ガール・フレンド





 外は、朝から小雨が降り続いている。犬飼小次郎はソファから灰色に曇った空を眺めた。しかし、それでも明日は試合だ。日ハムとの3連戦…今日は移動日である。
『雨で順延、とかあればあいつと過ごす時間も増えるのに』時々ドームが恨めしくなる。
『土井垣のヤツ、もうついたかな』一人暮しも馴れたつもりだったが、こんな気晴らしもままならぬような天気の日は苦手だった。
 さらにこんなジトジトした天気は、あの忌まわしい日のことを思い出させた。『肩の違和感』が紛れもない肩の激痛、『肩の故障』に変わった日。
 それまで、連投の後に軽い違和感を感じたことはあっても、怪我や故障知らずだった小次郎は、突然の体の異変に、なすすべがなかった。再起不能と言われ、自分でも野球が出来なくなるのでは、と恐怖に苛まれ続けたあの2年間。
 それはこんな、嫌な天気の日から始まった。今でも天候の悪いときは、肩に違和感を感じる。医者やトレーナーは気のせいだと言うが、本当の所はわからない。たとえドームであっても、変な天気の日は、あまり投げたくないのが本音だ。
 小次郎は左腕をそろりと後に引いてみた。あの日は体に激痛が走ったが…おそるおそる動かしてみると、やはり違和感を感じる。雨の日だけの感覚だ。だが、後々まで後を引くなんてことは、ない。…あってはならない。
 雨ごときに怯えるなんざ、俺も変わっちまったもんだ…。思わず溜息が漏れた。
 こんな日は自分が情けなくなる。いつも元気な岩鬼とでもつるんでみるか。でも、あいつはデリカシーってもんにかけてるからなぁ。まぁ、昔の故障知らずの俺もきっとそうだったのだろう。今日はガキみたく騒ぎたい気分じゃねぇ…。
『土井垣よ…』あの、以前と変わらぬ様を見ていると…昔の自分に戻れるような気がする。
 きさま、本当は寂しがりなんだろう…ふと、いつかの、アイツの言葉を思い出した。ふん、大きなお世話だ。……

 不意に、インターホンが鳴った。待ち構えていたかのように急いで受話器をつかんでしまう自分に、微苦笑が漏れる。
『小次郎…』女の声。
「なんだ、お前か」少し、失望。「福岡になんか、珍しいな。取材か?」
『…そんなとこかしら。今、…いい?』
「…どうかしたのか、声の調子がヘンだぞ?…まぁ上がれ」
『悪いね』オートロックを解除してやる。
 一人暮しの男の部屋は、お世辞にも掃除が行き届いているとは言えなかった。しかし小次郎は頓着しない。そんなことには無頓着な女だし、そもそも気を使う相手でもない。
 村枝茂登子。スポーツライター。フリーになってもう7年は経つだろう。初めてあった頃はまだスポーツ新聞の記者だった…。3歳年上の数年来の友人、女性週刊誌ならば腐れ縁の元彼女とでも書くのだろうか…そう言えば1ヶ月間くらい、彼女だったこともあったな…お互い、化けの皮が剥がれるまでだったが。
 再びインターホン。
 扉を開けた小次郎は、驚いた。「村枝……どうしたんだよ」
 微笑む茂登子は濡れ鼠で立っていた。足元に水溜りを作りながら。

 
 派手に軋んでいたベッドの揺れが、ようやく収まる。しばらくして、ベッドサイドのあたりをマニキュアっ気のない指が探りはじめた。実のところ、このベッドを軋ませた相手で素っ気無い指の持ち主は彼女以外はもう一人ぐらいしかいなかったが。
「灰皿…あ、そうか。やめたんだっけ…」茂登子はベッドの上に置きあがった。このベッドで小次郎に逢うのは、久しぶりだ。
「完全禁煙したからな…何かかわりのもん持ってきてやろうか?」
