カプリチオ12号・13号  

善意のゆくえ騒動記・一

          

谷 口 葉 子

   まだバブルのはじける少し前の91年1月のことである。ゴルフ場開発反対のための立木トラストが賑やかだった。熱心な友人に頼まれて、そのうちの一つに二本の立木を購入したいと三千円を振り込んだ。  その後二、三年くらいは、私の未決済袋の中でその振り込み用紙のかたわれを見る度に、なんらかの返事があってもいいものをと思わないではなかった。そのうち忘れた。未決済袋の中のかたわれはそのままだったが。  八年たった昨99年になって、神戸のHさんから電話がはいった。静かでおだやかな語り口の女性だった。その立木トラストのことで原告になってもらえないかというものだった。そういえばと思い出しながら、なにか許せないものがあるのですかと聞くと、当時立木トラストのために善意の六十万円が集まったが四十万円がそのままだといい、それを一人ひとりに返金するための裁判だという。私はいいですよと簡単に答えたものの、裁判費用のことや弁護士のことを質問した。弁護士はボランティアの人を頼み、裁判費用はかかりません、裁判も私たちがやりますからという。私はほんとに簡単に考えていた。四十万円を返すための裁判なら百人以上の原告のうちの一人にちがいない。  最初に訴状のための部厚い書類が送られてきたのは、四月になってからのことだった。封をきって驚いた。原告は十三人ほど、しかも百円を請求するという、応援の分割原告のほうが多いのである。電話をかけてきたHさんも分割原告の一人である。実際に立木は買っていないが買った人から百円の権利を譲り受けて、裁判にのぞむというものだった。丁寧につくられた部厚な書類のどこに、私の印鑑を押すのか割印を押すのか、丁寧な指示や印鑑を押した朱肉が次の紙につかないように、一枚一枚薄紙もはさんであって、しかもこの書類を次へ送るべき住所を書いた封筒と切手までも同封されている。訴状の被告への請求が、とうぜんといえば当然のことながら、原告の私は立木代金として振り込んだ三千円である。六千九百円のひともいるが、百円を請求するという分割原告に至っては、ユーモア小説みたいに笑いたくなる。私にはかって友人の医療裁判にかかわったことがあって、大手大学病院から一千八百万円の和解で解決をしている。原告の友人は裁判半ばで死亡し、十四年にわたる長いものだったにもかかわらず、人の輪に支えられて満足するものだった。  しばらくしてHさんから、また部厚い封筒が送られてきた。書類のつくり直しだった。ということは原告がへっているのである。封筒が届くと、神戸のHさんから電話がはいる。原告が訴状の請求金額を返金されて、こちら側からいえば買収されたかたちで消えていき、そのための書類のつくり直しなのだった。Hさんはいつも冷静で、そのための怒りや愚痴などは一切いわない。  六月にはいってから、神戸のHさんから訪問したいという電話がはいった。千葉にいる実家の両親にも会いたいのでという。私はどうぞと答えている。約束の水曜日の午後六時、私が職場から帰って間もなく、Hさんが現れた。予想外に若いひとだった。大手企業に勤めるご主人と息子がふたりいるという。酒のみであることを期待したが、それははずれた。Hさんはアトピーだというのでまず、玄米黒酢を飲んでもらう。私は勝手にビールをあけて、初対面なのに話がはずむ。この裁判のことより、私がかってかかわった医療裁判のことのほうを多く、話したのではなかったか。久しぶりにいい気分だった。だが、Hさんにはまたも書類の書き直しが、持参されてあった。原告がまたまたへっているのである。被告側は着々と足もとをかためつつあったのだが、わたしの気分はまだ外野応援団の中にいた。ただここでわかったことは幾つかある。立木トラスト神戸事務局だったHさんたちがこの事実をはっきりさせようとしたときに、四国の立木トラスト本部の代表者から、神戸事務局が閉鎖されたこと。いい換えればこの裁判の被告である立木トラストの代表者は、今では四国の県会議員になっているということ。会報もにぎやかに発行されていながら、さてさてなしのつぶての多くの人もいるというのはどういうことなのか。私の三千円は、どうなったかと確かに考える。たったともいえるし、大枚三千円ともいえる八年前のそれは、ま、いいかと思わぬではない少額ではある。  それにしても、裁判までしてはっきりさせたいと思ったひとがいるならば、荷担したくなる生き方をしてきた私だったともいえる。Hさんと私の初対面はさわやかだった。十四年にわたった私たちのかっての医療裁判の記録集『たったひとりの反乱から』を贈って別れた。  新しい書類にあんなに丁寧に印鑑を押し直して帰っていったHさんだったのに数日後にまたまた部厚い封筒が、到着した。この頃では職場から帰宅してこの封筒をみると、どきっとする。ビールを抜いて多少気分転換したところで、封を切る。原告が六千九百円を請求する倉敷のOさんと、三千円を請求する私の二人になってしまったのである。