小説家107号  

ベルンハルト・シユリンク作


「朗読者」の感動


──Sさんへの手紙──

石井利秋

 この前あなたから薦めていただいた「朗 読者」をいま読み終わりました。一度目に 読み終わったあと、なぜこんなに心を打た れるのか考えようと、すぐもう一度読み返 したのですが、気がつくと最初と同じ感動 で読み終えていました。優れた小説という のは読者を作品の主人公と同一化させ、よ けいな思考を停止させてしまうようです。 そういう意味では本当に、実に久しぶりに、 素朴な一読者の立場で読み終えたというこ とです。  出会ったときは、十五歳の少年ミヒャエ ルと三十六歳で一人暮らしのハンナ。母子 ほど年の違う二人の終生の恋。これほどの 深い愛、これほどの困難。にもかかわらず 愛を捨てきれない二人の姿が否応なく胸に 迫ってきました。  突然ハンナがいなくなったとき、ミヒャ エルは自分が捨てられたと思って探し回り ますがどうしても見つけだせません。  後年、大学で法律を学んでいたミヒャエ ルが、偶然ハンナを見つけた場所は、ナチ 協力者として裁かれる被告人席でした。  法律を学ぶミヒャエルの研究テーマは、 過去の行為をさかのぼって罰することを禁 止すべきかどうか。強制収容所の看守や獄 卒たちが裁かれる根拠はなにか、といった もののようです。このあたりは非常に微妙 です。ミヒャエルの葛藤は、ナチに対する ドイツ人の良心そのものなのでしょう。六 十年代のドイツではこの種の裁判がたくさ ん行われており、ハンナの裁判も特別のも のではなかったことが書かれています。ド イツ人自身によるナチ協力者への断罪でし た。その点日本は不徹底だとも言われてい ますが、この物語を読む限り、正直言って ドイツ人がドイツ人を裁くことの意味が分 からなくなってきました。作者も「書き割 りとしての収容所」と言っていますが、ハ ンナの場合に限らず、いろんな事情が個々 には存在しているに違いないと思います。 昔の収容所を自分の目で確かめに行くミ ヒャエルに、ベンツに乗った紳士がニヒル な口振りで言います。 「……職員は自分の仕事をし、邪魔だとか 脅かされたとか攻撃されたというような理 由で囚人を憎んで処刑するのでもなけれ ば、彼らに復讐するために殺すのでもない」  彼らはただ自分の仕事の一つとして処理 していたのだというのです。ミヒャエルは この言葉に憤慨し、彼を黙らせるような言 葉を探しますが見つかりません。  作者はこの作品を通じて、個々に見てい けばどちらとも決めかねる問題をも含め て、ドイツ人の歴史について許しを求めて いるのかもしれません。読む側とすれば、 いやおうなく歴史の不条理をつきつけられ た感じです。  ミヒャエルはあれほどに愛しながら、彼 女の「過去」によって自らの法律家として の立場も、恋人としての立場もともに動き を封じられてしまい、結局ハンナを最終的 には救えませんでした。  この小説では、ハンナが読み書きができ なかったことが、キーポイントになってい ます。ミヒャエルは裁判の途中で、ハンナ がもともと読み書きができなかったことに 気づきます。そのことを明らかすることで、 刑を軽くできたかもしれなかったのに、手 を貸すことをしませんでした。  哲学者であるミヒャエルの父は言いま す。 「他人がよいと思うことを、自分自身がよ いと思うことより上位に置くべき理由は まったく認めないね」  ミヒャエルが聞きます。 「もし他人の忠告のおかげで将来幸福にな るとしても」 「わたしたちは幸福について話しているん じゃなくて、自由と尊厳の話をしているん だよ」  なぜ父親は、あんなことしか言えなかっ たのでしょう。ヨーロッパ人の個人主義と いうものでしょうか。読んでいて口惜しく てなりませんでした。  ハンナは自分が読み書きのできないこと をかくすために、他人の罪をかぶってしま います。それほどのこだわり。情熱とでも 言いたいほどのこだわりは、どうなんだろ うとふと思いましたが、この自尊心がハン ナの人間的な魅力になっていることも確か です。文字を学べなかったハンナの生い立 ちや教育事情は、日本しか知らない私には ちょっと想像がむつかしいので、このとお りに理解するしかありません。  ところで、この小説ですが、三部構成に なっています。第一部がミヒャエルのハン ナに対する、実に初々しい恋の描写に当て られています。全二百七ページ中八十二 ページですからはとんど半分近くなりま す。この長い第一部を読みながら、少年と 成熟した女の性愛小説だと勘違いしてしま うおそれはあります。私にはこの部分だけ でも、美しい恋物語として十分に魅力的で したが、この部分を嫌ったり見くびってや めてしまった読者は、この小説のすごさに 出会うことはできません。  第二部で、ようやくこの小説のテーマが 示されます。そしてやはりなんといっても 第三部でしょう。ハンナは裁判の席で自分 が文字が読めないことを隠したために、あ りえない罪をかぶる形で、同じ場所にいた 仲間より重い刑に服すことになります。ミ ヒャエルは、ドイツ人のナチに対する良心 とハンナに対する愛の狭間にいて、何もし てやることができません。ようやく思いつ いて、かつてハンナがあれほど求めていた 朗読をテープにとって送りはじめます。ハ ンナはこのテープを聞きながら本に書かれ た文字を自力で覚えます。文字を覚えたハ ンナは、読書を通じてナチと自分を含む協 力者たちが犯した罪を理解します。  ハンナから手紙が届きますが、ミヒャエ ルは返事を書くことができないまま、相変 わらず朗読テープだけ送り続けます。そし て十八年目にハンナが釈放される直前、刑 務所長の要請で、ようやく面会に行きます。 ぞくぞくするようなクライマックスです。 が、実際のハンナは髪は灰色、顔にも深い 皺が刻まれています。 「大きくなったわね、防や」とハンナは、 昔と同じ言葉で呼びかけます。ハンナはこ の一瞬を、どんな思いで待っていたことで しょう。ミヒャエルは、かつてのハンナが 持っていた大好きだった新鮮な匂いを思い 出しながら、隣に座ります。  しかしハンナは、釈放の朝自ら命を絶ち ます。真実を知ってしまったハンナは、や はり死ななければならなかったのす。この 取り返しのつかない、過酷な事実の前で立 ちすくんでいるミヒャエルの姿が浮かび、 私は本を閉じることができないでいます。

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