消えた男




男は嘆息した。

何もかもうまくいかない。

事業に失敗し、多額のお金を失った。

女も目の前を去り、独りぼっちになる。

男は嘆息し、我が身の不幸を嘆く。

それと同時にこれからどのように生きていけばよいのかと途方に暮れる。

嗚呼、これから職を探すとしても、もう中年、と一般的に呼ばれる年齢になっている男にそう簡単に職が見つかるわけは無い。

前途は真っ暗であった。



男は再び嘆息した。



このままこの我が家にいると考えが悪い方向にしか向かわない。

せめてもう少し明るいところに行こう、そう思い男は出かける事にした。



幸いに本日は晴天なり。

公園に入り、噴水の近くのベンチに腰掛ける、ぽかぽかとしていて暖かい。

しかし行き交う人の流れを見ながら何となく感じてしまう疎外感にすぐに嫌気を感じた。

どこかに行こう、と思い、腰を上げる。

いく当ても無いので仕方が無くあたりをぶらぶらする事にした。



溜め息をつきながら公園を出ようとすると…突然掛かる声。

「あなたのお悩み、解決致しましょう」



男は立ち止まり、声のした方向を向いた。

そこには一人の老人、というには少し早いだろうか、がいた。

何なんだ、と男はちょっと機嫌を悪くし、眉を顰める。

それに関らず老人はゆっくりと男に近付いてくる。

男は肩を竦め、

「悪いね、そういう勧誘はお断りしてるんでね」

そう言い放ち男は歩き出す。しかし老人はしっかと男の腕を掴んだ、その手はとても力強く、振りほどくのが大変そうだ、と男は感じ、再び立ち止まると老人を振り返った。

「何なんですか」

不機嫌で、ぶっきらぼうに言い放つ。

「この薬を差し上げましょう、あなたにとって素晴らしい薬です」

「…いい加減にしてくださいよ」

「他人の持つ記憶を全て消す事ができるのですよ」

「…そんな都合のいい話があるわけ無いでしょう」

男は一笑した。

そして老人の手を振りほどき、走り出した。



その前に女が立ちはだかった。

「お待ちなさいな、お兄さん。折角のお誘いを踏みにじらさんな」

その女はほほ笑みながら男の手を取りその手の上に一粒の薬を置いた。

「これを飲めばあなたは誰からも忘れられるわけですよ」

女は男の腕をとり、公園のなかに引き戻す。

久々の女に男の心は燃え上がり、素直に従い歩く。

そういえば、女と腕を組んだのは何年ぶりだろう…などと男はふと考えた。

兎にも角にも、気持ちが良かった。

女は男の耳元で魅惑的な声で囁く。

「あなたは今辛いのでしょう?これを飲めば楽になるのよ。確かに楽しかった事も忘れられてしまうけれども、今のあなたにとってはプラスになると思うわ」

男は身を震わせた。

魅惑的な女と、薬のために。



他人の記憶を無くす、この苦しい記憶が他人の中から消える。

そうすればこの苦しい今が、消える。

他人に顔を見られることに恥じらいを覚えることもなくなる。

家のまわりを歩く時、身を縮める必要がなくなる…

なんと魅惑的なものだろう。

男はそう、感じた。







いや待て!

心の声が叫んだ。

そんなに上手い話があるか。

それに他人の中から自分に関る全ての記憶が消えてしまっては…






そう思う一方で、今現在の自身の状況からして、記憶から逃げ出したいという気持ちもある。


テレビのヒーローならばここではっきりと断るのだろうが…


男はそのようなことをぼんやりと思いながら、しかし手は薬を口に入れかけていた…



その後、男の姿を見た者はいない。

寧ろ、誰も男が消えたことに気付かなかった。



全ての人が男の事を忘れてしまったのだから…

男は、この世界の人の中から消えてしまったのだ。







…了…


20060219

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