朝のレクイエム
 
 
          結 城 五 郎
 
 
         (一)
 
 平成二年一月二十入日、日曜日の午前五時過ぎのことであ
る。当直室で眠り込んでいたA市中央署の佐伯警部補は、部
下の小宮刑事に揺り起こされた。数年前までは呼び掛け一つ
ではっきりと目覚めて飛び起きたものだが、定年間近の五十
八歳の年齢には勝てない。佐伯は気だるそうに眼を見開いた
まま、数秒間はぼんやりとしていた。
「管内のR病院の看護婦から電話が入っています。安楽死の
現場を目撃したというんですが」
 その一瞬、佐伯の脳裏を父親の死に顔がかすめていた。
「なに、安楽死だって」と、怖い口調で言ってから、
「分かった。私が出よう」
 佐伯は小宮刑事から受話器を受け取ったが、いつもの活気
あふれる声とはよほど違っていた。
「もしもし、中央署の佐伯です」
「わたし、当直看護婦の新村です」
 鼓膜を突き破りそうな女の声だった。年齢は三十五、六で
あろうか。ひどく興奮している。佐伯は顔をしかめて、受話
器を耳から遠ざけた。
「安楽死ということですが、どういうことでしょう。これか
らうかがいますが、簡単に事情を話してください」
「肺炎で入院している患者さんが安楽死で亡くなりました。
付添いの家族が酸素吸入を止めてしまったんです」
 酸素を止めたために患者が死んだということなら、安楽死
事件というより殺人事件である。
「よろしい、分かりました。それで、付添いの家族は今どう
しているのかね」
「はい、現場を保存するために病室から出して、勤務室の隣
の部屋に連れてきてあります」
 どうやらこの看護婦は堆理小説マニアらしい。佐伯はそっ
と溜め息をついて、
「それで結構。これからすぐに病院へうかがいます」
 受話器を置くと、相棒の小宮刑事はすでに身支度をすませ
ていた。
「安楽死事件ですか。この管内では初めての事件ですね」
 若い小宮は頼を右の掌でこすっている。気負った時の癖で
あった。
 
 住宅街は暗く、静かに眠っていた。国道を折れると、パト
カーはサイレンを消して走った。佐伯は背もたれに後頭部を
うずめ、窓の外をぼんやりと眺めていた。街灯の薄明かりに
古い町並みがうっすらと浮かび上がっている。
「どうされたんですか。体の具合が悪いんですか」
 小宮に心の中をのぞかれたような気持ちになって、佐伯は
ちょっと、うろたえた。
「いや、なに、どうも、歳を取ると疲れが取れなくてね」
「それは、佐伯さんらしくありません。お前ら若い者には、
まだまだ負けない、と言ってたのは確か昨日でしたよ」
 佐伯は苦笑して、シートに坐り直した。
 パトカーは病院の前庭に静かに入っていった。R病院はこ
の地区では歴史の新しい病院であった。開院は昭和四十年。
百五十床で四階建。外壁はいささかくたびれてはいるが、国
道から二百メートルほど入った住宅街の一角にあり、周辺に
はまだ緑が残っている。
「今朝はやけに冷えますね」
 小宮刑事は車から下りると、白い呼気を飛ばしながら背筋
を伸ばした。一月末の朝、夜明け前の空気は、車の暖房にほ
てった頬にさえ、凍りつくように冷たい。氷点下の寒さだっ
た。はげ上がった広い額を光らせ、佐伯警部補は身をすくめ
て玄関に向かっていった。
 看護婦も事務員も誰も迎えに出ていない。玄関ホールには
明かりもない。たちまち、小宮刑事が口を尖らせた。
「どういうことですか。事件が起きたというのに」
「まあいい、二階に行こう。看護婦の詰所があるはずだ」
 佐伯は二段飛びで階段を駆け上がった。小宮が頼もしそう
に、その後に続いた。事件の現場を前にして、佐伯はようや
く持ち前の猟犬の闘争心を奮い起こしていた。
 階段を上りきると、すぐ前が勤務室だった。蒼白な蛍光灯
の明かりの中に三人の看護婦の姿が見えた。そのうちの一人
が来訪者に気付くと、ドアを開けて飛び出してきた。
 やせて神経質そうな中年の看護婦である。
「警察の方ですね」と、こわばった表情で甲高い声を出した。
「あんただね、電話をくれたのは」
 佐伯はにっと笑った。笑うと、細い眠がさらに細くなる。
その笑顔は相手の気持ちを和やかにする効果があった。看護
婦は緊張をゆるめた。
「はい、わたし、新村と申します」
「家族は静かにしているの」
「そえ、観念したらしく、おとなしくしておりますが」
「それなら安心だ。まず、貌場をみせてもらいましょう」
 二人の刑事は看護婦の後ろについて、常夜燈の明かりをた
よりに廊下を歩いていった。どこの病室か、患者が激しく咳
き込んでいる。
 事件があった病室は廊下の外れの二人部屋だった。ドアを
開けると、二つのベッドが左右に縦に並んでおり、遺体は左
のベッドに横たわっていた。布団を掛けられ、顔は白い布で
覆われている。黒光りのする中型の酸素ボンベと吸入器の
セットが、ベッドの右側に置かれていた。
 手帳を取り出した小宮刑事がせかせかと尋ねた。
「亡くなった患者さんの名前と年齢を教えてください」
「丹羽征行さん、九十四歳です」
「えっ、九十四ですね?」と、小宮は訊き返した。
 佐伯は丹羽征行の顔を覆っている白い布をめくってみた。
長く患っていたのか、顔全体がむくんだように膨れ上がって
いる。安らかとはいえないまでも、苦痛のない静かな死に顔
だった。
「病室にいた家族の名前と患者との関係を教えてください」
 若い小宮は看護婦に息を吸う余裕も与えない。その質問を
予想していたのか、新村看護婦は白衣のポケットからメモ用
紙を取り出し、小宮に示しながら、
「家族は二人です。一人は丹羽徳子、年齢は六十五歳で、亡
くなった丹羽さんとは舅と嫁の関係です。それからもう一人
は、その息子の丹羽静夫、三十四歳です」
 看病に疲れた母と息子が共謀して酸素を止めたのか。佐伯
の胸の中をそんな思いが流れた。
「新村さん、丹羽征行さんはどんな病気で入院したの」
 今度は佐伯が穏やかに尋ねると、新村看護婦はほっと息を
ついてから、
「丹羽さんは脳出血の後遺症で寝たきりでしたが、肺炎に
なって、一週間前に入院しました」
「ほほう、脳出血の後遺症で寝たきりでしたか。何年間寝た
きりだったの」
「たしか、十二年だったと思いますが」
「十二年もかい。それはお気の毒だったね」 と佐伯は驚きを
隠せず、何度もうなずきながら相槌を打った。
「それじゃ、入院してからのことを話してください」と、未
熟な小宮がせっかちに先を急がせた。
「熟が下がらなくて、ずっと抗生物質の点滴を続けていまし
た。酸素吸入は入院した時から始めたんです」
「その酸素を止めたっていうわけだね」 と佐伯。
「そうなんです。午前三時半に、わたしが血圧を測りに来た
時は、呼吸は三十四で大部速くなっていましたが、脈拍は百
三十で規則正しく、血圧は八十四と五十二でした。その時、
喉にからんだ疾もきれいに吸引しましたから、すぐに亡くな
るような病状ではなかったんです」
 何度もおさらいをしたように、看護婦はすらすらと話し続
ける。
「その時は、家族は二人とも起きていたのかね」
看護婦は空いているベッドに眼を走らせ、
「いえ、お母さんの方はこちらのべットで眠っていました」
「息子が一人で起きていたんだね」と、佐伯は念を押した。
「そうです。病状に変化があったらすぐに連絡するように、
きつく言ってあったんです。それなのに、全然連絡がなかっ
たんですよ」
 新村看護婦は不満そうに言葉尻を上げてから、
「四時半になって、わたしは見回りに来ました。ドアを開け
ようとして、おやっと思いました。怒っているような男の声
が聞こえたんです」
「ちょっと待ってくれよ。息子の方が怒っていたんだね。何
と言っていたか、聞こえなかったのかい」
「だめだ、だめだ。そんな風に聞こえました」
「だめだ、かね。それで、母親の声は?」
「はあ、母親の声は聞き取れませんでした」
「それで、ドアを開けた時、二人はどこにいて、どんな姿勢
をしていたのかな」
 新村看護婦は酸素ボンベに近付き、流量計の前で膝を突い
て、佐伯を振り向いた。
「二人とも背中を向けていました。母親はこうやって、ここ
にかがみ込んでいました。息子の方は、後ろから母親を押さ
え付けていたように見えました」
「すると、息子が母親の行動を止めていたということかい。
とっても大事なことだから、正確にお願いしますよ」
 自分の証言がもたらす結果に初めて気付いたのか、看護婦
は恐ろしそうに表情を固くした。
「はあ、そうだと思いますけど……」 と、急に頼りなさそう
になった。
「よろしい。それでどうしました」
 佐伯が元気づけると、新村看護婦は立ち上がって、ベッド
を見下ろした。
「ええ、丹羽さんはもう殆ど呼吸をしていなかったんです。
下顎呼吸に近い状態でした。疾の吸引をしようと準備をして
いたら、顎の動きが止まりました」
「ちょっと待ってくださいよ。かがく、呼吸って何ですか」
小宮刑事が口を挟むと、話の腰を折られた新村看護婦は、腹
立たしそうに小宮をにらみつけた。
「呼吸が止まる前に、下の顎だけを動かしている状態です」
 その時の興奮状態に立ち戻り、声が上擦ってきた。
「わたしは勤務室に連絡をして、当直の緒方先生に連絡を頼
みました」
 それから、看護婦はごくりと生唾を飲み、ふっと息をつい
てから、酸素の流量計を指差し、
「その後で、わたしは見つけたんです。酸素の泡が出ていな
かったんです。それで、わたしは二人に尋ねました。酸素を
止めたのは誰ですかって」
「ちょっと待ってくだきいよ。酸素が自然に止まるというこ
とはないんですか」
 病院には縁のないらしい小宮刑事がまたもさえぎった。一
瞥した新村看護婦は、無知をあざわらうように、
「ボンベの中身が空にならない限り、そんなことは絶対にあ
りません。誰かが元栓を止めるか、流量計のコックを閉した
に決まってます」
「はあ、そういうもんですか」と、小宮はあっさりと引き下
がった。佐伯は目顔で先をうながした。
「わたしが尋ねると、二人の顔色がさっと変わったんです」
 新村看護婦の感情はさらに高ぶってきた。
「わたしはピンときました。誰かが酸素を止めて、安楽死さ
せようとしたんだ、と思いました。それで、もう一度尋ねた
んです。酸素を止めたのは、いったい誰なんですかって。で
も二人は答えません。三度目に尋ねても然っているので、わ
たしは言ってやりました。あなたがたは何をしたのか分かっ
ているんですか。酸素を止めるのは安楽死と同じことでしょ
う。安楽死は許されていないんですよ」
 新村看護婦は一気にまくしたてると、力が抜けたように大
きな息を吐いた。
「よく頑張ったんだね。なるほど、そうしたら白状したんだ
ね」 と、佐伯はにこにこ笑いながら言った。
「そうなんですよ、刑事さん。そうしたら、お母さんの方が
白状したんです」
「それは、よくやった」
 佐伯が誉めてあげると、こわばっていた新村看護婦の表情
が顔の芯から崩れ、幼児のように喜びを表した。
 その時、息子の静夫は唇を噛んだまま、一言も口を利かな
かったという。
 そこへ駆けつけた当直医の緒方医師と相談の上、新村看護
婦は警察に電話を入れたのである。
 
