名 越  切 通  (カプリチオ7号)            ・

                   塚 田 吉 昭 

 1
 知念から結婚をしたから一度遊びに来てくれと電話をもら
った。四十過ぎまで絵ばかり描いて気ままに暮らしてきたの
だから、結婚をするなど思いもよらないことだった。わたし
の画廊に絵を持ち込んできて親しくなった友人で、どんな女
と一緒になったのか興味もあったので、さっそく出かけた。
 駅前で土産の肉を買って知念の家へ向かった。竹林の道を
過ぎると少し上り気味になる。土くれが目立ってきて両側の
木立ちも深くなり鬱蒼としてくる。蔓や苔のついた老木が目
立ちはじめる。その昔、半島の先へ抜ける重要な道もいまで
は苔だらけになって、人も滅多に訪れない。空気までが冷え
冷えしてくる。道に沿ってきた電柱もとぎれ、行き止まりに
なるのではないかと思える頃になって見上げるほどに高い切
通が木立ちの合間から見えてくる。
 幹の太い老木があって、ぐっと伸びた高い枝に大きなカラ
スが一羽止まっていた。じっと見下ろしている。下を歩くわ
たしを見守っているように思えた。わたしは無視して切通に
向かった。入り口には『落石注意』の古ぼけた標識が立って
いた。知念の家はその切通を抜けて少し下ったところにあっ
た。
 切通にさしかかると風が向こうの坂の下から吹き上がって
きて、からだが後ろへふわりと持っていかれそうになる。風
が乾いたもろい壁に反響している。禽獣の唸り声にも聞こえ
る。転げ落ちる乾いた音がしきりとする。石が落ちているの
だろう。切通が少しずつ死んでゆくのだ。来るたびに知念の
住家にはふさわしい気がする。
 知念の家は低い山の谷間に一軒ぽつんとある。苔のむした
滑りやすい石段を上がって声をかけた。
 玄関口に出てきた知念は結婚してこざっぱりしていた。後
ろになでつけた髪が油でテカテカして、床屋から帰ってきた
ばかりのような感じだ。心持ち表情が穏やかになって、少し
は常人らしくなった。
 座敷に上がると女房が挨拶に出てきた。名前を里江と言っ
た。知念よりひとまわり以上若そうだが、落ち着いた雰囲気
が年の差を感じさせなかった。眉毛が細く、きりりとした目
のあたりが印象的だった。頬の線が細く、薄い唇を堅く結ん
でいるから、見るからにしっかりもので聡明な感じがした。
 買ってきた肉でさっそく呑むことになった。知念も酒には
目がなかった。徳利が見る見る並んだ。里江は嫌な顔ひとつ
みせずにお酌をしてくれた。すき焼きの肉もなくなった。
 里江がしばらく座敷に顔を出さないと思っていたら、外の
戸がガラリと開いた。風が出てきたのか埃っぽい匂いが部屋
まで流れ込んできた。台所のほうで人の気配が蘇った。里江
が新しい肉を大皿に乗せて部屋に入ってきた。わざわざ肉を
買いにいったみたいだ。切通の暗い道を行ってきたのか。申
し訳ない気がした。
「外は暗くなりましたか」わたしは聞いた。
「ええ、真っ暗ですよ。風も出てきましたし」
「風?」
「ひどい風ですわ」
 目を合わさないようにして答えた。その仕種が気にかかっ
た。外も気になったので耳を澄ませたがひっそりしている。
本当に風が出てきたのだろうか。そう思うと益々、周りが静
まり返るようだった。新しく燗をした酒が出てきたので、ま
た呑みつづけた。
 ドスンドスンという音が聞こえる。窓の棧を震わすほどの
大きな音だ。音のほうへ顔を向けると、知念は酔った目を大
きく見開いて言った。
「カキだよ」
「カキ?」
「そうだ、木になる柿だ。風が出てきたので落ちるんだ」
「あんなに大きな音がするのか」
 知念は意味もなくうすら笑うと言った。