確かに分割原告の百円組は変わらない。ただ、Hさんがきたとき、法廷は大丈夫です、倉敷のOさんがやりますからといったこと忘れてはいなかった。私はまだみぬOさんに期待した。  ところがである。倉敷簡易裁判所における第一回目の裁判が、八月二十五日に決定したすぐあとにである。あろうことか、そのOさんが陥落したのである。被告側が大勢Oさん宅に押し寄せて領収書に印鑑を押さざるをえなかったというのである。実際に立木を買った原告は私ひとりになったのである。私はマンションの管理人にだれか訪ねてきても職場の電話番号はおしえないようにと連絡して、翌日出勤をした。だが敵は次の日現金封筒でやってきた。差出人は立木トラスト岡山事務局になっている。私はこの封筒は受け取れませんと書いて、署名なつ印をして郵便局へ返還した。  それから二日後の夜七時過ぎ、東京事務局に頼まれたという人物が、訪ねてきた。しゃれっけのない小柄な女性で名前は名乗った。先ず現金封筒はどうなったかと、しつこく聞く。東京の事務局が谷口さんに会って、説明したいといっていることも繰り返しいう。私は半ばドアを閉めながら、もう裁判は始まったのだから説明やいいたいことは、法廷でいってくださいと、これしかない。  次の夜は悪い予感がしたので、時間をつぶして、九時近くに帰宅した。予感は当った。ドアの郵便受に一通の封筒がはいっていた。七時五十分まで待っていたこと、ぜひ会ってお話をしたい、電話番号がわからないので連絡をいただきたいと封筒に書いてあり、その中には元神戸事務局のHさんとMさんをひぼうする文書がはいっていた。裁判くずしがみえみえだった。うっとうしい気持ちも嘘ではなかったが、もはや外野の応援団席に座っているわけにはいかなかった。  そして、倉敷簡易裁判所から、八月十日付で呼出し状がきた。Oから取り下げ書が出ましたので、念のため送りますのふせんが付いている。封筒には特別送達の朱印が押してあってものものしい。  四国と岡山の二つの新聞社から取材の電話がはいった。一人の記者は、訴状が三千円を請求するなのだから、送ってきたら受け取ればいいのではという。理屈はそうなのかもしれない。だがここへきて裁判くずしのように返金されても意味はない。裁判になるまでなぜなしのつぶてだったのか。謝罪でもいいわけでも一言あっていいではないか。職業は、年齢はと聞かれる。職業は自営業、年齢は二つサバをよんだ。  次の日私は裁判前日の岡山までの特急券を購入した。その夜は倉敷にいる妹の家に一泊するつもりだった。そうなのだった、いくつかあった立木トラストのうち、岡山の新見を選んで三千円を振り込んだのは、妹の婚家が近いためだった。ひょっとしてゴルフ場をまぬがれた新見の森で、私の名札のついた木を眺めることもあるかもしれないと、あのとき確かに思った。  裁判の日が近づいた。神戸から車を運転してくるというHさんMさんと、岡山駅のホームで待ち合わせて、その車で妹の家にいくことにした。妹に事情を話して、HさんMさんも泊めてもらうことにした。  月曜日になった。裁判は翌々日の水曜日である。月末にかかっていたので、仕事場は忙しかった。めいっぱい働いて帰宅すると、倉敷簡易裁判所の担当官から電話がはいった。被告側の弁護士から延期の要請があったので、予定の裁判は中止で、次は10月27日になったという。さらに雑談でもするようにこういったのである。 「Oさんを選定当事者にしているあなたはOさんが下りた今、この裁判は流れるという説をいう人もいるんですがね、あなたは法律に詳しいのでしょ、なにかいい案がありませんか」  さてさて、外野席は立っていたものの理論武装もしなければならないとしたら私はあせるしかない。新幹線の中で、熟読するつもりだったクリア・ファイルの中の裁判のための資料に、その夜遅ればせながら眼を通した。HさんMさん署名の「訴訟の趣旨および概要」には、訴訟に至る経緯が分かり易く淡々と書いてある。バブルのはじけた背景もみえる。95年の阪神淡路大震災時の「震災立木ボランティア」運動で集まったカンパ四十五万円のうち神戸に還元したのは約十九万円しかないという事実も重なってくる。新見立木トラストは、地権者を確保しないままの架空のトラストを公募したかたちになったのだという見解である。いくつもの重なりの中で話し合いを代表者が拒否し神戸事務局は閉鎖になる。Hさんたちにとっては、やはりやむに止まれぬ気持ちの訴訟であったにちがいない。  背景は幾多ありながら訴状の趣旨は、私の振り込んだ三千円の立木代金に、法的権利があるかどうかである。その後ろにもう忘れているかもしれない善意の出資者がいるにしてもである。果たして法廷の弁護士なしでやっていけるのか。  ここまできてしまった私としては、講釈師よろしく、大きな扇子でたたんたんたん、私めの運命はいかにイ、たたんたんたんたあーん……と笑いたいような泣きたいような気持ちなのも事実なのである。  