 佐伯は当直医の緒方を呼ぶように頼んだ。小宮刑事は署へ
の連絡に走った。鑑識課員をすぐに派遣してもらわなければ
ならない。酸素ボンベの元栓か流量計のコックに指紋が残さ
れていれば、重要な証拠になる。司法解剖は大学医学部の法
医学教室に頼んで、明日の月曜日になるはずだった。
一人になった佐伯は丹羽征行の遺体を眺めた。点滴スタン
ドに円筒形のボトルが掛けられ、そこからうどん位の太さの
チューブが遺体の上腹部に伸びている。佐伯はそっと布団を             めくってみた。チューブの先端は遺体の腹壁に蛇の頭のよう
に食い込んでいた。
 ノックもなしにドアがいきなり開いた。白衣の前をはだけ
て、腹を突き出した医師が姿を見せた。頭は白髪であるが、
手入れが悪いのか薄黄色く汚れ、貧相な容貌を余計にみすぼ
らしくしている。老け込んで見えるが佐伯と同年輩のよう
だった。内科医長の緒方と名乗った。歯は煙草のタールで黄
色くなっている。眼鏡を掛けた細い眼を不機嫌そうにしばた
たいていた。面倒な事件に巻き込まれてうんざりだ、とその
顔に書いてある。
「院長に電話をしたんだが、昨夜からスキーに行っているそ
うだ。それと、主治医の北村は奥さんの実家に行って、これ
も留守」と、緒方医師はぶっきらぼうに言った。
「いえ、先生で結構なんです。ちょっと事情をうかがうだけ
ですから。あとで簡単な調書をいただくことになりますが、
先生には、警察までご足労願うことはありません。ご安心く
ださい」
 佐伯が腰を低くして愛想よく声を掛けると、緒方は少しだ
け機嫌を直した。
「先生が病室についた時には、丹羽さんはもう亡くなってい
たんですね」
「そう、呼吸も心臓も止まり、瞳孔も開いて、完全に死亡し
ていた」
「蘇生術はなさらなかったんですか」
「私はね、むだなことはしない主義なんだよ」
「蘇生術がむだなことですか?」
 佐伯がそう言うと、緒方医師は苦り切った様子で頼を膨ら
ませてから、
「そう、少なくとも、この患者の場合はむだなことだ。蘇生
術をやる必要を認めない」
「ははあ、どうしてでしょうか」
「そりゃ、そうだろう。脳出血後遺症で十二年間も寝たきり
で重症な肺炎の患者が、心臓も呼吸も停止し、瞳孔も開いて
いるんだ。あんたがこの患者だったら、蘇生術をしてほしい
と思うかね」と、叱りつけるように緒方は言った。
「失礼しました」と佐伯は逆らわず、すぐに質問を変えた。
「それで、病室の中はどんな様子だったのでしょうか」
「異様な雰囲気だった。家族をにらみつけていた看護婦が安
楽死だと騒いでいる。この人が酸素を止めたんです、と言っ
て、母親を指差していたんだ」
 「そう言われた時、先生はどう思いました」
緒方医師は凝った肩をほぐすように首を回してから、
「正直なところ戸惑っちゃったよ」
「と言いますと?」
「安楽死と決めつけるのはどうかと思った」
「ほう、それはなぜですか」
「酸素を止めるだけでは、安楽死の手段としては、ちよっと
弱いのではないか、という感じを持ったんだ」
「弱い、という意味は、どういうことでしょう」
「それはだね。本当に殺す気なら、なぜもっと積極的な方法
を取らなかったか。そこのところが、いかにも弱い、と思っ
たんだよ」
 緒方医師は遺体を見やりながら、
「看護婦が一時間ごとに見回りに来るのは、家族には分かっ
ていたはずだ。そんな状況の下では、もっと確実な方法があ
るんじゃないか。ほかの方法で気道を塞ぐことも出来たはず
だろ。酸素を止めるのは、殺すつもりにしては、ずいぶんと
消極的な方法じゃないかね。家族は本当に死ぬと思ってやっ
たのか」
「医学の知識が乏しければ、そう思うかもしれません」
「そう、酸素さえ止めればすぐに呼吸が止まる、と素人は勘
違いしているかもしれないね」
「でも、酸素を止めたのが原因で死が早まったのであれば、
安楽死を目的とした殺人ということになります」
「殺人か。おお、怖い」
 緒方医師は大げさに首をすくめ、唇をゆがめて笑った。そ
れから、急に厳めしい顔付きになると、
「この患者の家族の肩を持つわけではないが、こういう話が
ある。刑事さん、知っているかい。ある高名な作家が食道癌
の末期で瀕死の床に就いていたそうだ。その病室へ友人の坊
さんが訪れた。坊さんは作家のおかれている状況を一目で見
て取ると、こんなものはやめにしましょう、と言って、医師
の目の前で酸素吸入のカニユーレを外してしまった。それか
ら、坊さんは読経を始めたそうだ。朗々とした読経が二時間
も続いているうちに、作家は静かに息を引き取ったというこ
とだ。その坊さんが安楽死殺人で訴えられたという話は聞か
ないがね」と、口角に唾を溜めてしゃべり終えた。
「なるほど、実に感動的なお話ですね。しかし、不可解です
な。先生がそういうご意見ならば、警察に届けるという決断
は誰がしたんですか。先生ではないんですか」
 佐伯が皮肉っぼく追求すると、緒方医師は不快そうに表情
を崩し、困惑を隠そうともせず、
「看護婦が安楽死だと興奮して騒いでいる以上、そうじゃな
い、とは言えないだろう。私が届けるなと言っても、看護婦
が納得しなければ、私の立場は誠に微妙なものになってしま
う。昔とは時代が違うんだ。後になって内部告発でもされた
ら、マスコミが押し掛けてきて、それこそ大騒動になる」
「先生は本当に正直な方ですな」 と、佐伯は苦笑した。
 小宮が戻ってきた。ドアをそっと開け、足音もさせずに緒
方医師の後ろに立った。佐伯はもう少し緒方と二人きりで話
したい気持ちがしたが、小宮が戻ってきたら、そういうわけ
にもいかない。佐伯は最も知りたいことを尋ねた。
「先生、酸素を止めたことと、死の因果関係はどれほどと思
われますか」
「臨終を早めたことだけは間違いないだろう。ただそれが十
五分か一時間かそれとも数時間なのか、そこのところは、はっ
きりと言えないね。この患者は肺炎だけでなく、心臓もかな
りまいっていた。酸素を止めな〈ても夜明けまでには死んで
いたかもしれない。家族はもう少し待てばよかったんだ。まっ
たく早まったことをしたもんだ」
 緒方は怒りを露にしたが、家族への同情が感じられた。
「看護婦さんは、呼吸がおかしくなったら気管切開をするつ
もりでいたと言ってましたが」
「私はやらないね。それは、主治医の北村が回診の時に言っ
たんでしょう」
「そうですか。失礼しました」
 部屋の空気がよどんで、暖房が利きすぎていた。佐伯は息
苦しくなって窓を開けた。いつのまにか窓の外が白んで、ク
スノキの緑が識別できるようになっていた。深呼吸をすると
生き返るように元気が出た。
 佐伯は話題を変えた。
「先生、これは、何をするものですか」と言って、遺体の上
腹部に食い込んでいるチューブを指差した。緒方医師はうな
ずきながら、丹羽征行を覆っていた布団を取り去った。遺体
は何も身に着けていなかった。上肢も下肢も関節が異様に屈
曲して筋肉が固まっていた。
「これは胃瘻チューブだよ」
「いろう?」
 佐伯と小宮が同時に声を出した。
「胃に穴を開けて、チューブが入っているんだ。チューブを
通して、胃に栄養を送り込むんだよ。この患者は十二年前に
脳出血で倒れてから、ずっと植物状態のままで、意識もなく
て、口から食べられないからね」
 脳出血で植物状態になった九十四歳の人間も、医療技術の
進歩した現代では、このようにして生き続けるのである。
「この手術はどこの病院でやったんですか」
「確か、九年前に脳外科を退院する時に手術したと聞いたが
ね。ちょっとカルテを見てみよう」
 緒方医師がカルテを広げ、丹羽征行の病歴をしゃべり始め
ると、小宮刑事が手帳に書き留めた。
 昭和五十三年十二月、脳出血にてT脳外科病院に入院。
 昭和五十五年十二月に退院。その時、胃瘻手術を行う。
 昭和五十六年九月、急性気管支炎で入院。
  昭和五十七年一月、急性肺炎で入院。
 昭和五十人年六月、急性肺炎で入院。
 昭和六十年十一月、気管支炎で二週間入院。
 昭和六十二年九月、急性肺炎で三週間入院
 昭和六十三年四月、肺炎で一方月入院。
 平成元年二月、肺炎で三週間入院。
 今回の入院は、本年一月二十一日の午後。
「この病院に入院するのは、これで八度目になる」と、緒方
医師は哀れむように言った。
「寝たきりの植物人間を十二年も看病するのは、大変なこと
でしょうね」
 佐伯が応じると、緒方は乾いた笑い声を上げ、
「大変なことには違いないけど、今では、珍しいことではな
い。この病院にも似たような患者があと二人も入退院を繰り
返している。医学も進歩したからね。そう簡単には死なせな
いよ」
 緒方医師は本気とも冗談ともつかぬ口調で、最後を縮めく
くった。
 
 佐伯は沈み込んだ心を引きずって、廊下を勤務室の方へ
戻っていった。植物人間となった丹羽征行を十二年間も看病
していたのに、なぜ家族はもう少し待てなかったのだろう。
それが頭に引っ掛かっていた。緒方医師の言うように、数時
間後には死亡していたかもしれないのだ。それに、やり方が
あまりにも稚拙である。酸素吸入を止め、それを看護婦に見
とがめられるとは、なんとも愚かなことだった。だが、警察
官としてそんなことを口にするわけにはいかない。
 勤務室に顔を見せると、新村看護婦が飛び出てきて隣の小
さな部屋を指差した。カウンセリング・ルームとして使われ
ている部屋らしい。ドアを開けると、二人掛けのソファに、
老いた母とその息子が肩を並べて腰を下ろしていた。丹羽徳
子と静夫である。
 徳子の姿を見て佐伯は驚いた。六十五歳とはとても信じら
れない。九十四歳になるという征行の妻かと見まちがえるほ
どだった。背中も腰も曲がり、頭髪は白く染まり、顔には心
労の痕が深く刻まれている。
 徳子はすっかり覚悟を決めていたらしい。佐伯と小宮を認
めると、表情を引き蹄めて、すぐに立ち上がった。
「警察の方ですね。ごくろうさまです。酸素を止めたのはわ
たしです」
 手錠をお願いします、とでも言うように、徳子は両手を揃
えて突き出した。小宮が当惑して佐伯をうかがった。
「いや、そのままで結構です。あなたには、署の方に同行し
ていただくことになります」と、佐伯は丁寧に言った。
「それから、息子さん。あなたもお母さんと一緒に来ていた
だきます。ちょっと事情をうかがいたいと思いますので」
 色白の顔から血の気が失せた静夫は、母親の犯罪にうろた
えたのか、満足に口を利けないほど動転していた。
 徳子がおずおずと尋ねた。
「あのー、義父はどうなるんでございましょう。この子が家
に連れて帰るわけにはいかないもんでございましょうか」
 小宮が腹立たしそうにさえぎった。
「殺人事件なんですよ。死因をはっきりさせないといけない
でしょ。司法解剖しなくてはならないんです。本当にどうし
て、こんなことをしたんですか。これじゃ、仏さんが浮かば
れませんよ」
 徳子が首を垂れた。静夫は敵意に満ちた眼差しで、小宮を
にらみつけた。
 
