おんな十二ヵ月   (小説家74号)                 

                       関谷 雄孝
    馬車通りの女 ─ 一月 ─


 謙一郎が小学生の時、昭和十四、五年頃の思い出である。
 その頃、彼の住んでいた東京下町の、Mという街には、二軒
の餅菓子屋があった。一軒は市街電車の通っている繁華な道路
に面しており、もう一軒は、馬車どおりと名のつく裏道の角に
あった。
 家の者たちは、餅菓子を買うのは、馬車通りの店は汚いから
電車通りの店で買うようにいつも言うのだが、彼は汚い店の方
がどうしても好きだった。
 それは値段がやすくて同じ金額で二倍近くの数がくるのも魅
力だったが、店と製造している場所がつながっていて、ガラス
の入った格子戸を引き開けると、そこには年中餡を煮る甘い匂
いが漂い、冬などは餅をふかしている湯気がたち込めているの
が嬉しかったからである。
 彼は、時々、電車通りの店が休みだったと嘘をついては、そ
の店へ買いに行った。
 正月、松の内は過ぎていたが、まだ路地の隅などには取りは
ずされた〆飾りや笹竹などが積み重ねられて残っていた。彼は
お使いを頼まれて家は出たものの、今日もどちらの店へ行こう
かと迷いながら街角までくると、乾いた冷たい風がつむじを巻
きながら吹き荒れていた。彼はあの湯気に誘われるようにして
馬車通りの店へ入った。
 家の者がいけないと言うだけあって確かに店は汚かった。
 格子戸の横に、申しわけのようについている飾り窓のガラス
も年中うす汚れていて、大福や紅白の餅といっしょに、のり巻
やお稲荷さんが並べられてあったが、紅生姜の赤さだけが、き
わだって鮮やかな色をしていた印象が残っている。戸を開ける
と、嬉しい湯気がいっぱいだった。顔見知りの親爺さんは奥の
方で仕込み中らしく姿が見えなかった。しばらく黙って待って
いると、うす暗い店の中に珍しく人がいるのに気がついた。
 入口を入ったところは狭い土間になっていて、傷だらけのテ
ーブルが一つと、背当てが籐づるで編んである歪んだ椅子が数
脚おいてあったのは知っていたが、人がいることはなかった。
 そっと横目で見ると、こざっぱりはしているがみすぼらしい
着物を着た女の人と、その子供らしい七、八歳の痩せた男の子
が並んで坐っていた。女の人の顔は細面で眉がうすかった。
 ただ、二人の様子が異常だった。
 テーブルの上には、多分注文したのだろう、皿に大盛りにさ
れた大福餅が置かれていたが、二人は食べようともせずに下を
むいて、静かに泣いているようだった。当時の子供にとっては
思わず眼を輝かせてしまうような豪華ともいえる皿の上の菓子
の山だったが、男の子は肩を落とし、馘をうなだれていた。時
々、女の人が
「さあ、お食べ。たくさん食べなよ」
 とやさしく小声で言うのだが、男の子は静かに泣きじゃくる
だけだし、女の人もそう言う度に両手を膝に置いたまま、涙を
ぽとぽと落として泣き続けていた。

 彼は居たたまれない気持になっていたが、ようやく奥から出
てきた親爺さんに注文をすると、親爺さんも二人の方は見ずに
そっと品物を包んでくれた。

 それだけの話である。
 外へ出ると馬車通りの風は一段と冷たかった。
 それから半世紀近く経つが、「さあお食べ。たくさん食べな
よ」と言う声は今でも彼の耳の底に深く残っている。その、多
分親子だったと思う二人の身の上にその時どんなことが起こっ
ていたのだろうか、ふと考えることがある。貧しさはあったと
思う。そして、テーブルの上のものが普通の食事ではなく、大
盛りの大福であったということが、二人の上の哀しさをよけい
強く訴えてきて、たまらなくなる。

