真夜中のおとぎ話(1)

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おいしい食事と楽しい語らい。
それだけで満足だったはずだ。
だのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 

 

……まったく何も期待していなかったと言えば、嘘になるけれども。

 
 
   ホテルのベッドで横たわりながら、土井垣将の目はぼんやりとTVの画面を追っていたが、その実、何も見えてはいなかった。
 自宅マンションでの普段の夜なら、風呂上りのこんな時刻はとっくに眠っている。
 しかし身に付けているのが見慣れたストライプのパジャマではなく、ホテル備え付けの白いバスローブで――ここで彼は女物のジャケットのひっかけてあるソファに目をやり顔を歪めた――連れの浴びているシャワーの音をダブルベッドで聞いているような状況では、自分だけ先に歯を磨いて、さっさと眠りにつくわけにもいかない。
 シャワーの音がふいに止み、一瞬びくりと肩を動かしたが、再び流れ出す湯の音に何故かため息が漏れてしまった。
 まったく。二死満塁、一打出れば逆転サヨナラの場面で、ネクストバッターズサークルから応援団期待のトランペットが鳴り響く中、監督やコーチに見守られバッターボックスに向かうより緊張する……。
 俺は何を馬鹿なことやっているんだ、と自宅マンションに帰りたい衝動にかられたが、視線のほうは相変わらずTV画面を無意味に追っている。
 もちろん、女性とホテルで過ごすのがはじめてなわけがない。
 いくら出会いが少ないプロ野球選手だとはいえ、土井垣も今年の夏で二十九歳なのだ。
 ただ、今日初めて口をきいた、と言ってもいい程度の仲の、それも素人の女性といきなりベッドインというのが初めてなだけで。
 思いのほか話が弾み、いい気分になって飲みすぎたせいだ。……TV画面がCMに変わり、腕に痺れを感じたので、彼は頭の下の手を組替えた。
 いや、厳密に言えば、今日初めて言葉を交わしたというわけではない。電話で直に撮影承諾の礼を言われたし、彼女のだいたいのプロフィールは広報で聴いている。だから全く知らない女性ではないのだけれど。
 それが言い訳に過ぎないことは彼自身にもわかっていたが、くどくど自分に弁解を重ねた。彼女が言うには四年前にも二回ほど一緒に仕事をしたという話だし、それ以前にも俺を撮ったことがあるそうだ……。

 そう、バスルームの彼女はカメラマン……特に、『男を最高にセクシーに撮るカメラマン』として売出し中の、新進気鋭の女流写真家だった。

 とある女性雑誌が『グラウンドのセクシーな男たち』という写真連載をやりはじめて、もう五年にはなるだろうか。
 過去二回の仕事はいずれもその雑誌に使われたもので、ユニフォームはいらないから私服で来てくれ、と言われた記憶がある。そのうちの一回は確か不知火とのツーショットだったはずだ。
 その連載も、当初は巻末フォトに私服姿のプロ野球選手を使っただけといったものだったのだが、普段ユニフォーム姿の多い選手たちが帽子を取った素顔は、若い女性たちに案外好評だったらしい。
 そもそも人気や所属球団に関係なく(実力も関係ないと噂された)、とにかく女性にとってかっこいい男というのがコンセプトだったので、そんなこともあってかパ・リーグの国民的大人気とはいえない球団に所属しているにも関わらず、連載のかなり早い時期に、先ず不知火が呼ばれ、ついで土井垣が呼ばれ、その一年後に今度は二人で呼ばれた。
 正直そんな趣旨の撮影は気分が乗らず、同じくやる気なさげな態度の不知火が、実は見る人が見ればわかる有名ブランドのベルトやら時計やらをさりげなく身に付けてきたのにくらべ、坊主頭の女房のほうはわざと着慣れすぎた普段着で臨んだので隻眼のエースに苦笑いをされた。……どんなにおしゃれをしいても例の帽子を離さない男が笑う資格などないというものだが。

 TVCMの途切れた瞬間、シャワーの音が止んでいるのに気が付いた。
 カチャリ、と扉の音の後に、布地の擦れる気配が続く。
 土井垣はベッドで肘を突いたまま仏頂面を崩さず、参った、というように眉根を寄せた。しかし、こんなところまで来ておきながらお断りをするのは、やはり女性にとって失礼というものだろう。