「夜中に落ちるとびっくりするぜ。家中に響いて目をさます
始末さ。その音がこれまた気味が悪くて、こいつなんて悲鳴
を上げてかじりついてくるんだ」
 鍋に肉をひいていた里江が箸をとめ、わたしの表情を確か
めるように見た。きらりと輝く視線だ。わたしたちの会話を
気にしたようだ。
 柿はそれからも思い出したように落ちた。そのたびに驚い
た。知念は酔うほどに何がおもしろいのかクスクス笑うよう
になった。どうしたんだ、と聞いたが教えない。わたしが向
きになるのが楽しいようだ。時々、こんなことをするから変
人に見られるのだ。
 夜も更けてきた。これ以上、呑っていると終電車に乗り遅
れてしまう。夜道を風に吹かれて帰る覚悟を決めて立ち上が
ると、知念が酔いざましに送ると言い出した。里江もついて
くるという。
 外に出ると夜気は冷たかったが、風は吹いていなかった。
知らぬ間に風はやんだのだろうか。それでも切通のところに
は風があった。抜けるときゴーと地響きのような音がした。
益々、禽獣の唸り声に似てくる。里江はこの夜道を肉屋まで
行ったわけだ。人妻といってもうら若い身だ。人気のない道
は怖かったのに違いない。それをおして行くのだから性格は
きつそうだ。これくらいの女でなければ知念とはやって行け
ないだろう。似合いの夫婦のように思える。
 竹林にさしかかると、闇の奥が騒がしい。何かいるように
も思える。ふたりは知らんっぷりをしているように見えた。
 ドブ川を渡った。遠いところの灯を受けて反射するのか、
川面がきらきらしている。里江は少し遅れてついてくる。
「里江さんとはどこで知り合ったったんだ」知念に聞いてみ
た。
「気になるか」
「おまえみたいなところへよく来る気になったな」
「どうでもいいじゃないか」
 面倒臭そうに答える。経緯は聞いて欲しくないようだ。
 駅に近付くと風が吹きはじめた。知念の家のほうへ目をや
ると山全体が揺れているように見えた。今夜、知念のボロ屋
はさぞ揺れることだろう。あの家にいた間中、風が吹いてい
たような気がする。わたしが気付かなかっただけだという妙
な思いに囚われた。

 2
 ふたりでわたしの画廊へ来たことがあった。近くまで出て
きたので寄ったという。里江は踝までの長いスカート姿で娘
っぽい感じがした。家に訪ねたときの落ち着いた雰囲気とは
随分と違っていた。
 事務員はたまに彼が来ると気味が悪い人だと怯えた。今日
も用を作ってさっさと出掛けてしまった。知念は頓着せずに
自分の絵のところへ行った。応接間を暗くする雰囲気の怪し
げな人物像や風景ばかり描いているのだから売れるわけがな
かった。腐れ縁で置くようになっただけだから儲ける気もな
かった。売り込んだこともないから、絵はたまるばかりだっ
た。
 知念は自分の絵を満足そうに眺めながら右手の中指に出来
たタコを神経質そうに噛みはじめた。神経衰弱で入院する前
もそうだったので、気になった。それにしても出不精の知念
がわざわざ出向いて来るのも珍しいことだ。せっかくだから
飯を喰いに行こうと言い出すと、
「お肉を食べに行きましょうよ」と里江がすぐに答えた。
「おまえは肉が好きだな」知念が露骨に嫌な顔をした。「肉
しか知らないんじゃないのか」
「やはり、お肉がいいですわ」
 彼女は知念を無視して言い張る。
「強情な女だろ。言い出したら聞かないんだ」
 今度は白けた顔をする。彼女が顔を向けた。細い眉がぴく
りと動いた。そうしろと命じているようでもあった。
 宵のからっ風が吹く川沿いの道をすき焼き屋まで行った。
窓の下には大きな川が流れていた。風があるというのに小波
ひとつ立てない黒々とした川だった。