 松の内は過ぎたが、まだ正月の華やかさがどことなく残って
いる時期になると、謙一郎は、うす暗く、甘い湯気のたち込め
た中の、女の人の寂しそうな蒼白い顔を思い出す。





    冬の庭にて ─ 二月 ─ 


 信雄の家の赤い寒椿の花が、知らないうちに、すっかり摘み
取られているのを最初に見つけたのは、小学校四年になる長女
の忍だった。
 忍は花が大好きな子なので、その朝、学校へ出かける時、突
然、大きな叫び声を挙げながらそれを告げた。彼女にしてみれ
ば、ほかに一つも花のない厳冬の庭に、それだけが赤かったの
で毎朝楽しみにしていたのだろう。ほとんど泣きだしそうな声
だった。
 その声で信雄が外へ出てみると、丁度、信雄夫婦の寝室の窓
下にある、丈の低い寒椿には一かけらの花もなかった。
「一体、いくつ咲いていたの」
「六つ」
 忍の声にはもう幼い怒りがこもっていた。信雄は心ない悪戯
をするものだと思いなが
ら、そこいらを見廻してみたが、不思議に花弁一枚残っていな
かった。
「なんだか気味が悪いわ」
 忍が学校へ出かけてしまった後、妻が言っが、門から入って
一番奥にある寒椿の花だけが夜のうちに摘みとられていたとい
うのは、考えてみると奇妙な話だった……。
 しかし、神田にある建築設計事務所に出て仕事を始める頃に
なると、そのことも頭から薄れ、午後、横地裕子から久しぶり
に夕食の誘いがあった時には、もうすっかり忘れていた。

 珍しく裕子は、やや大柄な躯を淡い水色地の小紋に包んで、
芝にある静かな普茶料理の店の奥座敷で待っていた。
 少壮建築家だった夫を若くして亡くした裕子とは、仕事の上
で知り合ってから五年余りがたっている。三十六歳という年齢
が、照明デザイナーという職業の持つ華やかさを程良く落ち着
かせていた。子供もおらず、母親と二人で世田谷のマンション
に暮らしている裕子とは、月に一、二会っては食事をし、時折
は、気がむけば地方都市の美術館へ見たい絵を見に行く小旅行
をするまでの間柄になっていた。
 しかし、なん回会っても二人は、中年の男と女ならばだれで
もが知っている、絡み合う情念を、躯の襞と襞との間で擦り合
わせながら、一層濃厚な愛へと高揚させ、変貌させるという、
上手な時間の使い方を知らなかった。信雄は、裕子に対して別
々な人生を歩いてきて、いま、同じ時代を生き続けている人間
同志、そんな連帯感のようなもので触れ合ってきたし、彼女も、
なんとか都合しあってつくり出した時間でも、仕事の話が入る
と、明るい声で「ごめんなさい。仕事で……」と射って約束を
中止にすることさえあった。
 その夜の裕子は、初めて舞台の照明デザインの仕事がきたこ
とを珍しく上気しながら話、信雄は色白な肌に、やや濃い眉と
大きな光る眼を持つ彼女を見詰めながら静かに聞いていた。
 蛋白ではあるが、非常に手のこんだ料理が一時途切れた時、
大きな一枚ガラス戸越しに外を眺めていた裕子が、なにを見つ
けたのか、ふと口をつぐんだ。白い土塀で部屋毎に巧みに仕切
られている小さな庭は、枯山水風に仕立てられ、うすい蒼い水
銀灯の光の下で浮きあがるように照らされていた。
 裕子はゆっくり立ちあがると、下駄をはいて庭へ出ていった。
 一人部屋に残った彼は、普段と少し違う彼女の立ち居振舞に
いく分戸惑いながらも黙って盃を傾けた。
 数分たっても、寒い庭から戻って来そうもない気配に、彼が
ガラス戸のところまで行くと、裕子は庭の隅に向こう側をむい
てしゃがみ込み、なにかをじっとこらえているようだった。そ
の動かない後姿に、ふと不安を感じた信雄は、自分も庭へ出る
と彼女の背中へ近づいた。夜気が頬に痛いくらいに冷たかった。
「どうしたの」
 声を掛けた。裕子はしばらく黙って、水銀灯の光のために一
層蒼白く見える小紋の背中を見せていたが、やがて小さい声で
呟くように言った。
「あなたの家の寒椿は……、寝室の窓の、すぐ下にあった……
わ」
「……」
 肩越しに見ると、彼女の前の、植込みの下の砂に、寒椿の花
弁が氷りついたように散らばり、濃緑色の萼の真ん中だけが生
々しく白い部分を覗かせていた。





