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退　職　旅　行

小説家９８号

石　井　利　秋

　洋一は、ホームセンターで買ってきたプラスチックの庭椅子を、芝生の上に持ち出して座ってみた。特別暑くもなく寒くもなく、こうしているにはちょうどよかった。見慣れたなんの変哲もない庭木にぼんやり目をやりながら、洋一は頭の中で一つの考えを転がしていた。季節が来れば新芽を吹き、毎年新緑とともに生命を更新して生きつづけていく植物たちの不思議さ……、言葉にしてしまえばそんなことになる。洋一はかすかに眉をしかめた。これまでの洋一の人生の中で、こんなことをまことめかして考えたことはなかったから、自分に対する照れかくしに眉をしかめたのだったが、やはりとらえられていた。　自分の体の中で成長を続けているもの。命を脅かしている何か……。いずれ生命あるものは死ぬ。それは樹木でも同じだが、少なくとも自分が死んだ後もこの庭木たちが何年も生きつづけることはまちがいない……。　妻の慶子が庭にまわってきた。「はがきが来ていたわ」　いつもながら、屈託のない明るい声なのが助かる。慶子の声を聞いていると、いま自分の心の中で思いわずらっていることも、単なる杞憂にすぎないのだろうかと思ってしまいそうだ。とりあえず慶子の出現で、つい陥りがちな不吉な想念から解放された洋一は、ほっとしながら、はがきの差出人を確かめた。「秋葉さんからでしょ、なんて書いてあるの」と妻が聞いた。　洋一と秋葉とは高校時代、大学時代の同級生で、ことに大学時代は、気のおけない親しい友人として付き合っていた。結婚した後の数年間は近くに住んでいたので、家族ぐるみの付き合いだったから、慶子も秋葉のことはよく知っていた。あの頃、先に家を建てたのは秋葉の方で、訪ねて行くのはもっぱら洋一の方だった。「定年退職の挨拶状だよ」　秋葉は一年間大学に残っていたから、就職は洋一の方が早かったが定年は一緒になった。秋葉の家に遊びに行っていた頃からかぞえても、三十年になる。付き合いがとだえたのは、洋一が現在の場所に家を建てたために、簡単には訪問しあえなくなったからだった。「ああ、挨拶状ね。そういえば、あなたはそういうの出さなくていいの」「だって、おれなんか平教員だったし、そんなものを出さなくてはならない義理はどこにもないよ」「そういえばそうね。でも秋葉さんも平教員のままだったでしょ」「読んでみるかい」洋一ははがきを差し出した。「ええ」　慶子は、ざっと目を通した。「うまく書くものね」「こういうのって、けっこうむつかしいんだ。やっぱり形式ってものがあるんだろうけど、少しは自分を出したいだろうし」　これからは、趣味を生かして読書や絵、海外旅行、囲碁などいろいろなことをやっていきたい、と書いてあった。なんとたくさんのことを並べたものだ。秋葉はきっとどこにも健康的な不安がないから、定年になってからあれもやりたいこれもやりたい、と抱負を持っているにちがいない。「最後のところに、旅行をしようって書いてあるじゃない」と慶子が言った。「ああ」と洋一はあまり気のない返事をした。　　最後の余白に手書きで、お互い暇ができたのだから、昔の仲間と旅行でもしようではないか。きまったらまた連絡する、と書いてあった。「行くでしょ」と慶子は洋一を励ますように言った。「うーん、どうしようかな」「昔の仲間と、って書いてあったでしょ。懐かしくないの」「それは懐かしいさ」「行ってらっしゃいな」　洋一は慶子のせっかちさに思わず笑ってしまった。「まだ、メンバーも行き先も分からないんだぜ」「そうね、でもメンバーは秋葉さんが行くなら、あとは誰でもいいんじゃないの」　たしかにそうだ。慶子とは別の意味で、だれでもいいからほかの人間も一緒に行きたかった。いくら親しかったといっても、何十年ぶりに会って、二人きりで旅行するというのは少ししんどい気がする。そしてもうひとつ気が進まないのは、やはり自分の健康のことだ。旅行をするだけの体力はまだある。しかし残された時間というてんでは、病気を持っていない人間とくらべて大きなハンデを負ってしまった。秋葉のはがきにあるように、これからあれもするこれもする、と時間をかけた楽しみをほかの友人たちからも聞くことになるだろう。金なら稼ぐとか貯めることができるが、自分の持ち時間だけはそうはいかない。何も知らない友人たちから、何気ない話の中でそのことを、いやというほど思い知らされるだろう。　洋一はつい五日前に、大腸にできたポリープの内視鏡手術をうけたところだ。ポリープの手術というのは、それほど珍しいわけではないと聞いているから、そのことでは心配していないのだが、そのあとの医師の言葉が重くのしかかっている。茎状のポリープは内視鏡で取れたが、もう一か所腸の壁にはりつくような形のやや大きなポリープが残っている。これは内視鏡では取れないので、もう一度病室が空いてから入院して、しっかりした精密検査をする必要がある。その結果によっては開腹してその部分の腸管を切除することになると言うのだ。結果によっては、という医師の言葉はたんなる気休めにちがいないと洋一は考えている。内視鏡で直接見ているのだから、今度の検査は手術のための検査以外には考えられないではないか。洋一は自分の父が大腸癌の手術をしたときのことを、思い出さないわけにはいかなかった。あのときも、父自身はずっとポリープと言われつづけていたのだ。　退職直前に念のために受けた人間ドックが、とんでもないことになってしまった。洋一の場合、父だけでなく祖父も癌で死んでいるから、自分も癌で死ぬことになるかもしれないと考えることはあったが、こんなに早くこんな形で突きつけられるとは思わなかった。　慶子はどう思っているのだろうか。医師に言われたとおりのことは話した。慶子はびっくりした顔をしたが、すぐ言った。「でも普通のポリープなんでしょ。心配ないわよね」　慶子は言葉どおり、何も心配していないのだろうか。本当は心配性の慶子のことだから、こっそり医師と連絡を取って、真実を聞き出している可能性はある。しかし本人に確認はしていない。問いただしたときの慶子の返事とか表情で、希望しない真実が分かってしまうかもしれない。