小説図鑑第8号(通巻17号)  

水の夜

          

塚田 吉昭

 穂が伸びはじめた水田の向こうに実家が見えてきた。窓 ガラスに映る火影が明るかったので、ぼくは爺さんの死に 目に間に合わなかったことを知った。重病人のいる家が放 つ灯は決まって独特な暗い色をしているものだから、火影 が暗いうちはまだ大丈夫だろう、と帰ってきたが、意に中 らず窓明りは煌々としていた。  昨夜、爺さんが卒中で倒れたからすぐに帰れ、と母親か ら電話連絡をもらった。今まで三度目だからとても助かる まいと思ったが、まだ数日の余裕はあるだろうと勝手に決 めて、就職にかかわる夏期講習を終えてから帰ることにし てしまった。  ぼくは昼間の暑さが冷めやらぬ駅に降り立った。一年ぶ りの帰郷である。前に帰ってきたときは祖父が二度目に倒 れたときである。都会の生活にかまけて、正月も盆も帰ら なかった。  実家は暮れはじめた山の麓にある。バスは一時間近く待 たなければならない。それなら歩いたほうが早い。ぼくは 田舎道を歩きだした。  なかなか暮れない真のタベも、黒い微粒子が飛び交いは じめ、空気が青みをおびてきた。  歩いているうちに、とっぶりと暮れて、山の上に茜雲が ひとつ残った。訪れた夜は濡れて黒々としてくる。カエル が啼きはじめた。  実家が見える橋の上まで来て、ぽくは足を止めた。どの             窓からも、明るい、そして活気に漲った照明がもれていた からだ。家をおおう暗闇の微粒子の目も荒く、ざわめくよ うで落ち着きがなかった。  水田の小径をやってくる人がいた。見ていると、実家の 明るく照明がともった玄関へ吸い込まれて行く。通夜の手 伝に来た人のようだ。もう、通夜の準備がはじまっていた。  死に目に会えなかったことに後悔の念が生まれた。将来 にとって大切な講習といって、すぐに帰らなかったのだか ら、自分が薄情な人間に思えた。  橋の下からは水の流れる音が立ちのぼってくる。この土 地はいたるところでわき水が溢れだし、夜になると水の流 れる音に包まれる。水が豊富な土地だけに、むかしは螢も たくさん飛び交った。  子供のころには、爺さんがみき子と一緒に蛍狩りに連れ ていってくれた。みき子とは隣の家の娘で、ぼくより四つ っ下だった。  数えきれないほど連れていってもらったが、そのなかで も鮮明に残っている光景がある。  それは庭先でやっている花火をみき子が見にきていたと きのことだった。  昼間から来た客と酒を呑んで機嫌のよかった爺さんが、 螢狩りにでも行くか、と言いだした。ぼくは前の小川に行 けばいつでも見られるし、潰すと臭いので興味がなかった。 ところがみき子はすっかりその気になって、家へ取って返 して、浴衣に着替えてきてしまった。去年よりも背が伸び て、浴衣の裾がつんつるてんだった。手には笹の枝を持っ ている。   ──笹をどうするんだ、と爺さんが訊いた。   ──螢をとまらすんだ、と真面目な顔をして答える。   ──それなら、今夜は螢がたくさんいる、特別なところ へ連れていってやろう。  爺さんが言い出した。  ──どこなの、とみき子が目を輝かす。  ──ちょっと遠いが、誰も知らない秘密の場所さ。  灯ひとつない小径を歩くことになるのだろう。それだけ で億劫になるが、ふたりはその気になっている。断れなか った。  ぼくらは蛍籠をぶら下げて出かけた。  特別のところへ行くというだけあって、その晩の道程は 遠かった。  水を汲み上げる音のする水田を横切って山に入り、水の 流れる音に沿って登っていった。  爺さんと離れないようにぼくが続く。その後をみき子が 笹の先で道端の草をたたきながら、元気についてくる。お 転婆のみき子が一緒だから、少しは心強かった。  大きな夜のなかに見え隠れしていた人家の灯も見えなく なり、足が疲れてきた。心細くもなった。懐中電燈の闇を 切り取る輪がいよいよ明るく感じられた。  ──まだなの。  我慢できなくなってぼくは爺さんに訊いた。  ──螢の棲家に行くんだ。そうたやすくはないさ。  ──帰りたいよ、とばくは音をあげた。  ──度、おまえたちにその場所を見せておきたいのさ、 と取り合わない。  ──知らなくてもいいさ。  むずかっても、爺さんは引き返す素振りを見せなかった。 