    桃咲く頃に ─ 四月 ─


「ママ、ママがどう考えているのか知らないが、今でもぼくは、
あの医者がパパを殺したと思っているんだ」
 突然、岳彦の大人びた声が聞えた。その声で美佐子は、いつ
の間にか岳彦のベッドに腰を降ろしてぼんやりしていた自分に
気がついた。
 いつ帰ってきたのか、高校三年になる岳彦が入口の所に立ち
はだかるようにしてこちらをじっと見ている。
 サッカーの選手になってから見るみるたくましくなった胸幅
と、陽やけした精悍な顔が、一年前に死んだ夫と時折息が詰ま
るほど似てきた。しかし怒鳴るように叫んだ岳彦の眼は、口か
ら出た言葉ほど怒ってはおらず、むしろ哀願に近い光がにじん
でいるのを感じると、美佐子の心は微妙に揺れた。

 勤めから戻って、岳彦の部屋を掃除してやろうと、カーテン
を開いた時、窓の下の隣家の桃の花が眼に映った。
 七分咲きのうす桃色の花は、静かに暮れなずんでいく周囲の
柔らかい空気の中へ色をにじませて、輪郭も定かでなくなり、
小枝も幹も消え、花だけがいくつか寄り添いながら宙を漂って
いるようだった。
<花の妖精が、そっと抜け出すとしたら、こんな時刻なのね>
 甲州の一の宮で、美佐子は先妻と別居していた夫と丁度同じ
時期、同じ時刻に満開の桃の花を見た記憶がある。夫は聞えな
かったのか、返事もせず魅せられたように花に見入っていた。
<なにを考えているの>
<……>
 若かった美佐子は、なお黙って心を奪われている夫の姿に、
急に悲しくなると涙があふれた。
<どうしたんだい>
 夫は一瞬なんで美佐子が泣き出したのか分からなかったよう
だが、静かな優しい声で言うと、そっと肩を抱いてくれた。
 五歳になったばかりの岳彦と暮らしている夫のマンションへ
美佐子が生活を始めたのは、それから数カ月後のことだった。

「岳ちゃんは、そう言うけれど、あの先生はパパの親友だった
のだし、一生懸命、治療してくれたのよ」
「嘘だ。それならパパはいま生きている」
 ──俺が病気になったら井口にまかせて治してもらう−−と、
口癖のように言っていた夫が、ほんの風邪のような症状から、
一週間もたたないうちに井口の病院であっけなく死んでしまっ
た時、美佐子は不思議に井口を恨む気が起らなかった。それは
日頃から夫がどんなに井口を信頼していたかを知っていたから
であり、なん日も徹夜で治療を続けた井口の疲れきった姿を見
ているためでもあったが、夫が死んでからも、美佐子は岳彦に
内緒で何回か井口と会っていた。
<あいついはあの世でいくらでも詫びられる。それよりも貴方
が気落ちして躯でもこわしたら、申しわけなくて……>
 街の灯が小さく見下ろせるバーで、酒を飲みながら二人は亡
夫の思い出を静かに語り合うだけだったが、ある夜から井口と
いると、時折、美佐子の躯の中を身悶えしたくなりような固ま
りが突きあげてくるのを感じるようになった。
<もう、止めなくては>
 となん度も思いながら、時にはこちらから電話をすることさ
えあった。

「いや、違うよ。あいつが薮医者だったからパパは死んだんだ」
 岳彦は少し意固地になって怒ったような口調で言い続けた。
「いったい、どうしたというの。今日の岳ちゃんは、変よ」
 美佐子は岳彦の顔を眺めた。その顔はいつもと違って恐ろし
いほど男臭い顔になっていた。
「……変よ……」
 口が乾き、うわ言のような言葉が繰り返された。
「どうせ、変だよ」
 突然、岳彦が吠えるように叫ぶと美佐子へぶつかってきた。
すっかり大人に成長した筋肉が彼女を押しつぶし、二人は勢い
が余ってベッドの上に倒れ込んだ。
 覆いかぶさった岳彦の腕に次第に力が加わってきた−−。

