例えば。
例えば、…そう
不思議の国のアリスが男だったら。
赤頭巾が狼に食べられなかったら。
長靴を履いた猫が犬だったら。
夢を見る事が無かったら。
そのまま目覚めなかったら。
一昨日雨が降らなかったら。
あの花が咲かずに枯れていたら。
踏み付けた猫が生きていたら。
さっきの事故で死んでいたら。
苦しまずに生きていられたら。
幸せな家庭に生まれていたら。
私にまだ感情があったなら…
例えば、そう。「もしも」と同じ例えばの話。
そうやって考える事は、幾らでもある。
まるで、手に入れた物全てを離さない…臆病な子供のように。
子供の時間
ぱちん……
天井の小さな照明だけが頼りの冷たい密室に、何かを切断する音だけが小気味良く響いている。
それは実に規則正しいリズムで、精神的な劣化を全く感じさせない。
ぱちん。
何も言わずに横たわる男と、その男の頭を膝に乗せている青年が一人。
青年の名はテレンス・T・ダービー。もう一方をダニエル・J・ダービーと言う。
テレンスは兄の猫のように長く伸びた爪を、蛍光ピンクの爪切りで丁寧に切り落としていた。
ただ黙々と、黙々と。決して不恰好にではなく、尖った角を小さなヤスリで擦って整える。
丸く整え終わったら次の指へ、それが終わったらまた次の指へとどんどん移って行く…
その単純だが気を遣う作業の繰り返し。
仲の良い兄弟?そう言われれば、そうなのかもしれない…別に悪い訳ではない。
この爪切りは先程始めたばかりなのだが、それでも結構な時間がかかっているように感じられる。
何故だろうか。
ぱちん……ぱちん…
そんな疑問が頭の中に巡ったのとほぼ同時に…
兄の指を持つ手がぴたりと止まり、数拍置いてからまた同じように動き出した。
何かを言い出そうとして唇の形を変えるが、少し迷っているような表情が室内の鏡に映し出される。
暗い、喜びと不安と飢餓感。
……はあ…
ゆっくり睫毛を伏せ…大きく深く息を吸い込み、肺の中を一杯に満たす。
次に酸欠で情けなく体が震えないようにと、息をしっかりと吐き出してまた吸い込む。
それに応じて、目蓋で閉め切られた美しい色彩を持つ瞳も、暗闇から開け放つ。
何があったとしても、決して手元を狂わせてはいけない。それだけは記憶に留めておく。
ぱちん。
……兄さん。
その長かった重い沈黙を破り捨てるように、テレンスがそっと口を開いた。
もうずっと喋っていなかったみたいに、口の中がカラカラに渇いてしまっている。
そう…こうやって優しく話し掛けるのは、一体何時間ぶりだろうか…
それに今は早朝なのか昼時なのか夕暮れなのか夜中なのか、もしかしたら明け方か。
窓一つ無いこの場所では、時間の感覚が狂ってしまってそれすらも知れない。
こうやって付きっ切りで世話をしなければ、兄の身が心配でまともに食事すら取れないのだ。
食事…?ああ、そういえば、そうだ。兄にもそろそろ何か作ってやらなければいけない頃だろう。
今日は食べ易いミネストローネにしようか…
だが、今はそれよりも語らなければいけない事がある。
自分がこの生活の為だけに棄ててきた大切な何かを、満たす為に。
…知っていますか、兄さん。
この間…母さんが死んだと言う事を。
そして彼は、機械のようにただ淡々と語り始めた。
耳を澄まさなければ聞こえない、小さな小さな囁きの独白とも言える言葉の列…
時々幼子や少女にするように、指先に冷たい口付けを落としてやる。
兄の手は、母の死を突き付けられてもぴくりとも動く気配は無い…
渇いた自嘲気味の笑みが、残酷な言葉と共に次々と闇に溶け出す。
ぱちん。
病気か、事故か、殺人か…よくは知りませんが、確かに死んだんだと耳にしました…
私は葬式に出ていません。死に顔も見ていない。ただ、遠くで聞いた話…
……何でだろう、全然悲しくないんです。一滴の涙すらも出てこない。
それにショックも、無い。ああ、そうなんだと言う感覚で…
まるで赤の他人の事のような気がしてならないんです。
理由?それは、私にも分からない。知らないほうが良い気もする…
ぱちん。
