始めから知っていたとセンちゃんから聞かされたときだった。　結婚式の際、田舎の人達がアツ子に見せた不可解な微笑の意味は、そういうことだったのか。目立ち始めたお腹を隠して、文金島田に角隠しの厳かなものだったのに、端からみればあれはアツ子だけがつんぼさじきの、さぞ滑稽な結婚式だったんだろう。　アツ子は二十六のとき母の僅かな遺産で阿佐ヶ谷の片隅に、以前から趣味として自分でデザインをして作っていた子供服や小物の専門店「ＮＡ０」という小さな店を持った。　センちゃんとは、そのころ知り合った。アツ子も気に入っている「野菜シリーズのパジャマ入れ」に目を留めたセンちゃんは、勤めている会社が経営するレストランのサービス品の一つにと大量に注文してくれた。センちゃんは「ＮＡＯ」のたった一人の大口客だった。センちゃんが二度目の注文をしに店にやってきたとき、アツ子との運命が決まった。　二人で区役所に婚姻届けを出しおえて、アツ子は正真正銘のセンちゃんの奥さんになったはずなのに、それには「嫁」という裏がべったり付いていた。女のことで、裏にあったものがはっきりした。　「宿直」の件で不実がばれて、アツ子が不満を口にするようになると、センちゃんはたまらなくなって実家に相談したらしい。　なんだぁ、そったらこと辛抱できねえで、わとこの嫁はつとまらねえべし。めんこくねえことしゃべってぇ。　センちゃんのような東北有数のリンゴ園の跡取り息子には、女の一人や二人がいて当たり前だ、辛抱せいとセンちゃんの母親は一方的に言った。旧家の嫁にアツ子のような、どこの馬の骨ともしれない女を承知したのは、姿形よりも、おとなしそうなところが気に入ったからだ。まして両親もなく貧しくて帰る所のない身ならば、なにごとも耐えてしのいだほうが、後で得だろう。文句なんか言える身分じゃあないだろう。イヤなら孫さおいて、別れてたほうがいいべ。さっさと、そうせばいいべし。　まるで、そうなることを待っていたような口振りだ。　センちゃんとの結婚は、孫のナオちゃんが目的で、市ヶ谷の方に子供ができていれば相手はアツ子でなくてもよかったのだろう。センちゃんはともかく、実家のほうはそうだろう。　長距離電話のむこうから、義母の入れ歯の口臭をふきかけられたような嫌悪感と怒りで、アツ子は言葉がつまった。　もう一度だけセンちゃんと話し合って、それで決めます！と叫んでアツ子は電話を断ち切った。　でも、センちゃんは何の意見も持ち合わせていなかった。　子供が出来たんだから田舎にもどって来るようにとの催促を、親子水入らずの生活を大切にしたいというアツ子の望みを実家に通してくれた、かつての頼もしいセンちゃんはいなかった。思えば、あれは女のためであって、アツ子の為ではなかったのかもしれない。　センちゃんは結局はあっちにもこっちにもいい顔するだけの、しかもマザコン男だと思ったら気持ちが冷めた。お腹のあたりに石を巻き付けたように、アツ子の心はひんやりと落ちついた。養育費なんてびた一文いりませんとセンちゃんとその後ろに控える一族に言って別れたのは、ずいぶん昔のような気がするけれど、たった二年しかたっていない。　せめて養育費ぐらいは貰っておくべきだったと、今になって後悔しているけれど、あの時は早く別れたかったからそう言った。センちゃんはとても悲しそうだったけれど、アツ子の気持ちは決まっていた。　センちゃんは、ナオちゃんが大好きだったから辛かったんだろう。協定違反だけれど別れてからたった三ヶ月で、子供に会いたいと電話して来た。父娘で会うのは一年に一回と家庭裁判所の調停で決まったのに、我慢ができなかったらしい。　なんとか、まわりには内緒で月に一回会わせてもらえないかと、いかにも意気消沈した話しぶりだった。そうねえ、会わせてあげてもいいわよ、とアツ子がスグに承諾したのは、ナオちゃんのためで、絶対、センちゃんの為ではない。　環境が変わって、ナオちゃんも変だったのだ。二歳と八ヶ月の女の子が、マンションの窓から黙っていつまでも空を見ているのは、普通じゃあない。丁度、親子で住んでいた新宿の方角に窓がひらけていたので、なおさらのことそう思えた。　別れてすぐにそんな風な様子がみられたので、アツ子は途方にくれていた。　子育てのために一時他人に任せていた［ＮＡＯ」（そう、ナオちゃんの名は店からとった）にも連れてゆき、寂しい思いだけはさせないように気をつけていたのに、それでもいけなかった。心のありようなんて、特に子供のありようなんて分からない。ナオちゃんがセンちゃんを好いているコトだけは確かだとおもった。　そんなに言うなら会わせてあげるわ、と返事をした。でも、そのまま連れていってしまおうなんて思ってないでしょうね。　約束の時間に一分でも遅れたら、誘拐事件で警察にとどけるわよ、と釘を刺すことも忘れなかった。　