「いいよ…副流煙はもっと体に悪い…うう、でも一汗書いた後の一服ってこたえられないのよね…ベランダで蛍になってくる」茂登子は全裸のまま立ちあがる。均整のとれたすらりとした後姿。少し太めのふくらはぎと、斜めを向くとちらりと見える大き目の乳房が小次郎の眼を楽しませた。『顔は個性が勝ち過ぎているんだけどな』
「おい、素っ裸でベランダに出る気かよ?…風呂場にバスローブかかってるぜ」
 茂登子はバスルームに消えるとローブを羽織って現れた。白地に青いライオンの刺繍。
「メンズとレディスがご丁寧に。ホテル並ね。…で、おまけにリッツホテル御用達の品、か」茂登子はへちま襟を摘む。「これ、高いわよ…どこのママ?プレゼントしてくれたの」
「まだブン屋根性が抜けねえのかよ。…秋桜、だったかな?」
茂登子は愉快そうに笑った。「…あそこのママ、深情け。情報ソースは清原さん。後が怖いわよ…」小次郎が渋い顔になるのを笑いながら、煙草の箱を片手にベランダに向かう。
「メンソールなんて吸った気がしないっていってたじゃねぇか。そんなもん吸うんならいっそスッパリやめちまったらどうだ?インポになってもしらねぇぞ」
「あら、なってみたいものね…やめたほうがいいのはわかってるんだけど。経口避妊薬に煙草はリスクが高いから…」
「経口…ってピルか?お前そんなこと一言も言ってなかったじゃねぇか」
「なに色めき立ってるの?ピルは性感染症の予防にはならないのよ」クスクス笑っている。
「俺、気をつけてるぜ」
「中州の夜の帝王にそんなこと言われても、説得力ないわね」茂登子はチェシャ猫みたいに微笑むと、ベランダに消えた。

 
 
 暗くてよく見えないが、外はまだ雨が降り続いているらしい。湿った空気の匂いがする。  ベランダで赤い蛍の灯がついた。いつのものなのか枯れきった鉢植えが一つ二つ置いてある以外は殺風景なベランダである。
 小次郎はずっと独身でいるつもりなのだろうか、と茂登子は思う。『バイだから…結婚できないわけじゃないんだろうけど』でも、あの王子サマがいる限りは無理だろう。まぁおかげでイイ友人でいられるわけだが。
 ガラス戸越しに微かに聞こえる、乾燥機の回る規則正しい音を聞きながら、茂登子は深く、煙を吸い込んだ。『服が乾いたらさっさとホテルに戻ろう』
 九州での取材旅行。同行者は柳川へ、自分は鷹ノ巣で二軍選手インタビュー。もともと仕事が目的の旅行なのだから、プライベートで予定を狂わせるようなことがあってはならない。自分に言い聞かせるようにつぶやいた。「仕事だ、仕事」
 ベランダから福岡の夜景が見える。ホテルに取り残されたあの人は、一人でどうしているだろう……。
 自分の吐いた煙が目の前を昇っていった。もう一服。唇に暖かい指が触れて、思い出すあの感触。ほんの数時間前の出来事。
『唇…柔らかかった…』夢にまでみた愛しいあの人の唇。小刻みに震えて、冷たい手が顔を押しのけた。驚きと戸惑いと困惑。そして気まずい沈黙。
『人生最悪のキスだった』
 後先考えずに逃げ出してきてしまった。ホテルに戻ったらきちんと謝ろう。……もう、もとの関係には戻れないかもしれないけれど。ふと、目の前が潤んだ。
『たった今アイツと寝たくせに、本命のこと想って涙するってどういうことよ?』自分の節操のなさに呆れて思わず苦笑いがこぼれる。こんなつもりで会ったわけではなかったのに、体の相性がいいのも考えものだ。だいぶ前にどこかのスポーツ新聞に<恋人>とスクープされた時は二人でげらげら笑いあったっけ。お互い本命がいるくせに。…困ったものだ。
『クルーカットの王子サマと上手くいってないのかしら?』日ハムの土井垣将。最初小次郎から聴かされた時は耳を疑ったものだ。今でも信じられない。あんな常識人で…本当に野球のことしか考えたことのないような大真面目な人が。小次郎から聴いたのは土井垣への個人インタビューの後だったからよかったものの、先に知っていたら、気になって野球の話どころではなかったに違いない。『まぁ、めちゃくちゃキレイな人だものね…小次郎、面食いだし』
