元女湯なのか作りは少々狭いが、内風呂は掃除も行き届き温度も頃合、なかなか上々である。今では何ともいかがわしい吉良屋だがヤクザが幅を利かす前は、ごく当たり前の宿屋だったのかもしれぬ。
湯煙の中でただ今掛け湯を使い湯船に身を沈めたのは、土井垣将之進――現在の名は越後のちりめん問屋の番頭将助。通称、将さん。
『ゆっくり旅の疲れでも癒せ……とご隠居に進められ風呂に入ったが……本当に賭場にご一緒しなくてよかったのだろうか?』
将さんはくつろぎつつ、嬉しげに賭場に向かった徳川と小次さんを思い浮かべた。
宿の客は全て賭場に駆り出されたのか、湯殿は将さんしかいない。
『戌の刻……五つの鐘が鳴ってしばらくたつから午後8時半頃か。この時間帯には必ず入浴シーンがつきものだから湯殿へ行け、とご隠居に言われたが、どういうことだ?』
「こういうことさ」
突然、湯殿に響いた聞きなれた低い声音に、将さんは顔を向けた。見れば小次さんである。
「な、なにしにきた。……ご隠居はもう賭場から戻られたのか?」
小次さんの浅黒い肌、濃い胸毛……同じく堂々とした体格であるものの、色白で肌のつるりとした将さんは、何か『いけないもの』でも見たかのように、慌てて目を逸らせた。
「あのオヤジ悪運の塊だぜ。放っといても大丈夫さ。おい将之進、……そう邪険にそっぽを向くもんじゃねぇよ」
掛け湯の音が辺りに響き、将さんの胸の上ぐらいだった湯量が、鎖骨あたりまでせり上がる。思わず顔を上げた将さんの目の前に、小次さんの鍛え上げられた逞しい胸があった。中腰のまま、湯船の中を近付いてくる。
「なにを言う、あんな酔っ払いを一人で置いて置けるか!俺は出るぞ」
将さんが逃げるように湯船から上がる。キメの細やかな肌は湯を弾き、ほんのり赤らみ、湯煙の中で桜色に見えた。手ぬぐいで前を隠しながら湯船の縁に手をかけたのを、小次さんが引きとめた。
「二人きりになるのは久しぶりだ……照れてんのか?」
「照れてなどおらぬ!手を離せ!離さぬか!」思わず武家言葉が出てしまう。
「どうした……将之進?」
低いがなだめるような優しい声だった。つられるように将さんが振り向くと、目と鼻の先に小次さんの顔があった。どんどん近付いてくる。
「こ、小次三郎……」
小次さんの手が、将さんの肩に触れようとした瞬間。
“虚空を切り裂く”感覚に将さんが飛びのくのと、湯殿に金属音が響いたのはほぼ同時。
「誰だ!」
何処に隠し持っていたのか道中差しを構える小次さん。刃に当たり弾き飛ばされた風車は湯殿の柱に突き刺さり、カラカラと回る。
しかし湯船から飛び出した刹那、小次さんはトンボを切って現れた謎の影法師と刃を交えていた。
「……誰かと思えば破れ菅笠じゃねぇか」ギリギリ音を立てながら、十字に交わる刃と刃。
ウフフ……小次さんの問いかけに菅笠の男は低い笑い声で返した。そのまま押し合ったまま両者は睨みあう。
『力は互角』おそらくやつもそう感じただろう。小次さんは菅笠からのぞく鋭い視線をねめつけた。次の一振りで勝負は決まる。
小次さんが息を整えた時、視野の端で何か動くのに気づいた。
「来るな将之進!逃げろ……」お前は丸腰だ!
