忘 れ え ぬ 患 者

          

結 城 五 郎

 
先日、新聞のスクラップを整理すること にした。スクラップが膨大になって、一部 を捨てなければ収拾がつかなくなったので ある。スクラップ・ブックのページをめくっ ていたがどれも捨てがたい。あれこれ取捨 選択に迷っているうちに、一つの記事の前 で眼が止まって動かなくなっていた。東海 大学安楽死事件に関する記事である。一九 九二年九月二九日。安楽死事件の初公判の 翌日の新聞記事だ。読み始めると、時間を 忘れた。  東海大学の事件に限らないが、安楽死に ついての報道を読むたびに、私の記憶の底 から立ち上がってくる患者がいる。私が大 学病院の内科に入局して初めて受け持った 患者である。すでに三十年以上も前のこと で名前もはっきりとは覚えていない。仮に Aさんとしておこう。そのAさんの苦悶の 表情とそれを見守る家族の難しい顔。そし て臨終の様子など、未だに脳裏に鮮やかで ある。医師になって初めて死亡診断書を書 いた患者だけに、Aさんは私にとって、生 涯忘れられない患者になった。  Aさんは七十を少し越えた位の男性で あった。入局早々に勤務交代があり、前の 主治医から引き継いだときには、すでに膵 頭部癌と診断がついていた。膵癌の診断は、 今でも難しいが、まして腹部CTや超音波 検査のなかった時代のことである。診断の ための検査は手さぐり状態から始められ、 やがて黄痘が現れ、肝臓の転移が疑われ、 膵臓周囲の神経叢への癌性浸潤も強く疑わ れた。そういう絶望的な状態で、私はAさ んの主治医となったのである。  初めて診察にいった時、体全体が黄褐色 の強い黄痘に驚かされた。毎晩背中が激し く痛むという。副作用のために、抗癌剤の 治療も行なわれていない。毎日、二本の点 滴が、申し訳のように行なわれているだけ であった。教授は回診のたびに、丁寧な診 察の後で、患者には意味の分からないドイ ツ語で、「マハト・ロスだね」と静かに言う。 なすすべはなし、という意味である。Aさ んはただ、死を待っているだけの患者で あった。  私は毎日三度は病室に顔を出した。Aさ んは無口である。私の問いかけにも殆ど返 事をしない。それは性格というよりも、病 気に絶望し、病気に対して何らの治療を施 すことの出来ない医学への、抗議の姿のよ うにも思える。  それにもめげず、私は毎朝、Aさんに呼 びかける。 「Aさん、おはよう。昨夜は背中の痛みは どうでしたか」  Aさんはかすれ声で、痛い、と一声だけ 答える。 「そうですか。鎮痛剤もあまり効果があり ませんでしたか。でも、だんだんと良くな りますからね。がんばってください」  Aさんはうなずくような、薄笑いを浮か べるような複雑な表情を見せる。がんばっ てください、と言う以外に、私はAさんを 励ます言葉を持っていなかった。  私は前の主治医の方針通りに、毎日ブド ウ糖の入った点滴を二本続けていた。深夜 に定期便のように訪れる背中の痛みには、 鎮痛剤と時には少量の麻薬を注射して対処 していた。麻薬の使用は必要最小限にとど めた。その頃の若い医師は、麻薬を使用す ることは極力避けること、と教育されてい たのである。それは不治の病を抱え、痛み に七転八倒する患者に対しても例外ではな かった。  点滴と鎮痛剤の注射。それ以外に、Aさ んにはしてあげられることは何もない。死 期は間近に追っている。やがて、黄痘がさ らにひどくなり、血液中にアンモニアが増 えてきて、最後は肝性昏睡になって死亡す るだろうというのが、指導医の意見である。 私もそういう経過をとるものと信じて疑わ なかった。  Aさんは自分の病気について、何も質問 しない。もちろん病名は告知されていない。 前の主治医は、胆石症と肝硬変が合併した ものである、と偽りの病名を告げていたが、 Aさんがそれを信じていたのかどうか分か らない。Aさんはとにかく寡黙で、じつと 耐えるばかりの人であった。 