美しい月が登る日、精霊は降り立つ

手を伸ばした先には何もなかった。

僕の腕はむなしく空を彷徨うのみ。



駄目だったか、僕は小さく溜め息をひとつ、つく。

そして、この数日間のことを、少し、思い出した。


何年も前から、僕は町に伝われ伝承を耳にしていた。勿論、町に住む人は皆知っているであろうが。

それは、年に一度だけ現れる精霊の話だった。

秋、月が最も美しく夜空に映えるその日、その精霊は姿を表す、という。姿を表す場所は、僕の住まう町から少し歩いた所にある山の山頂だそうだ。

精霊に会うと何が起きるのか、それはわからない。その山には魔物が住んでおり、普段でさえ危険である。そんな場所に誰が好き好んでいくというのか。

そのようなことを、皆口にしていた。

…だけれども、僕は気になって仕方がなかった。精霊のことが。

行ってみたい。そう、ずっと思っていた。



そして今年、僕は決心した。

行こう。

精霊に会いに山に登ろう。

そう、決心したのだ。



そしてその日から精霊が現れるとされる当日まで、僕は準備をし続けた。

一応、僕は剣を使えた…一流、とまではいかないが、そこそこなら使える、はずだ。だから、山で魔物に出会っても、何とかなる…とは思っている。

夜、この町の外にはほとんどと言ってよいほど明かりがない。当日は月明りがあるであろうが、僕は山へ入るまでの道を往復する。とくに障害となりそうなものはないようである。

さらに念をいれて僕は夜の人通りを調べてみた。どうやら、この町の人はあまり外に出歩かないようだ。…勿論僕自身も本当はそうだ。

つまりは、家を誰にも気付かれずに出る事ができれば、山までは問題なく行けるであろう。…問題は山の中か。

月明りはあるであろうが、木々に光は遮られ、暗く魔物が行き交う山道をどう進んで行くか…それが一番の問題である。

「んー…どうしようか」などと呟いてみても特に何も思い付かない。むしろ親に「どうした」などと言われてしまった。

いけない。これでは怪しまれてしまう。そんなことを考えながら、そういえば僕は昔あの山に登った事があるな、と思った。

なぜ登ったのか理由は分からないが、確かに登った。…その時の記憶を思い返す。

…確か、登山道に近いものがあったような気がする。小さい頃でも登れたのだから、今ならもっと楽に登れるだろうか。そう考えると、僕は何とかなる気がしてきた。

それからその日の昼まで、僕はこそこそと使えそうなものを準備したり、山の様子を見ていたりした。




そしてその日の日が暮れた頃、僕はそっと家を抜け出した。

誰にも見つからないように、辺りに気を配りながらそっと町の城壁をくぐり、外に出る。




さわやかな風が吹く、気持ちのよい夕暮れであった。

緊張していた僕の心が少し、落ち着いた。

さあ、これからだ。

精霊の姿を見て、それが一体どのようなものかを知りたい。

さあ、行こう。




月明りは、以外と明るいんだな、と思った。足下を十分に照らしてくれている。

山に入るとその光は木々によって少し遮られてしまったが、足下に注意を払えばやはり十分に歩けた。

草むらで何かが動く気配は多少はあったが、魔物が出てきそうな気配はない。とても不思議だった。




どのくらい登り続けただろうか。最初は遥か彼方に見えた山頂も、すぐ近くに迫っていた。さあ、行こう。

僕は一心不乱に登っていた。

もうすぐで山頂だ。はやる気持ちを押さえながら登っている僕の後ろから、何か強大な気配を感じたのはその時であった。

背に冷や汗がはしる。

後ろだけではなかった。僕は踏み固められた道を歩いているが、踏み固められていない斜面を登っている気配も沢山ある事にも気付いてしまった。

殺される…そう一瞬感じた僕であったが、すぐに彼らも山頂を目指しているのではないかと思った。

山頂に現れる精霊に興味を持つのは人間だけではないのだろう。

きっとそうだ。そう思う事にした。

果たしてそのようだった。山頂に近付くにつれて辺りの気配が多くなっていっている。

…そしてついに、僕は山頂に足を踏み入れた。




そこにはすでに夥しい数の魔物や動物がいた。そのどれもが、天を見上げている。

天には美しい月が輝いている。闇を切り裂くその光に、僕は呆然と立ち尽くした。

なんて美しいのだろう。

と。

その時、何かが降りてきた。光だ…そう思った瞬間、僕は無意識のうちに両手を広げてそれを掴もうとしていた。

今だっ…僕は両手を高く掲げてその光に触れようとした。

…だが、無理だった。僕の手は虚しく空を彷徨い、そして何も掴めないまま下ろされた。

だが僕は気落ちすることはなかった。美しい光に目を奪われ、そのようなことを気にすることなど思い付かなかったのだ。

きっとこの光が僕たちの言う精霊なのだろう。本当は何であるかは分からないが、これほどまで美しいものなのだから、精霊と呼んでも差し支えないであろう。

今日この場所に来て良かった。僕は光に見とれながら思った。なぜって…勿論、こんなに美しいものを見る事ができたのだから。




気がつくと僕は自分のベッドの上にいた。

「もう朝よ、早く起きなさいよ」不機嫌な母親の声に目覚めさせられた。全く、もう少し寝かせてくれればいいものを…

そうぼやきながら、僕は思わず「あれ?」と思ってしまった。

確か僕は山頂にいた筈だ。なのに今、僕は家にいる。帰る記憶はないのに、だ。

「昨日夜いなかったでしょう、どこをほっつき歩いていたのよ?しかも知らない間に帰ってくるし…」

心配したんだから、と言ってくる親にごめん、と謝りながらも僕の頭はあの精霊

の事でいっぱいだった。




あの精霊は結局何ものなんだろうか?

なぜ一年に一度、あの山に現れるのだろうか?

なぜ魔物たちはそれに群がるのか?

そして、精霊に会ったことにより、僕たちは何を得る事ができたのか…?




「ついでに、なぜ僕が知らない間に戻って来たのかも大きな疑問だな」そう呟きながら疑問を整理してみるが、僕には到底分からないことだった。

「どうせどれだけ悩んでも答えなんて見つからないんだろー」

そうは言ってはみたが、簡単に諦めきれない。

「…続きは来年、かなぁ」




あの精霊は今どこにいるんだろう?

どこにいるにせよ…待ってろよ、精霊。


20060913
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