知りたい反面、いざというときまでは知りたくない気持ちが強い。ときどき慶子のそぶりに不自然なところはないかと観察しているのだが、疑えば疑えるようでもあるし、これまでの慶子とちっとも変わっていないようにも思えて判断がつかなかった。　癌という言葉は、まだ医師から一度も出ていない。そこが救いだとも言えるし、非常に気になるところでもあった。たぶん本当は癌なのだ、と洋一は考えている。そんな不確実な疑いは忘れてしまいたいと思うのだがうまくいかない。最悪の場合を考えておいた方が、あとで耐えやすいと思うからかもしれない。考えてはいるが、洋一自身もそれを口にしたことはない。口にしたとたん、それが動かしがたい現実に変わってしまうような気がする。言葉の不思議さ。事実より言葉が優先することはよくあることだ。言葉によって否定されることで、そのものが存在できなくなることはたくさんあるではないか。企画案は却下されることで存在を失い。犯罪でさえ裁判官の判決で無罪になる。いずれも存在しなかったことと同じになる。しかし、と洋一の頭にいやなことが浮かんでしまった。「それでも地球は動く」というあれだ。結局、だれも口にしなくても、洋一の体の中に存在しているものは動かすことはできないのだった。　いやだな、と洋一は繰り返し考えてしまうのだ。ほとんどまちがいなく手術になるだろう。手術はもちろん断ることはできる。父が手術を受けたときの苦しそうなようすを思うと、なんとかして避けたい気持ちになるのだが、それでは危険であると医師に言われれば、もうあきらめるしかないだろう。医師の言葉にどうしたって希望を託したくなる。　その後は慶子も、旅行のことをうるさくは言わなかった。するとまたそれが、慶子のいたわりに思えてくるのだ。いやなことを無理にすすめて、時間を無駄にさせたくないと思っているのだろうか。　洋一もこれまでは、退職後の自由な生活をずいぶん楽しみにしていて、秋葉と同じようにあれこれとやりたいことを考えていたはずなのに、いまこういう状態になってみると、自分の体以外のことにはほとんど関心が向かないのだ。しかもいくら考えてもどうにもならないことだった。それでも、秋葉から誘われた旅行のことは忘れていなかった。　学生時代の欲得抜きの率直な友情は、社会に出てから一度として得られなかったような気がする。貴重な思い出であるだけに、もう一度それが手に入るのなら参加したい気もする。一方で自分だけが、仲間の中で貧乏くじを引いてしまったような悔しさがある。会ってはみたいが、何十年を経てついに友人たちから決定的な遅れをとってしまったような悔しさだった。こんなことは慶子にも話す気になれない。分かってくれたとしても、慶子にもどうすることもできないことである。弱みは見せたくない。それは慶子にだけではなく、誰に対しても同じだ。たぶん自分に対しても、虚勢をはっているようなところがある。　入院の日がきまらないうちに、秋葉から電話がきた。「旅行の件だが、谷川と湯浅と田辺に声をかけたら、みんな行きたいと言っている。いいだろ」と言う。　三人の名前を聞いただけで、鮮やかに昔の三人の姿が浮かんできた。秋葉と同じで、いずれも洋一と一緒に地方の高校を出て、地方の大学も一緒に過ごした仲間たちだったし、さらに職業も全員が教員だった。なつかしいことはまちがいない。しかし、はじめにはがきをもらったときに感じたためらいは消えていない。一瞬の間ができたことで、洋一はあわてた。なにか言わなければいけない。「それはいいね」と思わず言ってしまった。「みんな暇だからウイークデーにするとして、五月十三日水曜日を考えてみたんだけど、どうかな」　洋一は入院のことを考えた。病室が空いたらすぐ、と言われている。三週間か四週間くらい待つことになるとも言われている。五月十三日というと、ちょうど三週間目だがなんとかなるだろうと、とっさに考えた。「いいね、連休の後だしウイークデーなら空いてるな」「じゃ、いいんだね。きめるよ」「早いね」洋一はまだ迷っていたが、すでに断れなくなっている。「こういうことは早い方がいいんだ。ほかの連中もおれに一任ということで喜んでいたけど、どこか行きたいところはあるか」「ない。おれも一任だ」洋一はあきらめをつけ、そんな消極的な気持ちをさとられないように元気よく言った。「じゃ、宿が取れたらまた連絡する」そう言ったあと「旅行といっても、何もしない何も見ない、ただ行ってくるだけだよ」と秋葉が言った。「それはいいね」と今度は洋一もすぐ賛成した。　慶子が聞いていたらしく、「旅行、きまったのね」と言った。「ああ、きまった」「どう、うれしい」と聞く。　気持ちを正確に説明することはできそうにない。「うれしいさ」とだけ答えた。「男の人たちって、友情が長つづきしてうらやましいわ」と慶子が言った。「別に男女には関係ないよ。たまたま秋葉がまめだったというだけさ。彼がいなかったら、今までどおり年賀状のやりとりだけだったろうからな」「どこがいいかしらね。景色を見るか、ご馳走を食べるか」「いや、それが何もしない何も見ない、ただ行くだけだって」「へえー、変わってるわね。秋葉さんて外国によく行くくらいだから、国内は見つくしてしまって面倒くさいのかしら」慶子は、ちょっと分からないという顔をした。「どうだろうね、でもその方がたしかに面倒がなくていいかもしれない」「でも、せっかくお金をかけて出かけて、何もしない何も見ないなんて、考え方によってはずいぶん贅沢な旅行よ」急に気づいたように、慶子が明るく言った。　なるほど、と洋一も思った。これまで彼ら夫婦の旅行といえば、なるべく早く家を出て、せっかく来たのだからと、あそこもこちらもと、できるだけ多くの場所をせわしなく見て回るのが普通だった。おかげで最後は疲れはてて不機嫌になり、こんなことなら家でごろごろしていた方がよかったなどと考えてしまうのだった。　洋一の入院は、旅行の日から五日目の五月十八日ときまった。「旅行のあとでよかったじゃない」と慶子は喜んでくれた。　もし旅行の前だったら、どちらを断るにしても面倒なことだと思っていたから、洋一としてもほっとした。しかし、あまり行きたくないという気持ちは変わっていない。