「痛みはどんな痛みなんですか」  私の問いに、戦争体験のあるAさんは一 度だけはっきりと答えてくれたことがある。 「銃剣の切っ先をね、背中にぎりぎりと押 し込まれるような痛みですよ、先生」  Aさんの家族は、私が何度も病室に足を 運ぶに連れて、次第に率直な口を利くよう になっていた。Aさんの家族のうち、四十 年配の重々しい顔立ちの息子と、時々病室 に現れて、かいがいしく父の面倒をみてい る三十半ばと思われる娘とが、今でも私の 脳裏に強く刻まれている。ある日、私が病 室を出ようとすると、息子が追ってきた。 私は廊下の隅で立ち話をした。 「先生、あの背中の痛みは何とかならない でしょうか。どうにもならないものなら、 麻薬中毒にしてもいいから、痛みを抑えて くれませんか。夜中の痛みはとてもひどそ うで、見ていられないんです。鎮痛剤の注 射も全然効きません。我慢強い親父が、あ れだけの声を上げるんですから、相当なも のなんでしょう」 「お気持ちは分かりますが、麻薬は使い過 ぎると、命を縮めますから」  私はうつむいて、ぼそぼそと、誰もが答 える通りに答えた。もっと麻薬を使ってや りたいが、新入医局員の一存ではどうにも ならない。私は、脇の下に冷や汗をかきな がら、失礼します、と背中を向けた。  Aさんの苦しみはさらに増していく。食 事も殆ど摂取できなくなり、痛みに加えて、 強い吐き気がAさんを悩ませていた。  私が主治医になって、一カ月が過ぎた。 家族の眼は次第にとげとげしくなってく る。私ははっきりとそれを意識し、家族と 顔を合わせるのが憂鬱になっていたが、そ れでも毎日三度の回診は欠かさなかった。 「ご苦労さま。ありがとうございました」  と、回診のたびに声をかけてくれ、いつ も愛想のよかった娘の声も、どこか湿りが ちになっていた。  そして、その朝が来た。Aさんは私が予 想もしていなかった病状に陥ったのであ る。朝の八時半に勤務室に顔を出すと、当 直の看護婦が大慌てで駆け込んできた。 「先生、Aさんが明け方から昏睡状態に 陥っています」  いよいよ死は目前に迫った。肝臓で解苺 できないアンモニアが血液を回って、脳に 障害を起こして、肝性昏睡になったに違い ない。私は病室に向かって走った。  Aさんは六人部屋の隅で、意識を失って 鼾をかいていた。皮膚の色は黄色を通り越 して、土色と表現できるはどひどい黄痘で ある。息子夫婦がベッドの足元に立って、 おろおろしている。一方で、父親がようや く拷問に等しい苦痛から解放されること に、どこかはっとした様子もうかがわれる。  昏睡の原因を調べるために、私はすぐに 採血して、肝機能やアンモニアなどの検査 をすることにした。もう検査などはしない で、そっとしておいて、と言いたそうな、 冷やかな息子夫婦の視線を背中に感じなが ら、私は慣れない手つきで静脈を探った。 「それにしても、ひどい汗だね」  私は同行した若い看護婦にもらした。 「ええ、昏睡になったときから、汗をいっ ぱいかいていました」  採血の後で、私は糖加リンゲルの点滴を 始めた。肝性昏睡に対しては、治療法は何 もない。私はいつもの点滴を続けるしかな かった。  それから三十分後、勤務室ではかの受持 ち患者のカルテにペンを走らせていると、 Aさんの病室を巡視をしていた看護婦から インターホンが入った。 「先生、Aさんの意識が戻りました。応答 も出来ます」  私が訪れると、Aさんは眼を開いている。 昏睡時の安らかな顔つきは失われ、苦痛に 頬の節肉を引きつらせている。 「さっきまで、昏睡状態になっていたんで すよ。でも、元に戻って良かったですね」  そう話しかけてもAさんは何も答えな い。息子夫婦は黙り込んだまま、私の診察 風景を見つめているだけである。  勤務室に戻ると、ちょうど指導医が姿を 現した。私は前夜来の病状を報告した。 「肝性昏睡が快復するとは、ちょっと考え られないね。