「それじゃ、これ土井垣君に。確かに渡しておいてくれよ」
学校の事務員から荷物を受け取ると、高代は食堂兼ミーティングルームへ向かって廊下を歩いた。
「なんか今日は朝から土井垣さん宛ての荷物ばっかりだなあ」
「また、中央高校からか?仕方ないよ、7月11日だからな」
微笑は、高代の怪訝な顔を笑いながら(本当は笑っていなかったのかもしれないが)荷物を見て、眉をひそめる。「え、今度は理事長から?」
「……みたいですねえ。事務員さんが、すぐに食べないなら、冷蔵庫に入れた方がいいって言ってましたけど」
高代は品物を大事そうに抱えている。どうもケーキの箱らしい。
「ケ、ケーキ? 何考えてんだうちの理事長は」
ヒゲ面の恰幅のいい理事長がいそいそとケーキを選ぶ姿を想像して、背筋に何やら冷たいものの流れた微笑であった。
『中央高校の女生徒ならともかく…ジジイどもは何考えてんだ?』
昼休みに部室を覗くと、玄関に風呂敷包みが置かれており、中身はなんと一升瓶。『土井垣へ 徳川』と書かれていた。これだけでもサムいのに……いい加減にしてくれ。
「…で、冷蔵庫はどうなりました? 本当に存在していたんですか?」
一升瓶のラベルが『越乃寒梅』だと知ったとたん、いつもめったな事では騒がない殿馬が、「今晩は暑いづら!ヒヤがいいづら!」とわめいたので、土井垣監督に見つからないよう急遽冷蔵庫に隠す次第になったのだ。「めったに呑める酒じゃねえづらぜ」
それでなくても土井垣体制下の禁欲生活に飽き飽きしていた部員達は、今晩は宴会、と決めたが、『闘将土井垣』をどう攻略するつもりだったのであろうか。おそらくみんな暑さとストレスでおかしくなっていたに違いない。反対の声は、出なかったのである。
しかしながら、食堂に足を運んだ部員たちは皆一応に顔を見合わせた。
『冷蔵庫が見当たらない!』
土井垣が監督になってからというもの、食事時間外の飲食は禁止になり、特にジャンクフードや清涼飲料水の類は一切持ち込み禁止になってしまった。喉が渇けば食堂のおばさんに頼んで麦茶やポカリが欲しいと申請しなければならないのである。
おかげでそれまで歴代の部員達のおやつや弁当、コーラや……時には酒類なども飲み込んできた歴史ある小型冷蔵庫――調理場にある食材用の大型冷蔵庫ではなく、部員達がかつて使用していた小型のものである――は省みられなくなり、いつのまにやら備品の波に埋もれてしまっていたのだった。
それからはほとんど授業そっちのけで、野球部員は冷蔵庫の発掘に勤しんだ。土井垣のいいつけを守って部員の素行を監視しているおばさんにばれないように、事は秘密裏のうちに進められた。
「もちろんあったともさ。とりあえず発掘は完了した。……後は、誰が開けるかだ」
微笑は苦い顔をした。少なくとも半年以上は開けられていない冷蔵庫。好んで近づきたがる人間がいるだろうか。
しかし。
「微笑ィ、タカー、どこいったんやぁー」
岩鬼が叫んでいる。しょーがねえな……二人は顔を見合わせると、食堂へ急いだ。
脇へ寄せられた備品の山の間に、白い冷蔵庫が鎮座していた。微笑には懐かしく、高代は見たことが無い。ボケた白さ、ところどころに浮いた錆びなどが骨董品クラスであることを物語っている。
「俺、こんな古いもの見たことないっすよ……昔のは、冷凍室ないんですね?」
渚が心底驚いている。
「開けると中に製氷室があるのさ。うちのはこれより古いぞ」
山田が何故か胸を張った。
「がはは、やぁーまだのうちにも贅沢品はあるんやのぉ」
「やっぱり、俺が開けてみるよ。山田、押えといてくれ」
見れば里中である。
「あれ、里中?」
まだ怪我は完治していないはずだが。
「微笑、久しぶり……山田に呼ばれたんでな。で、思い出したんだよ、クリーンハイスクール戦の前に購買で買ったヤキソバパンを入れて……出した記憶がないってことを」
里中は力任せに引っ張ってみたが、ドアはビクともしない。