なに食わぬ顔で昔の友人たちに会って、そのあとの手術のことは運命に任せるだけか、と考えている。　洋一は旅行用のバッグを肩にかけて家を出た。男の一泊旅行だからたいした荷物もない。秋葉からの連絡はがきはポケットに入れてある。集合が十時半、発車が十時五十分と書いてある。何も見ない何もしない贅沢な旅行だけあって、時間も贅沢である。　洋一の家から上野までは、一時間と少しかかる。八時過ぎの快速電車に乗ると言うと、慶子はちょっと早すぎるのではないかという顔をしたが、遅れるよりは早めの方がいいと言って出てきたのである。　上野には九時半に着いてしまった。一時間ほどの余裕がある。学校を出たばかりの頃、松戸のアパートに住んでいたことがあって、あの頃は上野経由で職場に通っていた。上野駅のまわりで買い物などもよくしたものだったと考えながら、とりあえず駅の外に出てみることにする。複雑な駅の階段や通路を歩いていると、知らず知らずのうちに昔の記憶をたどって、ああここもあちらも昔のままだと考えている。　広小路口から外に出る。信号が青なのでそのまま向こう側に渡る。「あめ横」という看板が見える。あめ横の迷路は昔何度かうろついたことがあった。いまどうなっているのだろうと思ったが、わざわざ入ってみる気もおこらない。時計を確かめるために立ち止まった。まだ洋一の気持ちはぐずついているが、ここまで来て不参加ということはありえないと考えなおす。気分転換というほどのことではないが、時間つぶしに不忍池の方へ行ってみた。　休日でもないのに、散歩をしたりジョギングをしたり、そうかと思うとベンチに座って新聞を読んでいる人などけっこう人影は多い。洋一自身は定年で仕事がないのだから当然として、まだそんな年齢でもない人がこんな所にいるのを見るのは、少しけしからんという気がする。ずっと四十年近くの間、洋一は病気でもないかぎり勤めを休んだことはないし、人が働いている時間に、こんなところでぼんやりできたことなどなかった。　洋一は時計を確かめた。こんなところを散歩しているうちに、時間に遅れたら大変だと思ったのだが、まだ四十分ほどある。かたわらの空いていたベンチを見つけて座った。池の蓮、お堂のある島、岸と島を結ぶ橋。その向こうに動物園が見える。　動物園には若い頃慶子と二人きりで来たことがあったし、子どもができてからも何度か来ているが、最近はずっと入ったことはない。動物園に行くことなどまったく頭に浮かばなくなっていた。　池の野鳥を漫然とながめている。名前は知らない。ふと目を移すと、少し離れたところに水のみ場があって、男が身を屈めている。なぜその男に目が行ったかというと、男は上半身裸なのだ。わきに紙袋が二、三個置いてあり、髪はもじゃもじゃズボンは垢と埃にまみれている。一目で浮浪者と分かる。男はいま水道の水で体を洗っているのだった。この二、三日は例年になく気温が高くなっているものの、まだ五月だ。寒くはないが暑いとも言えない。でも清潔にするのはいいことだ。ついでに頭や衣類も洗って、さっぱりしたらいいと考えながら、洋一の視線はその男のかたわらにひかえている犬に移った。きちんと前足をそろえて男の動きを見守っている。明らかにこの犬はこの浮浪者の飼い犬である。犬は飼い主を選ばないのだなと、洋一は少なからず感動した。　洋一も子どもの頃、犬を飼いたいと思ったことがあった。友だちが、あたかも家来のように犬を連れて歩き、いくつかの芸をさせるのを見てうらやましかった。ただ、あの頃はまだ食糧だっていまのように豊富だったわけではなく、犬に食べさせるご飯がどこにあるの、と母に言われれば返す言葉もなかった時代である。　いまはたぶん浮浪者にしても、犬に与えるくらいの食べ物を余分に手に入れるのに、それほど苦労しない時代になったということだろう。考えてみれば、ドッグフードなどというできあいの餌より、どこかから主人が集めてきた残飯であろうとも、人間の食べ物を飼い主と分けあって食べる方が犬にとっては、ずっと仕合わせなのではないか。そして犬を可愛がる度合いはその人の経済状態とは関係ないだろうから、あの犬が不仕合わせというはずはないのである。洋一はこの浮浪者の主人に忠実な犬に、いくらかの好感を持った。浮浪者は自分がすむと、こんどは犬を洗いはじめた。犬はそれほど嫌がるふうもみせず、じっとしている。男は石鹸をつけて、犬を泡だらけにしてけっこう楽しんでいるようにも見えた。浮浪者を不幸だときめつけるのは誤りかもしれない、と思わせる雰囲気がある。　時間をみて立ち上がった。とにかく旅行には行くしかないだろう。あんがい昔に戻って楽しめるかもしれない。そんな気がしてきた。秋葉のはがきをもう一度取り出して、待ち合わせの場所を確かめる。発車ホームの端というけれど、ホームの端は二つあるではないかと思いながら、どうせ改札口に近い方にきまっていると考えて歩いていく。　この時、洋一はこれから会う昔の友人たちに対して、何を考えていたろう。何も考えていなかったと言ってはちょっと違うかもしれないが、特別な思いはない。無関心というのでもない。この何十年がほとんど無に等しい感じで、漠然と昔のままの彼らを思い浮かべていた。　列車がホームに止まっていた。その手前で駅員が特急券を調べているらしい。洋一はそちらに向かって歩いていった。そのとき視線のはしに、三人の老人の姿をとらえていたが、そのまま通り過ぎるつもりで歩きつづけた。と、その老人が、おい、と声をかけてきた。おいだと、と洋一は少なからず不快を感じながら考えた。見知らぬ人間に、おいなどと無礼な呼びかけをするとは、不良老人に違いない。しかも三人である。この無礼な老人たちの顔を見ておこうと振り向いた。と、相手は親しそうに手をあげているではないか。あっ、と洋一は足を止めた。三人の老人たちは、これから一緒に旅行に行く友人たちであった。　秋葉、谷川、湯浅。みんなみごとに老人になっている。ということは自分も他人から見ればこうなのだと、客観的な鏡を見せられた感じである。「やあ」洋一はなに食わぬ顔で、笑顔を作って近づいた。「声をかけてくれなかったら、行きすぎるところだった。もっと向こうかと思ったよ」　秋葉と谷川には十年前に一度会っている。