 過去の仕事内容はほとんど覚えていない。顔さえ忘れていたほどだ。別段変わったところなどない、ごく普通の写真撮影だったと思う。
 交わした言葉といえば、よろしくお願いします、とお疲れ様でした、ぐらいだったのではないだろうか。もっともその頃は彼女もごく普通の人物写真を撮る、ごく普通のカメラマンだった。
 大ブレイクしたのはその半年後。連載の思わぬ好評ぶりに気をよくした編集部が、雑誌の増刊号で『グラウンドのセクシーな男たち』特集をした時からだった。
 特集では八ページに渡って、ダイエーホークス犬飼小次郎投手のフルヌードが紙面を飾った。真面目な人徳者である某監督がまずあっけにとられ、それから青筋を立てて怒るような、当時としては大変スキャンダラスなフォトだったと聞くが、実物を見ていない土井垣はよくは知らない。ただ雑誌の宣伝ポスターはよく覚えている。
 上半身裸で胸毛もあらわな犬飼小次郎が、鋭い視線をこちらに向けている、というような感じで、駅構内で盗難が相次いだそうだ。
 ロッカールームでその話題が出た時、あんな凶悪な目つきのどこがセクシーなんだ、とつぶやいた彼に、あれはね、ギラギラした目っていうんですよ、と不知火が思わせぶりに笑った。犬飼さんってすっごい毛深いよなぁと神山が言い、その場にいた選手たちはみんなニヤニヤ笑っていたものだった……ポスターしか知らない土井垣にはわからなかったが、本誌の写真は、もっと下のほうまで写っていたらしい。
 その後、今は国外にいる、かつてセ・リーグの国民的人気球団にいた某選手が上半身裸のセミヌードを披露し、彼女は人気だけではなく実力も世間に知らしめることになった。
彼は実力こそ折り紙つきなものの、その容貌から(?)モンスターのあだ名でよばれ、おおよそハンサムであるとか洗練されているなどとはいいがたい選手だった。
 しかし彼女は、光と影の織り成す陰影を巧みに操り、モノクロの利点をふんだんに駆使して、土井垣が見てもあいつはこんなにかっこよかっただろうかと首を傾げそうになるぐらい、美しく芸術的な作品に撮りきったのである。

 ふと人の気配を感じ、土井垣は顔をあげた。
 目をやれば、おそろいのバスローブを身にまとった彼女がパウダールームからベッドに近付いてくるところだった。
 白いローブは一回り小さく裁断してあるだけで仕立て方はまったく同じであるはずなのに、中身が違うだけでずいぶんラインが変わってしまっている。
 土井垣は思わず眼をそらしてしまった。湯上りのしどけなく上気した顔は直視できなかったくせに、ぽってりした厚めの唇だけは眼に焼きつき、不知火の言っていた、あの男好きのする顔立ちは彼女の仕事の上での大きな武器でしょうね、という言葉を思い出した。
『そしてあの体もね。あの人ならセルフポートレートを撮ってもいい線までイケルんじゃないかな』

 球団広報から今回の仕事を打診された際、単体でセミヌードを撮られたことのある不知火と金子に相談することにした。ヌードといっても上半身裸なだけだが、自分の裸体がそんなふうに見られる対象になると思うと、ギャラは高額だったものの、あまりいい気はしなかったのである。
『なかなか楽しい撮影ですよ』
不知火はなにやら含みのある笑顔を浮かべていた。
『欲求不満になりそうですけどね』
と金子。
『反則だよな、あれは。……撮影がノッてくるとだんだんハスキーボイスになってさ』
『結構オーバーアクションで撮るんですよね。頬は火照ってくるし息は上がってるし、瞳なんかキラキラ潤んできて。でもって、イイワ、スゴクイイ、とかモット、モットオネガイ、とか。声だけ聴いてたらまるでピロートークですよ』
『で、突然ガバァッて上着脱ぐだろ。そしたら中はすっげぇビスチェ着ていて』
『あ、俺の時は胸元のこーんなに開いたキャミソールでした』
 それで、でっかい胸にクラッときた瞬間にシャッターが下りて、ハイ、オツカレサマデシターって撮影が終わるんだよな……二人はニヤニヤ思い出し笑いをしていたが、やがてビスチェとキャミソールの違いがわからずに難しい顔をしている土井垣を見ると、何を勘違いしたのか釘を刺すように、口をそろえて言った。
『でも期待したら損しますよ。あの人、なにしろ業界ではアイアンメイデンと呼ばれているんですから』
 鉄の処女?彼女バージンなのか?確か俺より年上だったろ……訝しげに尋ねると、二人とも腹を抱え、金子など涙を流さんばかりに笑い出した。
 そんなわけないでしょう、土井垣さんホントに何も知りませんね。物凄くガードが固いということですよ、撮影中はどう見たって誘ってる風なのに。実はバツイチだそうですけどね、本当に知らなかったんですか、有名な話なのに……。

 ベッドが軋み、気が付くと当の本人が隣に座っていた。ボディソープのいい匂いがしてきて、それでなくても最近ご無沙汰気味だったので、恥ずかしながら頭がクラクラするような気がした。
「ごめんなさい、待った?」
 不知火に男好きのする、と評された彼女の顔は、標準的な美人というにはやや唇が厚く、若干鼻が丸い。「あら、すっかり酔いが醒めてしまったみたい」
「本当にいいのか?アイアンメイデン、って呼ばれているような人なんだろう?だのに俺、今まであなたとほとんど話をしたこともなかったのに」
 口に出してすぐ、なんとも無粋ことを言ってしまったと後悔したが、酔いの勢いだけでこんな関係を結んでしまうことに、なんとなく罪悪感を持つようになっていたのも事実だった。

