日ハムバッテリー(5)





 寮の自室に戻るなり、不知火はベッドに倒れ込んだ。
 今頃みんな飲んでいるんだろうな。2次会、何処へ行ったんだろう…。試合終了後、片岡さんの行き付けの店で乾杯したものの、まだ未成年の不知火はジュースだった。
『日ハム風紀委員土井垣、か』当然みんなは不知火に勝利の美酒を飲ませようとしたが、マスコミに嗅ぎつけられたらどうするんです!という土井垣の一喝に黙り込んだ。お前だって19で飲んでいただろうが…と言う言葉に、不知火と俺とじゃ注目度がぜんぜん違います、と言い返していた。
『窮屈だな…高校の時マスコミは、山田や里中、岩鬼や殿馬ばっかり追いかけていたのに』
 今の俺は、やつらと肩を並べている。不知火は微笑みを浮かべ、勝利の感動に再び浸った。
 それにしても…。不知火は溜息をついた。行きたかったな。しかし土井垣さんの心配は正しい。つまらないことでマスコミに叩かれるのは御免だ。
『土井垣さん…か』
 今までは呼び捨てのほうがしっくりくる名前であった。
 初対決…俺が高1であの人が高3の時。騒がれているほどのことはない、というのが印象強かった。その後監督になったが…正直、眼中になかった。後に自分がドラフトで指名された時でさえ、山田と同じリーグになったことばかり気になり、あの人が先に入団していることなんて、人に指摘されるまで忘れていた。
 バッテリーを組む事を知らされたときも、そう言えばキャッチャーだったな、と思っただけだった。山田にポジションを取られた、あの男だと。
 だが俺にとってあの人は…投げやすいキャッチャーだった。オールスターで組んだ山田とはタイプが違うが。
 …そう、あの人は俺にとって投げやすいキャッチャーだった。だのに。プロなんだから高校時代のキャッチャーと違って当たり前だ、ぐらいにしか思っていなかった。
 
 前回のライオンズ戦の終了後、目を真っ赤にして俺の投球ビデオを研究していたあの人。野球選手は目が大事だとか言って、必要最低限しかTVを見ない人なのに。芝浦投手コーチと顔を突き合わせて、クセなんかない、やっぱり不知火は完璧だと喜んでいるあの人に、俺は当前だろうと思ったものだった。

 俺の失投で打たれた時でも、いつも自分の責任のように言っていた。あの人のリードで押えられた時は、俺の手柄だと言っていたのに。…だが俺は、キャッチャーなんてピッチャーを盛りたててなんぼのもんだ、としか思わなかった。

 練習場でも、ベンチ内でも、ダイアモンドでも、選手寮内でも。あの人は俺を見守ってくれていた。無口な俺を、先輩選手や…マスコミの前でさえフォローしてくれた。…そんなあの人を、正直うっとうしいとさえ感じ…おそらく、態度に出ていただろう。
 
 不知火は天井を見上げると溜息をついた。
『よくまぁこんな生意気な後輩を、今まで我慢してくれたものだぜ』

 そして今日の試合。あの人は、本当になりふり構わずだった。俺のために。俺を、勝利投手にするために。必ず勝つから、と言っていたあの人。そして本当に、勝った。

『土井垣さん』
  
 いつも一生懸命な土井垣さん。
 
 誠実な土井垣さん。
 
 どんな時でも俺を気遣ってくれる土井垣さん。

『土井垣さん』俺の先輩、俺の…恋女房。
 
 もはや土井垣、などと呼び捨てにするなど憚られた。実力の格が上だとか下だとか、そんなことはもうどうでもいい。

 飲みに行きたかったな…不知火は再び溜息をついた。心の底から、土井垣さん、と呼びたいと思った。もうタメ口なんか叩かない。あの人の誠意に、俺も答えたいから。
 酔いの勢いで、土井垣さん、と言ってしまうつもりだったのに。今までが今までだけに、素面で言えるだろうか。
 明日どんな顔で会えばいいんだ…不知火の口から、また溜息が漏れた。

 
 
 
 突然、部屋の扉をガンガン叩く音が響き、不知火は跳ね起きた。同じく寮に暮らす土井垣かと思ったが、あの人はこんな乱暴な叩き方はしない。
 もう遅いのに近所迷惑顧みず、音はますます大きくなった。連打の嵐、乱れ打ちである。不知火は慌ててドアを開けた。
「よ!不知火っ」開けたとたんにムッと漂う酒の匂い。
「片岡さん…川名さん、井出さんまで。2次会、もう終ったんですか?」一応に赤ら顔で不気味な笑顔。みんなすっかり出来あがっている。
「あれは1.5次会、2次会はこれから。迎えに来たぜ、さぁ来い!」あっと言う間に井出に腕を取られる。
「来い、って…飲みにですか?…でも土井垣さんが…」あの人を裏切るようなことは…。
「だからぁ、その土井垣が飲もう!って言ってんじゃないか」と、川名。
「ええっ?…あ、財布とってこないと…それに、鍵、鍵!」
「心配すな、勇翔寮の治安は最高やで…選手会長直々に迎えに来とるのに、何が鍵や!早よ来い!」
 ほとんど拉致されるように、不知火は連れていかれた。

