――参ったな、こんなつもりではなかったのに。誰か来たって、離れられないぞ――
つい先日のライオンズ対ホークス開幕戦。思わぬ犬飼小次郎の予告先発にすぐにでも連絡を取りたかった土井垣だが、この二年間のことを思うと結果を見届けてからのほうがよいだろうと判断した。
再起不能、絶望と噂されていたこの間、小次郎から直接連絡のあったことはほとんどなかった。そのプライドの高さを考えてみても、無意味な励ましや同情など必要としていないのは見て取れたので、土井垣も無理に連絡をとろうとは思わなかった。
肩の故障が完治し、『以前と変わらぬ』状態に戻るまでは俺と会いたくはないだろう。ひょっとして治らなければ、俺は友を永遠に失うことになるかもしれない……『嫌な予感』は思ったよりも土井垣を怯えさせ、小次郎の『ただの友人としてはかなり常軌を逸した行動』に困惑していた自分ではなかったのかと彼を悩ませた。
特に一年前、山田ら後輩たちが続々とプロ入りしてきて、昔馴染みが増えていくと、そこによく見知った『ライバル』がいないことを、土井垣はこっそり哀しんだ。もちろんバッテリーを組むことになった不知火の前ではそのようなことはおくびにも出さなかったのであるが。
小次郎が福岡ドームで山田と対決していた頃、土井垣も不知火とともに大阪で開幕戦を迎えていた。『ライバル』が好投している、という情報は土井垣を奮い立たせ、好守好打で不知火の完封勝利に多いに貢献できた。
やっぱり、お前がいないと張り合いがないぜ……不知火と肩を抱き合い勝利を祝いながら、ちらりと小次郎のことを考えていた土井垣は、それ故彼の負傷を誰よりも残念がった。側にいた不知火が訝しく思うほどに。
すぐさま連絡をしようかと思ったが、やはり復帰して、それこそ球場で再会したほうがやつも嬉しいだろう、と判断した土井垣であった。肋骨にヒビが入ったものの選手生命にかかわる重症ではないとの話しであったし、何より肩には影響のない怪我であった。
しかし次の福岡ドーム戦で博多に来て見れば、小次郎に会いたい気持ちを押えることは難しかった。
少し脅かしてやるのも悪くないだろう、だいたい例の再起不能と言われた時なんか俺にはなんの連絡もなく、ずいぶん心配させられたのだからな。……土井垣はいきなり小次郎の入院する病院に押しかける事にした。おそらく苦虫を噛み潰したような嫌な顔で出迎えられるだろうが。
案の定、無精ひげを伸ばし、個室のベッドに横たわった小次郎が土井垣の顔を見て発した第一声は、
「何しに来やがった」
であったが、その顔は再会を喜び、笑顔だった。
小次郎との会話は、空白の二年間の話題よりも、今現在とこれからが話題の中心で、土井垣は彼の肩の故障からの完全な復活と、今回の負傷が大した事ではなかったことを実感し、安堵した。なんと言ってもまずは野球から始まる二人である。
「もういつだって退院できるんだがな」小次郎は退屈そうだった。「まったく、王さんもフロントも、俺を武蔵みたいなデブにする気かよ」見舞い客も減り、暇を持て余しているらしい。
「太ったらお前、武蔵に似てるんだろうか……あいつは目がくりっとしていて愛嬌があるが、お前は目が細くなりそうだな、目つきの悪いデブだ」土井垣は小次郎の太った姿を想像して笑い声をあげた。「お前ら三兄弟では武蔵が一番可愛らしいな」
「知三郎じゃねぇのかよ?デブ専か、お前は」
土井垣は小次郎を殴る真似をした。「ばかやろ!確かに知三郎は一番やさ男だが……甲子園で山田と対決している時の写真を見たことがあるんだが、お前に負けない鋭い目つきだったぜ、あれは。見た目ほど柔なやつではないようだな」
天然野郎だが、相変わらず野球にかかわる洞察は鋭い……小次郎が何か言おうと口を開いた時だった。
「失礼します」個室の扉の開く音。「犬飼さん、お食事済みましたか?」妙齢の女性の声がする。
きびきびした足取りで入ってきた看護婦は、しかし、小次郎が一人でないのに何故か残念そうな顔つきになったが、土井垣がファンサービス用の笑顔で会釈すると、すぐに相好を崩した。食事を下げるなどさっさと済む用事だのに、わざとらしく茶碗の位置など直したりしながらぐずぐずしている。しかしながらせっかく重ねた皿がすぐに崩れるのは、見舞い客の顔ばかり眺めて手元がおろそかになっている証拠だった。