「あれって去年の秋じゃなかったか?……もう7月だぞ」
山田の一言に、皆の顔が一瞬のうちに青ざめた。
「どけ、虚弱児!わいが開けたる。やーまだ、しっかり押えとけよ」
ミリミリ、ペキペキッ。パッキングを引き剥がす音が辺りに響き、すえた冷気とともに庫内の全貌が……。
誰かが叫んだ。
「ま、窓あけろお!全員退避!」
ツマミ購入班の山岡と仲根が戻った頃には、とりあえず部室は人間が病気にならない程度には回復していた。
「うわ、すげぇ臭いだな。こんなとこにツマミ入れるのか?」
山岡が露骨に顔をしかめる。
「乾物ばっかり買ってきて正解だった。ビールは缶入りだから大丈夫だよな?」
仲根は鼻をつまんでいる。
「強冷になってたんで思ったほどひどくないな。あ、俺のヤキソバパン。……干物になってる」
里中はつまみ出すと、すかさずゴミ袋に放り込んだ。
「そのパン、もう販売してないぜ。干物でよかったな、溶ろけてたらどうしようって思ってたんだ。……その奥のヨーグルト、蓋開いてないか?」
微笑が恐る恐る覗き込む。
「俺、やだ。渚、お前出せ」
里中は、完全にビビッている。
「お、俺がぁ?」
「お前のほうが腕が長いだろ!何のために俺より背が高いんだ!!」
皆の無言の圧力が渚にのしかかる。助けを求めるように周囲を見まわすが、同期の高代はあさっての方向を向いている。
山田の一睨みが、哀れな彼の運命を決した。
「……わ、わかりましたよー」
渚は歯を食いしばって、可能な限り腕を伸ばした。皆、息を止める。
「スプーン刺さって動かない……沢田って書いてありますよー誰ですかこれ?」
恐ろしい物体がゴミ袋に消えると、皆、一斉に深呼吸。
「あの奥の、蓋がドーム状に膨れたヤツ、……ひょっとしてプリンじゃねぇづらか?」
いつも沈着冷静な殿馬の、こんなに怯えた声は聞いたことがない。
「渚、気をつけて出すんだ。破裂するかもしれない」
山田の押し殺したような声が不安を煽り、皆、蜘蛛の子を散らすように退く。
渚は半泣きである。
「俺がなんでこんなことを。……土井垣さんのみたいですね、これ」
黒マジックで『土井垣』と大書。責任をもって監督に処分させようと、万場一致で決定した。
「ホテイのヤキトリやんけ、ええツマミができたわい」
「よせ、いくらお前でも死ぬぞ。……あんなに膨れ上がった缶詰なんて、信じられん」里中の顔はこわばっている。「今にも爆発しそうだ。渚、そっとだぞ!」
その他、膨れ上がりボールと化した紙パック入りコーヒー牛乳、ビン底がくっついて取るのに難儀したカルピス、白く粉をふいた食べかけの板チョコ、5年前の缶ビール、なぜか未開封のカップラーメン、謎の水薬、パリパリのシップ剤、一昔前の練りわさび、枕のように膨れたうなぎのたれ……もう、あれこれ吟味はせずにゴミ袋へぶち込む。「誰だ、英和辞典冷やしてるやつは」
「明日になったら妖怪人間が湧いとるかもしれんのぉ」
「よくこんだけ詰まっていたもんだ……渚、ゴミ出しといてくれ。そのまま逃げるなよ、次は掃除だ」
山田の命令。高代はうやうやしくケーキ箱を捧げ持つ役目に徹しており、渚は悲しげにゴミ袋を持ち上げた。
タオルでざっと中を掃除すると(これも勇気ある戦いであった)、ビールやツマミに、件の一升瓶も急いで積め込む。
「あ、これ理事長から」
高代が箱を差し出した時だった。
「マズイ、土井垣さん来ちまったよ」
今川が走り込んで来る。
「お前ら、なにをこそこそしている」闘将・土井垣監督は、入ってくるなり鼻を覆った。「なんだこの臭いは!キャプテン、何をしとるか!」
お冠のご様子。犬飼小次郎から妙なプレゼントが届き、思わず顔を赤らめてしまい……いらいらしている土井垣であった。
「ああ、いや、その」
山岡は目を白黒させている。冷蔵庫を開けられたら非常にマズイ。
「いえね、理事長から差し入れがありまして、その、土井垣さんにですよ。冷蔵庫に入れたほうがいい、とのことでしたので」