湯浅に最後に会ったのは、二十年くらい前だ。いずれにしても、記憶の中の仲間たちは四十年前のままだった。「まだ田辺が来ていないんだ」と秋葉が言った。「悪いけど、おれ行けないんだ」と谷川が洋一に言った。　ほかの二人はもう事情を知っているらしい。「えっ、なんで」と洋一が聞いた。　今度行く温泉旅館を推薦したのは谷川自身だったはずだ。「いや、悪い。行く気だったんだけど、急に昨夜から歯茎が出血しはじめて」　言いながら、ちょっと口を開いてみせた。歯が少し血で赤く染まっている。歯茎から出血することなど珍しいことではない。たぶん洋一は怪訝な顔をしたのだろう。すぐ説明してくれた。谷川は三年ほど前に心臓の手術を受けた。それで血液の流れをよくする薬を飲んでいるのだが、これは逆に出血すると止まりにくくなってしまう。大出血になったりした場合、田舎の温泉場では手当がむつかしいので、自重したいと言うのだった。　洋一はそれを聞いて、かなり驚いた。谷川も黙って大手術に耐えたということだ。心臓と癌、どちらもかなりな死亡率を示す病気ではないか。一瞬、洋一は癌と心臓の危険度をくらべていた。たぶん癌の方が危険だ。とにかく癌は早いので怖いのだ。大事にしたら長く使えるというものではなくて、どんどん攻めてくるところが怖い。ただし洋一の場合、まだ癌の宣告だけは受けていない。が、安心はできない。むしろ宣告できるほど軽くないということかも知れないのだ。　そう考えると、また気分が落ち込みそうだ。谷川は平気で自分の病気を口にした。でもそれを聞いたからといって、洋一にはいまここで自分のことを言う気にはなれないのだ。言ってしまえば、この友人たちの中で自分がいちばんついてない余生を、よぎなくされていることが明らかになってしまう。友人たちはそれを聞いてどう思うだろう。同情か、憐憫か、そして密かに自分の好運を思わないだろうか。「今は少ないからいいんだ。たぶん大丈夫だとは思ってるんだけど、もし向こうに行ってもっとひどくなるとやっかいなことになるからさ、それだけなんだ」と谷川が言い訳するように言った。「今朝、谷川から電話をもらって驚いたよ」と秋葉が言った。「旅館のクーポンはおれの所だろ、今朝わざわざ秋葉に取りに来てもらっちゃって」と谷川が言った。「行けなくて残念だし申し訳なくて、とにかく見送りに来たんだ」「大丈夫なのか。見送りなんて、無理しなくてもよかったのに」と洋一は言った。　谷川はズボンのベルトにつけた小さなケースを見せた。「ここにニトロが入っている。いざという場合にね」「爆弾を抱えているわけだ」と洋一は言った。言い古されてちっとも面白くないことを承知で、むしろそのことでこの場の雰囲気をほぐそうと思った。　そのとき湯浅が、さっきの洋一と同じように目の前を通り過ぎそうになっている老人を指さして言った。「あいつ田辺だろ」　田辺もこちらには気づいていない。洋一も湯浅に言われなければ気づかなかったろう。「田辺」と湯浅が声をかけると、田辺はびっくりした顔でこちらに目を向け、すぐ笑顔になって近づいてきた。「分からなかった」と田辺もしきりに言っている。「おれもさっき呼ばれて、分からなくてさ」と洋一が言った。呼ばれた瞬間、田辺は何を感じたのか聞いてみたい気がした。　谷川が、紙袋から冊子を取り出してみなに配った。「流れゆくもの」という表題がついている。「いままであっちこっちに書いた文をまとめたんだ」と言った。　校長時代に、そういう短い文章をいろいろ頼まれて書いたのだろう。なんとなく人生の記念品のような感じだ。　この中で、秋葉と洋一以外はみな校長になった。平教員の洋一にとって、校長というのはあまり付き合いたくない種類の人間だったが、昔の友だちとなると話は別だ。だいたい相手を校長という範疇では見ない。そしていまは全員ただの老人だった。　そろそろ発車の時刻だった。「この次の時はぜひ参加するから」と谷川は残念そうに言った。　谷川を残して四人はホームの改札に向かった。　乗り込むとき振り返ると、まだ谷川はそこにいて手を振っている。それで四人もそれぞれに手を振った。　四人というのは、列車を利用する場合、はみ出す者がいないからちょうどよい。やがて発車。谷川がウイスキーを一本差し入れてくれたのを窓際に置く。発車してしばらくすると、車内販売のワゴンがやって来た。「ウイスキーを割るためにウーロン茶を買おう」と秋葉が言うと田辺もすぐ同調した。　洋一はウイスキーは強すぎて飲めないから缶ビールを買うと、湯浅もビールを買った。湯浅もあまり飲めない口だったろうかと考えていると、そうではなくビールにウイスキーを注いで飲み始めた。四人の中では湯浅の飲み方がいちばん豪快である。それで酔わない。洋一はビールを少しずつ飲んで間を持たせている。昔の仲間の話題は、昔の話が多くなる。でも昔のことはたいてい忘れてしまっていることが多くて、一人が覚えていてもほかの者は忘れていたりということになるから、それほど話がはずむということもない。相手の顔を見てはそれぞれ勝手に昔のことを思い出している。　洋一は頭の中にあった記憶と、いま目の前に実在している友人たちの隔たりを何度も確かめているのだが、心理的になかなかギャップが埋まらないまま、ちょっと目を逸らすだけで彼の意識は勝手に四十年前の記憶に戻ってしまうらしい。次に目を戻した瞬間、友人たちの顔は、またしてもさっきホームのはずれで声をかけられたときに感じた、見知らぬ老人の姿に戻ってしまって、思わずはっとしてしまうのだ。「浜田が死んだ」と湯浅が言った。浜田も中学校の教師をしていたはずだ。「えっ、いつ」洋一は知らなかったが、湯浅は近くに住んでいた。「去年、まだ在職中だった」「在職中っていうと、校長か」と洋一が聞いた。　この中では洋一だけが東京で教員をしていたから、県内にいる友人たちの情報は手に入りにくいのだ。「いや、教頭だった」「えっ、だって浜田なら我々の中でいちばん成績が良かったじゃないか」と洋一が言った。「社会に出たら学校時代の成績だけじゃないってことさ」と秋葉が言ってから「そうだろ」と笑いながら洋一に同意を求める。聞いていた湯浅と田辺も笑っている。「ま、そういうことにしておこうか」と洋一も一緒に笑った。「かわいそうだよな。