「あ、あの……野球選手でいっらしゃるんでしょうか?」その特徴的な髪型や逞しい体型で小次郎の同業者、と踏んだものの、あまり野球に詳しくないのか、東京の球団の選手など知らないのか、「ホークスの選手なんですかぁ?」
「日本ハムファイターズの土井垣将だよ!」小次郎が不機嫌に返答した。
ただ食事を下げに来ただけなのに、サインどうしようなどと看護婦は20分近く病室に居座り、しまいに小次郎が、長居するとまた婦長さんに叱られるぜ、と釘を刺してやっと病室を出ていく気になったらしい。
「今から人に聞かれたくない大事な話しがあるから、ナーステーションで土井垣が来ているなんて騒ぐなよ」後姿に小次郎が呼びかけると、白衣が肩をすくめた。
扉の閉まる音が聞え、足音が廊下を過ぎ去って行く。
「ちっ、尻軽め……お前の顔、じろじろ見ていたなぁ」
「まさか小次郎、引っ掛けたんじゃないだろうな?」土井垣は気軽に言ったが、看護婦と小次郎の間には、何とも言えぬ馴れ馴れしさがあった。
「……俺が引っ掛けられたんだよ」澄ました顔でヌケヌケと言う。
「うそつけ、手の早さは相変わらずだな、怪我人のクセに……まぁ怪我はしてるは病室だはでは大したことはできんな、お楽しみはこれからか」
小次郎は何も言わない。ただ黙って含み笑いをするだけだった。
「なんだよ、いやらしい笑顔だな……まさか、小次郎?……いや、あばらにヒビいれて入院しているやつが……」
「悪かったのは肋骨だけで、あとは元気なもんだ」
土井垣は思わず病室を眺めまわした。球団から指示かあったのか、病院で最も快適な個室だったがそれでも病室のことゆえ鍵はないし、衝立などで扉を開ければ廊下から即ベッドが丸見えなどということがないような工夫はされているものの、ホテルほどのプライバシーが整っているわけではない。「俺はとてもじゃないがこんなところでは……誰か入ってきたら、一体どう取り繕う気だ?」土井垣は信じられない、といった調子だ。
「スリル満点だぜ……どうだ?」小次郎は飽きれている土井垣の顔を見て、ニヤリと笑った。
「ば、馬鹿言え、誰が……」慌てて顔を背ける。
まったく、こいつの病気はちっとも変わっていない……溜息をつきながらも、どこか懐かしさと温もりを感じた自分に、土井垣は驚いた。
「どぎまぎしやがってよ……その様子だとお前、相変わらず童貞なんだろ?」
「う、うるさい!そんなことあるか!」
土井垣がしまったと口を押えた時には、小次郎の顔は驚愕に歪んでいた。
「マ……マジか?!嘘だろ?そんな、お前……俺の知らんうちに!!」
「知らんうちにってお前に報告せにゃならんことか!……だいたい二年も放ったらかしで音信不通だったくせに、そんなこと言えた義理かよ」
自分の言葉の語尾が妙に苦々しげになったのに、土井垣のほうが戸惑う。
「寂しかったのか」小次郎は下卑た笑いを浮かべたが急に暗い目つきになる。「まさか百六十qルーキーじゃねぇだろうな?」
「何だと?……ばかやろう!なんで俺が不知火にそんな……あんなことあいつにできるか!第一俺よりでかいんだぞ、ぶん殴られる」
「お前がやつをやったなんて思っちゃいねぇよ……」小次郎はしばらく探るように土井垣を観察していたがやがて微笑むと、「じゃあ女か。……大方中西さんにでもつれていかれたんだろう?」
「ふん」
「週刊誌にもスポーツ新聞にも、その手の記事でお前が出ていることなんかなかったが……中が出てたな、この前……中西さんなら遊び上手だし心配ないだろ。しかし!」小次郎はそこで言葉を切ると険しい顔つきになった。「二人きりで旅行に行くとかは、絶対によせよ!」
「お前が中西さんのことをどうしてそんなに気にするのかさっぱりわからん、とってもいい人なのに……その……とにかくだ!俺はもう何もわからん子供じゃない。だから、お前が仕掛けてくるような……ああいうことは迷惑だから……」
やめてくれ。
と。どうしてはっきり言わなかったのか。俺はそんな趣味じゃないと、どうしてはっきり言えなかったのか。経験して、やっぱり抱かれるより抱いたほうが俺らしいとはっきり確認したはずだった。小次郎が復帰して再会することがあったら、またそんなことになる前に、いつかきちんと言っておこうと思っていたのに。