しかし続きが声になる前に、十字に組まれた道中差しは魔法のごとく消え去り、睨み合う二人は力余って抱き合うようにぶつかり合った。
突然伸びてきた白い物体が、十字に組み合う道中差しを絡め取ったのである。
はっとした二人の見合った先には、“濡れ手ぬぐい”で絡め取った道中差しの一本を手に、切りかからんとばかりに構える将さんの姿。
「おっと将の旦那!早まっちゃいけねぇ!」菅笠男は慌てて小次さんから跳びのいた。「ご隠居が奉行所へ連れて行かれましたぜ……あっしはこいつを知らせに参ったのでさぁ」
「何だと!それは誠か」すっかりお武家さまに戻ってしまった将さん。
「てやんでい、てめぇ俺に切りかかったくせしやがって味方みたいな口を利くんじゃねぇ!」すっかりヤクザな小次郎。
しかし菅笠は少しも慌てず、
「どうも申し訳ございやせん、水戸でNo.1のお噂も高い小次三郎様の腕前をちょっくら試してみたくなりましてね。……あっしの160km風車を抜き打ちで弾き返したのは、小次の旦那が初めてでございますよ。おっと申し遅れやした、水戸のご老公様のご命令で影ながら家康様をお守り申しておる者です」
そう言いながら菅笠男が伸ばした右手に、将さんは素直に奪い取った道中差しを渡した。男をじっと見つめるその目は、何かを探っているようにも見える。
「あっしは先に奉行所へ行っておりやす……旦那方も支度が出来たら急いで駆けつけておくんなさいよ」
そう言うと、男はあっと言う間に湯殿を飛び出そうとする。将さんが後姿に叫んだ。
「待たれよ!お主は不知火守ノ介殿ではござらぬか?それがしは土井垣将之進……お父上の道場に通わせて頂いていたものだ。不知火左門殿のご子息であろう?」
「不知火?存じませんなぁ」菅笠の背中が立ち止まる。「あっしは“風車のフチカ”ってぇケチなこそ泥でござんすよ。それともなんです……」男は振りかえり、菅笠を持ち上げた。「そいつはこんな、めっかちでござんしたか?」
男の左目は白く濁っていた。
言葉を失い立ちすくむ将さんを尻目に男は天井裏に消える。六尺を超える大男であったが、驚くほどの身のこなしであった。
「……信じるか?小次三郎」
「信じるも何も……とにかく奉行所だ」湯殿の戸口に手をかけると小次さんは振り向いた。「おい、俺は小次三郎じゃねぇ、ちりめん問屋の手代小次三だぜ。いつまでぼーっとしてるんだ、素っ裸で出かける気か?」
つり上がった唇に将さんははっとしたように顔を赤らめた。
天井裏を抜け星の瞬く夜空の下、薄暗い屋根の上を風車の男は音もなく奉行所へ走る。
『まさかあんなところにまで道中差しを持ち込んでいるとは……しかもあの状況で風車をはね返す、さすがは犬飼小次三郎。しかしながらまったくの丸腰であったのに……』
三尺手ぬぐいは、濡らせば矢を弾く盾になり、また刀を絡め取る刺叉に変わる。
『……裏武芸を極めんとした我が父の教えなり、か……土井垣さん、腕を上げられた』
男は遠い昔を懐かしむ目をした。先のことなど考えもせず、ただ技を磨くのに明け暮れていた少年の日々。水戸藩の剣術指南役になるのだと本気で青臭い夢を抱き、切磋琢磨しあっていたあの頃の二人。
『しかし土井垣さんのお父上は不正経理の罪を被せられ切腹……そして我が父は』
下方で土を蹴る複数の足音。
風車の男は慌てて屋根の上で身を伏せる。
ヤクザらしい一団が奉行所へ吸い込まれていくのが暗がりにうかがえた。
『ご隠居が何かやらかしたな』
ヤクザの一団が消え、通りには元の静けさが戻る。
風車の男は音もなく屋根から飛び降りると、奉行所へ忍び寄った。
「やい、てめえら!この紋所が目に入らねぇのか!!」
徳利を抱えた貧相な乞食ジジイは、先ほどから印籠を見せびらかしている。
「へん、そんなデカイもんが目に入ってたまるかい!!」
ヤクザたちは笑いながら徳川にじりじりと迫った。
「おめえら学がねぇからわかんねぇんだろっ、さてはTVを見てねぇな、バラエティばっかじゃいかんぜ。おお、奉行、いいところにきた!おめぇならわかるな、ほれ、葵の紋所だ」
奉行と思われる立派ななりの侍があらわれたので、徳川は盛んに腕を振りまわした。紐の先の印篭がブラブラ揺れる。
「ほお、どれどれ……成る程よくできたバッタもんじゃ」奉行はカラカラと笑う。「そのような貧相ななりで先の副将軍の名を騙るとは不届きせんばん!ええい者ども目障りじゃ、即刻切り捨てよっ……おお、そうじゃ、お権!お権はおるか!!この不埒なジジイをひねり殺せ」