 里江はちょこんとふたりの間に坐って一生懸命、肉を焼き
小皿によそってくれながら、自分でも肉をおいしそうに食べ
た。野菜には手をつけずに肉ばかりに手を伸ばす。知念は肉
が冷めるのも放っておいて呑みつづける。
 知念は呑み飽きると、指のタコを齧りはじめた。チュチュ
という音が耳に届いてきて嫌な感じがした。苛立っているよ
うだ。切通の家で勝手気ままに暮らしてきた男だ。察してや
っても仕方ないので、知らぬ顔を決めて、里江にすすめられ
るがままに食べた。知念はそのうちに寝込んでしまった。
「昔から呑むと食わない男だったからな。でも年だ。少しは
からだに注意しなくちゃ」
「この人、あまり肉は得意じゃないんです」
 知念からは聞いたこともなかった。里江が心持ちからだを
寄せてきて言った。
「気にしなくてかまいませんわ」
「知念の嫌なものを付き合わせて悪いことをしたな」
「いいんです」
 と引かない。知念の言うように強情な女だ。とうとうわた
しは肉が好きなことになってしまったようだ。仕返しという
わけでもないが、ちょっと皮肉をこめて言ってやった。
「里江さんはぼくのことを何でも知っているようだなあ」
「そんなことはありませんわ」
 いつの間にかからだを擦りよせていた。柔らかな乳房がわ
たしの腕に触れている。わたしは気づかぬふりをした。
「でも、ぼくがどうして肉が好きと知っているんだい」
「わかりますもの」
「本当は里江さんが好きなんじゃないか」
「そうですわ、わたしが好きなんです」
 わたしの言い方が気に触ったらしい。さっとからだを離す
とあらたまった顔をした。あっさり言われると、それはそれ
で気になった。里江も知念の起伏に似ているようだ。
「里江さんは知念と知り合う前は何をしていたんだい」
「遠いところで暮らしていました」
「どこだ」
「言ってもわかりませんよ」
「じゃ、どうして知念と知り合ったんだ」
「どうしてだと思います」
「わからないから聞いているんだよ」
「詮索好きね」
「教えたくないのか」
「わかってしまえばつまらないでしょ」
「はぐらして喜んでいるのか」
「そんな女じゃありません」
「じゃ、どうして教えてくれないんだ」
 そのとき川に面したガラス戸が音をたてて揺れた。びっく
りした。よほど無様な格好をしたのだろう。里江がおもしろ
がった。
「カラスですよ。カラスがいたずらをしたんでしょう」
「カラス? 夜だぜ」
「この頃のカラスは夜でも飛びまわりますよ」
「鳥目じゃないのか」
「夜が明るくなりましたからね、昼間と一緒ですよ」
 夜にカラスが飛ぶのだろうか。そのことを考えてしまった
から、前の話がとぎれてしまった。

 3
 しばらくして知念から子供が生まれたと電話をもらった。
「どうだ、可愛いか」
 当たり前の褒め言葉を使うと、
「皺だらけの軟体動物みたいなものだ。出来損ないじゃない
のか」と投げやりに答えた。
「そのうちに可愛くなる。おまえに似てくるぜ」
「似なくても構わない」
「何て言うことをいうんだ」
「拾ってきた子じゃないのか。あいつはずっと抱いていて見
せようともしない。こっちだって見たくもないがな」
 子供なんて関係ないような男に子供が出来たのだ。照れ隠
しと取ってやりたいが、そのわりには言葉の端々にケンを感
じる。何と言えばいいのか困ると、知念が話を終わらせるよ
うに言った。
「まあ、おまえには知らせておかないとな」
 電話が切られた。知念は子供の誕生を望んでいないように
思えた。知念の臍曲がりめ。仕方ないやつだ、と思ったもの
の、放って置くのもおかしいから、お祝いを包んで知念の家
に行った。