……やっと逢えたばかりで、そんな話しはなんだから。小次郎が、寂しそうな顔をしたから。そのうちに、きっと話す。きっと……ずっと嬉しそうだった小次郎の顔から一瞬笑顔が消えたのに奇妙な喜びを感じてしまった土井垣は、また笑顔を取り繕った強情な面差しから無理やり目を逸らし、手の爪など見ているフリをした。
「……女はいいか?」小次郎は愉快そうにつぶやいたが、声の調子は苦かった。
「当たり前だ。……お前も大好きだろうが」
「俺は、お前も好きだぜ」どうでもいいようなぞんざいな口調だった。
「やっぱりお前は理解できん。あんな白くてすべすべした柔らかい生き物とこんないかつい俺をいっしょくたにできるなんてな」
「お前は白くてすべすべしているぜ?……まぁ俺はお前がそんなんだから好きなんじゃない」相変わらず面白がっているような調子で。
「じゃあ、何故だ?」土井垣は心底不思議そうな顔をすると顔を上げ、じっと小次郎を見た。
「それは……」小次郎の喉が動くのが見えた。ふざけた雰囲気が消え、顔つきが真面目にる。熱い眼差しが土井垣を捕らえた。
まれに……極まれにだが、小次郎が同じような目つきで土井垣を見ていることがある。たいてい彼が気づくと、いっぺんにいつもの自信たっぷりな表情に戻ってしまうのだが。
「何故だ」表情が気になって、土井垣は畳みかけた。
「…………」小次郎は唇を噛んだ。ふいに、深く息を吸い込む。「それは、な」かすれた、弱々しい声に、らしくない生真面目な表情。土井垣は小さく笑ってしまった。
とたんに小次郎の瞳から熱っぽさが消え、人を小馬鹿にした顔つきになった。
「わかんねぇのはお前が素人童貞だからだ」
「なんだ、それは?」
「真顔でそんなマヌケな質問するようなやつのことさ!」
「マヌケだと!!」
「そうさ……今まで本気で人に惚れたことなんかないんだろうが」ふざけた声の調子とは裏腹に、小次郎は深い溜息をついた。
「そんなことはない」土井垣は大真面目に反論した。
「ああ……そんなことはないんだろうな」しかしどうでもいい、と言った感じだった。「なぁるほど、俺の知らないところで土井垣くんは大人になっちまったわけか……で、どうなんだ?キスの一つぐらい、上手くなったのか」
お前の手のうちは読めてるぜ。……土井垣は思った。そうやって俺をムキにならせて、そのうち、確かめてやろうとかなんとか言ってキスに持ち込んで、その後は……こんなところでまさか、とも思ったが、看護婦との前科のあるらしい小次郎のことだからわからない。よくこんな、鍵もかからないようなところで。……俺は、冗談じゃない。
「なんとか言えよ、おい」
「ああ、上手くなったさ」土井垣は白々しく答えた。「だけど小次郎先生の足元にも及ばんよ」お前は俺の友人だ。だから、キスなんかしない、もちろんそれ以上のことも。ずっと、そう決めていた。お前がいないあいだに、そうすることに決めたんだ。
土井垣の思いがけない反応を小次郎は以外に思ったらしい。少し逡巡した後で、「……診断してやろうか?」
「いや、小次郎先生の診断には及ばんよ。俺は下手過ぎて話しにならん、先生の口の汚れにしかならんさ」そういうと土井垣はわざとらしい下卑た笑顔を見せた。
笑って誤魔化す……二年前にはついぞ見せたことのない大人の振るまいだった。セクシーな雰囲気をぶち壊しにするには笑いが一番だと、一体いつどこで学習したのだろう。
「だいぶ忘れちまったぜ……この二年は坊さんみたいに過したからな」口は戯れ事を言ってはいるが、目つきは何か考え込んでいるのかぼんやりとしていた。
「お前が坊さん?それはないだろう」土井垣は相変わらず微笑んでいた。「看護婦と楽しんでいたくせに……俺も入院するかな」上手くいった。もう、俺はお前に振りまわされるだけの子供じゃない……してやったりと得意になっていいはずなのに、この寂しさはなんだ?土井垣は小次郎の様子を盗み見た。体つきはむしろがっしりと逞しくなったように感じる。表情が以前よりも穏やかに見えるのは、絶望を経験したからだろうか。