子供のことについては相談相手もないし、いい方法も思いつかなかったし、だからセンちゃんの協定違反にのっただけだった。でもナオちゃんのほうの消沈ぶりは内緒にしておいて、いいわよ見て見ぬ振りしてあげるわ、と強気なものいいをしたのだ。　それ以来、月に一回、センちゃんから電話があると北町公園に出かけて行って、アツ子はナオちゃんを放す。それこそ犬の仔のように、約束の”住宅街出入口”にキリンのように背の高いセンちゃんの姿を確認してから、じゃ、マミイはちょっとだけお仕事行って来るね、と言ってつないでいた手を離す。ナオちゃんが走って行ってセンちゃんに飛びつく。　二時間ほど過ぎると、今度はセンちゃんがナオちゃんを放す。同じ場所に今度は小柄なアツ子の姿を見つけたセンちゃんがナオちゃんとつないでいた手を離すのだ。ナオちゃんは犬の仔のように走ってアツ子に飛びつく。　初めのころナオちゃんは必ず、キティちゃんのマークのついたハンカチやなにやらの入った紙袋を、地面を引きずるように下げて帰ってくることが多かった。アツ子はセンちゃんに電話で抗議した。　センちゃん、モノでナオちゃんの歓心を買うつもりなら、もう会わせてあげないわよ。　大好きなキティちゃんグッズを前に喜ぶナオちゃんの顔を、頭のなかから追い払ってそう言った。店がもう少し軌道に乗りさえすれば、いくらでも自分が買ってやりたいものばかりなのも気にいらなかった。店が少し儲かるようになったときに、ナオちゃんが生まれて人に任せたので、また売り上げが少なくなった。今は頑張り時だと、生活費をギリギリに切り詰めているところだ。　母子家庭だからといって、モノでコトを解決してしまう子育てをしてはいけないと思う。ナオちゃんがモノで動くような人間になっては困る。しかし、キティちゃんマークに囲まれたナオちゃんが、天使のように幸福そうな顔をみせるのも事実だ。それは、センちゃんとのナオちゃんを真ん中に置いた経済力の綱引きでもあるのだった。なおさらのこと負けるわけにはいかない。アツ子は「ＮＡＯ」の実状はおくびにもださずに、強気に出るしかなかった。センちゃんも法的には主導権がアツ子にあることをよく知っていて、以後はナオちゃんの言うままに欲しがるモノを買い与えないと約束した。　そうやって父娘の時を過ごす内に、ナオちゃんは元気をとりもどしてくれた。マンションの窓から外を眺めることもなくなった。しかし、アツ子とセンちゃんの間をピンポン玉のように行ったり来たりした日のナオちゃんは、決まってこう言った。マミイ、お仕事、いつ、ヒマになるの？　センちゃんも、ヒマになるんだよね？　アツ子も決まってこう答える。　もうちょっと、もうちょっと！　ナオちゃんはセンちゃんにも、同じ質問をしているに違いない。こんなあやふやな言い訳が、いつまでも通用するはずがない。　離婚以来、身体の中央に居座っていた疲労のかたまりが、この一週間で沈殿して、体内を占領し始めたような気がする。　持病の貧血もすすんでいるのだろう。腿の付け根から下が比重の重い金属でできていて歩くたびに地中にめり込むような、そうかといってある時は発泡スチロールでできていて身体の浮くような頼りげない感覚が交代でやってくる。　離婚以来、それほど好きではなかったタバコが身体に馴染んだ。ストレスをマルボーロの強いニコチンでごまかし続けたせいで、三十代の女にしては日にちの経った、ゆるんだ魚の腹のような肌になってしまった。　北町公園でセンちゃんと会うとき、いつも十メートルほどの距離をおくようにしているのは、もう別れた相手だからという理由ばかりではない。自分の顔色が気になって、それで、いつもより赤く頬を塗り、いつもより口紅を濃くつける。　センちゃんとは、どうしても近くで顔を合わせたくない。　昼間の太陽光はどれほど顔を作っても、女の健康をさらけ出す。それで「ＮＡＯ」の逼迫をさとられる。近くで見ると化粧のせいで、かえって不健康が浮き上がる。銀行に資金繰りの相談に出かけても歓迎されなくなったのは、不況のせいばかりではないだろう。　そもそもはじめからアツ子に経営手腕はなかったのだ。趣味の延長で始めたことだから、こうなるのは当然かもしれなかった。娘に同じ名前を付けるほど大切な「ＮＡＯ」は、実は、先週不渡りを出した。借りて住んでいるマンションに、知らない人の影が見えるようになった。近い内に借金の代わりに家財道具でも取り立てようと、下見をしているのだろう。　まだ気がついていないようだが、そんなことでナオちゃんを怯えさせてはいけない。　こんなときこそ、女一人は心細い。　だからといって、センちゃんに弱みをみせる事はできない。　センちゃんの後ろにはナオちゃんを虎視たんたんと狙う人達がいるのを忘れてはいけない。　