そういえば昔、本当に昔…私がまだ小学生ぐらいの時…
父方の祖父がある朝に老衰で亡くなった。
兄さんはその時いませんでしたね、
もう一人暮らしを始めていたから…連絡もろくに取れなかったし。
……どこまで話しました?ああ、祖父が亡くなった所までだった…
両親や親戚と共に葬式に出たまでは良いんです。
そこまでは普通と、何ら変わりが無かったんですから。
だけど、葬式が始まってからは違う…ある一点で周囲の人間とは全く違っていた。
ぱちん。
私は祖父の死に対して、一滴の涙も流す事が出来ずにいたんです。
実際、祖父にはたったの一度も会った事が無かった。
皆が彼の死を俯きながら悲しむ中で、私だけが無表情でその場に突っ立っていた。
何故そこにいるのかこれっぽっちも理解出来なかった、何故皆が嗚咽を漏らしているのかも。
父は泣きながら私の手を握って、搾り出すように言いましたよ…
「テレンス、お前は悲しくないのか?」って。
私は顔色一つ変えずに「分からない」と、素直に答えた。
その頃は人の死がどんな物かも知らなかったですしね。
するとそれを聞いた父は怒って、私の手を握り潰さんばかりに圧迫した。
結局、小指の骨に小さなひびが入りました。それでも私は泣かなかったけれど…
ぱちん。
そう、母さんが死んだと聞いた時もそんな心境だった。全然、悲しくない。
おかしいでしょう?もう子供である時間はとっくに終わったはずなのに。
まず一番に、泣かなければいけない存在のはずなのに…
もう、忘れてしまったから?違う、はっきり覚えている…
優しくて厳しい人。だが理解が全くと言って良い程無かった。
そう思っているから泣けないのか?だけど問題は別の場所に…
理由が分からない、くだらない理由で涙をせき止めている訳じゃない。
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もしかしたら、私は兄さんと一緒に居過ぎたのかもしれない…
いや、いいやっ、そんな事は無い。考え過ぎた、すみません。
どうか、してますね…これからは気を付けます。
……これで最後だ。
ぱちん。
さあ、綺麗になった。
これでもうどこかに引っ掛けたりして深爪する心配は無いですよ。
良かったですね、兄さん。
兄さん?
兄さん?聞いてます?
…そう、寝たんですね。最近寝てなかったせいで…
安心して、ゆっくり眠って下さい。私はずっとここにいますから。
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でも、どうして私は…泣けなかったんだ…
私はまるで、手に入れた物全てを離さない…臆病な子供のように。
そして大きく翼を広げる鳥のように。
底の無い穴を、どこまでもどこまでも堕ちていった。
それは地獄と呼ばれるのか、天国と呼ばれるのか…
そんな事は別にどうでも良い。
ただ、この身が堕ちていくのを永遠に眺めているだけ……
己の精神の淵に佇む健常なる傍観者。
母より生まれ落ちてから今日に至るまでの長く短い間、
「ありがとう」と「さようなら」と「こんにちは」を繰り返してきた。
夜の闇に怯える幼少期と別れを惜しみ、
手品を「すごい」と笑える時期も通り過ぎ、
肉欲に埋もれた肉体もどこかへ棄ててきた。
ああ、ああ、子供の時間はもう欠片すらも残ってはいない。
階段を踏み外した者は、一体どこへ行けば良いと言うのか。
誰もが皆笑い歩いている、祝いの春の11時。
赤い赤い、ぞっとする程深い深紅色の涙。
透き通った雨音のように、細い指先から静かに零れ落ちていった。
それでもまだ、私の子供の時間は終わりを告げない…
END
三悪リンゴォ絵茶記念に柊様から頂いたテレ兄小説です。
仮完成版から大幅に書き増しされ、これは完全版。
原作その後の設定っぽく凄くリアリティがあって素敵。
そして兄を想うテレンスが切なくて好きだー!!
柊様、ありがとうございました!
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