ひとりでは帰れない。ついて行くしかなかった。  山道はますます険しくなる。前をゆく爺さんの大きな背 中がいまにもまっ暗な夜のなかに溶けてしまいそうに思え た。夜気が強まる。  しばらく歩いてから、爺さんが雰囲気をやわらげようと したのか、口を開いた。  ──どうして螢が生れるのか知っているかい。  ぼくもみき子も知るわけがなかった。みき子が訊いた。  ──どうして生れるの。  ──死んだ人が生れ変わるんだよ。  ──ほんと、とみき子が驚いた。  ──死んでも気になる人間はいるものだ。神さまは慈悲 深い方で、一度だけ会わせに帰してくれるんだ。それが螢 だよ。  ──ヘンな話、とみき子が返答する。  ──蛍はいつも家の近くにくるじゃないか。あれは気に なる人や自分の住んでいた家を見にくるんだ。家螢という んだよ。  螢が気味の悪いものに思えてきた。  ──けれど、これから行くところは、やっぱり人の生ま れ変わりだけど、会いたい人の行方がわからなかったり、 家のない蛍のたまり場だ。かわいそうな蛍だから、誰かが その場所を憶えておいてやらないとな。  ぼくはいよいよ怖くなった。夜の墓場を探検しに行くよ うな気分になってくる。爺さんは言葉を続ける。  ──人間はみんな最期には螢になるんだよ。  ──あたしも螢になるの、とみき子が訊く。  ──そうなるだろうな。  ──あたしの会いたい人って、お母さんかな。  ──大きくなるともっと会いたい人が増えるさ。  ぼくは勇気をふり絞って精一杯の反抗を試みた。  ──ばくが螢になったなら、遠いところに行てやる。  ──頼もしいな。でも、大きくなったらわかるさ。人は 土地に縛られるものだ。自分の生まれた土地の周囲を飛び まわるだけだよ。  爺さんは間違いないというふうに答えた。その言葉で、 ぼくはすっかり怖じ気づいた。闇のすぐ向こうに死者の世 界があって、こちらの気配をうかがっているように思えて くる。  みき子もさすがに何も言わなくなった。そおっと後ろか ら手を伸ばしてきて、ぼくの手をしっかりと握る。小さな 汗ばんだ手だった。ぼくらに連帯感が生れる。  それから少し歩かされて、ぼくらは蛍の棲家に着いた。 その場所がどこかわからない。人が動くことで起きるわず かな空気の流れで、仄明るい無数の小さな光がふんわりと 舞い上るのを見た。みき子は夜の恐ろしさも忘れて、この 葉に止まれ、と笹の先を小さな火の群れのなかにさしだし た。  青白い火の粉の群は驚いたように四方の闇に散らばり、 しばらくすると元の空間に戻ってくる。が、さしだした笹 の葉にはなかなか止まらなかった。  みき子もしまいには飽きてしまい、最後には目を見開き、 暗闇を漂う火の粉を見守るだけになってしまった。ぼくら は鮮やかな螢火のなかにいた。  あの晩、蛍が採れたのかどうか憶えていない。ただ、群 聚した蛍火の明るさにびっくりしたことが、まざまぎと甦 える。  あの話が本当なら、爺さんも螢になったのだろう。今夜 は素直にそう思いたかった。  ぼくは爺さんの螢を求めて、夏草が繁った小川の土手に 目をやった。川面にたれさがる夏草が、ほんのり明るんで いる場所はなかった。農薬のせいで、この数年、螢を水の 縁で見かけることはなくなった。しかし、今夜はいると思 いたかった。爺さんが螢になったとしても、まだまだ新米 だ。仲間にも馴れずに、自分のからだの小ささにぴっくり して、川べりの草叢のなかに隠れている、と思ったからだ。  期待を持って目を凝らしたが、やはり無駄だった。  螢火の代わりに遠い灯を受けた川の底が見えている。黒 い藻が流れに逆らうように激しく揺れていた。水の速さだ けは昔のままだった。  諦めて橋の上から離れて、家へ向かった。  水田の畔道を通り、花輪や家紋の提灯がにぎにぎしく飾 られた家の門を潜ると、母親が玄関に出てきた。さっそく、 爺さんが安置された玄関先の座敷に上がった。  爺さんの柩が安置した祭壇が出来ていて、白と黒の幔幕 が張り巡らされている。日ごろの実家の雰囲気とはまった く違った。家中の照明が全部ついていて、部屋の隅々まで に届いている。明るすぎて妙な感じがする。  母親から祭壇の前で爺さんの最期を訊いた。爺さんは昼 前に眠るように息を引取ったそうだ。ちょうど、ぼくが講 義を受けていたころだ。