在職中に死んじゃったら、なんのためにいままで働いてきたか分からないよな」と田辺が言った。　たしかに気の毒だが、なぜそこに在職中などと限定する必要があるのだろうか、と洋一は思った。単に短すぎた人生をそう表現しただけなのか。それともやはり田辺にしても、在職中は苦労の連続で退職後こそ自分の人生だと考えているのだろうか。「池内も死んだよ」と秋葉が言った。「えっ、だって彼なんか野球部だったろ。体はいちばん頑丈だったはずじゃないか」と洋一は言った。　活力にあふれた、学生時代の池内の姿が浮かび、その池内が死の床に横たわっているようすを想像してみるが、どうしてもうまくいかない。　死んだ話はみんな一番食いつきがいいのだが、やがてそれは自分にも付きまといはじめた恐れだし、かつての同級生の身に実際起こっている事実は、ますますその現実性を裏付けてしまうのだ。洋一はそこで、高校時代に親しかった吉川が死んだことを思い出した。三年ほど前、年賀状の返事が来ないと思っていると、正月過ぎてから奥さんからのはがきで死亡を知らされたのだった。「吉川行夫知ってるか」と洋一は言ってみる。「ああ、行夫も死んだ」と湯浅がすぐ答えた。　あとの二人は吉川とは付き合いはなかったらしく、覚えていなかった。そのかわり二人の口から、洋一の知らない同級生の死亡者の名がさらに二人出てきた。さすがに、ちょっとうんざりしてきた。「女はいいな、女は死なないから」と、急に秋葉が妙なことを言った。たしかにいま名前のでてきた同級生はみんな男ばかりだ。「死なないことはないさ。ただわれわれより少し長生きというだけだろ」と田辺がことさららしく訂正した。「ま、そういうことなんだけど、まだ女の同級生が死んだ話は聞かないよな」「女が短命じゃ困るよ」と洋一は言った。「困るな」と秋葉が同調した。「年取ったら、女房はだいじだよ」と湯浅が、さとすような生真面目な口調で言った。「だいじだな、女房がいなかったら生きていけない」と田辺が軽く受けた。「おっ、言うじゃないか。恋女房だものな」と洋一がからかった。「別にそういう意味じゃないさ。でもお前たちどうなの、今度の旅行の支度自分でしてきたか」ちょっと照れたらしく、田辺が問い返す。「いや、だって鞄だって着替えだって洗面用具だって、どこにしまってあるのか分からないんだ」と洋一は言ったが、分からなくなるのは、面倒くさいからなのだ。自分のことなのに面倒くさいなどと言えるのも、女房がいるからなのだ。「そんなことなら、おれは生きてはいけるな。外国旅行も国内旅行もいつもあれ一つで出かけちゃう。飯だって作れるしな」と秋葉が自分の小型のバッグを指さして言った。「じゃ、大丈夫だ。飯が作れて洗濯ができれば、年金があるんだから飢えて死ぬことはないな」と田辺が言った。「家もあるし」と洋一が言った。　不忍池で見た浮浪者を思い出していた。あの浮浪者にしても、自分の家があって年金があればあんなところで犬と暮らすことはないのか、それともほかの理由があるのか。「女房がいなくても生きていけるとは思うんだけど、本当は葬式がいやなんだな」と秋葉が言った。「だれだって、最後は葬式だよ。望ましいことではないけどな」と洋一としてはあまり考えたくないことを、あえて口にした。「自分の葬式はいいんだよ、どうせ分からないんだから。ひとの葬式がいやなんだ。ああいう面倒は、親のだけでたくさんだよ。あとは自分のをほかの人間にやってもらって、さよならだ」「自分の女房の葬式だけは、やりたくないな」と田辺が言った。「だから、年とったら女房は大切なんだよ、な」と秋葉が確認するように湯浅に言った。湯浅は自分が言い出したのに、秋葉の問いかけには黙っていた。「年取って急にだいじになった女房を置いて、こうして遊びに来てるわけなんだな」と田辺が湯浅のかわりに言って、みんなを笑わせた。湯浅だけが、あまり面白そうな顔をしないのが少し気になった。　上田で下車した。とりあえず食堂を探して駅前の雑居ビルに入った。男たちだから、こういう場合あまり迷うことはない。そば屋があった。「信州に来たらそばだな」と秋葉が言った。　そうは言っても、普通のそば屋には普通のそばしかない。それでいい。ここでまた湯浅がビールを注文した。ほかの三人はいらないと言うと、湯浅一人で飲んでいる。よほど好きなのだ。学生時代にはそんなに飲まなかったのにと思うが、あの頃の学生に飲む金などなかったから、知らなかっただけかもしれない。　そこからバスに乗る。近くの席が取れなくてばらばらになったが、とにかく四人とも座席は取れた。あとはバスの窓越しに景色を見ながら、目的地に着くのを待つばかりである。田舎の村や町。田や畑。古い家。何も見ない旅行だけれど、しぜんに見えるものを見るのはかまわないだろ、と冗談の一つも言ってみたい気分である。洋一はなかほどから少し後ろの席にいる。秋葉と湯浅が前の方だ田辺は洋一から二つおいた前だ。ちょっと離れすぎているから、話しかけるのはあきらめて三人の後ろ姿を見ている。みんな年取ってしまって、とあらためて考えている。　半分くらいバスが進んだとき、停留所で一人老人が下車した。その後ろ姿が湯浅によく似ているが、一行は終点まで行くことになっているのである。バスが走り出してから、湯浅の姿を探してみるがいない。やはりさっき降りたのは湯浅だったろうか、と考えている。秋葉が振り返ったので、湯浅はと聞いてみる。「急に降りちゃったんだ。バスに酔ったらしい。後から来るって」と言う。　バスに酔うなんてことがあるのか、と意外な気もしたがとくには気にしないでいた。　宿についた。小さな旅館である。　フロントのわきに貼り紙がしてある。この旅館には付属美術館があるらしい。宿泊者は入館無料とある。その美術館で夜、音楽会が行われるとも書いてある。こちらも宿泊者は無料となっている。　三十すぎの男が部屋に案内してくれた。谷川さんからリクエストをもらっているので、ぜひ音楽会に来て下さいと言う。谷川はきょう来られなかったと言うと、男は残念がった。部屋は入ったところがすぐ二畳くらいの靴脱ぎ場で、襖を開けると十畳の畳の部屋になっている。値段から言っても相応の部屋ではある。　テーブルの周りに勝手に座る。