彼女は寂しそうに笑った。

「久志さん……?」
 思わず琴音は声をかける。
 久志のその顔は、泣いているようにも見えた。




「私があの子をどんなに想っても……
 私の想いは届かない」



    せめてため息に夢がほしい



「久志さんっ」
 元気な声。
 久志は振り返る。
 そこには満面の笑みでこちらに駆け寄ってくる久の姿がある。
 ああ、心の奥で久志は嘆息する。

 ――君は私の事を「姉」とは呼んでくれないのか。

 出会ってからずっと。いや寧ろ出会う前からずっと、私は君を想っていた……
 物心付く前に養父の許へ行き、そこで暮らした久志の唯一の血のつながりを持つ人物、久。……それは久にとっての久志と同じであるが。
 だから。彼女は想う。家族になりたいと。
 「姉」になりたい。と。
 だが久は久志の悶々とした思いに気づくことなく一言二言声をかけると、何処かへ行ってしまった。彼はカナリアが信頼する人物である、彼への仕事は次から次へと舞い降りてくる。
 角を曲がり久のうしろ姿は見えなくなった。
 だが暫く彼女はそちらの方向を見つめていた。
 そんな所に琴音が通りかかった。
 こんにちは、声をかけてくる琴音に、久志は顔を上げてぎこちない笑みを浮かべることしか出来なかった……

 逃げるように琴音の横を通り過ぎると、久志は俯きながら小走りに廊下を自分の部屋に向けて進んだ。
 ……と、途中で腕を掴まれた。
「やっ……」
 誰が腕を掴んだのかと顔を上げ覗き込むと、そこには予想外の人物がいた。
 手を振り解こうにもぎゅっと掴まれてしまいどうしようもない。
 こんな所でこの人と一緒にいるところを見られたくない、と彼女は、
「すぐそこが私の部屋なの、話はそこでにしましょう、山崎さん」
 すると山崎……裕之は黙って手を離した。
 少し距離をとって久志は裕之を見やる。何時もと変わった様子はない。
「行かないのか」
 言うと、
「行くわよ。煩いわね」
 久志はむっと顔をしかめて返した。




「……で、何」
 客人用のソファに、本当は坐らせたくないのだが、裕之を坐らせ、久志は彼に背を向けて窓の外を眺めていた。目ざとく気づかれるであろうから彼に表情を見せたくなかったのだ。
 だがもう既に気づかれていたようだ。
「お節介だったか」
「何がよ」
 不機嫌そうに振り返る久志。
 裕之がその顔を指差した。
「お前らしくない、と思ったので、な」
「何よ、貴方に何が分かるの!」
 久志の剣幕に押されて、裕之は少し黙った。
 二人の間に沈黙が下りる。
 怒り、悲しみ、不機嫌、そして無表情……様々に表情を変える久志。対する裕之は何時ものように落ち着き払い、静かに久志を見ていた。
「……心配していた」
 やがて裕之が呟く。
 え、と久志が驚いたように顔を上げた。
「あの子はとても敏感だ。俺達が思っている以上に、な」
 彼が久の話をしているのは明らかであった。
「そしてあの子ほど優しく、寛容な人物はいないだろう」
 話せばいいじゃないか。そう裕之は言いたいのだろう。
 だが、話せていればこんなに悶々とすることはないのだ、久志はそっと毒づく。
 それを知ってか知らずか、裕之は腕を組み、目を閉じた。
「両親を失い、俺の心は長く一人だった。血のつながりが誰ともなかった。だから子が、慎が産まれた時、とても嬉しかったよ……」
 裕之の口から彼自身のことが出てくるとは、彼女は驚き改めて彼を見た。……そういえば自分は彼のことを何も知らないと思う。彼に子どもがいたことも今知った。
「お前の表情、そぶりで言いたいことが分かる、気がする」
「別に……貴方に分かってもらっても……」
「……そう、か」
 少し残念そうに、裕之。
「ならば邪魔をしたな」
 そう言って立ち上がった。
 思わず「あっ」と声を上げるのは久志。そしてぶんぶん、と頭を振ると、彼女は肩を落とした。
 まるで行くな、と全身で表しているかのようで裕之はくすりと笑う。
「全く、お前は」
 俯く久志の前に来ると、裕之は彼女の後頭部に手を伸ばし、自分の胸に彼女を押し込んだ。
 びくりと一瞬震えた彼女であったが、すぐに彼に身を任せた。
 やがて、嗚咽が漏れた。


 ……どのくらいこの体勢でいただろう。
 久志が離れたいそぶりを見せると裕之はすぐさま手を離した。
 二人は向かい合ってソファに腰掛ける。会話はなかった。
 すると、ノックの音が響いた。
 そして返事をするまもなく飛び込んできたのは……
「久……!?」
 思わず声を上げるのは久志。立ち上がり、彼の許まで走る。
 裕之は何も言わず二人の会話を聞いていた。
「さっきはごめんなさい!」
「な、何が……?」
 久の勢いに押されている久志である。
「何時もと様子が違うのに何も出来なくって!」
「え……ええ」
 困惑気味の久志。
 そんな彼女に久は寄る。
「一体どうしたんですか?」
「ああ……気にしないで、大丈夫よ」
「大丈夫じゃないです!」
 間髪いれずに返す。ついに久志は勢いに負けて押し黙った。
 どうしたんですか、久はもう一度問う。
 大きく久志は息をついた。
「……家族に、なりたい」
 そして、呟く。
 久がばっと顔を上げた。
「姉と呼んで欲しい……」
「呼んでいいの……?」
 今度は久志があわてて顔を上げ、久を見つめる。
「姉さん」
「久……!」
 久志は久を強く抱きしめた。
 裕之は静かにその場を離れた。



「山崎さん……?」
 久が帰った後、久志はいつの間にか消えた裕之の姿を探した。
 ベランダに出る。
「どうした」
 上から声がした。
 久志が見上げた先に、裕之がいた。上の階のベランダの柵に腰をかけ、こちらを見下ろしている。
 いつもなら何をしている、と言う彼女も、今回ばかりは、
「あの……ありがとう」
 恥ずかしそうに、小声で言った。
 彼女の隣に降り立つと、裕之は彼女に微笑みかけた。
 その微笑にすこしどきりとする久志。そんな彼女を見て彼は思わず吹きだした。
「お前らしくないな、素直で」
「なっ……何よ!」
「また会おう、久志」
 言うと彼はベランダからふわりと飛び降りる。
「あっ……ま、待って……!」
 一度裕之は振り返り、手を振ると駆けていった。
 一人残された久志は、しばらくそのまま彼の去った方角を眺めていたが、やがて一息つくと、
「……残りの仕事、しないと」
 相当の時間が経っていたことに気づく。
 部屋へと戻っていった。


20110802
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