以前のお前なら。……今頃、笑いながら俺の唇を奪っていたはず……。
気がつくと、小次郎が自分を見ているのに気づいた。唇を。二人の間に一瞬緊張が走ったが、小次郎は目を伏せてしまった。
「そろそろ帰るかな。面会時間、何時までだろう」
俺もお前も変わってしまった、ということだな。土井垣はリノリウムの白っぽい床を見ながら思った。たぶん、良い意味で変わったんだろう。これで良かったんだ。俺たちは友人同士……そう、ただの友人同士なんだ。
胸が苦しくなった。何かがつかえているかのように。呼吸の乱れを小次郎に悟られるのではないかと恐ろしくなった。そもそもなんでこんなに気持ちが乱れる?望んでいた通りの筋書きだろうが。
「七時半だったかな……まぁ、あんまり厳しくないぜ、ここは。昨日岩鬼のやつなんざ十時半までいやがった……九時半が消灯なんだが、あいつトイレに行っててさ。あ、別に帰るな、って言ってんじゃないぜ。明日はマスク被るんだろ?」
以前のお前なら。明日の試合などお構いなく、俺を抱いた。
突然そんなことを思い出した自分を、土井垣は訝しく思った。昔みたいに、無理やりベッドに引きずりこまれたいのか?
腰の奥のほうで熱い衝動がこみ上げてくるような気がして、土井垣はうろたえた。そんなはずはない。俺は小次郎のことは好きだが、あんな関係は厭だった。無知と初心さにつけこまれていただけだ。悪習は断たねばならない。
「ああ……。今日はすまなかったな、無理やり押かけて、長居して」いつのまにか、そう話している自分がいた。
「いいってことよ。暇を持て余していたところだからな。……またいつでも来い」握手を求めるように、小次郎は左手を伸ばした。
土井垣は一瞬ためらったが右手を伸ばした。
がっちりと握手。
色々と器用な左手だった……重なる手と手をぼんやり眺めながら、口には出せないことを思いついた自分を土井垣はこっそり叱りつける。
顔を上げると小次郎があの、熱い眼差しで見つめていた。自分の心臓の鼓動が早まるのが小次郎に伝わるのではないかと怖れるように、土井垣はその気はなかったのだが微かに握手の力を緩めた。
小次郎は力なく微笑むと、手を離した。「今度は球場かな?」
「そうだな……」土井垣は曖昧に語尾を濁すと、立ちあがった。「じゃあな」
「またな」
土井垣は微笑み振り返ると、やがて後姿が衝立の向こうに消えた。扉の開く音、そして閉まる音に続き、廊下を歩く音が響いた。
小次郎の深い溜息が、土井垣に聞えるはずもなかった。
看護婦や、患者らしいパジャマ姿の人々が行き交う廊下を、土井垣はエレベーターに向かって歩いていた。胸の中が苦かったが、これでいいんだ、と言い聞かせる。
あいつめ、やけに紳士的になったもんだ。土井垣は一人ごちた。それをひどく残念がっている自分には目をつぶる。
エレベーターの前で立ち止まり、下りのボタンを押す。込んでいる時間帯なのか、降りるのにはだいぶ時間がかかりそうだ。腕組みなどしながら階を示す数字の明りを眺める。
俺に……いや、俺の体に興味がなくなった、ということだろう。土井垣は思った。趣味が正常になったのか、他に誰かが……その考えは刺のように心に突き刺さり、思わぬ激しい痛みに面食らうほどだった。
一体俺はどうしたんだ。あいつに会うまでは、こんなこと思いもよらなかったのに。あんな奇妙な関係さえなければ、俺とあいつは普通の友人同士に戻れるはずだ。……戻れる?あいつと普通の友人同士だった頃……あいつはいつも俺を戸惑わせた。四角四面な考え方しか出来ない俺に、いろんな考え方を示してくれたのがあいつだった。あの奇妙な行為もその一つだった?……違う、違う、あんなものなくても俺たちは……。
一たん上まで上がってしまっていたエレベーターが、また降りて来た様だ。ほとんど各階止まりで、なかなかやってこない。
今度あったらどんな話しが出来るだろう。……岩鬼のことでも聞いてみるか。まぁ高校時代とさほど変わらんやつだが。あいつは不知火のことを聴いてくるかな、やっぱり。嫉妬しているみたいだった……仕方ないだろ、バッテリーなんだぜ……あいつが妬いていると思うと、何故こんなに胸が熱くなる?……何故だ?