 
「お待ちどうさん!勝利投手のご登場やでぇ…誰や、俺が迎えに行ったら、怯えて来るものもけぇへん言うとったやつは!!」
「おーっ、不知火、まぁ座れ…どけどけ完投投手に場所を空けろ」
「土井垣ー、グラスどうしたぁ、…なにぃもう無い?食堂で探して来い!しょーがないなぁ、先ずはビールだ。イケル口なんだろ?」
 連れていかれたのは同じ寮内の、土井垣の部屋だった。狭い部屋に人間がひしめき、物凄い熱気だ。
 部屋の真ん中でおずおずと正座をする。酔っ払いの迫力に押されて、素面の不知火は落ちつかない。
 突然冷たいものが首筋に押し当てられ、驚いて振り向くと、岩本が缶ビールを持って笑っている。「外やったら何かと気ィ使うやろ…ここやったらなんぼ飲んでも平気、って土井垣がな」
「土井垣さんが…。あれ、何で岩本さんがここに?」訝しげな不知火に、周囲から笑い声が起こる。
「アホ、ブルペンで一生懸命応援しとったんやぞ!」
「そうそう!もう5回ごろから、後の回は俺に任せろ、ってうるさい、うるさい」
「そのほうが確実や思たんです!…ほれ、不知火、プルトップ開けたったで…。さぁみなさん、乾杯しますよー!用意はいいですかー」
「こら、音頭取りは選手会長の仕事や!…不知火よ、これで山田には高校時代の決着をつけたな。次はオリックスのとんまか?それともダイエーのハッパ…ジャイアンツの微笑と日本シリーズか?」早くしろ、ビールがぬるくなる!と広瀬のブーイングが飛ぶ。
「まぁとにかくよかった!」片岡がビールを掲げた。「不知火の山田への勝利を祝って…乾杯!!」
 乾杯!…不知火の缶ビールに、あちこちから集まってきた缶ビールが、触れ合った。
 そうだよな。勝利の後は、やっぱりこうでなきゃ。掲げながら、不知火は嬉しかった。ありがとうみんな、俺のために。缶に口をつける。
 旨い。
 高校の時の隠れ酒なんか目じゃない。一気に飲み干した。どよめきと拍手。すかさず2本目の缶ビールが差し出される。
 
 入れ替わり立ち代り先輩達が不知火の勝利を祝ってくれた。陽気に、底抜けに楽しく。やっぱり飲み会は楽しい。

「すまんなぁ不知火…。俺の行き付けの店でボトルキープのV.S.O.P飲ましてやろうと思っていたのに」
 いつのまにか広瀬が横にいた。「しかしいい飲みっぷりだ。同じ高卒ルーキーでも土井垣とはぜんぜん違うな」
「…土井垣さんはどこです?」あの人に、礼をいわなきゃ。
「あれ?おーい土井垣、どいがきぃー、将ちゃーん、若旦那様からのご指名だぞ!」
「さっき片岡がグラスがないってわめいたから…どっか探しにいきましたよ」田中もご機嫌だ。
「…………」2本目の缶ビールに口を付けながら、不知火は、どこかほっとしている自分に気づいた。いかんな、こんなことでは。 

「おー、土井垣お帰り!グラスが来たぞ、グラスが」
 扉の開く音がして、グラスと何やら抱えた土井垣が戻ってきた。「食堂からくすねて来ました」
「何してたんだぁ、酒が腐るだろー!!」見ればテーブルにまだ未開封の一升瓶が置いてある。これから飲もう、というのであろう。
「なんだ土井垣、このイリコの業務用大袋は?」
「ツマミになるかなと思って…他は玉ねぎとジャガイモしかなかったんで」
「ばかやろ、こんなもんツマミになるか!」
 グラスを受け取ろうと、土井垣のまわりに人間が集まっている。