 外来の一室を開けてもらい、緒方医師と新村看護婦を個別
に呼んで、参考人調書を取った。それから、丹羽徳子と静夫
を車に乗せて、佐伯と小宮が署に戻ったのは朝の九時を過ぎ
ていた。一時間ほど休息した後、佐伯は徳子の取調べを始め
た。
 両膝に握り拳をのせた穂子は、曲がった腰をしっかりと伸
ばして取調べに応じた。佐伯のどんな問いにも、よどむこと
なくしっかりと答える。老いさらばえた見掛けとは違い、な
かなか頭の良い女だった。相当に教養もありそうである。笑
うと、六十五歳の女の顔になった。取調べを始めて五分もし
ないうちに、佐伯は倍子に好感をもった。
「酸素吸入のコックを閉じた時のことを、詳しく話してもら
おうかね」
「はい、わたしは義父を十二年も看病してきました。もう疲
れてしまったんです。義父は元は海軍の大佐で、駆逐艦の艦
長をやったほどの人です。元気な頃にはいつも、死ぬ時はお
前達に迷惑を掛けたくない、余計な治療はするな、と言うの
が口癖でした。十二年前に倒れて、義父は口が利けなくなり
ましたが、口が利けたら、もう何もせんで、そえ、と言ったと
思います。この十二年間、わたしは力の及ぶ限り、看病を続
けてきました。でも、今度の入院が潮時だと思ったんです。
義父の遺志を果たすために、わたしは決心して酸素を止めま
した」
「その、征行さんの遺志だがね。それを証明するものが何か
あるのかね。倒れる前に何か、書いたものを残さなかったの
かね。日記とかでもいいんだ」
「義父は筆不精でしたから、何も残しませんでした」
「看護婦さんがドアを開けた時、あんたは息子と争っていた
そうだが、どういうわけかね」
「はい、それまで眠っていた静夫が急に起き出しました」
「ちょっと待った。三時半に看護婦が見回った時には、あん
たが眠っていたそうしゃないか」
「はい、看護婦さんが出ていく気配で、わたしは目を覚まし
て静夫と交代したんです。静夫は疲れていたのか、すぐに眠
り込んでしまいました」
「よろしい。それで、起き出した息子はどうしたのかね」
「はい、静夫はすぐに酸素が止まっていることに気付いて、
コックを元に戻そうとしたんです。初めはわたしがやったこ
ととは知らずに、自然に止まったと思ったらしいんです。わ
たしは静夫に、気持ちを話して聞かせました。死なせてあげ
るのが、おじいさんのためだと話したんです」
「それで息子と言い争いになったというわけか」
「静夫は、こんなことが見つかったら罪になる、と言いまし
た。わたしは罪になってもいいと言い返しました」
 徳子はゆっくりと噛みしめるように話をした。意地の悪い
質問が佐伯の頭に浮かんだ。
「初めから、警察に捕まるつもりでやったことではないんだ
ろう。こういうことは考えなかったの。酸素を止めた後、耳
を覚ませていれば、看護婦がやって来る気配は、足音で分か
るだろう。看護婦がドアを開ける直前に、コックを元に戻す
んだよ。そうすれば、酸素を止めたことなんて誰にも分から
なかったんじゃないかね」
 徳子は感心したように、まじまじと佐伯を見つめた。
「刑事さんは恐ろしいほどに、人の心が分かるんですね。わ
たしもそう思っていたんです。コックを指でつまみながら、
廊下の足音と義父の呼吸の音をしっかりと聞いていました。
看護婦さんの足音が聞こえたら、それから、義父の呼吸が止
まったら、コックを元に戻そうと、待ち構えていたんです。
でも、静夫が目を覚ましたために、何もかもだめになってし
まいました。運の悪いことに、争っている最中に、いきなり
看護婦さんがドアを開けたので、コックを元に戻している暇
がなかったんです」
 徳子の供述は具体的だった。実際に手を下した人間でなけ
れば、これほどはっきりと述べることは出来ないだろう。だ
が、丹羽徳子の顔は明るすぎた。殉教者のようだった。それ
が、彼がこれまでに取り調べた数知れない被疑者と異なって
いるところだった。
 この女は息子をかばっているのではないか。徳子が自供す
ればするほど佐伯の疑念は濃くなっていった。子供のための
犠牲的精神は母を強くするに違いない。
「逆なんじゃないかね。酸素が止まっているのを見て、あん
たが、コックを開けようとしたんだろ。看護婦さんは、流量
計の前にかがみ込んだあんたを、息子が押さえつけていたよ
うだ、と言ってるんだよ」
 徳子は顔色一つ変えない。
「それは、看護婦さんがおっしゃるとおりです。静夫はわた
しが閉じたコックを一度開けてしまったんです。わたしは慌
ててコックを閉じました。そうしたら、静夫がわたしを押さ
えつけて、またコックを開けようとしたんです」
 頭の回転の早い女だった。一筋縄ではいかない、と佐伯は
思った。
「あのね。酸素なんか止めなくとも、あと二、三時間の命だっ
たかもしれない、と当直の先生が言っていたんだが。どう思
うかね」
 徳子はすぐに首を振った。
「いえ、これまで何度も入院して、わたしには分かっていま
した。先生方はいつでも、本当に一所懸命に治療してくださ
います。ですから今度も、酸素を止めなければ、義父は生き
延びたでしょう」
「それなら、酸素を止めるなんて姑息な手段ではなく、たと
えば、顔に枕を押しっけて鼻と口をぶさぐとか、そんなこと
は考えなかったのかね」
「そこまでする勇気がわたしにはありませんでした。本当は
十二年間も義父を苦しませずに、もっと早くしてあげたらと
今では後悔しています」
 徳子は涙も浮かべずに、佐伯の視線をとらえて離さない。
立派な行いをした後のように、その眼は澄み切っている。
 佐伯は徳子をいじめてみたくなった。何もかも悟ったよう
な徳子がどう答えるか興味があった。
「あんたは、立派なことをしたような顔をしているが、結局
は、あんた方の利益のために、じいさんの死を早めたんだろ
う。じいさんは意識もないから苦痛もない。いいかい、本当
の安楽死というのは、死にも勝る苦しみから逃れるために、
やむにやまれぬ気持ちで行われるんだよ。森鴎外の高瀬舟を
読んだことがあるだろう。あんなのが、本当の安楽死という
んだ。あんたのように、胸を張って、厄介払いをしたように
せいせいした顔をしているのは、私には許せない。この事件
は安楽死なんかではなく、れっきとした殺人事件だ」
 しゃべっている内に、佐伯は凶悪犯を追い詰めているよう
な感情に襲われて、言葉が荒くなった。
 徳子は悪びれない。反省も後悔もしていないから、和やか
な表情は少しも変わらずに、急に怒り出した警部補を不思議
そうに見つめている。
「刑事さんのおっしゃる通りかもしれません。義父を楽にし
て上げたなんていうのは、わたしのエゴなんです。どうか、
存分に処罰してください」
「あんたは、どうしても自分を犯人にしたいらしいな」
 追い込めば追い込むほど、徳子はどんな重い罪でも背負っ
てしまいそうだった。これだけはっきり自供してもらえば、
供述調書を作成するのに何の困難もない。だが、佐伯は徳子
が真犯人であると、単純に割り切ることが出来なかった。
 徳子が身動ぎをした時、佐伯の視野の中で何かがきらっと
光った。徳子の首のネックレスだった。ネックレスの先端に
小さな十字架が光っている。
「ずいぶんと立沢なネックレスだね」
 佐伯が尋ねると、徳子は恥ずかしそうにうつむいた。
「これは、十五年前に亡くなった主人から、生前にいただい
たものなんです」
「さきっちょに付いているのは十字架じゃないのかい」
「はい、十字架です」
 佐伯は徳子を怒らせてみようと思った。
「イエス・キリストは殺人を許すのかね。バイブルには時と
場合によっては、人を殺してよいと書いてあるのかね」
 さらりと言った一言が、徳子の感情を激しく揺すぶった。
挑むように佐伯を見つめた徳子は初めて言葉に詰まった。何
と答えたらよいのか、苦悩が顔をゆがめていた。だが、それ
も束の間だった。徳子は両手でネックレスをつかむと、力いっ
ぱいに引きちぎった。
「こんなものは、わたしには用はないんです。わたしは、本
当のクリスチャンじゃありません。洗礼なんか受けていませ
んから、キリストの教えに背いたってかまわないんです。
 徳子の体が急にしぼんでしまった。がっくりと腰を曲げ、
生き生きと輝いていた顔も皺だらけになっていた。第一印象
のままの老婆が、再び佐伯の目の前にいた。
 取調べは終了した。供述に矛盾はないが、佐伯の感情はど
うしても納得がいかなかった。どう考えても、十二年間もが
んばった徳子が、ここで挫折するはずがない。鑑識からの連
絡はまだだった。供述が正しければ、流量計のコックに、徳
子が触れた指の痕跡が残っているに違いない。
 