母親は下宿に電話を入れたと言う が、学校からそのまま来てしまったから、訊いていなかっ た。  爺さんの死顔を見るために柩の蓋が開けられた。  柩に納められた爺さんのからだは小さくなり、顔の皺も 伸び、若やいで、穏やかな表情をしていた。瞑想している ように見える。死んでまで何に想いを馳せるのだろう、と 考えたくなる風情を醸しだしていた。自分の歩んできた道 と、これから歩まねばならぬ黄泉の国のことを思い巡らし ていると考えると得心がいった。  狭い柩のなかに横たわる姿は、知っている爺さんではな かった。遠い人だった。生きていたころの温情とか慣習な ど、人間が持たねばならないすべてを、その一瞬からかな ぐり捨てて、おのれの内に目を向けて、おのれと対話をし ている至高の人に見えた。  蓋を閉めてから、ばくは線香をあげた。喪服に着替える ために、席を立った。  廊下に出ると、唐紙を取り外して広々とした奥の座敷が 見渡せた。通夜へ来る客の用意のために、手伝いに来てく れた人たちが忙しく立ち振る舞っている。そんな慌ただし いなかで死者だけが目に見えない静寂の糸をぎっしりとま といつけ、おのれの世界を守り続けている。今夜の主役だ けが活気のある空気の外にいるとは、じつに奇妙な光景だ った。  自分の部屋に行くために玄関先を通る。外に並べられた 白い造花の花輪にも華やかさが薫る。外燈の蒸し暑い光の 輪のなかでは、夏虫が飛びまわっていた。羽根の音まで聞 こえてきそうな暑苦しさを覚える光景だった。  部屋に荷物を置いてから、顔を洗いに台所へ行った。廊 下まで、水のわき出すボコボコという音がしていた。この 家はいまでもわき水を使っている。  わき水は台所の三和土の瑞にあった。石の囲いが三つに 分かれ、一番上のところで水が勢いよく溢れている。零れ だす水は下の囲いに流れ落ち、さらにもうひとつ下の溜ま り場に落ち、下水へと流れてゆく。 一番上のため水は飲料水に使う。真ん中が野菜などを沈 める天然の冷蔵庸、最後が食器の洗いなどに使われる。こ れも生活の知恵だった。  台所には誰もいなかった。ぼくはゲタをはいて三和土に 降り、わき水のところへ行った。一番下の水に手を突っ込 んだ。水は冷たくさわやかで気持がよかった。その水は、 夏は冷たく、冬は暖かかった。霜が立つ朝、わき水から白 い湯気があがるところを何度も見た。わき水のほうが外気 にくらべて暖かいから、湯気になるのだった。  水のわき出す音のなかに爺さんの声を聞いた。水の取材 に来た人間に水質のよさを説明する爺さんの声だった。そ のとき、ぼくは障子越しに聞いていた。  ──ここらは水のわき立つところに家を建てるんだよ。  ──家のなかが湿っぽくなりませんか、と相手がたずね る。  ──風通しがいいから大丈夫さ。  ──そうですかね。 相手は納得のいかない声で返答をする。爺さんは熱心に 話す。  ──人間は水から縁は切れないものだ。この集落のもの は水の恩恵を受けている。                  ──この水は日向においても、一過間は腐らないといい ますね。  ──地中で八十年も濾過されてから、わきあがってくる んだ。不純物が少ないから、なかなか腐らないんだよ。  いくぶん、押し付けがましい感もするが、この水に一生、 感謝して終える人間の言葉らしかった。  そのわき水でぼくは顔をざぶざぶと洗った。からだの汗 もふき取った。冷たい水が気持を清めてくれる。  さっぱりした気分で部屋へ帰り、喪服に着替えた。  柱時計が九時を打った。いつもはひっそりとして水の音 が耳につくと時刻なのに、今夜はいつまでも静かにならな かった。闇までが騒がしい。水田を渡る夜風にも命の息吹 を感じる。水田のなかに転々と散らばる人家の窓明りも力 強い。カエルも啼き続けている。聞こえてくる水の音も大 きくなる。ひとつの死がこの集落に華やかな祭りの夜を演 出したかのようだった。  新仏のいる座敷に戻って待っていると、町まで私用で出 かけていた住職が汗を拭き拭きやって来た。遅くなった言 い訳をしながら、爺さんが安置された座敷に入ってきた。  親族が中央の祭壇に向かって左右に別れて、神妙な顔を して坐った。おやじは祭壇の脇で喪主として気難しい顔を している。祭壇の黒枠の写真に、おやじの顔がますます似 てくる。