もし「ＮＡＯ」がダメになって、それが原因でナオちゃんを連れて行かれるぐらいなら、いっそ母子で死んでしまおうと物騒なことが頭をよぎる。でも、どうやって死ぬのだろう。　おメメ瞑ってごらん......。なんだろ、なんだろなあ？と期待でふくらんむ笑みをこぼれるままにして目をとじているナオちゃんの首を、ケーキに飾るホイップクリームを絞り出すように絞めよう。ナオちゃんが恐怖で引きつけをおこさないように、素早く確実に絞めなくてはいけない。　表皮が脆くて、ツメをたてるとサクッと折れてしまう水気の多い植物の茎のようなナオちゃんの首は、臼黄色くへこんだアツ子の指跡をつけたまま、すぐに小さな頭を垂れる。カールした髪の毛が花弁のように頭の形に開く。でも半開きの口からはヨダレが糸を引き、反転した目が充血し涙で濡れる。　そんなナオちゃんをだいてアツ子は、海に飛び込む。二人はたちまち海流に引き離されて、それぞれが暗く冷たいどこともしれない所に沈んで行く。腐るだけの肉となり、ぶよぶよと膨れて崩れだした箇所から順番に引きちぎられて、オラオラと哀れにうらめしそうに揺らめきながら海中に散って行く。そうやって誰からも忘れられたまま長い時間をかけて、やがて、もう呻くこともできないさびしい骨になる。　だめ、だめ、そんな恐ろしいことをする勇気なんかない。　死ぬ気になったら、もう少し頑張れると誰かが言っていた。　いつかテレビ見た、事業に手をだして失敗したベテラン俳優だった。俳優は一夜で頭が白くなっていた。　ストレスでなるなんて、とあの時は他人事だった。　ストレスは、この一週間でアツ子の額にツノを生やした。　つまり左右のこめかみに、指一本分の幅が白髪になってしまった。しかたがないので上げていた前髪をおろすと、やつれ顔がかくれて学生のころの顔にちかづいた。マサコさんを思いだしたのはそのせいかもしれない。　マサコさんとは、短大の学園祭で「アリババと四十人の盗賊」をやった仲。チビのアツ子がアリババで、のっぽのマサコさんは召使い女の役をした。　パロデイだったせいか評判はよかった。打ち上げの食事会で、女は恐いという話しになった。生身の人間に煮立った油をつぎつぎと注ぐ残酷は、普通の男には出来ることではない。　現実の世の中も、普通の女のほうが、いざとなったらなんでもやる、というのがその場の結論だった。　そこにいたのは女の子ばかりだったので、アツ子は不気味なものを感じた。自分だけはどんな状況にいても、残酷なことはできないだろうと思った。なんとどちらかといえば大人しいマサコさんが、積極的な肯定派だった。　そのマサコさんが、卒業式の一週間後に有名な化粧品会社の三男と結婚した。アツ子と何人かの友人が、ホテルの披露宴に招待された。花嫁が純白のウェディングドレスでラッピングされて、新郎にプレゼントされたような式だった。　女はいざとなったら何でもやるという意見を延べた女には見えなかった。どこからみても、純情可憐な花嫁だった。　花嫁の被る白いベールにも角隠しの意味があるにちがいない。羨望したり感心したり、いろいろなことを考えさせられた式だった。クラスメート達も、シンデレラのようなマサコさんの運をうらやんだ。そして新婚六ヶ月目に男の子を生んだと聞いたときは、あまりの予期せぬ出来事に呆気にとられた。良妻賢母を育てる規律の厳しい学校だったので、マサコさんの結婚と出産に、人生を垣間みた。鈍感なアツ子でさえ、人生はとっくに始まっていたのだと実感した。　アツ子が今年貰った年賀状には、三人の子供の世話で忙しく暮らしていると添えてあった。三番目は、ナオちゃんと同い年の男の子だそうだ。　近頃、アツ子はそのマサコさんがつくづく羨ましい。お金持ちだからだけでなく、結局一族あげて嫁に来て欲しいと歓迎されたということが、うらやましい。とにかく、借金を申し込むならそのマサコさんしか思い浮かばない。しかし、返すアテがないのだから、自分はきっと詐欺をすることになるだろう。死ぬよりも、詐欺師にならなれそうだ。　ナオちゃん、今日はどこかにお泊まりで遊びに行こうよ。マミイ、少しお仕事ひまになったのよ。だけどその前にチョットだけ、マミイのお友達のマサコさんのお家に御用があるの。ナオちゃんも、つきあってね。　事情を知らないナオちゃんが大喜びしたのが、なによりの救いだった。マサコさんからお金を借りたら、とりあえず休暇をとろう。南の島に飛んでリゾートホテルに一、二泊するのは悪くない。　オーストラリアに婚前旅行に行ったときに買った（ナオちゃんは実質的なハネムーンベビーだ）大好きなニナリッチのボストンをもって、マンションを出た。そのバックは、センちゃんとアツ子がまだ、形にならないナオちゃんと一緒に帰って来たときの想い出をつめている。　マミイ、センちゃんも一緒に行こうよ。