微笑はあわてて箱を高代から奪うと、土井垣に差し出した。
「理事長から俺に? ケーキか? 今すぐ食べたほうがいいのかな、これから夕飯なのに」冷蔵庫を見やって顔をしかめる。「あんな冷蔵庫にはしまえんな。夕食後にみんなでいただくとするか?」
皆、歓声をあげた。土井垣は冷蔵庫を開ける気が失せたらしい。
ケーキが食べられる嬉しさよりも、とりあえず誤魔化せたことが原因の、歓声であった。
夕食も終り、いつもなら静かにミーティング、の時刻である。
しかしながら明訓野球部野の今宵はいつになく賑やかであった。
「けどさぁ、今川が土井垣さんを連れてきた時にはどうなるかと思ったぜ」
山岡が周りに聞こえないように、口元を覆いながら石毛に話かける。
「見舞いに行ったら肝心の北がいなくてさ。快気祝とか言って監督を丸め込むつもりだったから、キモ潰したよ。……ま、土井垣さんも今じゃあの通り。理事長と、殿馬さまさまだな」
土井垣は一見、静かに呑んでいる。が、『越乃寒梅』をしっかと抱きしめているのが怪しい。殿馬がはべっているのは酒を狙っているからだろう。『土井垣さん、何時の間にか上半身裸じゃないか』山岡は気もそぞろだ。
「土井垣さん露出の気でもあるのかな。それにしても理事長のやつ未成年によくあんなもの送るぜ」
箱の中身はアイルランド風の焼き菓子でアイリッシュウィスキーをたっぷり染み込ませたものであった。
『それ日本ではめったに食べられねぇづら。理事長がせっかく監督にくれたんだからよぉ、監督が沢山食べる権利があるづらぜ』
部員たちは残したら悪いですよとかなんとか言いながらほとんど土井垣に食べさせた。すっかりイイ気分になった土井垣が「徳川さんの贈り物も呑まなきゃわるい」と言い出すのに、さほど時間はかからなかった。
「殿馬さんと山田さんは強いですね。二人ともいつもと変わらないや」
酒を呑むのがほとんど初めてに近い高代にとって、酒はもうまずくて、ジュースでお茶を濁している。
「岩鬼さん案外弱いですねーもう寝てますよ」
自身も顔を赤らめている。
「でもすぐ復活すんだよな。しばらく寝ていてもらったほうが静かで助かる」
石毛も負けずに真っ赤だ。
「うぉー高代ー、何呑んでんだー?ジュースだと?さっきから菓子ばっか食ってんじゃねえのかぁ?」仲根は高代のグミを奪い取ると、5,6個口に放り込む。すっかりできあがっているようだ。「うーむディープキスの食感」
「じゃ、仲根は任せたぞ、高代」
助けてくださいよ、の叫びも尻目に、石毛は缶ビールをもって慌てて場所を移動する。
けたたましい笑い声が聞こえてきた。
「戦利品だよ!開かずのロッカーでこんなもん見つけたですよ!!」
今川は笑い上戸のようだ。やかましい。
「うわ、セーラー服だ。うちの制服と違うぞ−」
嬉しそうに渚がシャツを脱ぎ始めた。どういうリアクションであろうか?
土井垣がゆっくりと顔を上げる。
怒られるんじゃないか……渚の動きが止まった。
「……1年の宴会で着たセーラー服か。懐かしい。……カツラと一緒に写真も入ってなかったか?」
なーんだ俺のことじゃねえや。渚はシャツを脱いだ。
土井垣発言に山岡と微笑はロッカーにすっ飛んでいく。怪しいやつらである。しかし残りは渚パフォーマンスに釘づけのようだ。
「よぉ、渚ぁ、色気がたりないぞー!」
仲根が両手メガホンで叫ぶと、高代がたまらず耳を塞いだ。こいつもうるさい。
「本気出しまーす、鼻血ふかないで下さいよー!だてに中一から女装一筋じゃありませんぜ」
困った渚である。……
「渚、もういいぜ、今度は里中着ろや」
石毛は静かに飲んでいたはずだが、徐々にハイになってきた。
「冗談じゃない!俺は絶対着ないぞ!もう女装はうんざりだ。セーラー服もブルマも、女子用スクール水着も、もう沢山だ!」