 午後二時になって、佐伯警部補は静夫から事情を訊くこと
にした。椅子に腰を下ろしても、静夫は眼をうつろにしてぼ
んやりとしていた。佐伯が励ましながら訊きただすと、静夫
はぼつりぼつりと答えた。
「私は母と交代して、三時半過ぎから眠っていました。しば
らくして目を覚ましたら、祖父の呼吸は止まりかけていまし
た。酸素の泡も止まっていました。私は母をなじりました。
看護婦さんに見つかったら、大変なことになると言って、コッ
クを開けました。そうしたら、母はすごい勢いで立ち向かっ
てきました。母にあんな力があるとは思ってもいませんでし
た。母は、おじいさんを楽にしてやろう、と言って、コック
をまた閉じてしまいました。私が開けようとし、争っていた
時、急にドアが開いて、看護婦さんが顔を見せたんです」
 静夫の話は、徳子の供述と何一つ食い違うところはない。
佐伯ははげ上がった額をなで回しながら、
「これですっかり分かった。君の話とお母さんの自供とは、
ぴったり一致している。しかし、お母さんは十二年間もがん
ばったのに、どうして今度だけは、そんな大それた気持ちを
起こしたんだろう」
「母はきっと疲れていたんです」
 二人の供述があまりにも似ているのが、佐伯には気に入ら
なかった。カウンセリング・ルームで、二人はひそひそと話
し合って、口裏をあわせたに違いない。佐伯は母親思いらし
い静夫の心に踏み込んでみることにした。
「今度の事件は、安楽死事件というよりは殺人事件なんだ。
お母さんは殺人罪で地検に送られることになる。それから、
尊属殺人というのは、君も知っていると思うが、以前は刑が
重かったんだよ。どんな事情があっても懲役三年六方月以上
だった。今でも、裁判官によっては重く罰する人もいる」
 静夫はうつむいたまま表情を見せない。
「どうした、お母さんは長く刑務所に入ることになるかもし
れないんだよ。君はお母さんの体が心配ではないのかね」
 佐伯は優しく問い掛けた。静夫の体は身動ぎもしない。
「お母さんはクリスチャンだったのかね。十字架のついた
ネックレスをしていたが」
 答えはない。
「クリスチャンが人を殺してもいいのかね、と言ったら、お
母さんは、私の前で、ネックレスを引きちぎってしまった。
それまで落ち着いていたお母さんも、可哀想に、その時だけ
は涙ぐんでいた」
 その言葉は、佐伯が予想していたよりもずっと大きな効果
を上げたようだった。
 うつむいていた静夫が顔を上げた。切れ長で奥二重の眼が
不安そうに佐伯を見つめた。眠れない夜を何日も過ごしたの
だろう。眉間に深い二本の皺が寄っていた。
「母がネックレスを引きちぎったんですか」
「そうだ。私も気の毒で見ていられなかった」
「母はどうなるんですか」
「検事さんの取調べがすむまでは、こちらで預かることにな
る。裁判の間はずっと、拘置所に入らなければならない。裁
判で判決が出たら、今度は刑務所に送られることになる」
「起訴猶予にはならないんでしょうか」
 静夫は両手を握りしめて、体を乗り出した。食いついてき
た、と佐伯は思った。母の体を気づかう世間知らずの息子を
手玉に取るのは、わけはなかった。
「お母さんには気の毒だが、なにしろ、情状酌量する余地の
ないほどに、すっかり白状しているからね。お母さんには、
明らかな殺意があった」
 佐伯は静夫の反応を見るように一呼吸おいてから、ゆっく
りと付け加えた。
「殺人罪で起訴され、たぶん実刑の判決が下りるだろう」
 静夫は貧乏ゆすりを始めた。いら立っている。
「寒いんでしょうか。拘置所の中は」
「そりや、寒いことは寒い。もちろん毛布は支給されるけれ
ど、ぼかぼかと暖房が利いているわけではない」
 静夫は唇を噛みしめた。
「あれだけのことが、そんなに重い罪になるんでしょうか」
「どんな事情があっても、殺人は殺人だ」
「しかし、祖父はあのままにしていても、死んでいたんでは
ないでしょうか」
「それは、お母さんの罪を軽くすることにはならない。君、
誰でも、いつかは死ぬんだよ。一時間後か、数日後か、数年
後かは誰にも分からない。神のみぞ知るという領域だ。殺人
というのは、いずれは死ぬ運命にある人間の寿命を、故意に
早めるということなんだ。あと何時間の命、あるいは、あと
何年の命かは、問題ではないんだ」
 静夫は黙った。何か深刻に考えている。やがて、誇るよう
に顔を上げ、ぼつりと言った。
「母は洗礼は受けてはいないけれど、そこら辺に転がってい
るクリスチャンよりも、ずっとキリストに近い人間です」
「そうだろうね。取調べを受けるお母さんの態度は、実に立
派だった。でも、どうして、そんな立沢な人が、この十二年
の努力をむだにしてしまったんだろう。私にはそこのところ
が分からないんだ。教えてくれないかね」
 静夫はまたうつむいてしまった。その胸の中で、大きな波
が揺れている。佐伯は煙草を吸いながら黙って待っていた。
彼の経験では、静夫が自白を始めるのは時間の問題だった。
だが、三分も待たせたあげく静夫は何事もなかったように、
「刑事さん、取調べはこれで終わりですか」
 そのしたたかさは母にそっ〈りだった。
 佐伯が舌打ちした時、ドアがノックされた。小宮が取調室
に姿を見せた。右手に鑑識からの報告書を持っていた。さっ
と目を通した佐伯はほっと息をついた。これで静夫は逃げら
れない。
 酸素ボンベ本体と元栓、流量計のガラス瓶から、徳子の指
紋が見つかった。これは二人が争った時に、徳子が付けたも
のらしい。流量計のコックには、静夫の指の痕跡が認められ
たが、徳子が触れた痕は認められなかった。
 佐伯が報告書を黙読して顔を上げると、静夫の眼におびえ
の色が浮かんでいた。
「静夫君、君は流量計のコックに、何度触れたんだね」
「ですから、酸素を出すために、一度だけ触れました」
 静夫は縮み上がるような口調で答えた。
「コックを動かして酸素を止めたのは、お母さんだね。それ
は間違いないね」
 ちよっと間をおいて、静夫はおずおずと、
「その通りです」
「おかしいね。コックに触れたのは君だけじゃないか。お母
さんは触れていない。そういう結果が出ている」
 静夫の表情が仮面のように凝固した。だがまだ屈しない。
「刑事さん、誘導尋問じゃないんですか。コックには細かい
縦の溝が走っていましたから、指紋は出ないはずですが」
「残念だが分かるんだよ。指紋そのものの検出は出来ないけ
どね、指圧痕を合成して、触れた人間を特定することが出来
るんだ。さあ、これで、覚悟が出来たろう。何もかも、正直
に話してしまいなさい」
 佐伯はさとすように言った。十数秒の間、静夫の体はぴく
りとも動かなかった。見開かれた眼は瞬きさえしない。それ
からゆっくりと肩が崩れた。鼻がすすり上げられ、机の上の
両手が細かく震え始めた。
「なんでも話してごらん。きっと検事さんも、分かってくれ
るに違いない」
 佐伯はお茶をついで、静夫の前にそっと置いた。
 