 やはり冬に近い頃だった。空は鈍り色に光っていた。高い
ところでは風が鳴っている。
 久し振りに見る切通はまた崩壊が進んだようで道端に大き
な石が転がっていた。前には気がつかなかったが、道には黒
い羽が散らばっている。カラスらしい。随分と大きなものも
ある。近くの山に巣でも作ったようだ。
 切通は相変わらず風が吹いていた。ゴーと鳴っている。禽
獣がその音にあわせて喉を唸らせているように聞こえるのも
いつものことだ。岩の表面も小刻みに揺れている。風によっ
て切通がゆっくりと壊されてゆくのだ。
 通り過ぎた後にドサッという音がした。振り返ると大きな
石が道の端に落ちていた。自分の重みに耐えられなくなって
落ちてきたのだ。カラスの羽がその後から舞いながら落ちて
きた。
 連絡もしていないのに、赤ん坊を抱いた里江が玄関先で待
っていた。母親らしい落ち着きが出てきたようだ。苔の石段
を上ってゆくと里江が弾んだ声をかけてきた。
「お待ちしていたんですよ。あなたに早く見ていただこうと
思ってね」
 あなたという言い方が馴々しくて気になった。赤ん坊が泣
き出した。ふゃふゃと力のない腹をすかした子猫みたいな泣
き方をする。
「赤ん坊を寒いなかに出してもいいんですか」
「よくはありませんよ。この子はまだ一人前ではありません
もの」
「なら、なかに入らないと」
「見てもらったら、すぐに入りますわ。ほら見てやってくだ
さい」
 わたしの前にひょいと差し出した。厚い毛布に包まれてい
て、顔らしいものがあって動いている。夕暮れのせいで目鼻
立ちがはっきりしない。まだ一人前の赤ん坊になっていない
のか、皺だらけで醜く思えた。里江は褒めてもらいたい子供
のように目を輝かせた。赤ん坊は泣いているし、面倒になっ
たので、可愛い子だ、と言ったら、すぐに引っ込めてしまっ
たから男の子か女の子かもわからなかった。里江はそれで気
がすんだのか、さっさと入ってしまった。
 知念はアトリエにいた。髪もボサボサにして少し痩せたよ
うだ。表情が少しきつくなり、目付きも妙な感じだ。わたし
が椅子に坐るのを指のタコを噛みながらじっと見ていた。神
経の病気が再発でもしたのだろうか。お祝いを言ったが、ど
うでもいいような顔だった。子供が出来て照れている感じで
はなかった。夫婦の間に亀裂が出来てしまったのか。それな
ら聞かないほうが無難と考えて気付かぬふりをした。
 キャンバスがところせましと置かれているが、近頃では描
いてはいないようだ。パレットの絵具も筆も乾き、絵具を溶
く油の匂いもしなかった。別の部屋からは赤ん坊の泣き声が
弱々しく聞こえてくる。動物の鳴き声のような感じがして仕
方ない。
 外で家を揺るがすほどの大きな音がした。知念は動じなか
った。
「柿か」と聞いた。
「そうだ。今年は大きいのがなってな」
 知念は曇りガラスの窓のほうへ視線を流して言った。この
ときばかりは目が異様に輝いた。
「うまいらしい。カラスが突っいてゆくんだ。この柿のせい
でもないだろうがこの頃、ここらもカラスが増えてな。夜中
でも鳴きやがる。そのカラスが代わりばんこに来て喰い散ら
かしてゆくのだからたまらないぜ」
「それならカラスの前に食ってしまえばいい」
「おれは柿というやつが嫌いなんだ。腹が冷える」
 意地を張るように言う。またタコを齧る。様子を見ている
と知念が言った。
「柿が地面に落ちたのを見たことがあるか」
「ないね」
「気味のいいものじゃないぜ。熟れているから落ちるとぐに
ゃりと潰れるんだ。喰い散らかした肉片みたいだぜ」
「嫌なら切り倒してしまえ」
「あれは古い木だ。この家を建てる前からあったんだ。木に
斧を入れたら、祟りがありそうだ」