 土井垣とは小次郎を通じて知り合いになった。ごく親しい友人とまでは言えないけれど、機会があれば飲みに行ったりはする。…二人きりで飲んだことがないのは、どうも土井垣が小次郎に気を使っているかららしい。小次郎の恋人なんでしょう?と訊かれる度に否定しているのだが、彼には恋人でもないのに肉体関係がある、というのは理解できないことらしい。
 
 茂登子は、今度は鼻から煙を吹き出した。軽過ぎる。やっぱりハイライトがいい。

 ね、教えなさいよ、どうやって土井垣、モノにしたの?と訊いた時、小次郎は恥ずかしいような寂しいような、何ともあやふやな表情をした。…まだモノにできてねぇんだよ。アイツには珍しく哀しそうな顔で、言った。
『もう10年近く付き合っているらしいのに…体の関係だってあるみたいなのに…どういうこと?』
あの生真面目な土井垣が小次郎を弄んでいるようには見えないのだが。

『…うん?』インターホンの音で、物思いから解き放たれる。
 室内を覗くと、小次郎が嬉しそうに受話器に向かっている。切ると、いそいそとその場を片付け始めた。
「ちょっと何…お客さん?」ガラス戸を開け茂登子が尋ねると、小次郎はしまらない笑顔で返した。あのデレデレした顔。
「ひょっとして土井垣?そうか日ハム戦…うひゃぁ、あたしお邪魔虫じゃない!とっとと退散するわ。服乾いたかしら」
「いいから、いいから。気にすんな」
 あたしは気にするの…こんな格好で人に会えるか!茂登子はパウダールームに飛び込むと、乾燥機を止めて服の乾き具合を確かめる。まだ身につけるのを想像するとゲンナリしてしまうぐらい湿っていた。仕方なくマシな下着類だけあわてて着こむ。
 再びインターホン。ドアの開く音。
「忘れ物もってきてやったぞ…俺の部屋に着替え一式置き忘れやがって…。うん?あっ…お客さん…?わ、悪い、邪魔した、帰る」茂登子がパウダールームからこっそりうかがうと、女物の靴を見つけて気を回した土井垣を小次郎が必死に押し止めているところだった。
「村枝だよ、村枝!…ヘンな勘ぐりするな、雨に降られたんで雨宿りに来てるだけだ。…前から言ってるじゃねぇかよ、あいつとは恋人でもなんでもないって!な、お前、最近村枝と呑む機会がなくて寂しいって言ってただろ?おーい、村枝、土井垣だぞー」
 こんな風に呼ばれたらいつまでも隠れているわけにはいかない。「こ、こんにちは土井垣くん…」借り物のバスローブが恥ずかしくて、パウダールームから顔だけ出して挨拶する。
「!…す、すみません、俺はこれで」
 茂登子のバスローブ姿に土井垣はますます帰ろうとしているのか、小次郎が色々説明をしている。やっと納得したらしい。パウダールームに向かって話しかけた。
「村枝さんお久しぶりですね…この間のスカウトについての本…大変興味深く読ませてもらいましたよ!」ちらりと腕時計をのぞく。「ちょっと用事があるから…少しだけだぞ、小次郎…村枝さんと話をするためにあがるんだからな、きさまへの用件は済んだということを忘れるなよ」おかしな二人だ。茂登子は微笑んだ。

 プロ野球界一の美人と(ロッテの里中だろう、と言われそうだが、彼は球界一かわいいのだと茂登子は思っている)球界で抱かれてみたい男bPと一緒にコーヒーを飲むのはなかなかオツなもんねと、茂登子は悦にいる。本当は土井垣を引きとめるためのダシに使われていると言う事には目を瞑ってやることにした。酒を進めた小次郎だが、土井垣は邪険に断わる。小次郎がぞっこんだということを、土井垣は知っているのだろうか?