          (二)                                
 丹羽征行が倒れたのは十二年前の十二月、クリスマス・イ
ブのことである。その日は朝から、強い北風が吹きつけ、午
後になって冷たい雨が降り出した。コートの襟を立て、手袋
をはめても、まだ寒さが身にしみた。
 仕事を終えると丹羽静夫は同僚の誘いも断って、まっすぐ
に家に向かっていた。早稲田大学を卒業した静夫が地元に戻
り、県立高校の数学教師となってから初めてのクリスマス・
イブだった。その夜、三人だけのささやかなパーティが行わ
れることになっていたのである。
 駅前のデパートで、静夫は頼まれたクリスマス・ケーキを
買った。同時に、征行と徳子へのプレゼントを買い求めた。
デパートの外に出ると、ジングルベルのメロディに追われる
ように、雨上がりの暗い道を家に向かって歩いていった。
 駅前通りを過ぎ国道に出て、家に後五分ほどの地点まで来
た時、静夫ははるか遠くに救急車のサイレンを聞いた。
 いつ聞いてもぞっとする音だった。救急車のサイレンは、
必ず父英雄の死んだ夜を、静夫に思い出させたのである。そ
の夜も寒い冬の夜。受験勉強に追いまくられていた高校三年
の十二月の出来事だった。
 ――中学校の校長をしていた英雄は、当時まだ五十三歳
だった。土曜日の夜のこと。英雄はいつものように入浴をす
ませると、晩酌をしながら機嫌良くテレビを見ていた。勉強
に疲れた静夫が居間に顔を出したのは、十時半を回っていた。
その時だった。ソファにどっかりと腰を下ろしていた英雄が、
突然、猛獣のようにほえたのである。その叫びを静夫は忘れ
たことがない。英雄は両手で胸を押さえていた。驚いてのぞ
き込むと、顔全体に冷汗の粒がこびりついていた。英雄は若
い頃から血圧が高かったが、ひどい医者嫌いだった。医者に
かからないのを自慢にするほどであったが、それが災いをし
たのである。高血圧と肥満体が、心臓の血管をぼろぼろにし
てしまったのだ。
 穂子は英雄を抱きかかえ、風呂に入っていた征行は裸のま
ま飛び出してきて、救急隊に電話を掛けた。静夫は体をこわ
ばらせて立ち尽くしていた。
 サイレンを鳴り響かせて救急車が到着した。隊員が担架を
居間に運び込む直前に英准は息絶えた。ソファで苦しんでい
た英雄は、最後に、徳子の名を呼んで両手を伸ばした途端、
体の力がどっと抜けて、じゆうたんの上に熊のぬいぐるみの
ように転がったのである。静夫が抱え起こした時、英雄は眼
を大きく見開いて、すでに呼吸を止めていた。救急隊員が心
臓マッサージと人工呼吸を三十分も行ったが徒労であった。
征行はその時、パンツ一枚の裸のまま、大きな体を揺すりな
がら、
「俺よりも先に死にやがって」と泣きわめき、英雄の遺体の
まわりをぐるぐると歩き回っていた。当時、征行は七十七歳
だった。―― 
 救急車のサイレンは、静夫を追い掛けるように次第に近付
いてくる。角を曲がると正面に家が見えた。いつもは消して
ある門灯と庭園灯が庭を白く浮かび上がらせ、玄関にも明か
りがついていた。悪い予感が胸をかすめた。
 救急車は国道を折れて背後に迫り、そして追い越していっ
た。救急車は家の前で止まった。静夫は足をもつれさせなが
ら走った。朽ち果てそうな冠木門をくぐり、庭の飛び石を踏
んだ時、格子戸の玄関が開いて、徳子が転げるように飛び出
してきた。
「静夫、大変よ。おじいさんが風呂場で倒れたのよ」
 あとは言葉にならない。徳子は右の人差し指を宙に踊らせ
ていた。征行の死を直感し、静夫の眼に涙があふれた。
 湯気の立ち込めた浴室のタイルの上に、征行は大の字に
なって横たわっていた。顔面は紅潮し黒ずんだ恥部が六十
ワットの電球の光にさらされていた。征行はまだ死んではい
なかった。大きな軒をかきながら呼吸をしていたのである。
頬をたたいても返事はなく、両手両足は麻痺して、少しも動
かそうとはしない。
 救急隊員がどやどやと家の中に上がってきたが、担架を入
れるには古い造りの廊下と浴室は狭すぎた。
「こりや、玄関まで抱えていくしかないぜ。しかし、何キロ
あるんだ、このおじいさんは」
 征行の巨体を前にして、救急隊員の一人があきれたように
言った。静夫は征行の頭に回り、腋の下に手を入れた。三人
で征行を運んだ。
 徳子は後からタクシーで来ることになった。静夫は救急車
に乗り込んだ。救急車はサイレンを鳴らし、脳外料病院に向
かって走り出した。クリスマス・イブの国道はひどい渋滞だっ
た。救急車は反対の車線にまで入り込み、車の間隙を縫って
進んでいった。
 静夫は征行の手を握りしめ、そっと訣別の挨拶をした。懐
かしい思い出が脳裏を次々と走り過ぎていく。
「吐物が気管に詰まったら、お陀仏ですよ、気を付けてくだ
さい」
 救急隊員の一人が後ろを振り向いて、大声を張り上げてい
る。回想は断ち切られた。
「分かってます」
 そう答えたものの、静夫は正反対のことを考えていた。こ
れで征行は念願どおりに大往生できる。征行の望みはようや
くかなえられるのだ。
  ――英雄の一周忌の法要の日、東京から家に戻ってきた静
夫に征行はこう言った。
「いいか、どんな病気になっても医者はいらないぞ。この年
まで生きられただけでも感謝している。病気になって母さん
に迷惑をかけたくない。母さんには、これからの人生を好き
なように生きてもらいたい。考えてみれば、英雄はいい死に
方をした。五十三は若いけれど、死ぬ時はあんな風に死にた
いもんだ。いいか。意識がなくなるような病気になったら余
計な治療をするな。よく覚えておいてくれ」
 墓地からの帰り道だった。薄赤い夕日が、征行のはげ上がっ
た額で反射していた。かつての海軍大佐、 逐艦の艦長まで
した征行は、年老いたとはいえ、その時ばかりは、精悍な軍
人であったことを思い出させるように、厳しい眼をして静夫
をにらみつけたのである。――
 征行は深い昏睡に陥っていた。八十二歳まで長生きしたの
だから、このまま死んでも何も思い残すことはないはずだっ
た。静夫は征行の温かい手をそっと握り、よかったな、もう
すぐ天国だぞ、と心の中でつぶやいていた。
 脳外科病院は幅六メートルの新しい舗装道路に面して、背
後を森に、左右を田畑に囲まれていた。環境は素晴らしくい
い所だった。周囲には民家の明かりがぼつりぼつりと見える
だけである。排気ガスに汚れた町中の病院よりも、この病院
の方が、征行の魂は安らかに天に昇るに違いなかった。前庭
の水銀灯の蒼白な光が、鉄筋四階建ての真新しい病院の外壁
を銀色に浮かび上がらせていた。
 征行を乗せた担架は救急外来に運び込まれた。診察室の中
はぴしっと整頓され、机、椅子、診察ベッド、何もかもが新
しかった。すでに待機していた医者と二人の看護婦の白衣も
下ろしたてのように白い。
「秋山です、よろしく」
 挨拶した医者は三十そこそこに見えた。眉が太く下顎が
がっしりとして、若いけれど思慮深そうである。べっこうの
眼鏡が、その顔に一層の重みを加えていた。
「これは重症ですね」
 征行の病状を一目で診てとると、秋山医師はうれしそうに
眼を輝かせた。若くて熱心な医者は、患者が重症であればあ
るほど、闘志が沸き上がるらしい。
 簡単な診察をすませるとすぐに、
「CTスキャン、大至急」
 秋山医師は大声で看護婦に命令した。それから静夫に顔を
向け、当然のことのように言った。
「手術が出来ればいいんですけどね」
「手術ですか?」
 静夫は驚いて訊き返した。
「そうです、手術です。でも出血部位が悪ければ、残念です
が、出来ないかもしれません。すぐに調べます。しばらくお
待ちください」
 呼び止める間もなく、秋山医師は征行を乗せたストレッ
チヤーの後を追い、廊下を曲がって姿を消した。
 静夫は待合ホールを右に左にいらいらと歩き回った。秋山
医師への憤りで胸は張り裂けそうになっていた。八十二歳の
老人に開頭手術をするとは、静夫の常識ではとても考えられ
ないことだった。
 あの医者は患者の年齢を間違えているのではないか。あの
医者が戻ってきて、手術をするといったら、何がなんでも反
対しなければならない。あの医者は若いから、ただ命を助け
ればいい、と思っているに違いない。それに、手術が成功し
ても後遺症が残ったら、誰が喜ぶだろう。征行が口を利けた
ら、きっとあの医者を罵倒し、早く死なせてくれ、とわめく
だろう。
 歩き疲れた静夫は、レザー張りのベンチに腰を下ろし、一
息ついた。徳子は車の渋滞に巻き込まれたのか、なかなかやっ
て来なかった。病院全体が静まり返っていた。開院早々のた
めか入院患者は殆どいないようである。考えることに疲れた
静夫は、頬杖を突いてぼんやりと時間を費やしていた。
 総ガラス張りの正面玄関の自動ドアが青もなく開いた。息
を切らせて徳子が走り込んできた。右手に持った大きなスー
ツケースが、小柄な体をよけいに小さく見せた。徳子は静夫
を見つけると、ほっとして微笑を浮かべた。だがすぐに生真
面目な表情になって、
「おじいさんは、どこなの」
 静夫は顎をしゃくつて、レントゲン室の方向を示した。
「今、頭のCTの検査をしている」
「無事なの」
「今のところはね」
「おじいさんは、心臓が丈夫だから、きっと助かるわ。運も強
いのよ。軍艦に乗っても弾がよけて通ったんだから」
 ベンチに腰を下ろしたまま、静夫は徳子を見上げた。悲し
そうではあったが暗くはなかった。征行は決して死んだりせ
ず、生きて元の体に戻るものと信じ切っているようだった。
大往生を望んでいる様子はかけらもなく、長期の付添いを覚
悟してスーツケースにたくさん詰め込んできたのである。
「荷物、下ろしたら」と、静夫はぶっきらぼうに言った。
「上手な先生だと、いいんだけど」
「どうかな、若い医者だったけど」
 静夫の向かい側に坐った徳子は、頭を垂れ、胸の前で合掌
し、聞き取れないような声で、カトリックの祈りの文句を唱
え始めた。
 それから一時間も待たされた。不意に慌ただしい足音が聞
こえてきた。二人は顔を見合わせて立ち上がった。暗い待合
ホールの向こうから、足音は近付いてくる。四十年配の看護
婦が姿を現し、せかせかと手招きをした。
「院長先生がお呼びです、こちらへどうぞ」
 静夫は征行の死を覚悟した。徳子はおびえたような眼差し
を看護婦の背中に投げ、廊下を小走りに歩いていった。
 小さな講義室ほどもある院長室には、足がめり込むほど厚
くじゆうたんが敷き詰めてあった。天井から豪華なシャンデ
リアが下がっている。広い璧には天井まで届きそうな本箱が
据えられ、分厚い医学書がぎっしりと詰め込まれていた。
 安楽椅子にどっかりと腰を下ろしていた白髪混じりの院長
が、こちらを見て、気さくな様子で立ち上がった。人懐っこ
そうな童顔の持ち主である。顔だけ見ていると四十前後に見
える。肩幅が広く胸板が厚い。その体全体から自信があふれ
出ていた。
 徳子と静夫が恐る恐る腰を下ろすと、院長はすぐに残念そ
うに言った。
「丹羽さん、実に残念です。検査の結果、手術は不可能なこ
とが分かりました。おじいさんの状態は非常に悪い。脳出血
なんですが、出血した部位が悪いんです」