読経とともに通夜がはじまる。  線書の匂いが立ち込めると、門の外燈の下を通って通夜 の客が訪れる。ばくの目にはそれらの人たちが彼岸から訪 れる亡霊のように写った。  焼香をすました客は、奥座敷へ上がるものと、そのまま 帰るものがいる。  帰るものたちは玄関の外燈の論の下を通って、近道をす るために水田の畔道を歩いてゆく。水田の真ん中にも外燈 があるが、そこまではまっ暗だった。  いったん家の前から闇に溶けた人が、しばらくしてその 外燈の下に姿を男わす。そして落ちてくる光を肩に受けて、 だんだんと向こうの闇に消えてゆく。その形は網膜に残像 としてぼんやりと残るが、それもわずかな時間だった。  そこを通る人は亡霊のように浮かぴ上がっては、向こう の闇に溶け込んでゆく。数時間前、ばくもその道を通って 帰ってきた。消えてゆく人の姿が自分にだぶり、いっしゅん 異様な感動を持って眺めた。  家族のものは次から次へとやってくる弔問客への応対に 忙しくなる.  久しく逢わなかった役場に勤めたという友人も来てくれ た。昔、淡い思いを抱いて通り過ぎた家の娘は遠くへ嫁い でいて来なかった。  通夜の客もとぎれるころになると、ぼくはひとつの顔が 見当たらないことに気がついた。みき子が顔を出さない。 焼香に来ないとはどういうことだろう。みき子は爺さんに はずい分とかわいがってもらった。都会に出たとも聞いて いないから、隣の家に住んでいるのだろう。それなら、来 て当然である。どうして来ないのだ。隣に坐っている兄嫁 に訊いてみようと思ったが機会を逸した。  客が途絶えても、みき子はやはり来なかった。みき子の 薄情さに腹が立ってきた。  外が水の音に満たされるとともに、奥部屋の酒盛りの声 が大きくなる。  死者が家で過ごす最後の晩である。家のものは通夜の客 が心行くまで死者の思い出話に華を咲かせ、満足してもら うために接待にあたる。これが天寿を全うしたものを送り 出すしきたりだった。親族のものは父母を柩の部屋に残し て、奥座敷に移った。  ぼくも親族の真似をして、世話になった人たちへ酒をつ いでまわった。返杯も受けなければならない。それも葬儀 の見習だった。夜が更けてくると、日ごろ忙しくて会えな いものたちの近況を確認しあう場に変わる。死者のことな ど忘れて、陽気に酔うものまで出てくる。笑い声までが起 こり、外の闇までを騒がしくさせる。ぼくも勧められるま まに冷酒を口にした。  馴れない酒に気分が悪くなってきたので、ぼくはこっそ りと座敷を抜け出して裏庭に出た。  夜はまっ暗で、大きかった。月はなかったが、星が出て いた。闇は都会の赤茶けたものとは違って、黒々と濡れた 光沢を放っている。  酔って濁った脳味噌には、水田を渡ってくる風が心地よ かった。暗闇のなかから葉の上で蒸れた露の匂いが漂って くる。  庭の奥のほうのこんもりした雑木林に目が行った。夜よ りも黒々として、ひっそりとしている。ぼくはそのはうへ 歩いた。  水の流れる音が大きくなってきた。写真でしか知らない 三、四代前の祖先が水田に水を引き入れるために作った用 水路に出た。  用水路の脇の、大きなイチョウの幹の下に廃屋がある。 使用しなくなった水車小屋だった。 朽ちかけた水車小屋の裏にまわると、用水路の水は遠い 家の照明を鈍く反射させながら流れている。低い石段が水 のなかに続いている。舟で収穫物を運んできて荷を卸し、 水車小屋に渾びこんだ跡と聞いている。いまでは水が少な くなって、舟は浮かべることはできない。  ぼくは石段を降りて水際に立った。湿った匂いが辺りに 漂っている。石垣についた水コケの匂いだった。向う岸は 笹薮だった。  水の流れて行く先に黒々とした家屋が見える。みき子の 家だった。窓には灯がともっていない。家族そろってどこ かに出かけているのだろうか。爺さんが死んだのを知らな いのかもしれない。それなら通夜に来なくても仕方がない。  水の上に出た小石を渡って、向こう側に行った。ぼくは さらさら水が流れてくるはうへ歩いた。  土手を下だってくるものがいる。誰だろう、と足を止め ると浴衣に夏帯を締めたみき子だった。長い髪は昔のまま だった。手には笹の枝を持っている。  声をかけると、みき子は足を止めた。   ──まあ、久し振り。  みき子は明るく喋りかけてきた。