「村枝さんの仕事振りを見ていたら、もっと早く本の1、2冊は出るものと思っていたんですけど…とにかくご出版、おめでとうございます」土井垣が祝杯のようにコーヒーカップを掲げた。
「今回は共同執筆者が倒れたから…それでチャンスが回ってきたの。チャンスって言い方はちょっとひどいかしら?」
「ずっとあのジジイのゴーストやってきたんだろ?当然の報いさ」小次郎はつまらなそうにコーヒーを飲んだ。
「ゴーストライターですか…。?」茂登子に目を向けた土井垣は、何かに気づいたのかバスローブの胸元を訝しげな目つきで眺めたが、彼女は、そんな事には気がつかなかった。
「いい修行になったわ。体育会系は男の世界だから…どうにも女性の地位は低くて…まぁ出版社は女流スポーツライターで売り出す予定らしいから、やっと時流が巡ってきた、ってとこかしら?」茂登子はコーヒーをちょっとすすると、
「あっそうだ!…土井垣くん、仕事の話で恐縮なんだけど…児童文学作家の沢木政美が、取材を申し入れてきてるの…捕手を題材にした作品の構想を練っているから…」
「沢木政美?あの、リトルリーグのジュヴナイルを書いている人?」土井垣は茂登子の胸元から視線を逸らすと、何事もなかったかのように尋ねる。
「土井垣、お前そんなの読んでるなんて珍しいな」
「いや、読んだ事はないが、きさまのところのサードとあんまり良く似た名前だったんでな…去年たまたまTVでドラマ化されたのを見たんだが、チビのピッチャーと豆タンクキャッチャーの友情物語だったから、忘れようがない。…子供向けだったのに、結構リアルで面白かったよ。…ひょっとしたら作者がリトル出身なのかな?……ええ、取材、構わないですよ」
「さすがプロ…先生リトルの経験があるの、レギュラーにはなれなかったそうだけど。……取材いける?ありがとう!詳細は本人も交えて…」本人も交えて。やっぱり逃げてちゃ駄目なんだね。「また追って連絡するね…」 
「さっさと連絡しろよ、ホテルで心配してるぜ。沢木先生はな、コイツのイイ人なのさ、一緒に暮らしてるしな」
「1つ屋根の下でくらせば即、イイ人なの?」睨みつける。小次郎は茂登子と自分が恋愛関係でないのを土井垣に印象づけたいらしい。「先生は柳川を回るつもりで4日ほど滞在予定だから…上手くスケジュールの段取りが組めればいいんだけど…九州ではちょと無理か…ううん、野球球じゃなくて北原白秋関係でね。リトルものばかり書いている人じゃないんですよ」
 土井垣はイイ人という言葉に反応してまた訝しげな視線を向けると、何か言おうとしたが、その時、小次郎の携帯が鳴った。
 小次郎は、なんだよ、こんな時にと言わんばかりの顔つきで着信ボタンを押す。
「はい。…?あぁ、ママ?ひ、久しぶり…え、何のよう…あ、ああ、ありがとう…うん、早速着させてもらったよ」あわててソファを立つと後を向きながらその場を離れる。「…えっ?近くに来てる?あ、逢いたいって、いや、今俺んちは駄目なんだ、友人が来てるから…男だよ…しょ、紹介って、その…えっ下に来ているって?いや、困るんだ、…わ、わかった!俺がそっちに行く!来なくていい!俺がそっちに行くから!じゃあ」小次郎はとたんに落ちつきを無くすと、すぐ帰ってくるからな!と叫び部屋を出ていった。バタバタ廊下を走る音がする。
 茂登子はぶっと吹き出した。「バスローブの送り主さん…」
 真面目な土井垣は、またか、と言うように眉をひそめている。そして吹き出し笑いをした茂登子のローブからのぞく胸元を訝しげな目つきで見た。さっきも同じような顔をで見ていたが…。
「!」キスマーク。茂登子は慌てた。あのバカ、マーキングはすんなっていつも言ってるのに。
土井垣は眉をひそめると、不機嫌な顔つきになった。どうしたものかとしばらく躊躇した後、
「俺には…小次郎とあなたが理解できません。小次郎はさっきあなたにイイ人がいるって言っていたけど…。じゃあ、何故なんです?」
