2010年のラ・カンパネラ





 開演にはまだ間があったが、演奏会場はすでに満員状態であった。
 大都市の人間が見れば公民館と間違えそうな規模ではあったが、その小さな田舎町にあっては初めての、コンサートも開ける音響設備の整った立派なホールである。
 ピアノリサイタルが行われる割には、観客は老人が目立った。こけら落し、というわけで地域住民が集まっていたのである。どこの田舎でも、高年齢化は悩みの種であった。
 しかし、演歌歌手のリサイタルのような客層に混じって、音楽関係者らしき者の姿が見られた。雑誌記者らしい者もいるようだ。

「本当に殿馬一人が来るんでしょうかね?」記者らしいのが、関係者らしい男に声をかけた。
「せっかく創立した“殿馬一人コンクール”の栄えある第1回入賞者が該当者なし、というのは、創立者本人にとっても寝覚めのいいものではないだろう。だいたい決定しなかったのは、審査員の万場一致で決まっていたのを、殿馬さんが無理に横やりを入れたせいだというしね…」
「違う曲も聴かせてくれづら、でしたっけ?誰がどう考えても、あの“悪魔の指を持つ少年”ほど相応しい者はいないと思いますがねぇ。彼はまだ14歳だが、すでに世界的なピアノ奏者と言っても過言ではありませんよ。18歳以下なら、プロアマ、演奏経験を問わず、というのが殿馬コンクールの趣旨だったはずでしょう?」
「殿馬さんは技巧よりも曲想を重視なさる方だ…。音楽関係者の間でもあの少年の評価は割れているから。リストの再来、和製アンドレ・アムランと褒め称えるものもいれば、あんな演奏はピアノの中国雑技団に過ぎない、というものまで様々だ」そこで彼は演奏会のパンフレットを開いた。「殿馬さんとしては彼の、技巧的でない部分も聞きたかったのだろう…。コンクールで彼が準備してきた曲は揃いも揃って超絶技巧の難曲ばっかりだったからなぁ。それを考えると、今日の曲目は彼の違った側面が聴けそうで楽しみだよ。…見た前、これを」
 記者はパンフレットの文字を見るなり、吹き出した。「エリーゼのために?乙女の祈り!おまけにさんぽってトトロのですか、アニメの!!こんな田舎の素人聴衆にはちょうどいのかもしれませんが、…“悪魔の指を持つ少年”ですよ!なんともったいないことを…まったく贅沢なこけら落しだ。しかしまぁ、なんだってあの世界的に注目されている少年が、こんなド田舎のちっぽけなホールの落成記念コンサートなんかに…」
「町の関係者に身内がいらっしゃるそうよ」通路を歩いてきた女性が声をかけてきた。
 あ、これは〇〇社の……記者は言うと、彼女に隣の席が空いている旨を伝えた。女性が礼をいいながら座る。
「本当に残念だわ、なんなの、この選曲!お得意のイスラメイもブラームスのパガニーニ変奏曲も入ってないじゃない!今日こそ“最速のラ・カンパネラ”が聴けると思ったのに!!」
「心配しなくてもショパンの超難曲が最後に入ってますよ…それにラ・カンパネラならアンコールで聴けるんじゃないかな、素人でも知っている曲だからね。…あっ」

 ホールの入り口あたりが騒がしくなった。人垣の中にやっと小柄な人物が見え隠れするのが見える。
「いやねぇ、殿馬選手、サインください、ですって」女性記者が軽蔑したようにいった。「ここのお客さん、オリックスの殿馬選手しか知らないみたい。コンサート・ホールなのに」
「あれもあの人のもう一つの顔さ…あっちの顔はそろそろ引退してもらいたいものだが、クラッシック業界としてはね…失礼、挨拶してくるよ」音楽関係者らしい男は、座席を立つと通路を歩いていった。

「例の殿馬一人コンクールの1件、ね…」女性記者がささやいた。「こんな噂聴いたわよ。殿馬さんはあの少年に嫉妬していらっしゃる、って」
「まさか…技巧なら殿馬さんだって負けていない。ピアノを上手く歌わせることにかけてはあの人の右に出るものは…」
「そのために指を作ったのも有名な話しよね。……だから、殿馬さんはあの子が面白くないのよ。さほど大柄でもないのに12度に届く大きな手、強靭な手首、右手の親指も左手の小指も同じフォルテシシモを奏でられる力強い指。たった14歳でよ……そりゃ練習量も凄いでしょうけど、天賦のもののほうが大きいんじゃないかしら。だいたいピアノ始めたの6歳からで、始めは家にピアノがなかったって言うじゃないの。…誰が聴いても面白くはない話しだわ」

 女性の視線の先には、殿馬一人がいつもと変わらぬふうでサインをしていた。そのひょうひょうとした風貌からは、どう見てもそのような思惑が渦巻いているとは思えなかった。

 
 
 
「父さん、やっぱり間に合わないかな」
 開演20分前の控え室。すでにリハーサルは終り、後は開演のベルが鳴るのを待つばかりである。
「皮肉ね。せっかく聡くんが初めて家族の住む町で演奏をするというのに…よりによって東京でお仕事なんて」
「でも先生…母さんも毅も美香も祖父ちゃんも祖母ちゃんも来てくれるって。父さんにはビデオを見せればいいよ、叔父さんが撮ってくれるそうだから」 