 美佐子は息もつけないほどの抱擁の中で、その腕の中に自分
と血の繋がりのない男を知ると同時に、閉じた瞼の裏に、桃の
花の、一斉に狂おしく赤く染る影が見えはじめた。





    五月の風紋 ─ 五月 ─


 もういくら探してみても、あの頃の白い砂丘は見当らなかっ
た。
 鹿島灘一帯の海岸にひろがっていた懐かしい砂原には、開発
のために白いテトラポットの城壁が連なっているだけだった。
 ──あの頃、白い砂丘にはだれもいなかった。ただ、五月の爽
やかな太陽が、ゆるやかに起伏している砂の丘に静かにさし込
んで、陽炎が夢のように立ち昇り、眼の前にひらける海も、う
ねりだけが、まるで眠りこけている巨人の寝息のようにゆっく
り動いていた。
 邦夫はすり鉢の底のような場所に寝転がって、砂の壁で丸く
区切られている蒼い空を眺めていた。
 終戦後数年の混乱期に、この辺りを雑貨の行商をして歩いて
いた頃の、屈辱にまみれた、ほろにがい青春前期の思い出があ
った。そしてもう一つ、必ず浮かんでくる風景がある。
 ──今にも降り出しそうな、厚い雨雲の垂れ込めた夕方。松
林の中の道を、売れ残った品物を肩に、疲れた足でいそいでい
た時、突然、眼の前に、夏草に覆われ、おびただしい爆撃の穴
が、まるで髑髏の眼窩のように無数にあいている荒れ果てた滑
走路があった。それは思わず身震いがでるような寒々とした風
景だった。
 邦夫はもう半ば諦めていた。
 丁度、昔あるいた場所の近くに用事ができたので、記憶をた
よりに来てみたが、なにも残っていないようだ。テトラポット
の壁が続く海岸線もだい分歩いてみたが、そろそろ引き返そう
と思った。
 その時、遥か遠くにやっと小さな砂丘のようなものを見つけ、
その裾の辺りに流木かとも見える人影を見た。そこまで行って
から引き返そうと、彼は思った。
 近づいて見ると、人影は白いブラウスに黒のスカートをはい
た初老の婦人だった。妙に人恋しくなっていた彼は近づくと
「今日は」
 と声をかけた。しかし婦人は聞こえなかったのか返事もしな
いで、黙って足下の砂を見続けている。そこには、ごく狭い範
囲だったが、崩れかけた波形の風紋があった。邦夫はしばらく
立ち止まっていたが、それ以上語りかける切っ掛けを失い、そ
のまま立ち去ろうと二、三歩あるいた時、婦人が小さく呟いた。
「……?」
 思わず立ち止まって振り返ると
「風紋は変わらない……ものです」
 下を向いたままの姿勢で、はっきりと言った。
「そう。そんなものです……か」
 彼はもう一度戻ろうかと思ったが、老婦人の坐り方はそれを
拒むように固いポーズだった。

 海岸から国道へ出てバスに乗ろうと、防砂林の間の道をしば
らく歩くと、広い道路へ出る角に藁葺きの雑貨屋があった。バ
ス停留所にもなっている。
 中へ入ると小柄な愛想のよい老婆が店番をしていて、飲み物
をもらいながら砂丘で出会った初老の婦人のことを聞いてみる
と
「ああ、今日は、あの娘がおりましたか」
 と答え、老婆はどこにでもあった終戦の秘話を話してくれた。
 若い特攻隊員と女学生との恋。そして出撃。終戦後の出産。
赤ん坊の死。狂気……。
 邦夫は老婆が語ってくれた物語よりも、ちらと見た横顔や歳
月から考えて五十は過ぎている婦人を、まだ、あの娘と呼んで
いる老婆の気持ちが無性に嬉しかった。

 次のバスまでの時間がずいぶんあったので、彼は予定を変え
ると、しばらく海岸と平行している松の防風林の中を歩くこと
にした。
 あの娘は、天気の良い日になると時々は砂丘の裾に一日じっ
と坐っていると言う−−邦夫の記憶の中で、荒寥とした飛行場
跡と、崩れかけた幽かな風紋を見つめている婦人の灰色の髪が
一つに溶けはじめた。
 烈しい戦争の末期に、二人が砂丘に坐って、はかなく崩れて
いく風紋になにを想い、何を祈ったのか、分からなかったが、
その時から四十年たった今日も
「風紋は変わらない……ものです」
 と呟く女に、彼は強い感動をおぼえた。
 そして時を重ねながらも、その言葉だけを呟きつづける初老
の婦人の姿を思い浮かべているうちに、邦夫は哀れさを突き抜
けた爽やかささえ感じはじめた。