「でもこのジーさん、黄門さまなのよ?」柱の影から困ったように巨体が現れた。
「喧しい、お権!お前は黙って言う事を聞いてりゃいいんだ。さもねぇと」ヤクザの親分は声を荒げると顎をしゃくる。後ろ手に縛られた若い男が、子分たちに引っ立てられながら突き出された。「お前の亭主がどうなっても知らねぇぞ」
「あんたぁっ!」お権の悲痛な叫び。
「お権、こんなやつらの言う事を聞いちゃなんねぇ……」胸倉をつかまれ言葉は途切れた。
「何を偉そうに。おい堪介、そんなこたぁ賭場の借金払ってから言え」ヤクザたちは堪介を小突き回した。
「やめてぇ、ウチの亭主になにするのよ……ごめんね、黄門さま。痛くないようにしてあげるから」お権は悲しげな顔つきで手を組むと指を鳴らした。ゴキゴキ、ボキボキ響く音に徳川は青ざめる。
「おい、待てよ!……ちくしょう、なんて罰当たりなやつらだ、俺を誰だと思っていやがる、本当は光圀なんかよりずっと偉いんだぞ!!……ま、待てお権っ……た、助けてくれぇ、小次さん!将さん!……フチカっ、お前そこにいるんだろう、早く助けろ……ウフフなんて笑ってんじゃねぇ!!!!」
お権の巨体が灯りを遮り、小山のようなシルエットが畳みに這いつくばる徳川に伸びる。徳川は腰を抜かし仰向けのまま、廊下にあとずさった。
「た、助けてくれぇぇぇぇぇ」
お権の熊のごとき巨大な手が徳川につかみかかろうとした、まさにその時。
現れた二つの影に徳川は救い出された。
「おお将さん小次さん、遅ぇじゃねぇか」
「お権以外は全員殺っちまっていいんですな?」小次さんが嬉しそうに道中差しに手をやる。
「こらあ、そんな血生臭い水戸黄門があってたまるか、ゴールデンタイムなんだぞ!!」眉間に皺を寄せる将さん。「さぁご隠居しっかり立ってください、背筋はピシッとフラフラしない!はい、印籠はこっちに渡して、小次さん、お前は左に立て、バカモノ、ご隠居の前に立つやつがあるか!」
あまりの段取りの悪さに最初は何事かと様子をうかがっていた悪人たちが、がやがや騒ぎはじめる。
「ええい静まれ!」将さんが叫んだ。「小次さん、これはお前のセリフだっ、早く言わんか!」
「ああん?俺の?……し、静まれ、静まれ」
これでこそ水戸黄門だ。
小次さんの低いがよく通る声を聞きながら将さんの胸に万感の思いが流れた。水戸のご老公さま、これより将之進、見事お勤めを果たしまする。
将さんは頭の中で印籠の出し方をおさらいする。印籠の角度は真正面からやや自分の右45度、懐から取り出す際印籠に視線をやらぬこと、指の位置を変えることなく三つ葉葵の紋所が悪人どもの目の前に出現するようにすべきこと、等々。
「ここにおわすお方をどなたと心得る、先の副将軍水戸光圀公なるぞ!……頭が高い、控えおろう!!」
言い終えた将さんの目線の下には這いつくばった丁髷が並んでいた。
『キマッた……』打ち震える感動、感無量である。
「はっはっはざまぁみやがれ、俺は偉いんだぞー」徳川はアカンベエをしてはやしたてた。
「しっご隠居、もっと威厳を持って」将さんが小声でたしなめる。
「で、よう。これからどうするんだ、将さん」小次さんがつまらなそうに言った。
「え?そりゃ……とりあえず罪状認否かなぁ?」
黄門ご一行があれこれ議論してる間に、
「ふっふっふっふ…」這いつくばる悪人の中から不気味な笑い声。
「ふぁっふぁっふぁっふぁ…」見れば、奉行が顔を上げ妖しげな声を立てている。
「てめぇ、黄門で笑うのは俺の役目だぜ」
言い募る徳川に奉行は、
「黙っらっしゃい!……ええい、思わず条件反射でひれ伏してしもうたわ。偽葵ブランドをひけらかし、徳川の御世を侮蔑する痴れ者どもが、皆のもの!切れっ切り捨てい!!」
「き、切り捨ててもいいので?」ヤクザどもは半信半疑。家臣たちまで渋い顔とはなんとも人望の薄いトップである。「ホ、ホントに大丈夫ですかぁ?後でわしゃ知らぬじゃないでしょうな」
「…………」奉行は言いよどむ。どうやら図星だったらしい。「お権とか申すもの!お前がやるのじゃ」
「ええ、そんなぁ嫌なのよ、自分ですればいいのよ」
「お権、駄目だ!何もかもお前一人のせいにするつもりだぞ」子分に押えつけられていた堪介が、身じろぎして叫んだ。
「黙れてめえ!」
子分は匕首を振りかざしたが、腕を押えて倒れる。赤い風車が刺さっていた。「堪介さん今だ、お逃げなせえ!」
堪介に切りかかる者どもを、突然現れた菅笠の男が次々となぎ倒す。
「へへ、やっとチャンバラらしくなってきやがった」小次さんがうきうきと刀を構える。