もしかして”ヒマ” があるかもしれないからさあ......とナオちゃんは期待を膨らます。そりゃあ、いい考えだわね！　とアツ子も、ひょうきんな口振りであわせた。　アツ子は公衆電話に飛び込んで、先ず、ナオちゃんの通っている保育園に、数日の旅行に出るからと連絡をした。それからセンちゃんにウソの電話をかける。誰もいない自分の番号をおしての呼び出し音のあとの留守録メッセージに、おもいつくままの一人芝居をした。　あーあ、残念だねえ！　センちゃん、忙しいんだってよ、あきらめようね、ナオちゃん。　あとはツーツーツーという発信音ばかりたてている意味を、ナオちゃん知らない。代わってよぉ、とナオちゃんが受話器をさいそくした。アツ子はあわてて受話器を置き、ナオちゃんを電話ボックスの外にうながす。　マミイったら！　代わってって何度も言ったでしょ...... ナオコもセンちゃんとお話したかったんだよ！　ナオちゃんは黒めがちの目をむく。下唇を少し突き出して、いまにも涙が溢れそうだ。　そうだった、そうだった、ゴメンゴメン。　マミイったら、ちゃんと聞いてなかったんだね、ナオコがあんなに大きい声で言ったのに、聞こえなかったの......。　ナオちゃんがウソをついた。ナオちゃんは大きい声なんか出さなかった。口をポカンを開けて目をいつもの一、五倍にして期待で頭の中がくるくるまわっているために、寝言のようにつぶやいただけだった。そのことはナオちゃんが、一番しっている。ダメだとわかってウソをつかなければならないほど、感情が揺れている。　お泊まりときいて、マミイとセンちゃんと三人で過ごせると咄嗟にナオちゃんなりのスケジュールをたてたのだ。　ナオちゃん、ごめん。　とにかく、アツ子はナオちゃんにしかられてシュンとしたふりをした。ナオちゃんの機嫌がもどった。　電話ボックスを出たとたんににわか雨がふってきて、ナオちゃんの栗色の髪が濡れてしまった。　産毛のようなナオちゃんの髪の毛はすぐにお釈迦様のような無数のカールをつくった。ナオちゃんの顔は、どこか懐かしい。　アツ子が小学生のころ、両親が新興宗教に凝っていた。座敷にあった人間ひとりが入れるほどの、仏壇の中の白木のお釈迦様の顔に似ている。首から上の輪郭の、このうえなく緩やかなところが似ている。　母のいいつけで初物の葡萄をお供えしたとき、アツ子は一粒取って食べた。仏壇からは遠いところでしたことなのに、お釈迦様にはお見通しだったらしい。葡萄の皿を置こうとしたとき、ロウソクの炎がフラリと動いてお釈迦様と視線があった。いつもはトロンとねむそうな半眼が、光ったような気がした。以来、アツ子は仏壇やお釈迦様が恐ろしい。　チョットの間だけお金を貸してしていただけないかしら、一週間後には大きな取引先から入金があるんだけど、もちろん、すこしだけれど利息も付けてお返えしするわ。　間もなくアツ子はマサコさんにそう言って、詐欺師になるのだから、お見通しのお釈迦様がナオちゃんの身体を借りるのはありうることだ。　いや、いや、気のせいに決まっている。どうかしている、とアツ子は額の汗を拭う。　アツ子は一張羅の白の麻のスーツに、プラチナとダイヤのティファニーのペンダントを下げてきた。白い服装は小柄なアツ子の不健康と年齢を隠す。ナオちゃんにも、おそろいの白の麻のポケットが七つもついた胸当てズボンにグレーのレースのタンクトップという、「ＮＡＯ」のオリジナルのなかではもっとも高級品でおしゃれをさせた。　詐欺師は身だしなみがいいものだとは、週刊誌かなにかで得た知識だ。　閃光のような陽射しを避けるため、アツ子はナオちゃんをうながして「雑貨店」の前に立つ。自動ドアが吐き出す冷えた空気の舌が、二人をからめとるように店に引き入れた。　その時アツ子は、入り口付近に下がっている「塩と酒とタバコ・有栖川商店」という時代がかっている剥げた看板が目に入った。しかし、入り口のコンクリート壁に「アリス」とある花文字は、カラフルでファンタジックだ。　コンクリートの壁に二百二十センチもあるような一枚ガラスのドアを組み込んだ現代風な建物なのが、「雑貨店・アリスガワ」ではなく「アリス」となっているところをみると、代がかわって店の名も変えたのだろう。　きっと跡取り息子が好きなように店を作りかえたのだ。　「ＮＡＯ」に比べて、雑貨店とは思えないほどのあか抜けた店構えがうらやましい。エアコンの冷気は、沸騰するアツ子の頭をすこしづつ静めてくれる。　広い店内は、白っぽい壁と銀色のスチールパイプが交差していて、ファッション雑誌の撮影現場のようにシャレている。　店全体がすっぽり吹き抜けていて、天井はガラス張りになっている。そこから本物の入道雲の一部が見える。　その下に電動で調節できる光線をさえぎるための、何枚ものうす水色の布がゆるいカーブをえがくように張り渡してあるので、店内におだやかな光線が満ちている。　