 先生、と呼ばれた女性は、鏡の中のあどけなさの残る顔を見つめた。正装しているものの、親戚の結婚式に招かれた男の子、という感じである。彼が“悪魔の指を持つ少年”などと呼ばれていると、一見しただけで誰が信じるだろうか。体の割には不釣合いなほどに大きい手を見たって、わからないかもしれない。もう14歳だが、小学生に間違われかねない容姿だった。

「ご家族の顔を見てくる?…お祖父さまやお祖母さまとはずいぶん久しぶりでしょう?」

 未だに先生と呼ばれていることには、いつも軽い違和感を覚える。この天才少年を見出したのは確かに自分だが、もう自分が教えられることなど久しい以前になくなってしまった。今の自分は彼のマネージャーであり、相応しい練習環境を整えている者に過ぎない。
 それに彼の家族の話しとなると…彼女は胸にやましいものを感じずにはいられなかった。

 そもそも聡の生家はピアノが習えるほど裕福ではなかった。ピアノを弾くきっかけになったのも、たまたま彼女の息子が自宅のピアノ教室に聡を連れてきたからであり、音感と力強い大きな手に惚れ込んだ彼女が渋る両親を説得したのだった。
 本当はこの子には野球をやらせたかったのですが…息子とよく似た手を持つ父親は、少し残念そうだったが、了承してくれた。聡のほうと言えば、僕、殿馬さんみたいな野球選手になるんだ…と屈託なかった。
 それから3年後、少年の父は東京に見切りをつけ、故郷で就職することになった。温泉を掘削するという話しだった。弟の毅がぜん息だったこともあり、家族共々帰郷するということになったとき…。
『僕は殿馬さんみたいなピアニストになりたい』
 聡はその時から、家族と離れ離れに暮らしている。

「先生…。先生?」
「……あら、なに?」何時の間にか物思いにふけってしまっていた彼女は、はっとして顔を上げた。
「先生…、本当に今日の演奏…リハみたいなのでいいでしょうか?」
 こんなに不安げな聡を見るのは初めてだった。
 彼の人並み外れた指は、超絶技巧を可能にした。演奏会場の雰囲気を読むのに長けていた彼は、いつしか周囲の求めるままに、技巧を駆使した、アクロバティックな演奏を得意とするピアニストになっていた。
 しかし尊敬する殿馬一人の主催するコンクールに漏れたとき…しかも殿馬ひとりが入賞に難色を示したと聴いた頃から、彼はひどく悩んでいるようだった。今まで何も考える事なく、弾くことのみ楽しんでいるように見えた彼が。

「あの演奏…先生は好きだわ」
 今までは玄人の、マニア向けの演奏ばかりだった。今日のような客層相手にピアノを弾くなど、彼にとっては初めてなのだ。…これまで彼に良かれと選んできた道が、逆に演奏の幅を狭めることになっていたのではないかと彼女は初めて気がついた。

「今日のお客さんは素人ばかりだし…簡単なわかりやすい曲ばっかりだし…僕の技巧を聴きに来ている人はほんの一握りだ」少年は自分に言い聞かせるように言った。「みんな僕を聴きにきているんじゃない。みんな曲の解釈とか、パッセージの鳴らし方とかを聴きにきているんじゃない。みんなきれいな曲を聴いて、いい気分になりたいから来ているんだ。…ラ・カンパネラをストップウオッチ片手に聴いているんじゃない。そうですよね、先生」
「ええ、そうよ」
「殿馬さんだって、アルカンやブゾーニを弾かない僕も、僕だと認めてくれますよね?」
「もちろん」
 先ほどまで鏡の中の自分に話し掛けていた少年は、顔を上げると、
「先生。…僕、今日は父さんにもちゃんとわかる演奏をしたいんだ」
「お父様に?」あのような結果に終った殿馬一人コンクールの後、東京で父子は久しぶりに対面していた。思えばそれからだ、少年が物思いにふけるようになったのは。
「父さんに…お前の弾く曲はよぐわがんねぇ、って言われたんです。おらぁは難しい音楽のことはよぐわがんねぇ、眠くなるって」少年は、伏目勝ちである。「…今日の演奏ではそんなこと言わせない。終わりまで全部聴かせてやるんだ」やがて、きっぱりと顔をあげた。

「そろそろ行こうよ、先生」

 
 
