「守…お前、やっぱり風邪だ!」不知火のマンション。土井垣が遊びに来ていた。
4枚目のティッシュをボックスから引き出した不知火に、土井垣は心配げだ。
いいえ、ただのアレルギー性鼻炎ですって…鼻をすすりながら、不知火はこう言い返そうとして言葉を飲み込んだ。
今日のデーゲーム、××選手が風邪で欠場した。自然に話題がその方面になり、何故か子供の頃の看病された思い出で盛りあがった。スポーツ選手といえば丈夫の塊のような連中ばかりだが、それでも幼少時に、中耳炎で眠れない夜に一晩中母親にだっこしてもらったとか、朝昼晩とそれぞれ違う味のするお粥を母親に作ってもらったとか、リンゴのすりおろしを一さじづつ母親に口に運んでもらったとか、そういう話にはことかかないようであった。
不知火には、母親に看病されたという記憶が、ない。
それはもちろん、不知火自身が大変丈夫な子供で病気知らずだったことが大きいが、かつてプロ野球選手になることを夢見ながら果たせなかった父親が、素質充分な息子を溺愛し、独占していたのも原因の一つだった。
父親と息子の男だけの世界に入る事を許されなかった母親は、不知火が中学1年の頃に家を出た。妹でもいれば話しは違ったもかもしれないが、自分の夢をかなえるのに十二分な息子を手に入れた父親は、もう次の子供にも、妻にも興味を示さなかった。
もっともこういった経験が今の不知火に影を落しているかといえば、そうでもない。少なくとも本人は平気なつもりだった。あの女性(ひと)にはあの女性なりの考えがあるんだろう…それが当時の、そして今の不知火の母親に対する思いであり、俺は俺なりに上手くやってるぜ、というのが愛情表現といえるのかもしれなかった。
とは言え不知火が思い出す母の姿といえば、野球で片目を負傷してからというもの、「2度と再び野球はしないで!」と金切り声を上げていたヒステリックな姿ばかりで、当時から野球狂だった不知火はそんな母をうるさく感じていたから、冷淡なのも仕方がないのかもしれない。
そんなわけで他人がいくら母親とのノロケ話(不知火にはそうとしか思えなかった)をしゃべっていても、ただのエピソードとして聴く余裕があったが、妙な競争心はあった。俺は親父が看病してくれた、それどころか自分の片目をくれたんだぜ…自慢してやろうかと思ったが、場の雰囲気は読んでいたので何も言わない。
だが、土井垣までが嬉しそうに披露しだしたのには少しシャクがさわった。他の選手はともかく、土井垣は…土井垣だから、許せなかった。…このマザコンやろう…不知火の冷たい視線を感じたのか、土井垣はしどろもどろに話しを飲み込んでしまった。
だから、風邪だと言われた時、ほんのいたずら心でこう思った。
『じゃあ土井垣さん、お袋さんがやってくれたみたいな看病を俺にもやってくださいよ』
土井垣は手を伸ばすと、不知火の額に触った。「…よくわからん」
「デコとデコくっ付けてみたらどうです?」不知火は額にかかる前髪をかき上げると、下を向いた。
土井垣は少し伸び上がると、額をくっ付けた。土井垣はもちろん、髪をかき上げる必要はない。
「うーん…」訝しげに眉をひそめたのが不知火の額に感じられる。
『看病してくださいよ。土井垣さん』不知火はわざとよろめくと、土井垣の肩をつかみ、もたれかかる。「なんか、眩暈が…」
「し、しっかりしろ!」
この人なんか騙すの簡単だ…土井垣にもたれながら、不知火は微笑んだ。
「こんなにアイス食って大丈夫なのかぁ?」土井垣は不安げである。
着替えを手伝い、ベッドを快適にととのえ、炊飯器ではお粥が煮えている。レトルトは匂いがあるから嫌だ、米から炊く本物が食べたい…わがままな物言いに、すごく時間がかかるみたいだぞ!と土井垣は炊飯器についていたレシピ集を見ながらぼやいたが、不知火はどうしても食べたいの一点張りだった。
お粥ができるまでの間、リンゴの摩り下ろしが食べたい、と言い出した。腹を下した時に食べるもんだ…土井垣は言い返したが食べたいんです、と不知火は言い張る。リンゴなんか部屋になかったので、買出しにいくはめになった。