善意のゆくえ騒動記・二

          裁 判 の 根

だれでも裁判はしたくないものだ、と私は思っている。時間はかかる、金もかかる。したくはないが、当事者のあいだで決着がつかず、どうしても納得できない気持ちに決着をつけるための最後の手段は、裁判しかなくなってくる。裁判は双方のいい分を聞いて公平に判断してくれるものだと信じている。  この裁判もその一つと、私は受け取った。ぶちあけていえば、私の振り込んだ三千円が消えたとしてもなんの怨念もない。たしかにあれはどうなったかという疑問は残るにしてもである。  裁判所に提出する陳情書というものを書くとき、私自身の立場を素朴に語ることはできる。立木契約ができない事態になったら、その状況をはがき一枚でかまわない。そのはがき一枚がなぜ出せなかったのか。ここまでほったらかしにした理由と謝罪はあっていいだろう。それにしても、裁判までする気持ちにさせた、立木トラスト当局から閉鎖をいい渡された元神戸事務局のHさんMさんの名誉回復をどうするか。事実私はHさんに電話で質問をしている。Hさんはいった。それはいいんです、なん度も話しての結果ですから。だから私の陳情書にはそのことに触れていないが、この裁判の根はここにあると、受け取った。そのあと阪神神戸大震災のために集めたカンパ四十万余円のうち大震災に還元したのは、十九万円しかない事実は大きい。私の振り込んだ新見トラストに続いてもう一つ当局である被告の怠慢が重なれば、神戸事務局の疑問も怒りも出てくるのは当然である。  とにかく実際に金を振り込んだ原告は私ひとりになったが、99年8月25日の裁判は被告側の弁護人の都合で延期され、担当官が電話で流れるかもしれないといった裁判は、予定通り99年10月25日に始まった。  もう一つこの裁判が異例なのは、原告側に弁護人がいないことである。そのために選定当事者というものがあって、HさんMさんがなっている。私の指定した選定当事者のOさんは裁判をおりてしまったので、HさんMさんに移行する書類を提出した。選定当事者はいわば原告側の弁護人の立場でもある。いいかえればHさんMさんは百円原告でありながら、弁護人ということになる。  裁判が始まる前にもう一つ、封筒がきた。被告側の立木トラスト東京事務局の名前で、私の返金した三千円を東京法務局へ供託したという通知書だった。被告側はあくまでも裁判訴状の三千円は返金したという体制を整えたのである。  とにもかくにも99年10月25日に第一回裁判は開廷した。私は法廷に行っていないので、Hさんの報告を待つ。しびれを切らせて、11月9日に電話を入れる。報告することもできないほど公平な裁判とはいえない、ひどいものだったようである。とうぜん被告は出席せず、被告側の弁護士は原告のHさんMさんに怒鳴りちらし裁判官とはなれあいの会話に終始したという。  第一回裁判あとの報告文では、裁判所は選定当事者に理解がないようなので、代理人の弁護士を探したいとあり、そのための書類が同封されてあった。  私はまたもむかしかかわった浜田医療裁判のことを思い出していた。民事なので、まぎれて法廷にはいってしまうと、前の裁判を傍聴することになる。弁護人なしで、たちむかっている女性ひとりの原告に、どうしても裁判官はいうのである。代理人の弁護士をつけなさいと。当人は弁護士費用のこともあるだろう、いや隣同士のいさかいならば、自分でなんとかできると思って、裁判官に立ち向かっている。それでも裁判官は弁護人のほうがくみやすいのである。当時の私たちの医療裁判を担当した弁護人は反体制の思想の持主だったが、この法廷におけるルールは守る人だった。その意味ではHさんMさんのとった選定当事者というかたちは、稀有だったかもしれない。

