上から見下ろすと下からはわからないのだろうが、白い胸元がはっきり見える。落ち着きなくキョロキョロ動き回っていた眼は、その青白い輝きに釘付けになった。
「手を出せ、伍長」
「は? はいっ」
大きな右手を豊かな胸元付近まで上げた。 手のひら向きをどうすればいいのかわからず、伍長は汗をかいた。
「両手だ」
「はいっ」
伍長は両手を少尉の胸元に近づけた。手のひらを下に向けたままだと、なんだか触ろうとしているみたいで……顔がますます赤くなり、汗の量が増えた。
「手のひらが下だと落ちてしまうだろう?」
言われて、慌てて水をすくうような形に合わせる。
胸元から首の後ろにまわった少尉の両手が何かを外す動作をした後、細いものをつまんで左右から現れた。
やがて伍長の手袋をはめた大きな手のひらに、美しい細工物が転がる。
それは華奢な鎖のついたロケットだった。
「私の母だ」子供が内緒話をするように少尉がささやいた。「母上とはいつも一緒にいるのだ。このことは家族しか知らぬ。……他のものには内緒だぞ」
「とてもきれい、ですね」
伍長は非常に高価そうな装飾品をおっかなびっくり手に取り、ためつすがめつ眺めた。
「ああ。母上は本当にきれいだぞ。いつも写真の中で私に微笑んでいらっしゃる」
「少尉の……お母さん」恐る恐るロケット見つめていたまなざしが優しいものに変わり、やがて大きな手のひらに載せた宝物を自慢げに眺めている白い顔に移動した。「とてもきれい、です」
少尉が顔を上げると、伍長が笑顔をみせた。あの店の女将に向けていた屈託のない明るい笑顔。……もう一度見たいと思っていたものが今、自分に向けられている。
不意に耳たぶが熱くなり、彼女はあわてて大きな手からロケットをひったくると、赤くなり始めた頬を隠すために後ろを向いた。胸元を隠すためだ、あいつじろじろ見おって、と自分に言い聞かせる。
「ほ、他の者には内緒だからな!」そそくさと首の後ろのホックを留めると、ボタンをかけはじめる。「どうだ、私も子供っぽいであろう? お前に負けんぞ」
豹変振りをしばらくはぽかんと眺めていた伍長の眼が細くなった。ボタンをはめようと少し猫背になった小さな背中は、いつもと違いとても無防備で……そして少しさみしそうに見えた。
今少尉が振り向いたら気がついたに違いない。伍長のその眼つきが、カルッセル行きの列車の中で床に倒れて向かい合ったあの時と同じものであることに。
抱きしめたい、と思うよりも先に無骨な両腕が動いた。迷子の小猫を思わず抱き上げてしまいたくなる衝動にも似ていたが、もっと熱くて、もっと乞い願うような。……まだ残っていた酔いが、彼を大胆にしていたのかもしれない。
狭く、華奢な背中を抱きしめようとしたその瞬間。
突然、夜空に鐘の音が鳴り響き、伍長は慌てふためき……行き場のない両手をバンザイした。
「大聖堂の鐘! いかん、もうこんな時間か」振り返った少尉は怪訝な顔をする。「何をしている伍長? 」
「あのその……急に鐘が鳴ってびっくりしたので」
「軍人たるものがそんな小心なことでどうする!」手袋をはめた手が握りこぶしを作った。すでにボタンは上着まできっちりかけられ、一部の隙もない。
「す、すみません」
「行くぞ! 情報部の前に迎えの馬車を待たせているのだ……お前も寮に帰るのだろう? ならば同じ方角だな」
カーキ色の軍服は、もう階段を上がり始めている。
「あ……は、はい少尉!」
いつもの橋の下は軍隊寮とは全く違う方角だったが、伍長は少尉を守るように、小さな背中の後に従った。