    梅雨の女 ─ 六月 ─


 重く垂れ込めた空も水郷地帯までくると、ひらけた風景のた
めに、少し明るくなった。
 バスは青田のひろがる平坦な道を、濡れたタイヤの音を立て
ながら静かに走っている。やがて、道路より一段低く、二、三
軒の平屋がかたまっている所で止まった。修三は緑色に煙って
見える雨の中へ、傘も持たず、ジーパン姿で降りたった。
 軒の低い雑貨屋を曲がり、驚くほどの水量で流れている掘割
の石橋を渡ると、左へ折れた。雨はあたたかく、濡れるのが気
持よいほどだった。掘割沿いの道に、赫土色の醤油倉庫が数棟
建ち並んでいる。
「あっ」
 その蔭に思いもかけなかった義姉が、白い上布を着てひっそ
りと立っていた。古風な蛇の目傘を透したうす青い光の下で、
彼女の流れるような頬の線が、一層、美しくきわだち、彼は思
わず立ち止まった。

『妻は僕を憎んでいる。それは仕方がないと思う。しかし、躰
も満足に動かすことができず、その上、一日、二、三回も襲っ
てくる烈しい頭痛に苦しめられている僕を、あれはただ見詰め
ているだけなのだ。僕にむかって罵ったり蔑んでくれるなら、
まだ我慢もできる。僕を眺めている表情の中には動くものがな
にもないのだ。一度、訪ねてきてくれ。そうでないと、間もな
くオレは気が狂う』
 下宿のむし暑い部屋で、いつものように気障でひとりよがり
な兄の手紙を読み終わった時、修三はその場で破りすてようか
と思ったが、ふと義姉の顔が浮かんだ。もう二年近くも会って
いない。無意識のうちに彼の方から避けていた。突然、寒気の
ようなものがこみあげてきた。それが彼女への会いたい気持ち
だとわかった時、彼はすぐに郵便局へ行って、明日そちらへ行
くと電報をうった。今の時代に電報でもないとは思ったが、顔
を見る前に義姉の声を聞くことになる電話だけは掛けたくなか
った。

 醤油倉がつきた所で、更に狭い水路に沿って曲がると、道の
両側に葦が密生している中へ入った。義姉が二度、三度と傘を
さしかけてくれたが、彼は頑固にことわった。いつの間にか二
人の周囲には静かな雨音と、豊かな水音だけがあった。その音
が二人を柔らかく包むようになると、修三は次第に息が詰まっ
た。
「義姉さん。義姉さんは、兄貴を憎んでいる?」
 彼は息苦しさから逃れようとして思わず唐突な質問をしてし
まった。
「いいえ」
少しも慌てずゆっくりと答えた。傘からしたたり落ちる澄明な
滴のむこうで、彼女の横顔は少しの動揺も見せなかった。
「それでは……」
修三は無理に言葉を続けようと思った。
「それでは……、今でも兄貴を愛しているということ……」
 言ってしまってから、その言葉の後ろ姿を呪った。義姉は一
瞬戸惑った表情を示したが、
「修ちゃん……」
 たしなめる口調で彼を押えた。しかし修三はその瞬間に彼女
の切れ長の眼の中に艶やかな光が満ちたように思えた。彼はそ
の眼を見つめながら後の言葉を待ったが、言葉はそこで切れ、
また横顔を見せた。

六歳も年が違う兄が、比較文学の講師をしていたF女子短大の
若い学生と二人きりで深夜の湘南をドライブ中にコンクリート
の防波堤へ激突し、女子学生は即死。兄は腰椎骨折の重傷を負
って一生車椅子の世話になる躯になったのは三年前の夏のこと
だった。修三は病院へ二、三度見舞いに行ったが、義姉の顔を
まともに見ることがどうしてもできなかった。 
 雨はあい変わらず強くもならないかわりに、降り止むことも
なかった。まだ昼を少し廻った時刻だというのに、周囲には夕
暮の沈んだ気配が漂っている。シャツに浸みこんだ雨が、よう
やく修三の背中にうすら寒さを感じさせはじめた。
「……人を憎むということは、それは苦しいことなのよ……」
 義姉はゆっくりと歩き出しながら、口を開いた。
「愛することの方が、どんなに楽なことなのか……修ちゃんに
はわからないでしょうね」 彼女がじっと眼を送っている正面
には、鬱蒼とした水神の森が灰色に煙って見えた。なに気ない
口調で言ったその言葉の、意外な重さに修三はたじろぐ思いで、
彼女の鋭いほど端正な頬から頤へかけての線を見つめた。

 やがて彼女はゆっくりと顔をそむけた。その時、偶然なのか、
それとも故意に見せたのか、美しい襟足をもつ首に、軽く噛ま
れた歯の跡が、いまにも消えそうに浮かんでいるのが見えた。
 気がつくと、雨は止んでいて、あたりは霧に変わっていた。
 


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