しかも所々に自然光に似せた照明が、影の部分を一つもつくらないように施されていて、カップラーメンやトイレットペーパーといったもの、あるいはスナック菓子や菓子パンのような家の中でいつも見ている何でもないものさえ、美術品のように単品か山積みでおかれているのが奇妙だった。　はるか天井からは人工の蔦がたれさがり、床には本物の大小の観葉植物が置いてあるので、「アリスの不思議な国」にまよいこんだような雰囲気もあった。そうか、店の名を「アリス」としたのは「アリスの不思議な国」をイメージさせるつもりなのだろう。　見上げるほどの雑貨や菓子類を積んだ鋼鉄のパイプ棚が林立しているだけなのに、アツ子はその間を歩くのが心地よかった。細波のように繰り出すクーラーの音と冷気のせいで、森林浴をしているような気分だ。樹木のもつセイセイとしたものが感じられる。　アツ子の肩に分厚いフェルトのように張り付いていた疲労がすこしづつはがれていく。手足の関節がフツフツと音をたてて、身体の中心から外に向かって順序よく連結をはじめる。　気の迷いではあるのだろうが、一時の開放感だ。　二三日前から変調の兆しはあった。蓄積したものを放出しようと身体の深部からおこる要求で、不規則に手足が膨張したり萎縮したりする。細胞が不安定にざわめく。　センちゃんと知り合ったときは、細胞の沸騰するようなざわめきを感じたものだ。身体のあらゆる先端の部分、たとえば指先とか鼻の頭といったところから滴り落ちるほどのエネルギーが全身に満ちる。変調は、それに似ている所もある。　あっ、アツ子は小さくさけんだ。やっぱりそうだ。内腿になま暖かい感触が走った。一週間も早い。　トイレから戻ると、吹き抜けの天井からの”木もれび”が、いよいよほんものの”森林浴”らしく演出しているのに気がついた。ここは森のなか、わたしはナオちゃんと散歩をしている......。アツ子の生来の思いこみの激しさだ。　はたから見たら、挙動不審。店主から注意されてもおかしくないほど、歩き回る。　ナオちゃんはアツ子がトイレに行くとき、何かを見つけたらしく、きゃあと奇声を発して、繋いでいた手をふりほどいて行ってしまった。店の一角が花畑のようにはなやかな色あいに溢れていて、そこにナオチャンがしゃがみ込んだのを目の端にとらえていた。それで、アツ子は、ナオちゃんと反対の辺りの”散策”を始めた。　マミイ！　コレカッテヨ、コレカッテヨ！　と、昔のようにはじけるような声をだしながら走りよってくるナオちゃんを待っていた。我侭なナオちゃんがいい。おりこうで、大人しいばかりのナオちゃんなんかイヤダ。　ナオちゃんの通う保育園の保母さんが言った。ナオちゃんは年齢の割に人の顔色をうかがうようなところがある。母子家庭だと知っていて、こうも言った。情緒の硬直はひとえにご家庭の不和と思われます。開放を心掛けて下さい。　ナニをドノヨウにしたらいいと言うのだろう。四歳の子供に、親の事情を隠すのはまちがっているのだろうか。四歳とはどのような人間に成長しているのだろう。アツ子にとってナオちゃんはいつまでもナオちゃんだ。確かにおむつもミルクも必要はなくなったけれど、だからといってアツ子にとって変わらない。アツ子自身の四歳はあまりにも遠い。記憶の殆どは靄の中で蠢いているので、参考にならない。　内股に流れたものを感じる度に、アツ子は刹那の失神を覚える。魂と身体の距離がすこしずつ離れていく。そして感覚だけがとんがる。生理の初日はいつもこうだ。生理がある限り、自分にとってナオちゃんのあり方は変わらないのかもしれない。　ナオちゃんのはじけるような、声はまだ聞こえない。　アツ子は無関心を装って”散策”をつづける。これだけ内装にお金をかけているのは、やはり二代目のようなよほど財力のある経営者にちがいない、などと思いながら。　「ＮＡＯ」を再びアツ子ひとりできりもりするようになってから特に内装にまわす余裕などなく、小間物屋のあとを借りたときに壁紙を張り替えたままだった。　壁や天井にひたすら子供服をぶら下げて、それでも壁紙のシミやはがれが見えるところには、つくりもののマーガレットやカスミソウ、あるいはぬいぐるみのウサギやキリンを止めたり貼り付けたりしてごまかしていた。照明にしても、最近は裸電球のままにして、いっそのこと居直ったような飾り付けにしている。　お洒落な「アリス」は住宅街の真ん中にあるせいか客は少なく、店内はアツ子とナオちゃんの他にはレジでオレンジ色の帆布でつくったサロンエプロンをかけて口髭のある三十代前半とみられる男が帳簿に目をとおしているだけだ。　きっとあの男は二代目だ。「ＮＡＯ」も経済的余裕のある二代目が経営したらうまくのだろうか。