昏睡の鑑別診断をしっかり やってみたらどうかな」  まだ臨床経験が豊富とはいえない四年先 輩の指導医であったが、彼も首をひねるば かりである。Aさんは意識が戻ると、再び、 間断なく続く吐き気、腹部の膨満感、そし て背中の痛みに顔をゆがめ、うめき声をあ げ始めた。  その日、私は四本の点滴を十分な時間を かけて行い、昏睡の原因がはっきりしない まま、深夜になって帰宅した。息子夫婦も 訪れた娘も、誰も私に病状を尋ねようとは しなかった。彼らの眼にも、父親の死はも う一日か二日に追っていると思われたので あろう。  翌朝早く、勤務室に顔を出した私は、す ぐに看護婦からの報告を受けた。  前夜、Aさんは夜通し、背中の痛みで苦 しみ続けたという。私の指示で、麻薬も使 用したが、あまり効果はなかった。そして 明け方になって、またも昏睡に陥った。当 直医の判断で、ただちに糖加リンゲルの点 滴が行なわれ、一時間ほどで意識が元に 戻ったという。 「昏睡状態の時、今度も汗をかいていたの かい」と、私は訊いた。 「ええ、すごい汗でした」と看薫婦は答え る。強度の発汗を伴う昏睡。教科書には低 血糖性昏睡の特徴とはっきりと記載されて いる。私はようやく昏睡の原因に見当をつ けた。しばらくして、検査室から血液検査 の結果が報告され、前日の朝の血糖値は、 私の予想をはるかに越えて、実に7という 驚くほどの低さだった。正常人の空腹時血 糖値の十分の一以下である。なぜ低血糖を 起てしたのか、原因は不明であったが、急 激に血中のブドウ糖が低下したために、脳 細胞が障害を受けて昏睡に陥ったことだけ ははっきりとした。  私は婦長と相談して、Aさんを個室に移 した。それから、不安そうな息子夫婦と娘 を別室に呼んで、病状の説明をした。 「原因は不明ですが、低血糖のために意識 がなくなったわけですから、とにかく、ブ ドウ糖の注射さえ続けていれば、昏睡にな らなくてすむのです」  症例報告ものだ、と指導医にハッパをか けられ、また希有な病状にも興奮して、私 の頭は熱くなり、家族への思いやりにかけ ていたようだった。押し黙って話を聞き終 えた家族は互いに顔を見合わせ、遠慮深そ うに言い渋っていたが、やがて、息子が決 心したように体を乗り出した。 「ブドウ糖の注射を止めると、どうなるん ですか」 「もちろん、意識を失ったまま亡くなって しまいます」と、即座に私は答える。 「先生、ブドウ糖を注射すると、また苦し むだけじゃないですか」  横合いから、いつも明るく父親の世話を していた娘が、喉の詰まった声で言った。 家族の眼が何かを訴えている。私は敏感に それを感じていた。だが、家族の言外の意 思を実行に移したら、どういうことになる か。治療を中止すること。昭和三十年代に 医学教育を受けた人間にとって、許されな い背徳的な行為である。私は素知らぬふり をして、話は終わりです、とばかりに立ち 上がっていた。  低血糖からAさんの命を守るには、二十 四時間休みなく、ブドウ糖の補給を続けな ければならない。私はブドウ糖の点滴を絶 え間なしに続けるように指示を出した。  その夜、静脈から送り込まれるブドウ糖 によって、いつもよりずっと鮮明な意識を 持ち続けたAさんは、これまでにない強い 痛みにうめき続けていた。夜の十二時過ぎ、 帰宅する前に病室に立ち寄った私は、家族 の視線が一層とげとげしくなっていること に気づいた。今夜は数人の孫も集まり、病 室で待機している。  診察を終え病室を出た私は、廊下で家族 に取り囲まれた。 「痛みがひどいんです。先生、何とかなり ませんか」 「今夜は、麻薬をいつもの倍量使用するこ とにします。それで、痛みは何とか抑えら れると思います」  息子は執拗に食い下がって、私をなかな か帰そうとしない。 「でも、この点滴をしなければ、痛みも感 じないわけでしょ。苦しんでいるのをじっ と見ている家族の身になってください」 「それはそうですけど、点滴を止めたら、 そのまま亡くなってしまうんですよ。