今度あったら。また、さっきのように。お互いの腹を探り合って会話を交わすのだろうか、俺たちは……。
目は並んでいる数字に明りが点灯するのを眺めていたが、頭にはぜんぜん入っていなかった。だからふいに目の前の扉が開いて、数人の乗客が一斉にこちらを見たときも、土井垣は自分が何の目的でそこに立っていたのかわからないくらいだった。
「ああ、すみません……上に、行きます」
エレベーターの扉は目の前で静かに閉まった。再び数下がりに数字が点灯していくのを三階ぶんほどぼんやり数えた後で、土井垣はもと来た廊下を戻り始めた。
TVや映画を眺めているように、妙に現実感に乏しい人々が行き交っている。
急ぎ足で過ぎて行く看護婦も。白衣をひらめかした医者も。ゆっくりした足取りの入院患者も。私服は自分と同じように、面会に訪れた人だろうか。そう言えば今は何時だろう……。
『犬飼小次郎』とプレートに書かれている扉の前に立って初めて、どうして自分が再びこの前に立っているのだろうといぶかしく思った。
何しにきやがった……出会いがしらの小次郎のセリフを思い出す。まったく。俺は何しに戻ったんだ?あいつは……看護婦とよろしくやっているよ。俺だってよろしくやってきたんだ、あいつのいない間は。
看護婦が、扉の前で立ち尽くしいつまでも入ろうとしない土井垣を、胡散臭そうな目で眺めながら通り過ぎる。
右手が勝手に扉を開けたので、土井垣は室内に体を滑り込ませた。
扉を開ける音は小次郎に聞えただろう。このまま立ち尽くすわけにはいかない。再び廊下に逃げ出すか?逃げるって何から?あいつから。
あいつが、恐ろしかった。俺を混乱させるから。……混乱する俺が、恐ろしかった。どうして普通の友人とあいつは違うんだ?どうして俺は混乱し、戸惑い、うろたえてしまうんだ。あいつに逢うと。
それは。たぶん。
奥へ進むと、衝立の向こうに驚いたような顔つきをした小次郎がいた。
「……何しに来やがった」
俺は何しに来たんだろう?
「忘れ物だ」
土井垣はベッドに座る小次郎の側らに近付くと、上体を曲げ、唇を寄せた。
目は開けたままで、あっけにとられた表情の小次郎を見ていた。
驚いて目を見開き、ぼんやり口を開けたまま固まってしまった小次郎が可笑しくて、舌先を口内に差し入れてみる。
あいつはニヤリと笑ってここぞとばかりに自分の舌先で探ってくるだろう。俺の体をいやらしく触ってくるだろう。そうしたらいつものようにあいつを罵倒して、病室を飛び出してやろうか?それとも、いつものようにあいつのなすがままに?……お前次第だ、小次郎。
豆鉄砲を食らった鳩のようだった小次郎の目つきが、あの熱っぽい眼差しに変わった。
土井垣は少し緊張した。
しかし小次郎は舌も絡めてこず、微笑むような優しい顔つきをした後で、目を閉じた。
こんな時に。目を閉じるあいつなんて。そんなこと今まで、なかったじゃないか。
ずるいぞ。……土井垣は小次郎の閉じた瞼、密生した濃い睫毛、太い眉、少し繋がりかけた眉間など眺めると目を閉じ、そのがっしりした肩に手を回した。やがて背中に小次郎の腕が回り、舌を絡めてくる。
――参ったな、こんなつもりではなかったのに。誰か来たって、離れられないぞ――
面会時間が終了しました……何処かで館内放送の音が聞えたような気がしたが、小次郎も土井垣も、お互いの腕を緩めなかった。
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あの小次郎復活戦の後、小次郎さんが入院したという描写は、原作の何処にも出てきません(汗)。 戻 |