 茂登子は、無性に煙草が吸いたくなった。
「村枝さん…俺はあなたが好きです、…いや、その、友人としてですよ、仕事振りは尊敬しているぐらいです。…でも、こんなことをしているあなたは、軽蔑してしまいそうだ…」
 軽蔑か。茂登子は頭の中で反芻した。同じようなことをあの人…沢木先輩にもよく言われた。12球団くまなく寝る事で、スポーツライターとしての人脈を手に入れた女と噂された時に。
「…小次郎のことも軽蔑した?…あの中州の夜の帝王も」
「…二人とも、軽蔑したくはないんです!小次郎もあなたも、俺の友人だから…恋人と二人で、旅行してるのでしょう?一緒に暮らしてる仲なんでしょう?…だのに、何故こんなことができるんです!」
 土井垣は本当に怒っているようだった。茂登子は煙草を吸うわけにいかないので仕方なしに温くなったコーヒーをすすった。
「恋人ね…。あの人とは…もう駄目だと思う…信頼を裏切ってしまったから…」飲みたくもないのにもう一口すする。不覚にも涙声になるのを飲み込む為に。
「当たり前です!好きな人がいるのに、他の男と寝るなんて…」
「だらしない自分が悪いことぐらい分かってるわ…でもね、尼さんじゃないんだから人の肌のぬくもりが恋しくなる時だってあるの…」茂登子は自嘲気味に言った。普段から心に引っかかっているところをつかれて、いつもは他人にしゃべらないようなことまで話してしまうのを、止めることができなかった。「…高校の先輩だったの、あの人。文芸部でね、初めて会った時から大好きだった…。追いかけるように一緒の大学に入学して、在学中に一緒に暮らし始めて…。もう何年の付き合いかしら、15年以上?…それだけつきあっていればわかる。私にそういう興味は持っていない、ってことぐらい…」
「…でも、一緒に暮らしてるって…」
「…一緒に暮らしている…。確かにそれが悪いのかもね、好きな人と一つ屋根の下にいて、抱きしめる事も出来なきゃ、キスも出来ないんだから。あの人に…恋人が出来た時なんか、わざわざ泊りがけでお膳立てしてあげて…男と寝まくったわ、あの頃は。…あの人がめでたく結婚した時は式場で泣いてしまった…3年で離婚して、またあたしのところに帰って来てくれたけど…」
「その人が、結婚するのをお膳立てしてあげた?」土井垣はあっけにとられた。
「うん…あの頃の沢木先輩、本当に嬉しそうだった…。私も嬉しかったわ、愛する人が喜んでるんだもの、当然でしょう?」
「俺には、あなたが分からない…」
「…一緒にいられたら、それだけで幸せだった…はずなのにね。魔がさしたのかなぁ。…キスしちゃうなんて。…引っ叩かれはしなかったけど、死ぬほど気まずい沈黙でね…それで思わず逃げてしまって、ここにいるわけよ。ちょっとすぐには帰れないでしょう…」
「そんなに嫌がっていたのですか?女性にキスされたのに?…」土井垣はますます訳がわからない、といった顔をする。
「女性にキスされたからでしょうね」茂登子は当たり前のように言った。「私はあの人の信頼を裏切ってしまった…。これにて友情はお終い」外人がやるように、両手を広げて肩をすくめてみせる。
 土井垣は目を伏せてしばらく考え込んでいたが、やがてゆっくりと顔をあげた。
「そうか…そういうことか…。でもそれだったら尚更小次郎となんかとは…やめたほうがいい。あいつも沢木先生と似たようなものですよ…だから、似ているところがあるから小次郎と付き合っているのかもしれないけど、それじゃいつまでたってもあなたは幸せにはなれない…」
 今度は茂登子が目をぱちくりさせた。
「?なんか言ってることがよくわからないんだけど。沢木先生と小次郎が似てるって?」
「沢木先生は…その…ホモなんでしょう?」
茂登子は笑った。「…そんなわけないじゃない!…それに小次郎はホモじゃないわよ…先生、小次郎みたいだったらよかったのに」小次郎はバイよ…言おうとして、茂登子は理解不能で眉をひそめた土井垣に気づいた。