医師 として、そんなことは出来ません」  Aさんの娘が息子をおしのけるように前 に出てきた。 「先生のご両親はまだご健在ですか」 「はあ、元気にしております」 「先生のお父さんかお母さんが同じ病気で 苦しんでいたら、先生もきっとわたし達の 気持ちが分かってくれるでしょうに……」 「医師の使命は、患者さんの命を助けるこ とにありますから」  私はついに医師の持つ宝刀を振りかざし て、家族を黙らせた。聞く耳を持たない頑 固な若い医師に、家族は諦めたような表情 で押し黙ってしまった。  だが、家に向かって車を走らせながら、 家族の言葉は、私の胸に血の滴るはどの鋭 い傷口を開けていた。家に帰り床に就く。 ぶだん寝付きのよい私であったが、どうし ても眠れない。寝酒にウイスキーをあおる。 過量のアルコールが私の頭をガンガンと鳴 らした。私は考え続ける。家族の気持ちは 分かる。だが、彼らの言いなりになって点 滴を中止することは、安楽死を是認するこ とにつながる。安楽死は殺人である。そん な大罪を犯す訳にはいかない。  翌日、殆ど眠れなかった私はいつもより 早めに家を出た。勤務室に顔を出すと看護 婦は誰もいない。私はAさんのカルテを手 にして、廊下を小走りに病室に向かった。 Aさんの病室のドアが開いて、看護婦が駆 けてくる。何かあったらしい。また昏睡に 陥ったのか。看護婦は私の顔を見ると、ほっ としたように訴えた。 「先生、Aさんの点滴が漏れてしまったん です。また意識がなくなりました。呼吸も おかしいんです。すぐに病室にいってくだ さい」  私が駆けつけると、Aさんの呼吸はすで に停止していた。聴診器を胸に当てたが、 心音も聞こえない。体はひんやりとして、 たった今、息を引き取ったとは思われない。 点滴針から滴れた糖加リンゲルのために、 右足は膨れ上がっている。点滴が漏れたの は間違いのない事実である。だが、家族の 勤務室への通報が著しく遅れたのも真実の ようである。看病に疲れ切った家族は、眠 り込んでいたに違いない。  その次の瞬間、私の背筋を冷えきった考 えが流れ落ちた。  それとも、もしかしたら──。  私はベッドサイドにたたずむ家族の顔を 見回した。みな眼を赤くしている。私は頭 を振って、疑念を追い払った。たとえそう だとしても、誰もその行為を裁くことは出 来ないだろう。それが、昨夜、眠れぬまま に到達した一つの結論だった。  私は静かに臨終を告げて病室を出た。終 わった、重荷から解放された、という意識 が、私の足取りを少し軽くしていた。  家族は、私の病理解剖の申し出を快く承 諾してくれた。  解剖の結果、肝臓は全体にタール色をし た猛烈な壊死に陥っていた。低血糖の原因 は、膵臓に起因するものではなく、肝臓に 貯えていたグリコーゲンのすべてを、疲弊 し尽くしたためによるらしかった。  私が病理解剖の結果を家族に説明する と、ハンカチを瞼に押し当てながら聞いて いた娘が、声を震わせて言った。 「先生には、朝も昼も夜も本当に何度も診 察に来ていただきました。父は無口ですが、 いつも感謝しておりました」  このAさんの死から私が学んだことは、 途方もなく大きいような気がした。  安楽死事件初公判の新聞記事の見出しに、 「穏やかな死願った」「家族の心情思いや り」──元助手落ち着いた口調──とある のを初めて読んだ当時、私は安堵し、がん ばれよ、とつぶやいた記憶がある。少なく とも、この元助手は、患者と家族の苦しみ に直面して、私よりずっと真剣に悩んで、 私のように背中を見せて逃げなかったこと だけは間違いない。                   (了)

楽天モバイル[UNLIMITが今なら1円] ECナビでポインと Yahoo 楽天 LINEがデータ消費ゼロで月額500円〜!


無料ホームページ 無料のクレジットカード 海外格安航空券 解約手数料0円【あしたでんき】 海外旅行保険が無料! 海外ホテル