 静夫は体を固くして聞いていた。院長は黒いサインペンを
手にすると、壁に掛けられた大きなホワイトボードに、左視
床出血、脳室穿破と書いた。
「脳室にも出血しているんです。これでは根治的手術はとて
も無理です」
 それから脳の解剖図を取り出し、脳室出血について長々と
学問的な説明を姑めたが、静夫にはさっぱり理解出来なかっ
た。こちらの反応をうかがいながら相槌を強要する院長に、
徳子は素直に首を振り続けていた。
「よく分かったでしょう。手術は出来ませんが、最善の処置
をして、何とか命だけは助けたいと思っています。秋山先生
がもう治療を始めています。彼は若いけれど、非常に優秀だ
から、ご心配なく」
 院長は有能な外料医のようだったが、八十二歳の人間の命
についての考えは、静夫とはかけ離れていた。死ぬ時は誰に
も迷惑をかけたくない。そう言った征行の怖い眼を思い出し
た。言いたい事がどっとあふれたが、喉元に詰まったまま声
にはならない。順序立てて正確に、征行の強い希望を院長に
説明し理解させるには、静夫の頭は熱くなり過ぎていた。
 だが、言うべきことは言っておかねばならない。静夫は深
く息を吸って気持ちを静め、ようやく声を出した。
「命を取りとめたとしても、いろんな後遺症が残るんじゃな
いですか」
 院長は平凡な質問を哀れんだのか、鼻の先で笑いながら、
「それは間違いなく残ります。まず、寝たきりの状態か植物
人間は覚悟していただかないと困りますね」
 はっきりと物を言う医者である。だがそう聞いて、黙って
引き下がるわけにはいかなかった。征行のために、静夫は勇
気を振りしぼって、もう一つ尋ねてみた。
「八十二歳で植物人間になるんなら、このまま死んだ方が、
幸せではないでしょうか」
 その途端、院長は目の前に死んだ鼠をぶら下げられたよう
な不快な顔をして、
「君は患者の何にあたるのかね」
声の調子に大きな圧力を感じて、静夫はどもった。
「ま、まごです」
「君が人間であるなら、そんな言葉は、口が裂けても言うべ
きではない。君は人の命の重さを何と考えているのかね」
 胸の中で言葉が渦を巻いていた。言いたいことは山のよう
にあったが、大上段に医者の正義を振りかざした院長に対抗
するには、静夫の理論武装はあまりに貧弱であった。ますま
すしどろもどろになって、
「ですが、祖父は以前から、死ぬ時はあっさり死にたいと言っ
てました。よけいな治療はしてくれるなと」
 院長は天井を向いて笑った。
「お年寄りは誰でもそう言うんですよ。私もあっさり死にた
いと思っているが、人生はなかなか思い通りにはいかないも
んです」
 ぐつと詰まって次の言葉を探していると、徳子が指先で静
夫の腰を小突いた。
「この子はいつも舌足らずなものですから、お気を悪くなさ
らないで下さい」
「だいじょうぶ、お任せ下さい。とにかく全力を尽くしてみ
ましょう。それがわれわれ医師の務めですからね。心配はあ
りませんよ。何とか命だけは助けてみせます」
 徳子が卑屈なほどに腰をかがめた。静夫は腹の中で院長の
顔に唾を吐いた。
 征行はICU (集中治療室) で治療を受けた。ICUにい
る間、秋山医師が主治医となって、昼も夜もなく、信じられ
ないほど熱心に治療を続けた。初めの二日間、秋山医師は眠
らなかった。ベッドの脇に数時間も坐り続け、次々と看護婦
に注射の指示をしたこともあった。徳子は秋山医師の働く姿
をガラス越しに見て、感激のあまり顔を上気させていた。
「立沢な先生に診てもらって、おじいさんはほんとに幸せだ
わ。わたしもがんばらなくちゃいけないわね」
 静夫は言葉もなく、ただ吐息を漏らすだけであった。
 秋山医師の努力が実った。征行は心臓が二度も停止すると
いう危機さえ乗り越えた。入院してから三週間後、回診に来
た院長は誇らしく笑いながら、
「よかった、よかった。もうこれで命の心配はなくなりまし
たよ」と告げたのである。征行はICUから個室に移される
ことになった。
 心蔵は動いていたけれど、征行の意識は戻らなかった。完
全な昏睡という状態ではない。二の腕をあざの出来るほどつ
ねると、わずかに顔をしかめる。
「じいちゃん分かるか?」
 耳元で呼び掛けると、返事ともうめきとも分からない声で
かすかに反応した。左右の上肢と下肢は完全に麻痺したまま
である。
 やがて、中心静脈栄養の点滴が中止された。征行は鼻腔か
ら胃にチューブを挿入され、流動食を注ぎ込まれることに
なった。秋山医師は回診のたびに、自分が造り上げた彫刻の
傑作に触れるように、いとおしそうに征行を診察しながら、
「経過はとっても順調ですよ」と、顔をほころばせた。
「いいですか、絶対に床ずれをつくらないように、気を付け
てください。床ずれが命取りになることだって、あるんです
からね」とも言った。
「二時間おきに体位を変えてください。右向き、仰向け、左
向き、仰向けの順で変えるんです。希望を捨ててはいけませ
ん。がんばりましょう」
 口癖のようにそう言って励まして〈れた。だが、征行の将
来にどんな希望があるのか、静夫には見当がつかなかった。
「意識が戻る可能性があるんでしょうか」と、何度か訊いた
ことがある。
「そうですね、絶対にないとは言えないと思います。一パー
セントの可能性を信じてがんばりましょう」
 秋山医師はそのたびに、およそ科学者らしくないことを
言って、静夫を失望させた。
 個室に移ってから、厳しい肉体労働が徳子を待っていた。
lCUにいた時には、看護婦が交代で征行の下の世話をした
り、体を拭いたり、体位を変える手伝いをしていたのだが、
その仕事がすべて徳子に任されることになったのである。
 父が死んだ時に受け取った退職金と生命保険の金は、まだ
残ってはいたが付添婦を雇うほどのゆとりはなかった。土曜
日を除くすべての日、徳子は病室に泊まり込んだ。静夫は土
曜の夕方から日曜の午後まで徳子と交代した。
 付添いの仕事は手抜きをしなければ限りなくある。鼻腔
チューブから一日に三度、出来合いの流動食を流し込む。こ
れで千二百カロリーを補給する。その合間に千人百CCの水
を注ぎ込む。これで征行の栄養は万全である。それから二時
間ごとに、床ずれ予防のために体位を変えなければならない。
倒れる前に、百七十九センチ、八十五キロだった征行は、充
分なカロリーを補給されてさらに肥満した。ぶくぶくと脂肪
太りして、裸にした背中はイルカのように光っていた。
 静夫は二時間ごとに、そろそろと征行の巨体を動かした。
汚れるたびにおむつを交換した。体を拭いてマッサージもし
た。看護婦が手伝ってくれることもあったが、入院患者が増
え忙しくなるにつれ、看護婦の手を借りるわけにはいかなく
なった。土曜の夜、静夫は征行と格闘した。糞尿の臭いに顔
をしかめながら、殆ど睡眠をとらずに、静夫は母のため週に
一日のノルマを果たしたのである。
 徳子はその仕事を、週に六日もやっていたのだ。几帳面な
徳子は手を抜くことを知らなかったから、その疲労は静夫の
想像をはるかに越えていた。
 征行が倒れてから一年が過ぎた。ぶくよかだった徳子の顔
はいくらかこけてきた。腰が痛むのか、時折手でさするよう
になった。しかし徳子はいつも底抜けに明るく、楽しい仕事
をするように看病を続けていた。
一年半が過ぎた。征行の病状は完全に固定した。ちょっと
風邪を引けば、鼻腔チューブを通して抗生物質が投与された
から、こじらせて肺炎をおこすこともなかった。征行はいつ
も身綺麗にされていた。二週間に一度、頭はバリカンで刈ら
れ、ひげは毎朝電気カミソリでそられた。徳子は看護の仕事
を本職以上に完璧にやってのけた。院長と秋山医師を感嘆さ
せる熱心さであった。一年半も寝たきりの植物人間が、直径
一センチの床ずれもつくらないというのは、珍しいことらし
かった。
「立派なお母さんがおられて、幸せだね」
 ある日曜日の朝、静夫が病室に一人でいた時、ぶらりと回
診に釆た院長がからかうような調子で言った。静夫はそっぽ
を向いていた。院長に心を許すわけにはいかない。征行を植
物人間にした張本人の院長と、冗談を言い合ったり、和やか
に話を弾ませるわけにはいかなかったのである。
 二年目の秋が過ぎようとしていた。征行は依然として、鼻
腔チューブから接取し、それを排泄するだけの意識のない物
体であった。来る日も来る日も同じ事の繰り返しである。病
状が変化する兆しはまったくなかった。
 そして、とうとう退院を宣告される日が来た。
「打つべき手はすべて打ちました。もう入院していても、や
ることがありません。そろそろ退院して、お家で世話をされ
てはいかがでしょうか」
 回診に釆た秋山医師が、徳子と静夫の前でそう言った。
「打つ手がなくなったから、厄介払いですか」
 静夫が抗議すると、純真な秋山医師は、痛い所を突かれた
のか、顔を赤くし、首を垂らして弁解を始めた。この病院も
救急車が毎日何台も入り、外来も忙しくなり、入院ベッドも
満床近くなったから、征行のような変化のない患者は、退院
させる方針にしたという説明であった。
「先生、食事はどうしたらいいのでしょうか。家に帰ってか
らも、ときどき胃のチューブを交換にいらしてくださるんで
すか」
 徳子が素直な疑問を秋山医師にぶつけた。素人が鼻腔
チューブを、自由に挿入したり抜いたり出来るはずはなかっ
た。退院したら、征行は栄養障害をおこして、寿命を縮める
に違いない。だが、秋山医師はその質問を待っていたように、
「いい方法があるんです。胃瘻を造るんです。そうすれば家
に帰ってからも、苦労せずに今まで通りの栄養補給が出来る
んですよ」
 秋山医師は熱心に語りし始めた。胃瘻とは腹壁と胃壁に穴を
あけて、胃の中にチューブを通すのだという。さすがに徳子
も黙り込んでしまった。
「先生はじいさんの歳をご存知なんでしょうね。もう八十四
なんですよ。人間はそうまでして、生きなくてはならないん
ですか。じいさんは先生方の人形じゃないんです」
 静夫は秋山医師に食いついた。今度こそ、絶対に言いなり
になってはならない。これ以上征行の命がもてあそばれるの
は許されない。だが、秋山医師はたじろがなかった。人間の
命については、頑固な信念を持っているようだった。
「生きなくてはなりません。人間は幾つになっても、寿命が
尽きるまで生き続ける義務があると思います。それを手助け
するのが、医師の仕事なんです」
「義務ですって? 一体誰に対する義務なんですか」
 静夫が突っ掛かると、秋山医師はにこっと笑った。
「人間を生み出したありとあらゆるものに対してです」
 造物主が出てきては議論にはならなかった。静夫は話を元
に戻した。唇をゆがめ、挑戦するように、
「私が胃瘻に絶対に反対だと言ったら、どうします」
 秋山医師は実に巧妙だった。笑いながら静夫の矛先をかわ
し、徳子に話し掛けた。
「まさか、お母さんは反対しませんよね」
 その一言で、秋山医師をひそかに尊敬していた徳子は、迷
いを捨てた。
「わたしが看病します。先生、胃瘻を造ってください」
 徳子までを相手にして、いつまでも反対を続けられるはず
はなかった。静夫はまた敗れた。
 