「ねぇ、土井垣くん…、ひょっとして勘違いしてない?…沢木先生は女性…女流作家なの!」
「女性…女性?……あっ」土井垣はいつかの、小次郎の言葉を思い出した。村枝は恋人なんかじゃねぇ。友人というか、同志みたいなもんさ…。
「そうか、あなたは、……」
 茂登子が照れたようにうつむいた時、ふいに、電話が鳴った。
 土井垣と茂登子は思わず顔を見合わせたが、男の一人暮しに女が出るのは難なので、土井垣が出る。
「はい、犬飼ですが、小次郎はちょっと…はい?ええ。…はいはい…」電話の向こうで穏やかなアルトの声がしたが、不安げな、心配している様子は隠せない。土井垣は受話器を手で押えると、「村枝さん…沢木先生です」
 顔が強張る。コーヒーカップを持つ指に力がこもり、白くなった。
「心配してますよ…さぁ…」茂登子はカップをテーブルに置くと、腹をくくる。
「もし…」浮かない顔で電話に出ると、言葉になる前にまくし立てられたのか、茂登子は肩をすくめる。しばらく一方的に聴いていたが、
「ご、ごめんなさい、携帯の電源切れてたんですね…本当にごめんなさい!…よくわかりましたね、ここって…あはは、雨宿りによっただけですってば何にもしてませんよ…」浮かない顔が笑顔に変わる。この人は、かわいかったんだな…土井垣は初めてそう感じた。やり手のエゲツナイ女、と言うのがもっぱらの評判で、その逞しい性格ともども、お世辞にもかわいらしいとは言えない人なのだが。「いやだなぁ先輩、アイツとはもう、とうに切れてるんですから!ヘンなことなんかしていませんよ…服がびしょ濡れになったもんで…」嬉しそうに、少しはにかむように話す様は、少女のようだった。こんな優しい顔つきのこの人は見たことが無い。本当に電話の相手が好きなんだ…土井垣は気の毒に思った。
「…大丈夫です。風邪なんか引いてませんよ…服が乾いたら帰ります。…本当に、ごめんなさい」受話器を置くと微笑みながら茂登子はソファに沈み込んだ。ほっとしたように目を閉じる。
「何だ、いつもと変わらないじゃない。…心配して損した。…」まだ微笑みが顔に貼りついていたが、ふと淋しそうな表情になった。「キス…どうでもいいことだったのかしら…」
「どうでもいいでは済まないですよ、同性にキスされたりしたら…」急に土井垣が話し始めたので、茂登子は目を開けた。
「知らない相手なら気持ち悪いで終りですが。ごく親しい友人のつもりだったのに、まるで異性が相手のように振舞われたりしたら…困りますね、本当に…かけがえの無い友人なら尚更ね。…無下に付き合いを止めるわけにもいかない…いや、付き合いを止めたくないから、ますます困る」土井垣は目を伏せた。
「ホテルに戻って相手が何も言わないんなら、そのまま無かったことにしてあげてください。そうすれば気持ちよく今までの関係を続けられます。10年以上も付き合っているんでしょう?先生にとってもあなたは大事な友人なんです…このままじゃいけませんか?…あなたにとって、残酷なことなのはわかりますが。…沢木先生にとっては、そのほうがいいと思います」
 茂登子はテーブルの上に頬杖をついた。空いた手の指先で、置き去りにされた小次郎の冷たいコーヒーカップの縁に触れる。
「なんともストレートなご意見ね…本当に残酷だわ。…まぁ、同性にこんな気持ちを抱く方がおかしいんだから仕方がないか…。でも先生ね、私が男と寝ると機嫌が悪いの…まるでヤキモチ妬いてるみたいに。その度に思うわけ、ひょっとしたらこの人は、友情以上の感情を私に持ってるんじゃないのかって。…だから土井垣くんもそんな残酷なこと言うんなら、小次郎のことは放っておいてあげて…アイツが浮名流してる責任の半分は、君にあるんだから」茂登子が暗い目つきをした。