同級生だから、上座とか下座とか気を使う必要がない。それでも長年の習慣で、先に床の間の前に座ることはなくて空いたままだ。入り口で靴をそろえたりして後から入ってきた田辺がそこに座った。　お茶入れようか、と言いながら田辺が急須を引き寄せる。「湯浅はどうしたろう」と洋一が言う。「次のバスですぐ来るだろ」と秋葉が言った。　秋葉がいちばん湯浅の近くにいたわけだから、ようすも分かっているのだろう。　洋一は窓際の板敷きにある椅子に移った。窓の外は低い山が視界を遮っていて、遠くへ来たことを印象づけるようなものは何もない。このあたりで見学できるところはないのか、というようなことを言い出す者がいないのは、秋葉の主旨をみながよく理解していると言うべきか、あるいはそういう好奇心をすでに失っているのか。「湯浅は遅いな」と、今度は田辺が言った。やはり気になっている。　「あのまま具合が悪くなって、家に帰ってしまったなんてことはないだろうな」と洋一が言った。もちろん本気で考えていたわけではなかった。「それなら電話をよこすだろ」とすぐ秋葉が言った。秋葉もそういうことを考えていたのだろうか。「なかなか次のバスが来ないだけかな」「一緒に降りなくて悪かったかな」と秋葉が言った。「いや、降りない方がよかった。かえって気を遣わせちゃうよ。もし自分の立場でもそうだろ」と洋一が言った。「そうだな、自分のことは自分だよな」と秋葉が言った。　昔から秋葉という男は、こんなふうな突き放した言い方を好んでしていた。口ほど冷淡な性格ではない。彼特有の持ち味のようなものだ。おれはこうだからお前たちもおれに気を遣わなくていいよ、と言われているようで、慣れてしまえば気が楽なのだが、はたして一般社会ではそこまで理解されるものかどうか。出世していないところをみると、得にはなっていなかったのかも知れない。ただし、退職してしまった現在ではそんなことは過去のことで、いまは気の合う仲間とだけ好きに付き合っていけばいいことなのだった。　とりあえず宿の浴衣に着替えて、風呂に行く。風呂から出てきてもまだ湯浅は来ない。なんとなく宙ぶらりんの感じで湯浅を待っている。　さらに三十分くらいして、部屋の入り口のドアが開いた。「遅れてすまん」という声がしたが、そのままいっこうに入ってこない。「湯浅の声だったよな」と田辺が言った。「へんだな、どこへ行っちゃったんだ」　洋一が靴脱ぎに出てみると、トイレの中で苦しそうに嘔吐する声が聞こえる。まだこんなに苦しんでいるのはただごとではない。わざわざこんな遠くまできて、苦しんでいるのは気の毒だが、医者を探すことまではだれも気がまわらなかった。それにしても列車の中や昼の食堂での飲みっぷりからは想像もできなかった。　洋一はトイレのドアをノックして「大丈夫か」と声をかけた。「大丈夫、もうちょっとすれば楽になるから」という返事があった。　それでひとまず部屋に戻ってようすを見ることにする。　やがて湯浅が青い顔をして部屋に入ってきた。大丈夫かと口々に言われ、大丈夫と答えている。たぶんそれ以外には答えようのない質問だった。　湯浅は疲れはてたように、座布団を並べて横になった。「きのう海に遊びに行ったついでに貝を買ってきて、夕食に食べたから、きっとあれに当たったんだ」と湯浅が言ったので、いちおうみんなは湯浅の症状を納得した。それで夕食は、一人分粥を作ってもらうことになった。　夕食後もう一度風呂に入ったあと、そのまま廊下伝いに美術館に行った。学校の教室などよりは、やや大きい部屋の正面にグランドピアノが置かれ、演奏会を聞く人のための椅子が二十脚ほど並んでいる。まわりの壁に油絵が架かっている。作風からみて全部同じ画家が描いたものなのはすぐ分かった。信州の風景画だった。演奏会には間があるので、待つ間に一枚ずつ丁寧に見てまわる。奇をてらうことのない実にまっとうな描き方なのがよかった。同じ作風でも色や構図の好みがあって、あれがいいとかこれがいいと言い合いながら見終わる。最後にこの画家の経歴を紹介した、小さな紙が貼ってあるのを読んだ。いちじ中央の名のある団体に所属していたこともあったが、途中からこの地に引きこもって描きつづけたとある。特別に名をなした画家というのではなさそうである。しかし絵は年期の入った、力を感じさせる良い絵だった。なぜこの画家は、中央での名声を求めることを途中でやめてしまったのか、少し気になった。　やがて時間が来て、現れたのはここに着いたとき案内してくれた男だった。短い挨拶の中で、自分がこの旅館の経営者であると名乗った。「プロではありませんが、余興だと思ってお聞き下さい」と言って、彼は金色のフルートを取り出して童謡を吹きはじめた。五、六曲すんだあと、今晩はお客さまからあらかじめリクエストをいただいてあったのでそれを吹いてみますと言って、さらに何曲かなじみの童謡を吹いた。聞いている人は、はじめは洋一たちのほか二、三人だったがだんだん増えてどうやら椅子も八分どおりうまっていた。　リクエスト曲が終わったあと、この経営者兼演奏者がふたたび話し始めた。「つたない演奏をお聞きいただいてありがとうございました。私は地元の高校を出たあと、静岡県にあるプロ用のフルートを専門に作っている工場に就職して、ずっとフルートを作ってきました。演奏の方は、中学時代にブラスバンド部で吹いていただけで、その後は好きで勝手に練習してきました。そんな私がなぜいま、この旅館の経営者なのかと言いますと、この旅館を親から引き継いでやっていた私の兄が、旅館経営に嫌気がさして、やめると言い出したのです。それで急きょ私が工場を辞めて引き継ぐことになったのです。引き継ぐにあたって何か特徴を出したくて、このような美術館兼音楽ホールを作りました。展示してある絵は買い取るつもりだったのですが、建物の方が予想外に金がかかってしまったので、今は画家の遺族の好意で借りているようなしだいです」　たんたんとして、正直に自分のことを語っているのがよかったし、旅館を引き継ぐにあたって、カラオケ室やゲーム室のたぐいではなくて、美術館兼音楽ホールという発想に人柄を感じさせて、洋一は急にこの若い経営者に好意を感じていた。　そのあと今度はギターを取り出して、何曲かひいて音楽会は終わった。