 もう少し酔わないと、話しかけにくい…不知火はビールを飲むピッチをあげた。
「不知火はビールのほうがいいのか?」見上げると、グラスをもった土井垣。
「…………」こんな席を設けてくれて、ありがとうございます土井垣さん。感謝の言葉を、心から言おうと思っていたのに。
「この酒、美味いらしいぞ。ファンが送ってくれたんだけど、俺1人じゃ飲めないからさ。…まさか今まで日本酒を飲んだことがない、なんてないよな?」笑顔の土井垣。顔はかなり赤かった。
「…そんなわけ、ないだろう」まだ酔い足りないせいで今まで通りのつっけんどんな物言いを返してしまう。くそっ…不知火は思わず、顔を背けた。
「…まぁ、好きなほうを選べよ」土井垣の顔が一瞬曇ったが、正座の不知火の膝あたりに空のグラスを置いた時には、いつもの顔に戻っていた。「明日試合ないから、今晩は凄いぞ。しばらく登板ないからって、無理はするなよ」優しい微笑み。「隣、いいか?」
 不知火は土井垣のために体をずらした。…足崩せよ。言われて胡座をかく。
 沈黙。回りが騒がしいだけに、際立って感じる。
「今日のピッチングは、本当に素晴らしかった」ややあって土井垣が口を開いた。
「…………」
「お前のようなピッチャーの球を受けられて、本当に捕手冥利に尽きるよ」
 不知火は息を吸い込んだ。
 土井垣さん。俺も、今日は投げやすかったんです。ストレートばかりでなく、遅球やフォークだって俺の決め球だと、改めて実感させてもらいました。…任せるとか、委ねるとか、信じるとか、そんな気持ちを野球で初めて感じました。明訓が強かったわけです。あいつら、きっと9人以上の力を出していたんだ。…白新のみんなだって、俺は信じていましたよ。…でも、心のどこかで、俺ががんばらなきゃ、俺1人ががんばらなきゃ、って思っていたんです。明訓と白新の野球って、ぜんぜん違ってたんですね。
 そんなことを、言おうと思っていた。言いたかった。だのに。
「……そうか」不知火は、やっとそれだけ口にした。またもぶっきらぼうな調子で。
 再び沈黙。
「すまん」不知火の横で正面を向いていた土井垣が、わびるように頭を下げた。「今日のお前のストレートは本当に凄かった。…勝負したかったろうな、ストレート1本で。ひょっとしたら、それでいけてたかもしれん。…本当に、すまん」
 謝らないで下さい、土井垣さん。そりゃストレートで勝負したかったけど…変化球で手玉に取るのも楽しかったですよ。
「土井垣、…さん」…きちんと話すんだ。不知火は首を動かすのが大儀であるとでもいうように、ぎこちなく土井垣のほうを向いた。「別に俺は…」
「土井垣、お前こんなもんオカズにしてんのかー?」突然名前を呼ばれて、土井垣は声のするほうを向いた。ベッドサイドのあたりで、片岡を先頭にごそごそ家捜しをする一群。「Urekkoなんて高校生の…ははは、デラべっぴん…え、何だ?ほう、洋モノがある?裏か!ビデオもあるって?」
 土井垣は飛びあがった。「なっ…。何をしているんですかぁ!!」すっ飛んでいく。
 たまらず不知火は笑い出した。俺の部屋に集まったんじゃなくて、本当によかった。
「おーい、不知火!こっち来い!!」広瀬に呼ばれて、不知火も場所を変わった。心残りを感じながら。

 
 夜は賑やかに更けていった。上田監督やコーチが見たら、目を剥いたに違いない。
 イリコの袋などというものが空っぽになっているのが、乱れっぷりの証拠物件であった。
 寮に来る前にしっかり出来あがっていた連中は、今土井垣の部屋ですっかり酔いつぶれている。一次会で飯を食っただけだった不知火は、まだ頭はしゃんとしていた。壁にもたれて飲んでいると、隣で女の話しに花を咲かせていた広瀬が、倒れ込んできた。
「広瀬さんも激沈か」土井垣は笑っているが、なんとなく足元がおぼつかなく見える。「不知火、広瀬さんを横にならせてくれないか?…困ったな、もう掛けるものがないぞ」バスタオルやら上着やら総動員したが、部屋で転がるメンバー全員に行き渡るのは無理だったようである。
「田中さんと一つ布団で寝かせたらどうだ…朝起きたらびっくりだ」
「ははは、そりゃぁいい」笑いながら、広瀬を抱える不知火を助けようとした土井垣だったが、よろけて岩本の頭を蹴飛ばした。しかし、ぴくりとも動かないので、土井垣も気づかなかった。
「座るところがなくなっちまった。…そろそろ俺たちもお開きにするか」足の踏み場もなくなった室内を、土井垣は見下ろした。
「これからどうする…」相変わらず視線を合わせず、ぶっきらぼうな不知火。
「…別に…。ああ、お前は自分の部屋に帰って寝ればいい。すまんな、つきあわせて」
 不知火はテーブルの上の酒瓶を取った。土井垣のファンが送ってきたのとは違う。いつの間に涌いたのだろう?
 土井垣が不知火の顔を見た。「そうか、2次会出てないもんな。飲み足りないのか?」
 不知火は酒瓶を左手に下げたまま、戸口へ立った。扉をあけ廊下に顔を向ける。「ここじゃ眠れないだろう。…俺の部屋に来い」