子供服を売るのだもの、お金をかけた演出が必要なのだ。あの男がこの店を継いだように。アツ子はレジのほうを盗み見ながらそんなことを想像する。　店は人に渡して、アツ子は以前のように服や小物を作って卸せばいい。そういう道もある。しかし、そんなことをしたら、センちゃんの一族がみのがすわけがない。弱点を握られてしまう。　センちゃんが離婚の調停の際に案外あっさり、充分な経済力が有る限り親権はアツ子にあるという条件なら親権を認めると提案したのは、後ろにいる人々の魂胆あってのことだったと、いまさらのように思える。　アツ子は視線を感じる。視線とはおかしなものだ。見る方が発しているのか、見られるほうがキャッチするのか、目などなくても感じる。視線がアツ子の身体をなぞっている。レジの男が、アツ子の行動を追っている。　アツ子は我に返った。ナオちゃんはどこ？　視界から森が消えて、無機質なパイプ棚の林立する景色にかわった。氷の粒子を混ぜたようなエアコンの空気が足下に降りてきて、正気をうながした。ナオちゃんはキャンディの花畑で、まだしゃがんでいる。　ナオちゃん、それ、欲しい？　とアツ子が声を掛けながら近づくと、何にも要らないの、というように頭を振る。巻いたばかりのネジがほどける人形のように、はげしく振りつづける。　ナオちゃんったら......欲しいからそうやって見てるんでしょ。ウソつく子は嫌い！　怒ったような泣いたようなアツ子の声を、じっと堪えるように口を結んでナオちゃんは聞いている。貝になった様子を見ると、それだけのコトなのにアツ子は目頭があつくなる。　涙なんか見せまいと思うと、なおさら、目がしらの火力が増す。もう、ジュースもタバコも買わずに一時も早く店を出ようとしたときだった。騒ぎを聞いてレジの男がやってくる。　オレンジという色はよほど刺激的なのだろうか。男のサロンエプロンの鮮やかさが増したように思えた。しかも口髭が黒々とエロチックなので、アツ子は追い詰められているような気持ちになり、ナオちゃんの手を強く引いて小走りにドアに向かった。　待て、まてったら！　男は、身体に似合ない野太い声で呼び止めた。　アツ子はナオちゃんをかばって、自動ドアの真ん中に立ち往生した形になった。麻のスーツを通した熱気と冷気がアツ子の背中と腹のあたりで入り混り、対流が始まって身体が流されるような気がした。足もとが浮いて力が入らない。　あんた、この子の母親だろ？　その子のポケットにナニが入っているのか、知ってんだろ......。　男の目の鋭い光に、アツ子はたじろぐ。ヤクザっぽい口調に、甘い跡取り息子のイメージはない。「不思議な国のアリス」の住人にしては、現実的だ。　男はアツ子とナオちゃんを捕獲するように立ちはだかった。　男のオレンジ色のエプロンの首に掛ける紐の部分が、百五十三センチしかないアツ子の頭上にかかった。ナオちゃんのポケットがどうしたというのだろう。　いい加減にしろよ、ポケット調べて見ろよ。子供のよお！　何てことをいうの！　と反発したものの、アツ子はナオちゃんの七つもあるポケットが、それぞれ膨らんでいることに気がついた。白い麻の布地を通してキャンディのにぎやかな色が透けている。　ああっ、ナオちゃんったら、どうしたの！コレ！　けっ！　わざとらしい！　ポケットにナニはいってるの？　マミイに見せてね。　ダメ、見ちゃだめ！　ナオちゃんはアツ子の手をふりほどき、ポケットを押さえる。あっちこっちにあるポケットに手をやいている。同時には押さえきれないと分かって、半開きの自動ドアを抜けて飛び出していった。　ほら、このあたりの補導委員がきたぜ。近頃じゃあ、このあたりは幼稚園のガキだって補導の対象になるんだ。小さいうちが肝心なんだってさ。　そうこうするうちに、危ないでしょ、道路に飛び出しちゃいけませんよ。あなたのママはどこ？　などと女の声がする。　ベージュのスーツ姿の中年婦人に肩を捕まれたナオちゃんは、矢継ぎ早の質問を浴びている。まあ、あなたのお洋服、ポケットが沢山あるのねえと、とやんわりとした声色に変わったとき、男が囁いた。　アイツに知られたら、一大事だよ。アンタも同罪になる。　”万引き”は子供の出来心じゃあすまなくなると、この男は言っている。　いくら？　いくらなの？　全部で。　そういう問題じゃあないんだって、わかんねえ女だなあ。　アツ子は男の怒りに油を注いだ結果となった。ナオちゃんが補導委員に促されてやってくる。男はアツ子の背中に密着して、囁く。　どうしようか？　ここで、話しを続けてもいいし、あの人に知られたくなかったら、二階のオフィスで待ってたほうがいいぜ。子供もすぐ行かせるからさ。　店の前の桐の大木の蔭の螺旋階段を、男は顎をしゃくって示した。　螺旋階段の上は、男のいうとおり事務所となっていた。店と違って殺風景このうえない。