 それならどうしようもない。知念は赤く腫れて痛々しいタ
コを噛んだ。こちらが嫌になる。気がつかないふりをして曇
りガラスのほうへ目をそらした。暗くなっていた。ドスンと
また音がした。まっ黒な夜のなかで熟れ切った柿が耐えきれ
ずに落ちるのだ。そのたびに山のほうでカラスが騒いだ。
 里江が泣く赤ん坊を抱いたまま、夕食が出来ましたから座
敷のほうへどうぞ、と言いに来た。長居するつもりもなかっ
たから断ったが、残すのは勿体ないと言われた。里江が戻っ
てしまうと知念が憮然として言った。
「あの調子だ」
「何が?」
「子供を一時も離さないだろ。あの女は頭がおかしいんだ、
きっと」怒ったように言う。
「子供に女房を取られて焼いているのか」
 わたしが陽気を装って笑うと、知念は今度は本当に機嫌を
損ねたようにぷいと立ち上がって言った。
「おまえにわかるのかよ。居間へ行くぜ」
 居間に行くとすき焼きが用意されていた。ちょっとげんな
りしたが黙って里江にすすめられるれるままに坐った。里江
は片手で弱々しく泣く赤ん坊を抱き、あいたほうの手で器用
におさえ箸を使って肉を鍋にいれる。取り皿にも移してくれ
る。すすめてくれるので食べないわけにはいかない。知念は
不機嫌なまま呑み続け、酔い潰れてしまった。また弱くなっ
たようだ。苦しそうに鼾をかく。悪い夢でも見ているのか。
投げ出された中指のタコが痛々しかった。
 里江は赤ん坊を泣かせたまま黙々と肉を鍋にいれ続ける。
肉を焼くしか頭にないような感じだ。
 熱心に肉を焼く里江の顔を見た。勘違いをしたのか流し目
で見返された。ドキッとした。わたしの驚きを見抜いたよう
にくすりと笑った。
「どうしたんです」
「笑ってはいけませんか」
「いいえ」
 会話がとぎれる。赤ん坊の泣き声だけが静まった家のなか
の唯一の音だ。里江はきらきら輝く目で見詰めてくる。いた
たまれなくなる。
「ここは慣れましたか」
 彼女は妙な顔をした。
「山のなかの一軒家だ、淋しくないかと思ってね」自分でも
言い訳がましく聞こえた。
「慣れていますわ」
 意味ありげに響いた。わたしをはぐらしたいのか。何だか
腹ただしくなって、グラスを握っていた手に力をいれてしま
った。大して力をいれたつもりでもないのに、手のなかでコ
ップがバリッと割れた。掌にズキンとした痛みが走った。指
の間から血がポタポタと落ちた。
「切ってしまったんですね」
 里江が静かに言うと泣く赤ん坊を畳の上に寝かせて、わた
しの隣にやってきた。泣く赤ん坊を少しも気にしない。
「見せてくださいな」
 恐る恐る手を開いた。血が滴り落ちる。手を開くと人差し
指と中指の腹が切れていて、白い肉が見える。自分の怪我で
ありながら顔をしかめた。
「大したことありませんわ」
 里江は掌の上に散らばったガラスの破片を取り除いてくれ
た。表情は少しも変わらない。その間にも血がぽたりぽたり
と落ちる。恐ろしいとは思わないらしい。大したものだ。動
じない里江に驚いた。
「女はこんな血ぐらいでは驚いていられませんもの」
 わたしの気持を読むように言う。表情にうっすらと笑みが
浮かんでいるかのようだった。
「こうすればすぐに血は止まりますわ」
 彼女はわたしの二本の指を口に持っていって軽く啣えた。
大胆な仕種にびっくりした。手を引っ込めるのも忘れてしま
った。指の先に熱いどろりとした里江の舌がさわる。傷口に
も触れた。痺れる痛みが走った。彼女の口のなかでは血の匂
いが広がっているのではないだろうか。しかし平気な顔をし
ている。血の味を楽しんでいるようにも見える。表情が浮き
浮きしてくる。瞳が輝きを増す。魅入られているような感じ