里中は酔って自ら墓穴を掘るようなことを言ってしまう。女装は東郷学園中学時代に散々させられた。屈辱、と思っている。
「なんだぁ、そんなに着たら今更恥ずかしがる服なんかないでしょ」
渚はカラミ酒のようである。癖の悪いやつだ。
「里中、ちょっとくらいいいじゃないか」
山田の何気ない一言が、里中をますますいきり立たせた。
「山田ー、お前までそんなこと言うかぁ!」
雰囲気は一触即発。みんな面白くってたまらない。まったくもって酔っ払いどもである。
『なんかえらい雰囲気だなぁ』
茶封筒を抱えた山岡は、食堂を覗くと踵を返した。
「微笑、俺の部屋で見ようぜ。食堂はうるさすぎらあ」
「はいはい〜ゆっくりじっくり楽しみましょう」
ニッコリ、微笑みは後に続いた。
「どれどれ。これいつ頃の写真かな?知らない人ばっかり」
写真はポケットアルバムに収められていた。
「これ沢田さん……こっちは東口さんだ。懐かしいなあ」
微笑にとっては見知らぬ人ばかりである。
「あ、これ!……土井垣さん?」
「だ、だよなー?なんか今より初々しいいぜ、華奢だし……これ年の時だよ!5月か……16歳、いや、まだ15歳だ!かーわいい」
「今の里中に負けないくらいかわいいですね!貴重な写真ですよ、これは」
微笑はくいいるように見つめている。
見知らぬ先輩達の写真が続き、ちらほら徳川の姿も見える。やがて、1枚の写真。
「あっ、ああっ」
「わ、ひゃあ!」
山岡と微笑は写真を見ると、一斉に仰け反った。
「ど、土井垣さん、ったら〜」
二人ともにやけている。
セーラー服姿の土井垣。拗ねたような顔で頭を押えているのは、ロングヘアーのカツラが落ちそうなせいか。ミニのプリーツスカートから覗いている足は、まだ少年の面影を残していて妙に細ッこい。まるで連続写真のように土井垣の写真は続く。誰がカメラマンか知らないが、執拗だ。
「お酌してまわってる……うらやましいなー。このすばらしい風習は、今はなぜ廃れちまったんだ?」
微笑は悲しげである。
「土井垣さんがキャプテンになった時に廃止したんだ。俺の学年は北が着たぜ、セーラー服写真どっかにあるはずだがな」
「ぐわーはっはっは、岩鬼火山、ふっかぁつ!!!」
「こい岩鬼ー、俺の酒を呑めー」
里中はかなりデキ上がっているようだ。部室がさらに騒がしくなった。
しかし別室の二人は写真を眺めながら、気づかず、熱くなっている。
「うるさくってかなわんぜ」
突然部屋の戸が開いたので二人は飛びあがった。
話題の主が上半身裸で登場したのである。相変わらず酒瓶を抱えて、眠たそう。
「昔の写真か。参ったなー」
しかし『闘将土井垣』は満更でもない顔で微笑んでいる。
「か、かわいいですね、昔の土井垣さん」
「今はかわいくないのか」
じろりと微笑を睨む。
「い、今は……素敵です」
告白しちゃった。山岡はポッと赤くなる。こんな状況でなければ絶対交わされないような会話。
「なんか暑いなーズボン脱ぐぞー……あっこの先輩……嫌いだったんだ……」土井垣が写真を爪で弾いた。
「こんなにかわいい土井垣さんでも苛められたことなんてあるんですか?」
「いや、やったら可愛がってくれたんだが。ふざけてしょっちゅう寝技かけてくるのが、なんか嫌でなー」
「……それ、絶対ヤバイですよ」
「なんかやたら触ってくるし、着替えてるといつも入ってくるし、シャワー浴びてても覗きに来るし……でもそんな先輩けっこういたぜ。徳川さんもなんだかんだ言いながら肩とか腰とか手をまわしてたなぁ」
「……」
俺たち、そんな目に会わなくてよかった。二人とも胸を撫で下ろす。
「写真、もらってもかまわないですか?」
「こんなもん……もってけよ」
始めは仲良く分け合っていた二人だが、ベストショットを巡って言い争いになるのにさほど時間はかからなかった。俺は先輩だぞぉ、そんなもん関係無いですよぉ、のやり取りが続いた後に、白熱のジャンケン合戦が繰り広げられた。萌えあがる男の戦い!