  裁 判 裏 の 攻 防

 弁護士探しがどうなったか連絡がないまま、私としては立木トラストにお金を振り込むもとをつくった友人に電話をいれた。もう疎遠になっているこの友人を思い出すまで、時間がかかったことも事実だった。かつて郷土の岩手にゴルフ場開発があって、反対運動で阻止した経験のある彼女は、私たちの医療裁判も熱く応援してくれた一人だった。  久しぶりの挨拶を交わしたあと、事情を話すと、やはりみなもとはここだったことがわかる。 「えっ面白いじゃない、そういう会計ははっきりさせないとね」  彼女ははっきりといい、私にも責任があるから協力するよといった。  当時の彼女は東京で開かれた集会で、主催者でもあったこの裁判の被告から直接申し込みの書類を受け取り、彼女自身は四国の立木トラストのみかん購入に申し込み、翌年台風のためみかんが送れないというはがきの連絡があったという。なん人かに連絡してみると、このケースの人がもう一人いた。  私は百円原告にこのUと、ある意味では男名前のほうがいいと考えて、住所が近くて連絡の取りやすいものかき仲間の塚田氏の二人になってもらった。百円原告といってもやはりこれは公式の裁判だから、最初の印鑑だけではないものが重なってくる。私に三千円が返金されたのと同様に、この二人にも百円が返ってくる。その度に双方から、電話がはいる。どうするのか。返金してくださいというのは簡単だが、手間は手間である。塚田氏には裁判嫌いがあって、出廷とか面倒なことなるのは勘弁してくださいといわれる。  11月23日になって、早朝にUから電話がはいる。被告側の一方である立木トラストの岡山事務局から往復はがきがきたという。返金の際の謝罪の文章を読んでもらえなかったのではないかとして、低姿勢の謝罪の文面だという。 「みんなに返金もすると書いてあるし、こんなに謝っているんだから、許してあげることはできないの」  このあとUは、環境保護運動はそうでなくても少数派だから、分派行動になってはいけないというのである。当初会計は明確にしなければいけないと私を鼓舞し協力もするといったUは、この裁判に疑問を持ち始めたのである。それだけではなく、谷口さんが被告に電話をして、被告の本意を聞いたらどうかともいうのである。片方だけの言い分では片手落ちではないかと。  だがもはや私は、被告にくびをきられた元神戸事務局側で動き始めているのである。百円の原告になってまで、裁判をおこした法廷での私の立場は、九年のあいだほったらかしにした状況を素朴に証言すればいいのだと、決めていた。当局からの往復はがきに返事を書きたがっているUに、書きたいこと書いていいよと私はいった。  この裁判で、和解ということについてHさんMさんはどう思っているかについては、霧のかなただった。私の中にはタブーのようにその言葉が出せなかった。ただ11月にこちらからかけた電話で、Hさんは10月に和解の場を持ったことをいった。被告本人も出てきて、みんなに返金するといったが、その作業を自分たちにやらせて欲しいといった段階で拒否されたいう。私としては、Hさんたちの被告への不信が根づよくあることをわかると同時に、その姿勢はしっかりしていると受け取ったのだった。  さて、弁護士探しがどうなったかの手紙は、第二回裁判の12月15日前の五日付でやっときた。訴状の金額があまりに少ないので、弁護士の引き受け手がないとあり、従って弁護士費用の心配はなくなりましたとある。ただこの訴状だけでは弱いので損害賠償を加えることにしたという。ただ谷口さんが立木代金を振り込んだ時点では、地権者と契約できる見込みがあったのでその権利はなく、見込みがなくなってからの募集に応じた91年秋以降の契約者にお願いするということだった。私は安堵もしている。損害賠償を提出しないと即結審になる苦肉の策とはいえ、裁判の始まる前から、私の三千円の立木代金に損害賠償をつけたいといわれていたのだった。そのことには私の神経がついていかないので、拒否していたのだった。それにしても、なぜ和解の場を持ったことを報告文にいれないのか。裁判の報告は、表にあったことだけではなく、裏の交渉についても、つまびらかにするべきなのである。やはりHさんたちにとっては、和解の方法はタブーなのかもしれない、と私は思った。  12月15日、とにもかくにも第二回裁判は開廷した。私は参加する心づもりをたてていたが、裁判出席が一回しかかなわないなら、結審になるかもしれない次回にしてくださいとMさんにいわれて、旅の準備を中止した。原告でありながら、なぜか裁判の遠いもどかしいところがつかえていたので、倉敷の妹に裁判の傍聴を頼んだ。ごく普通の主婦できた妹に最初この話をしたとき、やめて止めて裁判なんかといっていたのだったが、裁判傍聴をすんなり引き受けてくれた。  定年で毎日が日曜日にはいっていたつれあいの運転する車で、妹は初めての裁判所で法廷を傍聴したことになる。  私は仕事から帰って、倉敷の妹に電話をいれた。 「お姉ちゃん、話にならない裁判よ。裁判官とむこうの弁護士は親しげみたいだし、途中でいなくなってしまうし(つれあいの)うちの修さんは、訴えの金額が十万円以上じゃないと裁判は無理じゃないかっていってる。HさんMさん意外に若いひとね、ちゃんと挨拶しました。お姉ちゃんに電話するっていってたけど、どう報告したらいいかわからないって、いってた」  私はこのどう報告したらいいかわからない素の状態を知りたいのだが、HさんMさんには情報を整理してから、あるいは次なる姿勢をきめてから、報告がくることになる。  この裁判の報告がきたのが、文面には新しい年の1月1日になっているが、私のところに手紙が届いたのは、松の内を過ぎた8日である。文面で印象に残るのは、原告に代理人の弁護士のいない法廷での、屈辱的なあれこれである。それでもここではHさんMさんはやってるじゃない、と私はみたのだ。彼女たちの怨念は深いぞと信じたのだった。