 
 
 この人は、あんまり強くないんだな…よろける土井垣に手を貸しながら、不知火は思った。きっとルーキーの頃はつぶされまくったに違いない。今日は幹事の真似事みたいなことをしたから、今までもっていたのだろう。
「不知火、すまん…」部屋に入りながら、土井垣はつぶやいた。崩れるようにへたれこむ。
「寝るならベッドを使え」相変わらず愛想のない口のきき方しかできない自分が歯がゆい。
「本当にすまん…。あのホームランは俺の責任だ。力の足りん自分が不甲斐ない」気を使う先輩がいなくなって、急に酔いが回ってきたらしい。
「まだそんなこと言ってんのか」あなたはタイムリーを打ってくれたじゃないですか。
 土井垣は頭を垂れたまま、すまない、と繰り返した。
 そして、沈黙。
 間が持たないので、グラスを用意すると、もってきた酒を注いだ。土井垣が飲むのはもう止めたほうがいいと思ったが、取りあえず用意した。
 二人は黙って口にした。
 どうしてたったこれしきのことさえ、俺は言えないんだ。不知火は土井垣の目を見据える。とろんとした焦点の定まらない瞳が、不知火を見ていた。
「その…」正視できなくて、不知火はそっぽを向いた。くそっ、女に告白する高校生じゃあるまいし…。
「その…、今まで失礼だった。何ていうか、これからは…」不知火は立ちあがった。窓辺に立つと、外を眺める。もちろん、何も見てはいない。
「これからは気をつける……だから、これからもよろしくな、土井垣。…さん」尻すぼみの小さな声だった。
 土井垣は沈黙している。聞こえなかったのか?
「と言うことだ。…いや、そういうことです、土井垣、さん」
 相変わらず沈黙。お願いだ、何か言ってくれ。
 堪らなくなって、振り返った。「……土井垣さん、今日はありがとうございました…」頭を下げる。「今まですみませんでした、これからも、よろしくお願いします!!!」
 しかし土井垣の返事はない。しばらく頭を下げ続けていた不知火だったが、やがてイビキの音が聞こえてきた。
「土井垣さん…」顔を上げると土井垣は床に倒れ込んで眠っていた。無邪気な寝顔。
 まったくこの人は。しばらくへの字の口をしていた不知火だったが、やがて微笑んだ。右腕に負担がかからないようにベッドに運ぶには骨がおれそうだが…俺に、まかせてください。
『おやすみなさい、土井垣さん』

 
 
 
 
 最初に、鼻がめざめた。香ばしい匂い。
 次は耳。コーヒーメーカーの軽快な音。
 目を開けると、見馴れた朝の天井があった。しかし。
 土井垣は瞬きした。家具が違う。配置が違う。昨日…どうしたっけ?
 ゆっくりと起きあがった。ああ、そうだ。不知火の部屋だ…。
「おはようございます、土井垣さん」声のほうを向くと、光の中に不知火がいた。テーブルのコーヒーメーカーが最終段階の音をたてている。
「お前そんなもん持っているのか…」
「実家に2台あるんですよ。家で買ったのと、だいぶ前に親父が会社のボーリング大会でもらってきたのとね。で、独り暮らしするなら持ってけ、って」不知火はサーバーを外した。「土井垣さんもいかがです?」
 今日の不知火は、なんだかいつもと違う。まだ酔いの残る頭はなかなか働こうとしなかったが、ややあって…気がついた。
 
 どういう心境の変化かは知らないが。

「空きっ腹でも大丈夫ですよ、思いっきりアメリカンだから…」穏やかな不知火の声がする。「それとも紅茶にしますか?…ティーバッグあったと思うけど」
「……おはよう、不知火」土井垣は微笑んだ。

 お前はピッチャーだから。好きにすればいい。

「その、思いっきりアメリカンでいいよ」奇妙な言い回しだが、不知火家の言い方なのだろう。
 不知火はマグカップにコーヒーを注ぐと、土井垣の枕元にやってきた。
「あっ、俺いつもブラックだから砂糖もミルクもないですけど…」
「俺もいらんよ。こんなに薄いんだったら番茶みたいなものだ」しみじみと不知火の顔を眺めた。…お前は、こんなに穏やかな顔をしているやつなんだな。

 不知火はカップを土井垣に手渡すと、にっこり笑った。







 


今までお読みいただいて、本当にありがとうございました。




 

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