 征行は脳出血で倒れてから二年ぶりに家に帰ってきた。そ
の日は二年前の底冷えのするクリスマス・イブと違って、初
冬の日差しが穏やかに銀杏の枯れ葉を滑らしていた。
 征行は一番日当たりの良い和室を占領した。その部屋は英
准の存命中は夫婦の寝室であった。倹約家であるはずの徳子
が、部屋にベッドを入れ新型のエアコンを取り付けた。
 徳子はベッドの傍の畳に薄い布団を敷いて寝た。部屋から
は畳も夜も、二時間ごとにオルゴール時計が聞こえてきた。
曲は「アベマリア」だった。
 その曲が鳴るたびに、徳子は床ずれの予防のために征行に
寝返りを打たせた。体重が征行の半分もない徳子が、よいしょ
よいしょと掛け声をかけながら寝返らせた。それから皮膚が
赤くなるほど入念に背中と腰をマッサージし、手足の硬直が
進まないように関節の屈伸を繰り返した。秋山医師が造った
胃瘻チューブから、指示通りの栄養補給が続けられたのは言
うまでもない。徳子は生き生きと、うれしそうに征行の世話
をした。いつか努力が報われて、征行がのっそりとベッドに
起き上がり、ありがとう、と言う日が来るのを、本気で信じ
ているようだった。
 日曜のある日、征行の全身を蒸したタオルで拭いている徳
子に、静夫は冷かし半分に訊いてみた。
「なんで、こんなに一所懸命にやるんだい。聖書にそう書い
てあるのかい」
 徳子は三十を過ぎた頃、英雄の度外れた女遊びがきっかけ
になって、頻繁にカトリックの教会に通ったことがあった。
洗礼を受ける受けないで、一時は徳子の後押しをする征行を
巻き込んで、深刻な家庭騒動になったのである。結局徳子が
折れて、洗礼を受けるのを諦めたのだった。生半可なクリス
チャンよりも、よほど純粋に聖書の教えを実行している徳子
は、不思議そうに眼を見開き、      ■
「どうしてなの。わたしのやっていることは、当たり前のこ
とでしょ。普通の人間が普通のことをしているだけよ。聖書
とは関係ないわ」
「母さんはじいさんの体が元に戻ると思ってるの」
「分からないわ。でも、わたしにはどっちでもいいの。おじ
いさんが生きている限り、一生懸命に世話をするだけ。静夫
はあんまり深刻に考え過ぎるのよ」
 徳子は淡々と言った。何の気負いも悲壮感もない。少し頭
が弱いのか、と心配させるほどの鈍さであった。
「完全看護の老人病院に入院させたらどうかな。たまには旅
行でもして、息抜きしないと、体がもたないよ」
 徳子は首を傾げた。
「だって、わたしには毎日がとっても楽しいのよ。息抜きな
んかする必要がないの」
 もはや言うべき言葉がなかった。徳子は読書以外にはこれ
といった趣味もなく、黙々と家事をこなし、周囲の人間の世
話をすることを無上の喜びとしている女だったから、他の生
き方に考えが及ばなかったのだろう。
 静夫は覚悟を決めた。母を見捨てるわけにはいかない。手
助けは必要ないという徳子を説き伏せて、入院中と同じよう
に、土曜の夜だけは征行の世話をすることにしたのである。
徳子は食事の時間さえ犠牲にした。静夫がいない時、まとも
な物を食べていたのかも疑わしい。インスタント・ラーメン
をすすっているのを、何度も目撃したことがある。そんな姿
を責めると、徳子は恥ずかしそうに、ちょっと暇がなくてね、
といつも同じ言い訳をした。植木の手入れのために、庭に出
ることはあったようだが、それ以外の時間は、殆ど家に閉じ
こもって、買物以外に門の外へ出ることもなかった。徳子は
次第にやせてきた。顔にはしわが増え、わずかずつ腰も曲がっ
てきたようだった。
 脳出血で倒れてから六年が過ぎ去った。季節は移り変わっ
ても、征行の病状には何の変化も表れなかった。その間に肺
炎と気管支炎で三度R病院に入院したが一カ月ほどで退院し
た。
 むしむしと暑い夏の夜のことだった。静夫は征行の部屋と
壁一つ隔てた入畳の部屋で眠っていた。夜半を過ぎた頃、す
すり泣くような異様な声を開いて目覚めた。声は隣の部屋か
ら聞こえてきた。植物人間の征行が泣くはずはない。母が泣
いているのだ、と静夫は寝ぼけた頭で考えた。自分の人生の
不幸を嘆いて泣いているのか。それにしても、なぜこんな夜
更けに泣くのだろう。静夫は聞き耳を立てた。ようやく気が
付いた。それは泣き声ではなくうめき声だった。静夫はタオ
ルケットを蹴り上げて飛び起きた。
 部屋は薄暗かった。征行のベッドのすぐ脇で、徳子は肘と
膝を突いてうずくまっていた。枕元の小さな蛍光灯に照らさ
れた徳子の顔は蒼白だった。額にはじっとりと汗をかいてい
た。父の死に様を連想して、静夫の背筋が冷たくなった。呼
び掛けると、徳子は消え入りそうな声を出した。
「だいじょうぶよ。腰を傷めただけなの。心配しないでね」
 「救急車を呼ぼうか」
「いいのよ、ただのギツクリ腰だから。明日になればきっと
良くなるわよ」
 そろそろと自分の布団に這い上がると、
「おじいさんを、今夜だけお願いね」と、徳子はすまなそう
に言った。
 次の朝、仕事を休んだ静夫は、嫌がる母を無理やり整形外
科に連れていった。中年を過ぎた医者は、レントゲン・フィ
ルムを一目見ると即座に、骨粗鬆症のために、腰椎の圧迫骨
折をおこしたのだ、と診断した。徳子の脊椎の骨は軽石のよ
うになっていたのである。閉経後の女性に多い病気だが、徳
子の場合は異常に進行しているという。きちんと治療しない
と、いつかは犬や猫みたいに這って歩くことになるのだ、と
脅かされた。
 医者は徳子の日常と食生活を詳しく尋ねた。静夫はありの
ままに話した。
「二時間ごとに寝返りを打たせているのかい。それは大変な
重労働だ」
 医者はあきれ顔で言って、静夫の話をさえぎった。
「エアマットを使ってごらん。それだけ栄養満点なら、寝返
りを打たせなくても、まず床ずれは出来ない」
 その教えは徳子と静夫にとって、たとえようもなくありが
たかった。寝返りを打たす必要がなくなれば、征行の看護に
要する時間と苦労は半分に減るに違いない。ざっくばらんに
話をする医者だった。静夫は以前から疑問に思っていたこと
を訊いてみた。
「先生が主治医だったら、祖父のような患者に胃瘻を造りま
すか」
 医者は微笑を絶やさなかった顔に、ちょっと困惑の表情を
浮かべたが、
「患者の家族には、そういう方法もあると説明はするだろう
ね。だが押し付けたりはしない。どうするかは家族が決める
ことだ」
 静夫は六年間の胸のつかえが消えてな〈なったような爽快
な気分になった。脳外科病院の医者には下げたことのない頭
を、二度も三度も下げて診察室を出た。
「いい先生に会えてよかったね」
 待合室のベンチに腰を掛けると、徳子は顔をしわくちゃに
してうれしそうに笑った。ぶだんから感情を表に出さない徳
子であったが、医者に骨粗鬆症の薬を処方してもらい、拝む
ように感謝して家に戻ってきたのである。
エアマットのおかげで、二時間ごとに寝返りを打たせると
いう重労働からは解放されたが、その他は一切これまでと同
じであった。徳子は看病に生きがいを見出していたが、静夫
にはもはや徒労以外の何物でもなくなっていた。肉体よりも
先に精神がまいってしまったのだ。
 静夫は二十九歳になっていた。このまま征行が生き続ける
限り、どんな女と交際しても、すぐに愛想を尽かされ結婚で
きそうにない。それまでに何度か年頃の女と交際したことが
あった。だが女達は、祖父と母との三人暮らしだと聞くと、
一様に顔をしかめ、そして、祖父が何年も寝たきりの植物人
間だと知ると、静夫を哀れっぼい目付きで見つめ、たちまち
去っていったのである。
 征行が倒れて十年も経った頃、静夫は少しの良心の呵責も
なしに、一日も早い祖父の死を願うようになっていた。
 征行はそれまでにも、しばしば肺炎をおこして入院した。
だが、進歩した医学は、たとえ植物人間であっても、肺炎の
患者をやすやすとは殺さなかった。そのたびに、熱心な治療
が施され、征行は生還したのである。
 徳子にとって、服役中の受刑者と同じような、何も変化の
ない日々が続いた。精神力は少しも変わらなかったけれど、
徳子の体はますます弱っていた。腰だけではなく背中まで曲
がってきた。冗談ではなく、徳子が犬や猫のように這って歩
く日が間近いように思われた。
 とうとう十二年が過ぎた。一月二十一日、征行は三十九度
に発熱し、往診を頼んだ医者に肺炎と診断された。今度は今
までのどんな時よりも重症であることが、素人目にもはっき
りと分かった。
 R病院に入院した翌日、主治医の北村医師は、胸部のレン
トゲン・フィルムを説明しながら、
「ひどい肺炎です。心蔵も弱っているし、かなり危険な状態
です。今夜が山かもしれませんね」と、しかつめらしい顔付
きで言った。だがその夜、北村医師の予想に反して、征行は
何の危険な兆候も見せずに山を越した。
 徳子はずっと泊り込んでいた。一月二十七日の夜、静夫は
母を眠らせるために付添いを交代することにした。だが、徳
子は家には帰らず、もう一つのベッドで眠ると言い張った。
眠り始めたのは午後十一時過ぎだった。六日間の看病で疲れ
切った徳子は、横になるとすぐに静かな寝息を立て始めた。
静夫は徳子の寝顔を数年振りにつくづくと見た。これが六十
五歳の女だろうか。十二年間の精神と肉体の疲労が徳子の顔
を皺だらけにし、背中と腰を曲げてしまった。十二年前には
小太りで、目元に青春の名残を止めていた徳子は、今ではや
せ細って、九十近い老婆に見えた。征行の配偶者と間違えら
れてもおかしくはない。
 午前0時半、当直医が新村看護婦を連れて回診にきた。徳
子は目覚めなかった。その夜の当直医は緒方医長だった。征
行の胸に聴診器をあてた後、念入りに痰の吸引をした。終わ
ると、静夫の耳元でひそひそと言った。
「痰の量が随分と増えてきたね。心臓も弱っている。かなり
厳しい状況だよ」
 すかさず、新村看護婦が口を挟んだ。
「北村先生からですが、もし呼吸困難がひどくなったら、気
管切開をお願いします、とのことです」
「そうかね」と不機嫌そうに言うと、緒方医師は部屋を出て
いった。新村看護婦の一言で、静夫は追い詰められた心境に
なっていた。これまでに何度か入院した時にも、似たような
厳しい状況に置かれたことがあったが、征行の強靭な心臓は
停止することはなかった。今度も気管切開をすれば、生き延
びるに違いない。
 それから二時間余りを、静夫は焦燥の中で過ごした。意識
の外で何かもやもやとしたものが、形になりかけていた。大
きな溜め息をついて、静夫は窓辺に立った。窓の外は真っ暗
だった。徳子は同じ姿勢のまま、体を丸くして眠っている。
何気なくその頭を見た時、静夫は見つけた。白髪が目立つよ
ぅになった脳天が、卵二個ほどの大きさに禿げていた。過労
とストレスによる円形脱毛痘である。徳子の心身の疲労はも
う限界に釆ているのだ。その瞬間、静夫は今夜中に征行を楽
にしてあげようと決心した。それは徳子のためでもある。
 午前三時半、新村看護婦が見回りにきた。少しでも看病に
手落ちがあると怒鳴りちらす女である。殆ど口を利かずに、
さっさと血圧を測定し、呼吸数と脈拍を見てから、気管に詰
まった疾の吸引をした。
「呼吸がおかしくなったら、すぐに連絡して下さいよ。いい
ですか、分かってますね」
 くどいほど繰り返すと、部屋を出ていった。啓夫は病室の
中を歩き回った。足音が徳子の眠りを妨げるのを恐れたが、
歩かずにはいられなかった。具体的にどのようにしたら、征
行を楽にして上げられるのか、一心に考えた。
 歩きながら、ぶと気が付くと、征行の呼吸の音が消えてい
た。はっと胸を突かれ、急いでベッドに近付いた。床に膝を
突き顔をのぞき込んだ。すぐにがっかりした。胸は再び動き
出した。だが、今度は前と違って、不規則なあえぐような呼
吸だった。粘稠な痰が、気管を塞ぎかけているのである。
 ナースコールのボタンが枕元にあった。今、ボタンを押せ
ば、看護婦とそれに当直医の緒方が飛んできて、気管切開を
して人工呼吸器を取りつけるかもしれない。そして、征行は
回復して、またも退院するだろ、つ。愚かな行為を、もうこれ
以上繰り返してはならない。このまま黙っていれば、やがて
征行の呼吸は止まる。静夫はナースコールのボタンから眼を
そらした。
 だが、あと三十分ほどすると新村看護婦が見回りに来る。
征行の呼吸の様子を人目見たら、看護婦はすぐに気管切開の
準備をするに違いない。
 不意に耳元でささやきが聞こえた。
「今のうちにやれ」
 押し殺した男の声だ。どこかで開いた覚えがあったが、誰
の声か思い出せない。
「早〈しろ」
 再び聞こえた。静夫はベッドの傍に立ち、上から征行を見
下ろした。喉はぜろぜろと音を立て、胸は慌ただしく動いて
いる。だが、看護婦が来るまでに、征行の呼吸は止まりそう
もなかった。
 そっと背後を見た。徳子が目覚めて、後ろから見つめてい
るような気がしたのだ。徳子は静かに眠っている。決行する
なら今しかない、と静夫は思った。
 その場に棒のように立ったまま、どのようにして征行の命
を縮めたらよいかを考えた。むごたらしいことは出来ない。
首を絞めるような真似はとても出来ない。滞れたハンカチを
顔にかぶせるのはどうだろう。鼻と口を手で塞いでも命は奪
える。だが、それらの方法はいかにも、人を殺すという感覚
が強すぎる。あとあとまで悪い夢にうなされそうだった。
 理想的な手段がひらめいた。ひらめいたと言うにはあまり
に単純で簡単なことだった。静夫は征行の鼻腔から送り込ま
れている酸素を止めることを思い付いたのである。それがど
の程度の効果をもたらすのか考えている暇はなかった。一刻
の猶予も許されない。急いで丸椅子に腰を下ろし、酸素の流
量を調節しているコックに手を触れた。指先は少しも震えて
いなかった。コックを右に回すと、ガラス粗の中で泡立って
いた酸素は、すぐに泡立ちを止めた。
 静夫はベッドの脇にひざまずいて、征行の顔をじっと見つ
めた。五分が過ぎた。少しも変わらない。喉は相変わらず苦
しそうな音を響かせている。胸は不規則ではあるが上下に忙
しく動いている。静夫の右手の指先は、流量計のコックに触
れていた。この瞬間にドアがノックされて、看護婦が見回り
に来たら、直ちにコックを元に戻し、何食わぬ顔をしていれ
ばよい。おびえが静夫の背中を走り抜けた。完全犯罪。四文
字の熟語が頭をかすめた。
 十五分が過ぎた。依然として何も変わらない。どうやら酸
素を止めるだけの手段では、すぐには征行の命を奪えないよ
うだった。時間は切迫していた。まもなく新村看護婦がドア
を開けるだろう。
 さらに七分が過ぎた。征行の唇の色が徐々に暗い紫色に変
わってきた。酸素を止めた効果が、ようやく表れてきたらし
かった。静夫は眼を閉じた。征行が死んでいく様子を見てい
るのが怖くなったのである。それに、耳を澄ますだけでも、
呼吸の状態ははっきりと分かった。喉の音が消えた時、それ
が呼吸の止まった時である。
 静夫はベッドの隅に両肘を突いて、掌で眼を押さえた。眼
球を強く圧迫すると、視野の中心に白い円が映った。じつと
見つめていると、その円は楕円形になり人の顔に似てきた。
楕円の中に眼と鼻と口がぼんやりと見えてきた。それは元気
な頃の征行の顔に違いなかった。再び声が聞こえた。
「静夫、よくやったな。もうすぐだ」
 先程のささやきと同じだった。あの声は征行だったのであ
る。征行の魂が幻聴となって、静夫をこの行為に躯り立てた
のだ。罪の意識が少し薄らいだ。
 徳子の小さな寝息が聞こえる。心にどんな屈託もなさそう
な穏やかな寝息だ。寝息を開いているだけで、心が安らかに
なる。静夫は掌を眠から離し、うつむいたまま、しばらく母
の寝息に耳を傾けていた。
 突然、背後でベッドがきしんだ。
「静夫、たいへんよ。酸素が止まっているわ」
 予想もしていなかった徳子の声だった。ぴくっと体が震え
て、背中は板のように固くなった。
 顔を上げると、征行の唇は紫色になって、下顎だけがあえ
ぐように痙攣している。胸の動きは止まっていた。
「いけないわ、すぐに看護婦さんに連絡しましょう」
 あせった徳子はナースコールのボタンを押そうと、手をの
ばした。静夫は母の手を振り払った。
「母さん、もうやめにしよう。じいちゃんを、静かに行かせ
てあげようじゃないか」
「そんなことをしちゃいけないわ」
 うろたえた徳子は酸素ボンベの元栓をひねった。だが、酸
素の泡は出ない。今度は流量計の前に膝を突いて、コックに
手を触れようとした。
「だめだ、だめだよ」と言いながら、静夫は徳子を後ろから
はがい締めにした。徳子の抵抗は緩まない。その時、いきな
りドアが開き、新村看護婦のヒステリックな声が、背中から
静夫の心臓を貰いたのである。
 