そんな二人を土井垣は鼻歌混じりに楽しげに観戦していたが、やがて、
「なぁ、この部屋暑くないか?」
おそらく二人の熱気のせいだろう。
土井垣はおもむろに立ち上がった。「…俺、脱ぐぞー」
ジャンケンに命をかけていた二人は、突然の椿事に恐慌をきたす。
「ど、どどどどい……」
「高代、愛してるぜー」
仲根が高代をタコ殴りにしている。
「仲根さん、俺どこまでもついて行きますよー」
当の本人は鼻血を流しながらげらげら笑っている。
「今川、さ〜ん」
「渚、ちゃーん」
裸上半身+スカート今川とセーラー上着+ブリーフ渚が抱き合って熱い抱擁を交わしている。
「ええぞー、そのままディープキッスやー」
「今川ー、渚の乳もめぇ」
岩鬼と石毛が囃し立てる。
山田はニコニコしながら酔いつぶれて膝に眠る里中の頭を撫でている。今川、渚のような事態を避けるために無理やりつぶしたのだろう。
部屋を飛び出すと、山岡、微笑の両名は水槽から飛び出した魚のように、空気を求めて口をパクパクやった。
『く、くそー俺はなんて意気地なしなんだ…』
『山岡さんさえいなけりゃ……』
部屋では、全裸の土井垣が無邪気に大の字になって眠っていた。
「掛け布団くらい掛けてやったづらか?」
廊下の窓辺では、殿馬がたった一人で月を相手に酒盛りをしている。
「あ、あのままほっとくわけないだろ。あれ、その酒……。土井垣さんの持っているのは?」
「すりかえたづら。酒の味もわからん人には勿体無えづらぜ……おっよぉ、里中がなんかパフォーマンスはじめたづらよ」
山岡と微笑はいそいそと食堂に消える。
『どれ、監督の様子でも見に行くづらか』
殿馬が腰を上げようとした時、ふと、人の近づく気配を感じた。
「お前はいつも静かだな」
見上げると、沢田が立っている。
「あ、いや、そのままでいい……皆を呼ぶ必要はない、土井垣に会いにきたんだ」
「監督ならキャプテンの部屋で寝てるづら」
山岡の部屋に入る沢田を、殿馬は見送った。『監督も幸せづらな、気に掛けてくれる人が大勢いてよぉ』
土井垣は掛け布団を蹴っ飛ばしている。沢田はきちんと直してやった。
『土井垣……お前が酒飲んでひっくり返ってるなんて、変わったもんだな。それもこれもあの個性的な連中のせいかい?』
土井垣の頬を愛おしげに撫でる。
『でも元気そうでなによりだ。……安心した』
沢田は土井垣にそっとくちづけた。慣れた仕草で。
『眠ってるお前に俺がこうやって何度もキスしたことがあるのを……ぜんぜん知らないんだろうな』
廊下と反対側の窓際で、歯噛みする老人どもに気づくものはいなかった。
「な、なんじゃ、卒業生が何の資格があって……。と、徳川さん、どうする?」
「どうするったて、どうしようもねぇでしょう、理事長。沢田もけっこう美形だからいいじゃねぇですか、美形がつるんでるのを見るのは、あっしは好きですよ」
「あぐ〜、くそー、布団に手を入れましたぞ!……卒業したから、もう何をしてもいいと思ってケーキを贈ったのに……ロウソク19本を入れ忘れたから、気づいてもらえなかったんだろうか」
何を少女趣味なことを言ってやがる、このヒゲが……徳川は舌打ちした。
「土井垣はあきらめて、里中の裸踊りでも見にいったらどうですかい?あっしはここで事の成り行きを観察させてもらいますぜ」
せっかくの酒はトンマが呑んでやがった……土井垣と二人きりで呑み明かそうと思ったのによう、送ったのがマズかったぜ。
つぶれていたはずの里中は今や、すっくと立っている。目が据わっていた。
「ウフフフ……渚も今川も、まだまだだな。幼稚園の頃からお姫樣役一筋、この男里中智が、本物の女装を見せてやるぜ、ウヒヒヒ」
や、やめないか、里中……山田が大汗をかいている。
「ホンモノの女装には衣装なんかいらないのさ」もろ肌脱いだ里中は腕を伸ばすと、手のひらを上向きに指を曲げた。流し目。「山田。カ・モォン!!」
乱れる、明訓野球部。食堂の惨状をサチコが見たら、男性不信になるであろう……。
喧騒をよそに、殿馬は静かにコバルトの夜空を見上げた。月は天高く上り、色も冴えわたる。星の瞬きもかすむほどに。
「Sonata Quasi Fantasia……あんなに悲しい月じゃねぇづらな……むしろClair de lune」
自然と口笛がこぼれた。
『いっつも野球ばっか飽き飽きづらぜ。たまには遊ばせろ、づら』
あのプリンどうなったづらか……脳裏に浮かんだ無粋な考えを、慌てて殿馬は打ち消した。
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