男のいったとおり、ナオちゃんはスグにひとりでニコニコしながら上がってきた。部屋に入ってくると、大きく取った窓の半分ほどを桐の葉が覆っているので、ナオちゃんの顔が青く見える。ナオちゃんは水族館の魚が背びれや尾びれをひらひらとさせるように、身体をくねくねさせて言った。　あのね、マミイに、プレゼントだよ。　ナオちゃんは先ず、胸あてズボンの左腰の一番上のポケットを、開け始めた。それぞれのポケットにはマジックテープのついたフタがついている。　ほら、と言って赤と銀色の包装紙につつまれたキャンディをつまみ出した。一陣の風が桐の葉をめくったときに陽をはね返したので、ナオちゃんの顔が浮き上がった。ナオちゃんの真剣な顔がそこにあった。アツ子は小言を言い出しかねた。　ナオちゃんがあっちこっちからとりだしたキャンディで、アツ子のてのひらに花園ができていた。　大人には、さんタクロースはこないんでしょ......かわいそうですねぇ。ナオコがプレゼントしてあげますね、まだ夏だけど、とおしゃまな口調で言った。　男が螺旋階段を上がってきた。　男は小さな紙袋をぶら下げていた。男はナオちゃんをあちこちにタバコの焼けこげのあるソファーに腰掛けさせると、民芸調の大型のテーブルに袋の中味を取り出した。　ああっ！　ナオちゃんが歓喜した。キチィちゃんのぬりえに、二十四色のクレヨンをそえて、ちょっと腰を折ってナオチャンに促す男の様子は、先ほどとはうってかわって穏やかである。　これで遊んでていいよ......などというのだから、別人のような気さえする。しかもエプロンを外していたので、細身の身体が少年のようにみえる。思ったより若い。せいぜい二十五、六だろうか。白い鹿子織りのポロシャツから出た腕や首筋が一度も陽にさらしたことのないように青白いことや、痩せているせいか喉仏だけが異様にとびだしていて野太い声を発する度にグリグリ首の皮膚の下で上下するのが気味悪いことをのぞけば、自分よりすくなくとも五つは年下にちがいないと思うと、アツ子が先ほど感じた恐怖は薄らいだ。　運が悪いよねえ、アンタさぁ。子供の万引き、多くてね。ウチは報告の義務があんのよ。ホントウは。オレは助けたつもりなんだけど、どう思ってんの、そっちは。いい女だもんね。ラッキーだよ、アンタは。　男はどうしてこうも不器用に魂胆をさらけたのだろう。　ありがたいことだわ。助かりました。　いいよ、さっきはオレもあったま来たけど。いいさ。　なにでお返ししたらいいんですか。お金では取っていただけないのでしょう！　カッコつけんなって、アンタだって、ちらちらオレを見てたじゃねえか。ま、友達になろうぜ。オレ、バンドやってんだけどさあ、コンサートとかに来なよ。なっ！　どちらかといえば太陽よりもネオンのほうを滋養として生きている爬虫類のような雰囲気を、時にセンちゃんも醸し出すことがあった。センちゃんが市ヶ谷に行く時などは、思えばそんな感じがあった。　男はチケットをつかんだ方の右の腕を折ってアツ子を巻き込み、窓と反対の壁に押しつけて顔を間近によせてきた。　男の腕の隙間から、ぬりえのことなどは忘れてテーブルにおいたまま、放心して動かないナオちゃんがみえる。男とアツ子のを凝視した目が、顔に穿った一対の穴のように見える。　ナオちゃんの心が閉まりかけている。異様な雰囲気を感じて、ナオちゃんが恐れている。　男の息が、アツ子の襟首から首筋とおって肩までおりてきた。　アンタ、血の臭いがする......アレの最中？　いま？　そうよ！　そういうことよ！　あんまりなめないでよ！　アツ子はわしづかみにしていたキャンデｲを、男の顔に投げつけた。男はひょいと身をかわしたものの、苦笑いしながら、アツ子の手にチケットを押しつけた。アツ子はナオちゃんを手招きして呼び寄せ片腕で抱き上げると、階段を落下するように降りた。　南中をすぎた太陽熱で、発火点に達したように地面はふくれあがり、亀裂をみせはじめている。坂道の途中の時代がかった冠木門に「都築」というマサコさんの嫁いだ一族の表札がみえると、なにやら近寄りがたい雰囲気がただよう。　門に続く低い白壁の内側に建物や庭のらしい樹木が見えたかと思うと、また建物や庭が現れる。　白壁が切れた辺りに、肩や腰に既婚者らしくふっくらとした肉をつけてはいるが、なつかしい大柄なマサコさんを見つけてアツ子は思わず手を振った。　古い和風建築を、木製の窓をアルミのペアガラスのサッシに、塗り壁をシックな壁紙に、敷き込みの絨毯のかわりに山毛欅のフローリングにと、つつましく作り替えて住み続けているようなマサコさんの家に通されて、アツ子は親近感をおぼえる。　そうでなくてもアツ子とマサコさんの十数年の空白と境遇の差は、同年の子供を持つ母親ということで、一瞬で消えていた。