    証 人 席 に 立 つ

 第三回裁判は2月9日水曜日だった。前の週風邪で熱を出し、一夜で下げてタクシー通勤していて、からだの調子はよくなかった。しかもこの日は早朝から十時間近い仕事をこなして、夕方の新幹線に乗った。  HさんMさんと、岡山駅で待ち合わせていた。新幹線でゆっくり飲んで、ひと眠りする予定がはずれた。ビールも焼酎もまずいだけではなく、一日の疲労だけが濃くてまんじりともできなかった。あろうことか岡山駅に近くなって、雪が降り始めたのである。新幹線口で待っていたHさんMさんは、雪のことを知らなかったくらいのふいの雪だった。えっ、さっきまで月が出ていたのに、と地下の駐車場を出て岡山の街の真っ白な地面と、もはや吹雪ともいえる強い降り方に眼をみはった。ふたりは神戸から、車を運転してきて、東京からの私を待っていたのだった。ここから倉敷の妹宅へ行くだんどりだった。Mさんとは初対面だった。四人の男の子がいるという。Hさんよりも若く、大学は法科をでていて、このあたりから裁判の根っこがでたかもしれないと察した。雪は激しくて、携帯電話が不調だった。かんたんな道のりが迷路になって、妹宅に着いたのは深夜の11時に近かった。明日の裁判は午前の10時開始だったから、どうぞお泊りください、と妹がいっている。だがこの夜はMさんの都合で、ふたりは神戸へ帰らなければならないことになっていた。私はどういう経過で裁判に至ったかをもっと具体的に知りたかったのだが、私の体力は限界にきていた。打ち合わせらしいこともなく私としては、その熱意と仲良しのHさんMさんを確認できたことくらいで、二人は深夜の雪の道を神戸まで、車を運転して帰っていった。  裁判当日の朝になった。雪は晴れていたが、Hさんたちが車でくる道は通行止めだとテレビニュースはいっているという。私は食欲がなかった。体温計も出されたが、熱がわかって更なる病人になっても困るので、はからなかった。さて、あんなに遅く帰っていって、HさんMさんたちが法廷に来られなかったらどうなるのか。私の裁判に関わる勘みたいなもので、被告側の訪問を追い返したり返金もして協力してはきたが、ほんとのところの裁判を動かしているとはいいがたかった。  妹の家から倉敷簡易裁判所まで、時間はほんの少しである。出発前に妹が、Mさんの携帯電話に連絡をいれてくれた。もう既に倉敷の簡易裁判所にきているという。道路が不通だったので新幹線できましたという。なんとこの熱意に脱帽するしかない。昨夜は午前二時過ぎに神戸の自宅に帰って、寝不足のまま家族たちに朝の支度をして、倉敷にきたという心持ち顔色の悪い二人に、法廷前の廊下で会った。  法廷は時間通り開いたが、被告側の弁護士が遅れるという。裁判長とのあいだに手続きの細かい修正が二つほどあるうちに、被告側の弁護士がはいってきた。原告の私がいることに驚いたようだ。HさんMさんには粗暴ないい方でも、私に対しては丁重になる。法廷は私の参加で今までよりは本来の法廷のかたちになったのかもしれない。私は証人席で発言を許された。 