がした。
 しばらくしてわたしの指を口から離した。傷口の肉は開い
たままだったが血は止まっていた。二本の指が里江の透明な
唾液に濡れて光っていた。薄く臘が巻き付いているようで美
しかった。傷口の肉は少し色付いていた。
「このお呪いはよく効くんですよ。指の付け根を押さえて待
っていてくださいな」
 里江は立ち上がって部屋を出ていった。すぐに絆創膏を持
って戻ってきて傷口に巻いてくれた。治療が終わると壊れた
ガラスを片付け、テーブルを汚した血も拭き取った。何もな
かったような顔をして泣いている赤ん坊を抱き上げて、また
肉を焼きはじめた。
 帰るだんになっても知念は目を覚まさなかった。里江が赤
ん坊を抱いて玄関先まで見送りに来てくれた。わたしのいる
間中、赤ん坊は泣き続けたが、ミルクもおしめもかえなかっ
た。
 玄関の向こうは真っ暗だった。風の音はしていたが、山の
向こうで吹いているような感じだ。おもてに出たところで里
江が、もう一度、赤ん坊の顔を見てくれと言う。家のなかで
言えばいいのにと思ったが、それで気持が済むならと言われ
た通りにした。毛布に包まれた泣いているばかりで人間の赤
ん坊という感じはしなかった。確かめるために指で触れてみ
た。冷たくぶよぶよして形がしっかりしていなかった。背筋
がぞおっとした。
「可愛いでしょ」
「可愛いですね」と取り敢えず答えると、
「暗くて本当にわかりますの」
 と疑るように言う。瞳がきらりと輝いた。わたしの気持を
見ようとしているようだった。わたしは言葉につまった。
「でも、可愛いと言っていただいて嬉しいですわ。今度、い
らっしゃるときにはいいお肉を用意しておきますわ」
 里江の表情をまっすぐに見た。闇のなかに白い顔がぼおっ
と浮かび上がっている。
「この子がいますから送って行けません。あなたもお気をつ
けてお帰りください」
 里江は赤ん坊を両手で抱き締めて丁寧に頭を下げた。また
あなただった。
 真っ暗ななかで何かが鳴いた。柿を喰いにくるカラスのよ
うでもあり、誰かが真似たようでもあった。
 切通を通って暗い道を駅まで帰ってきた。ほっとするもの
を憶えた。指の傷が思い出したように疼きだした。

 4
 一ヵ月ほどして、里江からおいしい肉が手に入りましたか
ら、ぜひ食べに来てください、と電話をもらった。知念の顔
を思い出すと億劫になるが、断り切れずに行くと言ってしま
った。
「それでは明日、いらっしゃってくださいませ。新鮮なうち
がよろしいですわ」
 里江は一方的に言って電話を切った。
 次の日、仕事を早めに切り上げて知念の家へ行った。陽の
落ちる前だった。また切通を通る。切通では風は鳴っていな
かった。あれは日暮れから夜半にかけて吹くものなのだろう
か。いつもと違った感じがした。
 道を下りはじめるとカラスの羽が落ちていた。そうとうな
数だ。カラスが増えたようだ。
 玄関先で声をかけた。家の奥から甘い匂いがしてくる。し
ばらく待たされて知念が顔を出した。不精髭をのばし、目は
窪み頬骨が高くなってげっそりとしている。
「よく来たな。あいつが待っているぞ」
 頬のあたりに嫌味っぽい笑みを浮かべて言う。無関係なこ
とで勘繰られているような気がして嫌な感じがした。
 居間に案内された。テーブルにはすき焼きが用意されてい
た。甘い匂いは醤油の焦げる匂いだ。手回しがよすぎる。
 言われるままに坐ると奥から肉を乗せた大皿を持って里江
が入ってきた。
「よくいらっしゃいました。本当においしい肉なですよ」
 と目を輝かせて言う。
 すき焼きがはじまった。柔らかく甘味のある肉だった。食
欲をそそる甘い味だ。