「土井垣くんもアイツの女性問題が取り沙汰されるたびにお冠なんでしょう?…小次郎が嬉しそうにこぼしてたわ…君にはそんなつもりはないんだろうけど、アイツは君が妬くと嬉しくてたまらないみたい…そんなこと思いも寄らなかったでしょ?…まぁ君のそんな天然なところが、好きなんでしょうね」哀れむように微笑んだ。
 土井垣は立ちあがると、ベランダに近づき、窓越しに外を眺めた。いや、眺めているふりをして、表情を隠した。「わかってますよ。…アイツには、悪いとおもっています…」
 意外な返事に、茂登子は土井垣の後姿を見つめる。
「…噂ほどの天然さん、ではなかったのね。マスク被ってる時とでは、2重人格なのかと思ってたわ…ひょっとしてわざとそう思わせている、インサイドワークの一環?」
 土井垣の声が自嘲気味に響いた。「昔に比べるとずいぶんエゲツナイ性格になりましたよ、色々とね。プロに入って何年経つと思うんです?でもアイツの前では、昔のままでいられるんだ…。本来の自分を、見失わずにいられる…」窓ガラスに肘をつくと、手の甲に額を押し当てた、
「昔はアイツといると自分が変わってしまうみたいで恐ろしかったが…。今は逆にあの頃の自分を保てるような気がする。単純で純粋だった頃の自分をね…このままではアイツに悪いと、思ってはいるんですけど…」
「だから…たまに寝てあげるの?」
「寝、寝てあげるなんて、そんな…そんな取引みたいな気持ちからじゃない…俺、そんな気持ちで人とは寝れません…も、もっと真摯な気持ちで…あっ」土井垣の肩が一瞬縮こまり、耳たぶまで真っ赤になった。野球はプロだけど、それ以外はやっぱり天然な人なのかしら、と茂登子は思う。きっと小次郎絡みだからなのだろう…。「ア、アイツあなたに一体何処まで話して…まぁ、あなたのことも色々聞いてますからね、最近あなたが犬飼と呼ばずに小次郎と呼ぶようになったわけや、…不知火とのこととか…」振り向くと、意地の悪い笑顔を浮かべている。こんな表情は小次郎には見せないのだろう。
「あンチクショウ!男のくせにおしゃべりなんだから!」憮然とした茂登子の耳に、軽快な『ファイターズ賛歌』が飛び込んできた。
 土井垣は腕時計を見ると慌てて携帯を耳に当てる。
「もしもし…守?すまん!すぐ行くから、待っててくれ」
『用事って不知火くんか…』土井垣の慌て振りは見事なぐらいだった。まだ戻らぬ小次郎にさよならを言う気も無いらしい。まるで恋人との約束に遅刻したかのようで、小次郎ががみたらさぞや嫉妬することだろう。『N口さんと正捕手の座争ってるんだものね』仕方ないよ、小次郎。こんなに尽くして欲しけりゃFA取得してファイターズに行きない。
「さようなら村枝さん、また機会があったら二人で飲みにいきましょう…」しかし土井垣は気もそぞろ、挨拶するのももどかしいようである。
「戻るの待ってあげないの?小次郎可哀想に」すでに玄関で靴を履こうとしている後姿に、つぶやいてみる。
「無節操なアイツが悪いんです…半分は俺の責任でも、もう半分はアイツが悪いんだから!…村枝さんも人のせいばかりにしてたらだめですよ…不知火とは、こないだの取材の後でしょう?…なんか挙動不審だったからなぁ、守のやつ…ウフフ早速苛めてやる。……まったく俺の周りは、どいつもこいつも破廉恥な連中ばっかりだ!」大きな音をたててドアが閉まり、茂登子は顔をしかめた。『あなたも真面目すぎるの!!』

 閉まったドアには、まだ土井垣の触れたぬくもりが残っているような気がした。
『君と小次郎の関係、一体どうなってるのかしら。…きっと君にもわからないのだろう』
 あたしと先輩の関係もさっぱりわからない…。『みーんな枯れちゃって、さっさと茶飲み友達にでもなれたらいいね…本当に、そうなりたいね』一生離れずに、付き合っていけたらいいね。あたしと先輩も、小次郎と土井垣くんも。
 …そろそろ服乾いたかしら。茂登子は立ち上がった。
 
 
 乾燥機から服を取り出して、余熱で乾かそうと広げていた時だった。