会場を出た所で秋葉と田辺が、もう一度温泉に入ると言って浴室に行った。洋一と湯浅はやめておく。どうやら湯浅の症状は落ちついたようだ。　二人で先に部屋に戻ってくると、布団の用意ができていたので、そこに寝ころんだ。湯浅の妻になっている人は、洋一も知っている。高校時代、一年下で同じ図書部にいた。「奥さんは元気」と洋一が聞いた。「ん」といったあと、「今度手術をしなくちゃいけないんだ」とぼそりと言った。「何の」と洋一は聞いた。「癌でさ、三年前乳癌の手術をしたんだけど、また反対側にできて切ることになったんだ」と、特別な感情は見せずにさりげなくしゃべっている。　癌と聞いて洋一はどきりとした。それにしてもなんと簡単に癌と言う言葉を発したことだろう、と思った。いったい湯浅夫婦は、どんなふうにそれを話し合っているのだろう。「乳癌てのはどうなの、わりに治りやすいって言わなかったかな」　洋一は湯浅の気持ちを考えながら、ひかえめに慰めを言った。「そう言うね、この頃は癌なんて昔ほど恐れなくてもいいらしいよ」と湯浅は言った。「早ければいいんだな。悪いところを切り取ってしまえばいいんだろうから」と言ったが、列車の中で出た浜田と池内はともに癌だったというのを思い出していた。そして洋一自身もたぶん癌なのだ。「分からないけどな。医者は切ると言ってるし、その方がいいと言われれば、可能性を信じるしかないじゃないか」「そうだな」　洋一の場合は、医者はポリープだと言っている。これもやはり信じる方がいいのか。「乳癌は外から分かるからまだいいらしい。あと胃や大腸も医者の目からみると、もうそれほどむつかしい病気とは考えてないみたいなんだ」と湯浅が言った。　もちろん湯浅は洋一の病気を知らずに言っている。その湯浅から大腸の癌はむつかしい病気ではなくなったなどと言われると、ずいぶん気が楽になる。「なにか面白いのやってるかな」　急に湯浅は話題をたち切るように言って、テレビをつけた。「お茶、いれようか」と洋一が言った。「いいね、本当はビールがいいんだけど、今夜は自重しておくか」　湯浅はチャンネルをいろいろ変えていたが、これという番組もないままタレントたちのおしゃべり番組でとめた。見ているわけではない。たぶん話が陰気になってしまったので、タレントのばか話を流しておく気になったのかもしれない。お茶を飲みながら湯浅が言った。「おれね、この頃肉眼で見えるものだけを信じるのは、まちがっているんじゃないかって考えているんだよ」「なんだよ、それ」「いや別に。そう考えるようになったってこと」「超現実の世界、早く言えば宗教か」と洋一が聞いた。　洋一自身も、もしかしたら自分が間もなく死ぬかもしれないと考え始めてから、あの世といった考え方に急に関心をもつようになっている。ただ、若い頃からの無神論的な考え方がじゃまをして、完全にはそちらに行けないでいる。「なんだろう。南無阿弥陀仏でもアーメンでもないんだけどな。ただ、人間の小さな頭でえらそうに生命現象とか、宇宙の成り立ちといったものを科学だけで説明してみようとしても、はじまらないっていう感じだな」と湯浅が言った。「でも、科学で分からないものは分からない、でいいんじゃないのか。宗教を借りてまで分かる必要もないと思うけど」と洋一は無理をして生意気なことを言った。　湯浅は正直に自分の感じていることを言っているのに、まだ自分の中にはてらいが残っていると思って気がひけた。「もちろんそうさ。分からなくていいんだ。全部分かったような顔をするのをやめたいだけなんだよ。ことによったら、この世とは別の世界があるかもしれないじゃないか。それを否定するのはもったいないよ」　　たぶん湯浅は妻の病気から、いろいろなことを考えてきたのだろう。電車の中で、女房はだいじにしなくてはいけない、と言い出したのも湯浅だったことを思い出し、あれにしてもそれほど軽い発想ではなかったのだと思う。　洋一自身なかなか人には自分の病気を打ち明けられないでいるから、谷川と湯浅が、自分や妻の病気をあっさりと打ち明けることに心を動かされていた。なぜだろう。彼らより、洋一の方が気が小さいということか。自分はあまりにも病気を恐れすぎているということか。自分だけ黙っていることが、湯浅にたいして裏切りを働いているようなそんな感じがする。一方では自分も、湯浅や谷川のように、何でもないことのように自分の病気を口にできるようになりたいと思った。　洋一は決心して、口に出してみることにした。「実はおれもさ、大腸を切らなくちゃならないらしいんだ」「えっ、なに」と湯浅が問い返した。いくぶん表情が変わったように見えた。「医者はポリープって言ってるんだけどね。おれは癌のような気がしてるんだ」　とうとう自分から癌という言葉を口に出してしまった。慶子に対しても言ったことがなかったことだったが、思ったより簡単に口に出せた。口に出した瞬間、自分の中で癌は断固として固定されてしまうにちがいないという気がしていたのだが、思ったよりずっと軽い感じで声になった。「でもポリープはポリープだろ。あれは年取ったらたいていの人が持ってるって言うじゃないか」　湯浅は、あっさり癌という言葉を無視して言った。「普通のポリープは三週間前に内視鏡で取ったんだよ。そのとき内視鏡では取れない種類のポリープが残ってるから、もう一度検査して、開腹手術をすることになるって言われたんだ。だからこちらはただのポリープではないと思うんだ」「医者がポリープって言うんだろ。だったらそれしかないじゃないか。それ以外に何を信じるんだ」と湯浅がさらに言う。　ゆるぎない湯浅の言葉に、洋一はそれ以上言い返すことができなかった。たしかにそう考えるべきかもしれない。たぶん湯浅の場合も妻の病気の中で、徹底的に考えたのだろう。そして到達した心境が、こうした言葉の中にあるのだろう。信じること。人間の限界を見きわめること。　話題が話題だけに、二人の会話のテンポは遅くて、もうその話題からは離れるのかと思うと、またぽつりと続いていく。「明日は、おれ松本でみんなと別れることにするよ」と湯浅が言った。「なんで」「どうせ、あれだろ。昼過ぎの列車でみんな帰るんだから、そのあと女房と落ち合って、上高地の方へ行くことにしてあるんだ」「おっ、しゃれてるな」洋一は気を変えて、陽気な声で応じた。