          (三)
 
 佐伯警部補は言葉を挟むことなく、静夫の長い告白を聞き
終えた。これが偽りのない真実に違いない、というのが、佐
伯の実感だった。鑑識の結果とも矛盾するところがない。
 供述調書を作り終えて、静夫が去ってから、佐伯は椅子に
腰を下ろしたまま、ぼんやりとしていた。丹羽徳子と静夫の
十二年間にわたる辛労が、鋭いとげとなって胸に突き刺さっ
ていた。彼らに比べたら、父をみとった佐伯の苦労などは、
とても苦労とはいえない。佐伯は深い溜め息をついて立ち上
がった。事件は終わったようなものであったが、やり残した
ことがあった。嘘の供述をしたと徳子に認めさせなければな
らない。彼はもう一度、徳子を取調室に呼ぶことにした。静
夫が正直に自白したことを開いたら、徳子も作り話をしたこ
とを白状するに違いないと思ったのである。
 
 佐伯は鑑識の結果を隠して、静夫が自白した内容を話して
聞かせた。だが、徳子はしぶとく首を振り続けた。
「刑事さん、それは違います。あの子はわたしをかばってい
るんです。大体はあの子が話した通りですけど、最後のとこ
ろは違います。コックを閉じたのはわたしです。朝の四時頃
になって、義父の呼吸がおかしくなった時、わたしは酸素を
止めました。その時、静夫は眠っていたんです。わたしは心
の中でレクイエムを歌いながら、コックを閉じたのです。義
父の魂が安らかに天に昇るように、心をこめて歌いました」
なおも頑固に罪をかぶろうとしていた。佐伯は鑑識の結果を
小出しにして、徳子を追い詰めていった。
「なぜ、そんなにあちこちから、指紋が出てきたのかな。元
栓からも、流量計のガラス瓶からも」
 ちょっと言葉を詰まらせたが、それくらいの事でへこたれ
る徳子ではない。
「刑事さん、それは、わたしが迷ったからです。一度迷い、
二度迷い、三度まで迷いました。元栓のコックを閉じたり、
流量計のコックを閉じたり、何度も迷ったためです」
「さっきの話と違うね。レクイエムを歌いながら、心静かに
コックを回したんではないのかね」
「いえ、心に決めていても、いざその場になると、心は乱れ
ます。わたしは五分も迷ったあげく、ようやく安らかな気持
ちを取り戻して、コックを閉じたのです」
「そうすると、流量計のコックには何度触れたのかね」
「はい、それは……たしか、二度だったかと思いますが」
 あまりにも嘘の多い徳子の言葉に、佐伯の忍耐も限界を超
えた。
「お母さん、もう嘘をつくのはおしまいにしよう。流量計の
コックには、あんたの触れた痕は残っていなかったんだよ。
静夫君が触れた痕は、はっきりと残っていた。すべて、静夫
君が正直に自白したとおりなんだ」
「静夫が何を言っても信じないでください。コックを閉じた
のはわたしなんです。コックを閉じた後で、ハンカチで指紋
がつかないように細工をしたんです」
 佐伯の頭に血が上った。凶悪犯に対するように、拳で机を
どんとたたいた。
「でたらめを言うな」
 怒鳴りつけてすぐに、佐伯は後悔した。徳子は下唇を噛み
しめ、しばらくうつむいていたが、ついに観念したらしかっ
た。哀れみを乞う眼差しを佐伯に向け、両手を合わせた。
「お願いです。どうか、静夫の代わりに、わたしを検察に送っ
てください」
 徳子はうめくようにそう言った。
「義父のことでは、あの子に迷惑を掛けました。義父のこと
は最後までわたしが責任をとらなければならないんです」
 涙が一粒だけ、右の眠からこぼれた。佐伯はハンカチを取
り出し、黙って徳子の前に置いた。
「明日の朝、静夫君を送検します」
 佐伯は感情のない声で厳しく言い放つと、すぐに立ち上が
り、ぷいと徳子に背を向けた。
 
 翌日の午後三時過ぎ、法医学教室での司法解剖に立ち会っ
た佐伯と小宮は、医学部の構内を庭草場に向かって歩いてい
た。佐伯はむっつりと黙ったままである。小宮はそんな上司
を横目で見ながら、心配そうに、
「どうしました、佐伯さん。風邪でも引きましたか」
「いや、今の解剖の結果を考えていたんだ」
「そうですよね。あれじゃ、起訴猶予になりかねません」
「教授が言ったことを、書き留めていたね」
 小宮はスーツの内ポケットから手帳を取り出した。
「ええとですね。……肉眼的には、右肺の下葉に重篤な大業
性肺炎の所見が存在し、気管から気管支にかけて、粘稠な喀
痰で充たされており、直接死因はこの喀痰による気道閉塞の
ためと思われる」
「すると、酸素を止めたこととの因果関係はどうなる」
「死を幾らか早めたということですかね。教授もこれじゃ起
訴に持っていくには、ちょっと弱いねえ、と首をひねってい
ましたからね」
「そうだったな」と、佐伯は表情も変えずに応じた。
 北風が真横から吹きつけ、佐伯の体をぐらりと揺らした。
寒そうにコートの襟を立て、両手をポケットに突っ込み、前
屈みに歩〈佐伯の背中に小宮が声を掛けた。
「その辺で、ちょっと熱いコーヒーでも飲んで、温まってい
きませんか」
「いや、まっすぐに帰ろう。まっすぐにな」
 車の中でも、佐伯は一言も口を利かずに眼を閉じていた。
 
 階段をどこまでも上っていった。佐伯は一人になりたかっ
た。屋上への出口の重い扉を開けると、雨の降り出しそうな
曇天の空だった。佐伯は気が抜けたようにふらふらと手すり
まで歩き、遙か彼方に広がる灰色の海を眺めた。
 彼の心も休も疲れ切ってはいたが、外の容疑者を取り調べ
た後の気持ちとは明らかに異なっていた。あくまでも白を切
り、他人に罪をなすりつけようとする醜い人間は数え切れな
いほど見てきたが、丹羽徳子と静夫のような例は珍しいこと
だった。どんな鬼検事でも二人を取り調べれば、情状酌量し
ようという気持ちになるだろう。
 だが、徳子と静夫の将来を考えると佐伯は胸が痛む。たと
え起訴猶予になっても、噂は噂を呼んで、静夫は高校教師の
勤務を続けるわけにはいかなくなるかもしれない。 ひっそり
として暗く長い人生の道を、とぼとぼと歩いていく二人の後
ろ姿が、彼の眼にははっきりと見える。
 この二日の間、佐伯は心の休まる一瞬もなかった。今度の
事件が忘れかけていた父の死を思い出させたのだ。十五年前
に死んだ父の臨終の光景が、何度となく彼の記憶のスクリー
ンに映し出されていたのである。
 ――脳梗塞と痴呆で六年間も寝たきりになっていた父が肺
炎で入院した。二週間も病院に泊り込んでいた妻の史子は、
看病疲れから風邪をこしらせて家で寝込んでいた。あの日の
夕方、忙しい仕事の合間に病室を訪れた佐伯は、父に夕食を
食べさせてあげた。父は熱が下がって、少し食欲がすすんで
いた。おかずに鳥の唐揚げがついていた。佐伯は史子からい
つも注意されていたのを思い出した。
「この病院は患者の病状に関係なく、おかずをつけてくるか
ら、気を付けて〈ださいね」
 軽い嚥下障害がある父に唐揚げは無理だろうか。だが、父
はよだれを垂らしながら唐揚げをねだっている。佐伯は箸で
つまんだ。
「これ、食べてみるかい」
 父はうれしそうにうなずいた。
「しっかりと噛むんだよ」と言って、仰向けに寝ている父の
口の中に佐伯は唐揚げを押し込んだ。父はくちゃくちゃと噛
んでいたが、不意に喉に詰まらせ眼をむいた。動転した佐伯
は父の喉に人差し指を突っ込んで掻き出そうとした。だが、
佐伯の指はかえって唐揚げを喉の奥に押し込む結果になって
しまった。ナースコールを押そうとして佐伯はためらった。
逆上した頭の一部が、しんと静まり返っていた。その静寂の
中からささやきが聞こえていた。このまま、死なせてやった
方が幸せじゃないのかい。陰気な晴間からの声が彼の手を硬
直させた。その十数秒の遅れが父の気道を完全に閉塞してし
まったのである。
 はっと我に返り、佐伯はナースコールのボタンを押し、あ
わてふためいて看護婦を呼んだ。駆けつけた医者の懸命な蘇
生術にもかかわらず、父はよみがえることはなかった。八十
二歳だった。
「おれの罪は、丹羽静夫の罪と少しも変わらない。あの時、
おれは父が死んでもいい、と考えていた」
 検察へ送られる静夫の後ろ姿が佐伯の眼底に現れた。
「だが、おれは、こうして、のうのうと生きている」
 吐き捨てるようにつぶやくと、佐伯は右の拳をコンクリー
トの手すりに激しく打ちつけた。
                         (了)
 

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