 突然ドアが開き、「すまねぇな、土井垣!土井垣?……」
「ついさっき携帯で呼び出されて出ていったわ…すれ違わなかった?まぁ、身から出たサビだと思って諦めることね」小次郎のがっくりと肩を落している様が、パウダールームにいても想像できた。
「身から出たサビって、俺、本当にあの女とは何にもねぇんだぞ!……そうか、行っちまったのか、ろくに話もしてねぇのに…まさか、不知火に呼び出されたんじゃねぇだろうな?」小次郎の声の調子が険悪になる。
「…あなたにはJ島いるでしょ?…気を落としなさんな」
 ふん…小次郎は鼻を鳴らすとソファにどっかりと腰を下し、目を閉じた。
「くそっ…今日は最低だ。どうでもいい女ばっか集まって来やがるのに…」
「どーでもいい女で悪かったわね…あたし、帰る。愛しの彼女としっぽりやってくるから!じゃあね、バイバイ」茂登子は服を着ることにする。
「仲直り、出来たのか…」小次郎が尋ねた。
「まあね」
「よかったな。…顔がにやけているぜ、さっさと帰りな」小次郎は、しかしひどく寂しげだった。服を置くと、思わず茂登子は小次郎に近寄った。
「そう気を落とさないで…。土井垣くんもあなたが好きなのよ…ただちょっと形が違うみたいだけど…いつまでも一緒にいたい、って気持ちは、変わらないんじゃないかしら?…」
 目を閉じた顔の頬に手をやった。伸びかけたヒゲが手をくすぐる。
 小次郎が急に目を開けた。茂登子をじっと見る。
「じゃあ、なんで今、ここに一緒にいてくれねぇんだよ…」
「…彼にも、色々あるのよ…」
 小次郎が茂登子の手を取った。唇に当てる。瞳を見つめながら。
「…あのさ、そんな目で見つめられたら、とっても帰りにくいんだけど…」
  どうしたの小次郎、らしくないじゃない。そうか、今日は雨が降っているんだったね…。復帰直後のインタビューでの小次郎の談話を、茂登子は思い出した。――ジトジトした雨の日が、すっかり嫌いになりました。もう大丈夫だと頭ではわかっているんですが、…とにかく気が滅入ります。――
「ちょっとだけ、一緒にいてあげようか?まぁ、今日はよくしてもらったしね…あ」
 小次郎が、茂登子を引き寄せた。




『あたしはなんて意思が弱いんだろう…』土井垣に怒られても致し方ない、と茂登子は思う。
「今頃土井垣のやつ何してんのかな…」
「さぁ…明日旦那さん先発だし、色々励んでるんじゃない?」一人掛けのソファに、二人で座る。鼻と鼻を突き合わせて。
「お前が言うとなんかいやらしいな…。なぁ、不知火と俺…どっちがいい?」
「こんな時にそんなこと訊いてどうするの?参考にでも、するつもり?」
「俺がヤツを参考にするのか?ヤツが俺を参考にするのか?」
「…あなたが、参考にしたほうがいいわね…長くやりたいんなら特に。彼は器用だから。力で押すのもいいけどもう歳なんだから、あなたももっと技を覚えたほうが、あん…もう…」
「確かにヤツは器用だろうな…俺より遅い?そりゃしつこいって言うんだよ、嫌がられるタイプだ…お前、そんなねちっこいのが好きだったのか?」
「まさか!あなたよりぜんぜん早い!…MAX160キロよ?技巧派でもあるし…超遅球に剛球フォークに…」
「今まで何の話ししてたんだ!…土井垣みたいなことを言うな」
「何の話ってそーゆー話。…何、…土井垣くんのこと思い出したの?暗い顔して。自分が話しフッたくせに」
「ふん」
「あたしもさっさと帰るつもりだったんだけどな。…あーあ、何やってんだろうねあたし達、情けなくなってきたよ。土井垣くんに叱られるのも当然だ……あのさ、今ふっと思ったんだけど」
「何だ?」
「あたしたちって…ひょっとして、ただのスキモノ?」
「…その可能性も、…ないとは言えねぇな」
 二人は、顔を見合わせると吹き出した。






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