暗闇のなかで笑顔を作 った。 化粧こそはしていなかったが、女が薫っていた。  ──何だ、いたのか。  ──ずっと、いるわよ。  ──爺さんの通夜にどうして来なかったんだ。  叱ったが、みき子は平気な顔をしている。  ──爺さんが死んだの知っているんだろ。  ──知っているわ。  やはり平気な顔をして答える。優しい風が吹いて、頬に 髪の毛がかかる。  ──線香ぐらい上げに来てもいいだろ。  強く言うと、みき子はしょんぼりしてしまった。ぼくは 赦さなかった。  ──おまえだって、爺さんにはかわいがってもらっただ ろ。         .  ──用があったのよ。  ──何の用だよ。  ──螢狩り行っていたの。少し先の川上にはたくさんい るわ。  ──通夜よりも螢狩りはうが大切なのか。それにこんな 人里に螢なんているものか。  ──たくさんいたもの。  みき子は顔を上げて目を輝かして言う。人里に螢がいる なんて、信じられなかった。通夜に来なかった言い訳に聞 こえる。が、みき子は螢の話を夢中になって言う。  ──見に行けばわかるわ。ねえ、見て、採ろうと思った ら川に落ちて、浴衣の裾が濡れてしまったわ。  みき子は浴衣の裾を捲って濡れたところを見せた。白い 素足を見て、ぼくはドキッとした。しかし、みき子はぼく の気持に気がつかない。  ──ねえ、螢のところへ行ってみない。  みき子に執拗に誘われて、つい怒りも忘れて、わかった、 と答えてしまった。みき子は目を輝かして喜んだ。  ──じや、待ってて。  みき子は笹を振り回しながら離れた。  ──どうするんだ。  ──もうひとつ笹を取ってくるわ。  ──ここにあるじゃない。  ぼくらの後ろには笹藪がある。  ──もっといい笹じゃないと駄目よ。家にあるわ。取っ てくるわね。  止めるのも聞かずに、みき子は遠い灯を受けてきらきら 流れる用水路を向こうに渡った。水車小屋の角をまがり、 自分の家のほうへ行ってしまった。あいかわらず元気がい い。  ぼくは遠い灯に鈍く反射する水面を見ながら待った。ど こまで行ったのか、みき子はなかなか帰って来ない。  母屋のほうからは、人のざわめきが響いてくる。明るい 照明の下で酒盛りをする人々の姿を思い浮かべながら待っ た。  向こう岸に人影が現われた。やっと、戻ってきた。ぼく は向こうへ戻った。みき子と思っていたのは、兄嫁だった。  ──いないから様子を見てこい、とお義父さんに言われ たのよ。どうしたの、気分でも悪いの。  様子をうかがいながら近づいてきた。  ──ちょっと外の空気にあたりたくてね。  ぼくはみき子のことを、なぜか隠して答えた。兄嫁は気 がつかずに言う。  ──酔ったんでしょう。ひとりひとりに付き合っていた ら大変よ。呑みすぎないようにね。  ──もう大丈夫です。  ──それなら早く戻ってね。お義父さんが心配している わ。  ──うん。  と竿見ながら、帰ってこないみき子を気遣いながら、灯 が消えている彼女の家のはうを見た0兄塚も気がついて、 夜の簡に浮き上がった黒い家を見て呟いた0  ──もう一年にもなるわね。  ──何が。  ──帰っていないから知らないでしょうが、隣のお嬢さ ん、亡くなったのよ。  ──みき子が。  ──そうよ。みき子さんよ。  ──どうして……。  ──去年の秋よ。仕事の帰りに自転車のまま用水路に落 ちて死んだのよ。家の方が落ち込んでね。あの家だと思い 出すことが多いと言って、町に引っ越してしまったわ。  小さなころの関係を知らない兄嫁は、ぼくの驚きに気が つかずに先に母屋のほうへ戻っていった。ぼくはその場で 自分の心臓の鼓動を聞いていた。それが治まりかけると、 線香の匂いが夏の闇のなかを流れてきた。  水車小屋あたりの草叢が揺れた。その風に追われるよう にして数匹の螢がポォーと舞った。まだ螢が栖んでいるの だ。ぼくはその小さな灯が水の上を飛んでゆくのを見送っ た。それがみち子のように思えた。 家族が去った土地に、みき子はひとりぽっちで、ずっと いたのだ。それで今夜、爺さんを迎えに来てくれた。  ぼくのなかにあった故郷が、そのときから消えた。                        《了》

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