熱ならむしろアイスクリームだが…と言う土井垣の言葉尻をしっかりとらえ、不知火はアイスも食べたい!と注文した。ハーゲンダッツがいい、でも俺の食べたいのはスーパーなんかじゃ売ってないんです、店で買ってきてください…なんか騙されているような気がしてきた土井垣だったが、まぁエースの言う事だし、仕方がない。注文通りにしてやった。
気の回らない土井垣はリンゴ1個分をしっかり全部摩り下ろした。にこやかに待つ不知火の口の中に一さじ押し込むと、「…不味いですね」
あったりまえだ。こんなもん喜ぶのは幼児か赤ん坊だ。そう言う土井垣に不知火は少し寂しそうな顔をしたが、「じゃあアイスにします」
かくしてリンゴ1個分の摩り下ろしは茶色に変色してテーブルの角にうっちゃられ、不知火は1カートンのアイスをパクついている。
「ハーゲンダッツ1カートン、全部1人で食う…1度やってみたかったんですけどね」不知火はスプーンを休めると、肩を抱いてぶるると震えた。「寒気がする。俺、根性ないな……ねぇ土井垣さん、一緒に食べませんか?」
「自分の体調管理もエースの大切な条件だぞ!」土井垣は不知火の横たわるベッドの端に腰をかけると、カートンを受け取る。
不知火がまたクシャミをしてティッシュを引き出す。
「喉も痛いんじゃないか?」心配そうな土井垣。
「はい」なんか痛くなってきたが。3日前にクシャミが止まらなくて病院にいったら鼻炎だと言われた。それから引き続いている症状だし。「土井垣さん、あーん」土井垣は渋い顔をしながら、アイスをすくうと不知火の口に押し込んだ。
「もう食えん…不知火、残りは冷凍庫に入れとくな」カートンを持って立ちあがる。
土井垣は戻ってくると横たわる不知火を覗き込んだ。「寒気がするって?」また、額をくっつける。「おい…頭痛しないか」心配そうな表情。
いやだな。俺、頭なんか痛くないですよ。むしろとってもいい気分です。
「…あたためてください」不知火は掛け布団を広げた。なんでこんなに大胆なんだろう。おかしい。俺、酔っ払っているみたいにハイだ。さっきのアイス、洋酒かなんか入っていたんだろうか。
「なっ…」土井垣は無理やり布団に引っ張りこまれた。「おいっ」
土井垣さんの手、冷たくて気持ちいい。不知火は土井垣の頭を引き寄せると、顔に頬ずりをした。もっと冷たくて気持ちいい。さっきアイス食べたところだもんな。だけど体はあったかいんだ。特にこことここ…。
「おい、不知火!」
なんでそんな心配そうな顔をしているんですか。俺、なんか体が熱くなってきましたよ。とても熱い。特に頭が。血が昇ったようだ。…土井垣さんが悪いんだ。
「大丈夫か?」
さっきからうるさい口だなぁ、キスしますよ、土井垣さん。きっと冷たくて甘い味がするんでしょうね。…俺も同じ味かな。
不知火は土井垣にのしかかると、口唇を味わおうとした。
「…おい、大丈夫か!」
とても心配そうな土井垣さんの声がする。あれ?俺のしかかってキスしたつもりだったのに。なんで土井垣さんが俺を腕に抱いているんだ?
「ひどい熱だ。病院…」
え?…………待って下さい、何処へ行くんですか…………
消毒液の匂い。不知火は目を覚ました。頭がひどくがんがんする。ここ…病院じゃないか。
土井垣は立ちあがって点滴液が落ちていくのを確認している。目を開けた不知火に気づいた。「さっきお前が身動きしたら急に落ちなくなってさ…大丈夫、元に戻った」
土井垣は腰を下すと横たわる不知火の高さに顔を近付けた。
「やっぱり風邪だったみたいだ…球団に連絡しておくよ。伝染ったんだな、きっと」
そう言うと顔をしかめる。「で、次は俺が伝染るわけだ…看病してくれるよな、不知火。…俺にはサーティーワンのを買って来てくれ」
そして困ったような照れているような表情で不知火を見た。
「まったくあんな…ディープなキスをしやがって」恥ずかしそうにそっぽを向く。
くそぉ…俺、何にも覚えてないぞ…。
不知火のつぶやきは痛む喉のせいで、言葉にならなかった。
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すみません…不知火、風邪で頭がヘンになっている、 戻 |