「小次さん!峰打ちだぞ、わかっているな」
「冗談だろ、将さん。水戸のご老公から殺しのライセンスを頂戴してるぜ」
「水戸藩にMI6があってたまるか!」
お互い悪態をつきながらも、乱れ来る悪人どもを、二人はばったばったとなぎ倒す。
奉行所は大混乱になった。
右往左往する男どもの中で所在なさそうな丸髷が一人。
「お権、こっちだ」
亭主に呼ばれたお権が駆け出そうとした時。
白刃が迫る。
立ちすくむお権。
思わず駆け寄る堪介。
危なねえ、堪介さん……引きとめようと飛び出すフチカの前を、家臣どもが遮る。
きらめく刃がお権に振り落とされ……
「あんたぁ!!!」
お権に振り落とされるはずの刃は、身を呈した堪介をなぎっていた。
「あんた、あんたぁ、しっかりして」
「お権……逃……げ……ろ……」慌てて抱き起こす腕の中で、額から血を流した堪介は優しくお権を見守ると、がくり、と頭を垂れた。
お権の大きな肩が小刻みに震えた。
「よくも……よくもウチの人を……もう、何もかも打ち壊してやるのね!!」
立ちあがったお権は、手近な一番太い柱を抱えると、ゆさゆさ揺すぶり始めた。
「な、何をする!これは大黒柱じゃぞ、屋敷が崩れる!!この者を止めよ」奉行が叫んだが、ヤクザも家臣も蜘蛛の子を散らすように我先にと逃げ出した。つくづく人望のないトップである。
「お権さん!ヤケを起こすな!!」
「将さん逃げろっ、屋根が崩れるぞ」
「お権さん……」
「早くしねぇか!!」
土埃が立ち込め、将さんの視界からお権の姿が消えた。目に塵が入り何も見えなくなる。
お権さん……それでも将さんはお権の名前を呼んでいた。毛深い逞しい腕に引きずられて行った時も。
木材の裂ける音、土壁の崩れ落ちる音。沸き起こる悲鳴。轟音とともに空気のひしゃげるような感覚。
涙がこぼれ落ち将さんがやっとものを見ることができた時は、既に奉行所は土煙の中で瓦礫と化していた。
「奉行と親分は逃げ遅れたらしい」
ようやく昇り始めた朝日の中を、今だ土埃を上げる奉行所跡を眺めながら小次さんがつぶやいた。
「お権……」泣きべそをかいているような声がして、見れば額に布を巻いた堪介である。
「あれ、堪介さん……?」
「額の皮1枚切られただけでさ。ぜんぜん大丈夫ですよ、将さん」
何時の間にかフチカが立っていた。
堪介は瓦礫の山を見つめている。小次郎と将さんは顔を見合わせ……目を伏せた。
「お権……お権。俺が悪かった。もう二度と博打はやらねぇよ」堪介は瓦礫に駆け寄るとうずくまり、顔に腕を押し当てて泣いた。「もう二度とやらねぇ」
本当よ。……約束するのよ。
お権の声がした。一同、顔を上げる。
瓦礫の一帯が突如盛りあがり、埃の溜まった頭をふりふり小山のような巨体が現れた。「あんたぁ」
「お権!」
昇りきった朝日の中で夫婦は互いの無事を確かめ合うように抱き合う。
「よかったなぁ。よかったなぁ二人とも無事で」将さんは両目に腕をあてがい、思わずもらい泣き。
「まったくだ。堪介さん、本当に二度と博打は打っちゃならんぜ」小次郎も目を細めている。
「俺たちが証人だからな」将さんが涙に潤んだ顔をあげて明るく言った。「俺と小次さんと……フチカと」腕を組み無表情に佇む菅笠を被った姿を一瞥する。「それにご隠居。……ご隠居?」眉をひそめた。「おい、フチカ!」
「あっしは堪介さんを連れ出すのに精一杯でして」
「俺も将さんが目をやられたからよ」
「あらまぁ、かわいそうなご隠居さんなのよ」お権が胸の前で手を合わせる。
「尊い犠牲を払ったな。南無」小次さんもやけに殊勝である。
「いや、あの人はもう十二分に生きられた。本望だろうよ、なぁフチカ」
「将さんごもっともで。……徳川家康、戸塚にて客死。正史には書き残せませんね」
「さあてと、お役目も終ったことだし水戸に帰るとしようぜ、将さん。……えっ、お権さんはとめ女はもう廃業して堪介さんと村に帰るのか。そうだな、そりゃいい」小次さんの笑顔に、皆もつられて笑顔になる。「なにはともあれ、これにて一件落着!」
「バカやろう、それじゃ遠山の金さんだろうが!!」
小次さんの言葉を酒に荒れた濁声が打ち消した。
瓦礫の山を突き上げて徳川が顔を出し、頭を振ると髪についた塵を払う。
「おやご隠居!」
「なんだ生きてたんですかい」
「これもまた正史には書き残せませんね」
いやーよかったよかった……どこか虚ろな笑い声の中で徳川の怒りに震える濁声だけが、いつまでも、いつまでも響き続けるのであった。
どうやら似非ご老公一行の旅は、まだまだ終らないようである。