マサコさんの中学生の長男と小学五年生の次男の姿はみえなかったけれども、三男のユウタくんは幼稚園から帰っていた。人見知りするナオちゃんを、さっそくユウタくんは積極的に遊びにさそっている。　ところが対面後間もなく、ナオちゃんがユウタくんを泣かした。保育園では泣かされてばかりいるナオちゃんが......。　いいのよいいのよ、ナオちゃんはぜんぜん悪くない。ユウタがいけないの。さあ、謝りなさい！　マサコさんはそういって、撫然とたちつくしているナオちゃんには優しく目配せしながら、泣きじゃくるユウタくんの目をのぞき込んで諭した。　芝生の照り返しで熱された空気が室の前に配した落葉樹で冷やされて心地よい風となって吹いているテラスで遊び始めた、華奢なナオちゃんと小太りのユウタくんのシルエットが人形のように愛らしいのを夢のような気持ちで眺めていた矢先の騒動に、アツ子は少しの間、事情が飲み込めなかった。　幼児用の極小盤のゲームの勝敗で喧嘩したらしいと、マサコさんの言葉でわかった。ユウタくんは幼稚園に通う傍ら英才教育も受けていて、赤と白それぞれのチップが相手を挿んだら自分の色に変えるオセロ・ゲームに絶対的な自信を持っていた。ゲーム盤がナオちゃんのチップで真っ赤に埋め尽くされて自分の負けを知ったとき、あまりの悔しさにユウタくんはナオちゃんの足をけったのだ。すかさずナオちゃんは、ユウタくんにパンチでかえしたらしい。　アツ子は、ナオちゃんのほうこそお友達をブツなんていけない！　ちゃんと謝りなさい！　と語気荒く言ったものの、芯からそう思っていたかどうかあやしい。両親の不仲のために本来の元気をこそぎ取られたような近頃のナオちゃんにしては、見違えるほどのはつらつさだと、個人的な思いのほうが先に立ったのであった。　ユウタくんはマサコさんのお腹にほっぺたを埋めたままアツ子の言葉を聞いていて、形勢は自分に有利になったと確信したらしく、しゃくりあげる息はすでに迫力がなくなっていた。しかし、マサコさんは、ついにはしゃがみ込んでユウタくんと目線を揃え、さあさあと一歩もひかない。　いいのよ、いいのよ、ナオコも悪いんだもの......アツ子が見かねて言っても、マサコさんの耳には届かないようだ。結局、ごめんなさいと先に謝ったのは、ユウタくんのほうだった。アツ子はばつが悪い。ああ、ナオちゃんになんとしても先に謝らせるべきだったかもしれない。借金申し込みの大仕事はまだ済んでいないことだし。でも、先にやったのはユウタくんだもん！　といわんばかりに口を尖らせはじめたナオちゃんをみると、毅然とした態度がとれなかった。　「アリス」でナオちゃんには恐ろしい光景を目の当たりにさせてしまっているので、それもあって不憫でたまらない。　アツ子は泣きたい気持ちを堪えて、ナオちゃんを諭す。ナオちゃんが不承不承頭を下げたところで、マサコさんは仲直りの印にと台所に消えて、二杯目のレモネードと冷えたスイカをもってきた。　お土産に持参した「パジャマ入れ」がなかなか素敵だと和気あいあいのところで突然起こった事件に、アツ子は借金申しの機会を失っていた。　勇気をふりしぼって切り出すと、あなたの事情はよくわかるんだけど、わたしは一切、金銭的なコトにタッチできないの、この家のルールなのよ。お役にたてなくて・・・。　マサコさんの毅然とした物言いは、家庭人の堅実さを感物語っている。アツ子はその前で、立ち往生するしかなかった。　帰りの下り坂をおもしろがって先に走っていってしまったナオちゃんに、やっと追いついたアツ子が言った。さっき、上って来るときに気にかかっていた事だった。　あのお店で、キャンディ、どうしてとったの？　ナオちゃんはドローボーになっちゃったの？　ちがう、ナオコ、ちゃんとお金はらおうっておもったんだもん。あとで、センちゃんにはらってもらおうって......だって、センちゃん、マミイになにかプレゼントしたいなっていってたから。　眩しそうに見上げるナオちゃんのおでこに、やっぱり外してしまった帽子の跡が一文字に着いている。　そう、センちゃんが......。　坂を下りきると、少し先にコンクリートの箱のような「アリス」が見えてきた。　逃げようかなあ。　うん、にげよう、マミイ！　「アリス」の男から逃げるのだと、ナオちゃんは勘違いしている。アツ子はこうなったら「ＮＡＯ」をすててナオちゃんと逃げようかと思ったのだが、センちゃんが一緒でもいいような気もしはじめていた。　そうしようか！　ナオちゃん！　アツ子が掴んだナオちゃんの手首は、か細く柔らかい。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　終

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