 ハイティーンの多感な時期に、集団化した女性たちの恐ろしさ鬱陶しさを嫌というほど味わわされたせいか、土井垣は未だにどうも女が苦手だった。
 だいたい、彼女たちのきり出して来る芸能や映画やヒット曲や買い物の話題に、彼はほとんどついていけなかった。たまに興味がわいたとしても、結局は自分の仕事に関連した話にしてしまい、TVでおなじみの野球人ではないプライベートの付き合いをしたい女性たちからすれば、そのような会話はひどく物足りなかっただろう。
 そんなわけで、勢いデートなども白けたものになりがちで、また彼自身も女の子と遊ぶよりは、グラウンドで汗を流すか、気の合う男同士で野球の話でもしているほうが楽しかった。
 だが今夜の、撮影の打ち合わせと承諾のお礼を兼ねた食事会は、いつもとは少し趣きが異なっていた。しばらくは土井垣の野球談義を他の多くの女性と同様、大人しく拝聴しているだけのように見えた彼女がおもむろにこう切り出したのだ。
『ピッチャーをその気にさせる方法には、被写体から欲しい表情を得るテクニックに通じているところがありますね』
 その後も、各々の職業に関する話題が続いただけだったが、土井垣は自分にとって全く無縁とも言える撮影技術の話を興味深く聞き、彼女のほうも畑違いのピッチャー操縦術に頷いていた。会話は楽しく面白く、話題は尽きず、もっと話がしたいから飲みに行きませんか、と誘ったのは彼のほうだった。そんなわけで決して下心があったからだけではない……。

 だからと言ってあんなことはホテルに入る前に言うべきことだろう。
 彼は自分の不器用さに呆れたが、華やかな人気とは裏腹に、生真面目なその私生活はとんでもなく地味なもので、恋愛映画もロクに観た事がないのに、こんな夜にふさわしい洒落た台詞など無理と言うものだった。
「私はたっぷりお話したと思うけどな。それともそんな色気のないあだで呼ばれているような女は、嫌い?」
 消極的な土井垣の気持ちを読み取ったのか、微笑みながら彼女が顔を寄せてきた。
 セミロングの髪はまだ生乾きで、バスローブのV字に開いた胸元からは、谷間がはっきりと見える。
「え、き、嫌いなんてことは……、いや、その」
 眼のやり場に困りうろたえると、誘うような微笑が明らかに面白がっているものになり、彼はますます焦った。そんな様子を興味深かそうに眺めていた彼女だったが、やがてつけっ放しのTVに顔を向ける。
「それ、面白い?」
「え。ああ。……い、いや、面白くない」
 言われてはじめてTVを見ていたことを思い出し、慌てて消した。
 参ったな、飲みなおそうか。リモコンをサイドテーブルに戻した土井垣が、救いを求めるように備え付けの冷蔵庫に眼をやった時、当たり前のようなしなやかな動きで、彼女が隣に滑り込んできた。
「もう寝ましょう。明日も練習でしょ?」
 肉感的な赤い唇は、助け舟はこれくらいでいいかしら、と言いたげだったが、むろん相手のそんな気遣いに気が付く土井垣ではない。なにやら意味不明な言語をモゴモゴとつぶやくと、坊主頭を掻きながらやたらと困っている。
 彼女は一瞬呆れたような顔つきをしたが、やがて優しい目になった。
「明かりを消しましょうね」
 突然、滑らかな白い腕が肌もあらわに、土井垣の目の前を通過した。サイドテーブルにはライトのコントロール装置があって、彼女がそれに腕を伸ばしたのだ。
 ちょうどしなやかな体が覆い被さるような具合になったので、ローブに包まれた豊かな胸のふくらみが目の前に迫る形になる。V字の奥までうかがえた。
 いくら生真面目だろうが鈍感だろうが、ここまできて何もしなければ木石というもので。
 そして土井垣は確かに生真面目で鈍感だったが健康な青年であったし、例え遊戯の恋でも計算づくで色々と駆け引きするには、あまりにも不器用過ぎた。
 ローブの華奢な背中に腕を回して、肉感的な体の割にはほっそりとくびれた腰を引き寄せると、男の固い胸板の上に突っ伏す形になり、彼女が小さく声をあげた。驚いたような声のわりには、唇の形が笑っている。
 そのまま体の向きを変えると軽々とベッドに押し付け、先に唇を重ねたのは土井垣のほうだった。

 がっちりした指先が、サイドテーブルを探る。

 ライトが消えた。

 



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