「牛じゃなさそうだが、この肉は何です?」気になって聞い
た。
「さあ、何でしょ」
 里江がうれしそうに答えて、小皿に肉を載せて渡してくれ
る。里江もいつものようにしっかりと食べている。知念は食
べもせずに呑むばかりだ。
 亭主がいるのにわたしを見詰める。窮屈な限りだ。知念は
おもしろくなさそうな顔をする。知念を気にしていると、指
のタコを齧りはじめた。苛立っているがわかる。裏の山がガ
サガサ騒ぐ。大ガラスのはばたきのようにも、ものの怪が山
を下ってくる音のようにも聞こえる。
 里江は頓着なく箸を動かしている。わたしはたらふく食べ
てから箸に挟んでいた肉を眺めた。知念がタコを噛みながら
にやりとした。隠しごとがあるような気味の悪い笑みだ。噛
み続けたタコは爛れて血が滲んでいる。わたしは気を使って
知念に言った。
「おまえは食わないのか」
「おれはいい。食いたくないんだ」
「うまい肉だ」
「それなら腹一杯に食えばいい。肉は冷蔵庫に一杯あるから
な」
 タコをきつく噛みながら言う。その姿にげんなりして箸を
置いてしまった。知念はタコが切れて血が滲んでいることに
気がつかないで噛み続ける。
 とうとう我慢できなくなって、タコが裂けているぞ、と注
意をした。知念はちぎれかかったタコを見て、はじめて気が
ついたような顔をした。しばらく眺めていたが滲む血を舌の
先で舐めはじめた。血の味を確かめているような嫌な顔付き
だ。
 里江はしばらくして食べ飽きたらしく箸を置いた。唇につ
いた肉の脂を舌先で器用に嘗めて満足そうな顔をしている。
鍋のなかでは残った肉が固くなっていた。甘い醤油の焦げる
匂いが居間に立ち込める。
 会話も弾まないので、わたしが里江に手当てをしてもらっ
た指の傷跡を思い出し眺めると、知念が顔を上げた。充血し
た恐ろしい目付きだ。知念は口元に笑みを浮かべた。その笑
い方は尋常ではなかった。目付きも違う。急に恐ろしくなっ
て、退散することにした。里江は、まだ肉があるのに、と残
念そうな顔をして引き止めたが、知念は黙って玄関まで送っ
てきた。三和土に立った知念の後ろに伸びる廊下がひっそり
としている。赤ん坊が泣いていないことに気が付いた。
「子供はどうしたんだ」
「死んだよ。まともに育つ子供でもなかったがな」
 大切なことをどうして話さなかったのだ。わたしは知念の
顔を見たが、本人はいたって平気な顔をしている。好きでな
かったようだからいいだろうが、里江のすっきりした顔が気
にかかった。可愛がっていた子供を亡くしてよく平気でいら
れるものだ。聞きたいところだが、変わったやつだから答え
るわけがない。わたしはお悔やみの言葉も忘れて外に出た。
 冷たい宵闇が漂っていた。周囲の木立ちはじっとしてわた
しを見守っているようだ。裏山でカラスが鳴いた。それにつ
られて一斉に鳴きだした。それがおさまるまで時間がかかっ
た。
 わたしは木立の淋しい道を戻った。石ころのころがる道を
登って切通へ向かう。切通ではコロコロ小石が落ちていた。
風もないのによく落ちる。今度、来るときまで崩れてしまう
のではないかと、宵闇に聳え立つ切通を過ぎて振り返った。
 切通の向こうの薄闇が気にかかった。思い詰めるような異
様なものを感じる。
 まさか……急に胃のあたりがむかついてきた。わたしは我
慢できなくなって、一きわ高い木の根元へ行って吐こうとし
たが、酸っぱい胃液が込み上げてくるだけだった。  《了》
                                  


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