「どうしてこういうことになったのでしょうか。立木の確保がだめになったのなら、はがき一枚でいいのですから、連絡がほしかったと思います」  被告側の弁護士は、長いこと連絡のないことで疑問を抱いたのなら、どうなったのかと問い合わせてくれたら、こんな裁判にいたらなかったと弁護する。さて法廷での主役は、どっちなのだろうかと考える。立木購入を申し込んでお金を払い込んだ私だけではない多くの善良な出資者なのか、派手に立木公募をした被告側なのか。私の立場から突き詰めていくと、被告側の良心の問題が見え隠れしてくる。HさんMさんが被告にそのルーズさを指摘したとき、被告はこういったという。金を送った人はカンパのつもりなのだから、ほっとけばよい。ほおっておいたまま選挙活動をして県会議員になったのは、数年前である。さて裁判というのは、そのようないってみれば良心というようなところまで降りてきて裁定してくれるものなのだろうか。私は裁判をそのように信じていないのだが、Hさんは選定当事者の席で立ち上がり、敢然と裁判官に言い放っているのだった。 「裁判のどのような判断にも、従うつもりです。判決を出していただきたいのです」  原告側が損害賠償という新事実を提出したので、審議未了のまま結審にもならず、裁判は終った。  私には終ってからが、重要だった。被告側弁護士が廊下で私をつかまえ、本当に東京からきたのかと聞く。そんなばかがいるとは信じられないようだ。裁判の準備書面の原告・Oの名前のところを指さし、この人が下りたのを知ってるかと聞く。まるで鬼の首でもとっているかのようないい方をする。 「知ってますけど」 「この人は受け取った金額をそのままこの会にカンパをして、裁判をおりたのですよ」  カンパをしたのは初耳だったが、それがどうしたのか。私は間髪をいれずいっていた。 「和解の糸口はないのでしょうか。私としては仲なおりしてほしいのです」  HさんMさんが冷ややかに背中をみせて、裁判所出口へ行くのが見えた。 「さあ、あの人たちはこの環境保護運動の会をぶっつぶしたいのです」  そんなことはない、と私は心の中でつぶやきながら、もう一度私は、繰り返した。 「仲直りしてください、お願いします」 まだ正午前だったが、妹は気をつかってHさんMさんを食事に誘った。私にはまったく食欲がなかった。やはり体調がおかしいぞ、と思わないわけにはいかなかった。話足りないままHさんMさんとわかれ、妹の家に帰って、体温計で熱をはかった。水銀はきらりと伸びて39度3分である。私はいっきに病人になった。車で連れていかれた病院で、流感を宣告され点滴の人となった。  00年10月18日、和解をもって裁判終結す。裁判をしない人たちにも道筋を残しながら、私には九年前に振り込んだ三千円と損害金百二十五円が支払われる。HさんMさんの怨念は晴れたのかどうか。さてさて私には今や笑いたいあるいは、泣きたい気分も残っていない。(了)  

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