 
「いやぁ、素晴らしかったですな、このバラード第4番は!」激しく両手を打ち鳴らしながら、例の音楽関係者は何時の間にか殿馬の隣の座席に陣取っていた。「今まで彼が引いたショパンの中では最高の出来でしたよ…誰でしょうね、彼は技巧のみの演奏家だ、なんて言っていたのは」
「全員づら」
 拍手が止み、引き続いて花束贈呈が行われる。
 聡や!花束を抱えよろよろ進んできた老婆が壇上に向かって叫んだ。お祖母ちゃん…少年ピアニストの口唇がそう動いている。なんとも微笑ましいコンサートである。
 ふいに後方の出入り口付近がざわめいた。
 兄ちゃん、父ちゃんが来た!!子供の声が響く。
 現れた中年の小柄な男は、回りに引っ張られるように最前列までやってきた。何時の間にか花束まで持たされている。よう間に合ったな!早く花束を渡しっせぇ!町内全員知り合いのようなところで行われた演奏会は、ますますホームコンサートの様相を呈してきた。
「聡…遅れてすまねぇ」
「大丈夫さ、父さん。まだアンコールがあるよ」
 二言三言言葉を交わすと、花束を渡し終えた父親は振りかえった。どこに座ったものか思案顔である。殿馬が手招きをすると、少年の父の顔は、懐かしさで輝いた。

「殿馬くん!…久しぶりだべ」座席につきながら、小声で言った。
「元気そうで何よりづら…温泉湧いておめでとうづらぜ」
「ああ。炭坑が閉山して一時は寂れてしまったこの町も、観光地として甦りそうだべ」
「いわき東高校も復活するといいづらな」殿馬の声の調子も、いつになく熱っぽい。
「あの…殿馬さんと聡くんのお父さん、お知り合いなのですか?」音楽関係者が口を挟んだ。
「フォークの緒方を知らねぇづらか?おれが1年の、夏の甲子園の準優勝校、いわき東のエース緒方勉づら」
「ああっすみません…私、野球はあまり詳しくなくて…」
「シッ!アンコールが始まるづら」

 緒方は壇上の息子を、誇らしい気持ちで眺めた。演奏している曲は何か知らなかったが、美しかった…とても複雑な曲だったが。同じ年頃の自分とうりふたつだという息子。ヒザの上で組んだ自分の手にふと目を落した。
 あの子が生まれた時。勉が赤ん坊の時と同じでっけえ手だ、という母の言葉に、自分の果たせなかったプロ野球選手になるという夢を、この子に託そうと思った。
 顔を上げ再び、ピアノに向かっている息子に目をやった。本当におらにそっくりだや。きっと体質も骨格もなにもかも受け継いでいるに違いない。やっぱりおめぇはピアニストになって正解だや…プロ野球選手は無理だ。
 かつてプロ入りで揺れていた頃、同郷だからと特別に目をかけてくれたスカウトマンがいた。その彼がある日、緒方にすまなそうに言った。ウチの球団では、お前はとらないことにした、と。そして目を伏せると言った。お前のような骨格で5年以上プロで投手を続けられた者を見たことがない。肩の関節がゆる過ぎる…野球を職業にできる体ではない。申し訳ないが、そう言うことなんだ。最初は耳を疑ったが、言葉を選びつつ、とつとつと語る姿に、話しが終る頃には納得していた。

 演奏が終り、拍手が響く。

 おめぇの音楽の才能は、母ちゃんのほうからだ。民謡やら三味線やら、おめぇの母ちゃんの家は音楽一家だがら。手が痛くなるほど拍手をしながら、緒方は思った。
 もう一度、自分の手を見る。両親がくれた人並み外れた指は、甲子園という夢を見せてくれた。そして、息子は今、ピアノを弾いている。
「なぁ殿馬くん」
「づら?」
「こんな手だと、ピアノは弾きやすいんか?」殿馬の顔の前で手を振って見せる。
「……おめぇも不知火も、野球やってるのが勿体ねぇづら」少し羨ましそうな響きがあった。

 アンコールの2曲目が始まった。この曲知っている…。こだまが響きあうような特徴的な出だしに、緒方は口の中でつぶやいた。

 件の女性記者は思わず腕時計に目をやった。「なーんだ、今日は最速じゃないのね。ちょっと早いぐらい?」
「君はそんなことしか気にならないの?」…やれやれ…。隣の男性記者は、彼女を無視して音楽に集中する。
 正直、緒方聡はあまり好きな演奏家ではなかったが。こういう演奏もできるのか。これでも入賞を認められなかったら、殿馬さんの嫉妬は明らかだな。技巧を押えた緒方もいいものだ…彼は演奏に引き込まれ、もうあれこれ考えずに心地よいフレーズに耳を傾けた。

 最後の音色が消えていくと、会場は拍手の渦に包まれた。少年は立ち上がると、頭を下げる。
 ブラボー!!件の音楽関係者が立ちあがって叫んだ。
 回りの素人聴衆もつられて立ち上がり、拍手はますます激しくなる。
「おらの息子は、本当に素晴らしいピアノを弾くだやなぁ!」手を叩きながら緒方勉は、まだ演奏の余韻に浸っているらしく、少々興奮気味である。
「づら。おめぇの息子はたいしたもんづらぜ。…これでやっと入賞者が決定したづら」
 殿馬は至極、満足気に言った。


 
 
 





 管理人はピアノ経験は赤バイエル程度、クラシックの造詣も深くないです(汗)
バレバレなベタな展開ですが、掲示板への感想カキコは、ネタバレにご注意下さいませ(お願いいたします)。

ラ・カンパネラは「MIDI LAND」さんのページ で聞けます、こちらをどうぞ。





 

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