「いや、手術の前に行っておこうと思ってさ。行けるうちだから」「そうだな。おれもそういうことは考えるね。退職説明会で残りの二十年を有意義に使ってください、なんてお偉いさんの話があったけど実際は平均寿命からすればあと十年だろ。あせるわけではないけど、やれるうちとか行けるうちってことは考えるね。ところが考えてるだけで、どうも腰があがらないっていうか、面倒という思いが先にきちゃってね」　湯浅が言いたいはずのことにたいして、洋一はわざとずらした形で返している。まともに応じていけば、暗くなるばかりだからという長年の処世の習慣が、こんないいかげんな受け答えをさせているにちがいない。昔、青くさくともまともに人生を考え、論じていた頃だったら、こんな言葉にはならなかったはずだ。口にはしないけれど、ことによったら二度目の手術というのは、かなりさしせまった状況での手術なのかもしれない。湯浅自身もまた、昔の言葉ではしゃべっていないということだろうか。　　ふいにドアが開いて、秋葉と田辺が風呂から戻ってきた。「もし風呂に入るなら、交代で留守番してるよ。あそこのさ、ホールの入り口の喫茶店が開いていたから、コーヒー飲んできちゃったんだ」と田辺が言った。「どうりでなかなか帰って来ないと思ったよ」と湯浅が言った。　洋一はそれほど風呂は好きではない。湯浅も行きたくないと言う。　四人になって、話題が変わった。勤めをやめた後、毎日何をしているかといったような当たり障りのない話である。　毎日一万円持ってパチンコ屋に行っていると田辺が言った。そんなことして女房に怒られないのかと聞くと、女房はまだ勤めているから一人で家にいてもやることがないのだという返事だった。四人の妻たちもみんな教員をしていたが、いまも勤めているのは田辺のところだけだった。秋葉と湯浅のところは、それぞれ親が年取って寝付いたのを機会に、数年前に辞めたのだという。「おれのお袋は九十過ぎまで長生きしたけれど、最後はぼけちゃって……親一人見取るってのは本当に大変なことだと思ったよ」と秋葉がしみじみと言った。　洋一の妻は長男が小学生の時事故で死んだ直後に辞めていたから、四人の妻たちの中では一番早く辞めたことになる。　秋葉の海外旅行に話を向けると、田辺も湯浅もそれぞれ何度か外国旅行をしていることが分かった。外国に行ってないのは、洋一だけだった。行きたければいつでも行けるような顔をしているが、実際は行くほどの蓄えもないのだ。ずっと洋一の収入しかなかったし、長男の死後生まれた二人はまだ学校を卒業していないのである。　翌日、宿を出るとき湯浅が松本でみなと別れると言った。驚いている秋葉と田辺に洋一が付け足した。「奥さんと待ち合わせてるんだってさ」　二人は、湯浅の妻の病気を知らない。「ほんとうに奥さんなのか。電話で確認してみるぞ」と秋葉がからかった。　湯浅は何も言い訳しないで、照れた顔をしていた。　どこも見ないはずだったが、時間があまったので松本城を見てから駅に向かった。　帰りの列車の中は、とりとめもなくしゃべったり、居眠りをしながら過ごし、再会については特別確認することもなく、それぞれの乗換駅であっさりと別れた。　夕食を家で取れる時間だった。洋一は思いついて、乗換の途中で慶子に電話をした。湯浅のように、これから旅行というわけにはいかないが、呼び出して夕食でも一緒に食べようかと思ったのだ。「もしもし、あらもう帰ってきたの」と慶子が言った。「夕食だけど」と洋一が言った。「ええ、準備はできているから、帰ってきたらすぐ食べられるようにしておくわ」　あいかわらず慶子の声は屈託がなくて、ほっと安心できる。「それよりどうかね。どこかで待ち合わせて、夕食を一緒に食べに行かないか」「あら、誘ってくれるの。うれしい。もちろん行くわよ」　こんな慶子の声からは、洋一の病気を知っているのかいないのか、かくしているのかいないのか見当がつかない。「旅行はどうだった。楽しかったでしょ」「まあね」と洋一は答えた。　待ち合わせの場所をきめて、電話を切った。　慶子は楽しかったでしょと言ったが、この旅行を楽しかったと言うべきなのだろうか、と洋一は考えている。昔の友人に会えたのは、もちろんうれしかったけれど、定年を待たずに死んだ友人たちのことは、心を重くした。そして生きて会えたあの友人たちにしても、それぞれ何かを背負って生きているのだった。　さてこれからいよいよ入院して、戦いが始まるのだと洋一は考えた。ここまできたら医師に任せるしかないだろう。平凡な考えだったけれど、この考えはすなおに胸に落ちた。　旅行に行く前は、ずいぶんあれこれと考えてきたが、少しは慣れたのだろうか。医師から手術のことを言われてから三週間、時間が多少ともあのときの心の衝撃を癒してくれたのか。　湯浅のような考え方のあることを知ったのも良かった。いずれにしても、すぐ死ぬわけではないのだからと洋一は思った。すぐ死ぬわけではないが人はいつか必ず死ぬ、というところまでは考えを進めないことにして、洋一は慶子との待ち合わせ場所に向かうため電車に乗った。車窓から若葉が生え揃った街路樹が見えた。人間の体は、季節がきて新しい葉を更新する樹木のような仕組みにはなっていないとすれば、医師による手術という人為的な手段で、とりあえず命を更新してもらうしかない。そう考えると、四日後にせまった入院に対する気持ちも少し楽になった。　また慶子はいつものように、外出支度に手間取っいることだろう、と洋一は考えている。待たされるのはありがたくないが、急に言ったのだからそれは仕方がない。「年取ったら女房はだいじだ」と言った湯浅の言葉が浮かんできた。この旅行ではあの一言が一番良かったと思った。そしていまあの言葉の意味することを、こんな姑息な形でさっそく実行しようとしている自分の姿を思うと、久しぶりに軽い笑いがこみ上げてきた。

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退 職 旅 行

石 井 利 秋

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