狢沢の夜





「三平くん、手の届きそうな星空だネ……」
 再び彼らは狢沢へやって来た。
 焚き火の跡がまだ黒々と残っていたので前回の野営地はすぐに見つかり、日もたいして暮れないういちに夕食の準備を終えることができた。
「うん魚紳さん、ほんただきれいだなや。オラたちの大漁さ祝ってチカチカまたたいているみてぇだぞ。こんただアタリの多い日に都合悪いなんて、丈助さん日ごろの行いが悪いんじゃねぇべか」
「フフフ……」
 ピシッと薪が爆ぜ、揺らめく炎が少年らしいふっくらした頬を照らした。少年は赤の長袖カットソーに白いシャツを重ね着したスタイルである。焚き火を挟んだ向かい側では、チェックシャツにフィッシングベストといういでたちをした長髪の男が、少年を見守るように石に腰をおろしていた。魚紳の仕事が休みの間にもう一度、という話になったのだが今回、イワナ釣り名人の丈助は急用で急遽不参加ということになり、川原の焚き火を囲んでいるのは三平と魚紳の二人きりである。
 イワナの焼ける香ばしい匂い。パチッと皮の爆ぜる音がますます食欲をそそる。飯盒のご飯もおいしく炊き上がった。
「いけね、星に夢中でボケーッとしてたら味噌汁が煮えすぎちまう。魚紳さん、ちょうど煮え花だや、オラ自慢の山菜汁の出来上がりだべ。今夜のために愛子姉ちゃんに教えてもらっただ……魚紳さん?魚紳さん!熱燗は後だや、まずはメシ、メシ!」
 傍らの竹徳利の確認に余念のない魚紳に、三平はふくれながら声をかけた。二人きりの野営は何度も経験がある。川原で、湖のほとりで、これまで幾度も二人っきりで夜釣りを楽しんだものだった。
 しかしこのような山奥での野営は、なんとなく平地でのそれとは雰囲気が変わる。今夜狢沢において人工的な明かりはこの小さな焚き火しか存在せず、おそらくこの沢で人間は自分たちだけなのだと思うと、三平はなんとなく心細いような、甘えたいような気持ちになる。大人の魚紳さんはどうなんだろう……やれやれと少し残念そうに竹徳利を焚き火から遠ざける魚紳を眺めながら、ふとそんなことに思いはせる。大人の魚紳さんは、いつもなにを考えているのだろう……。
「三平くん、煮えたぎってるよ」
 見れば、焚き火にかけた鍋はぐらぐらと沸き立っている。
「いけね!」三平は玉杓子つかんだ。「アチーッ」
 無造作に焚き火のそばに置かれていた杓子は熱を持ち、三平が慌てて耳たぶをつまんだ拍子に草むらに飛んでいってしまった。
「大丈夫かい?お玉はオレが取ってくるから水で冷やしなさい」
 冷やすほどのことはねぇべ……草むらできょろきょろ探している魚紳にそう声をかけようとして、三平の顔が曇った。
 焚き火から離れると、あたりは星明りしかない。魚紳の足取りはおぼつかなかった。
「足のすぐそばに落ちてるだべ、見えねぇのか?」
 言い終わる前に気がついた。こんな暗い中グラサンをかけていて、まわりがよく見えるはずがない。
 魚紳の手が足元を探る。しばしさまよった後、やっと拾い上げた。
「さ、夕食だ、三平くん!キミの山菜汁が楽しみだよ」
「あ、ああ……お椀、かしてケロ」
 
 焚き火は、二回りぐらい小さくなっていた。
そろそろ寝るかな……魚紳は最後の竹徳利を手に、三平と鍋を囲んでいた時よりも西に移動した春の星座を眺めた。
 裸眼で見る星空は、サングラス越しよりもはっきりと明るい。
 明るさの乏しくなった小さな焚き火の前で、魚紳はトレードマークのグラサンを外していた。
 子供はもう寝る時間、というわけで三平の姿は見えない。テントで寝息を立てているのだろうか。
 左手でつまんだグラサンを無意識に弄んでいたのに気が付いたのか、魚紳は苦笑いを浮かべ、ぬるくなった竹徳利の最後の一口を飲み干すと、立ち上がった。
 焚き火を消すと、辺りは闇に閉ざされる。テントに入ろうとかがむ前に、魚紳はグラサンをかけようとして……また唇の端をつりあげ、やめた。
『あの子は、もう眠り込んでいることだろう』
 テントに潜り込むと星明りが遮断され、一瞬視界が真っ暗になった。ブランケットの位置を確認するためにランタンをつける。もうかなり暖かいので寝袋は持ってきていなかった。
「魚紳さん……」
 まぶしそうにしばらく瞬きを繰り返してから、大きな瞳が魚紳を見つめた。
「おや、ごめんよ。起こしてしまったネ」
 そう言いながら魚紳は、すばやくグラサンをかけようとした。
「待ってケロ!」
 三平の口調は、突然眠りを覚まされた者のそれではなかった。寝ぼけた顔つきでもない。
「あれ、ずっと起きていたのかい?よく眠れないの?イワナと山菜汁を食べ過ぎたかな……一緒に外で星空を見ようか。本当に、降ってくるようだよ……」
「なぁ、魚紳さん!なして、いっつもグラサンをかけているだ?」
 笑いに紛らわしながらサングラスをかけようとした魚紳に、三平の鋭い言葉が飛んだ。
「風呂はいる時も、水に潜るときも、布団に入ったって、いっつもグラサンを離さねぇだ。魚紳さんが、その……右目を気にしていることは、オラもわかっているだ。だども、オラはそんなの気にならねぇべ、こんな夜ぐらい……」
 畳み掛けてくる三平に、魚紳が静かに口を挟む。
「……キミが気にしなくても、おれが気にするんだ。すまないけど……」
「そんだたことはわかっているだ。ただ、前にTVで見たんだけんど、暗いところでいつもサングラスかけていだら目がどんどん悪くなるだそうだ」
 三平は起き上がると、しゃがんでいる魚紳に顔を寄せた。
「今日の昼間、沢を泳いで渡った時だ……岸に上がってから魚紳さん、グラサン外してタオルで拭いたべ?あん時、ほんただこと眩しそうな顔して目をつむっただ。……ちょうど雲が流れてきてお日様が翳ったのによ。オラにはぜんぜん眩しくなかったのに。いっつもサングラスかけているから、眼が明るいのに耐えられなくなっているんじゃねぇべか?」
 心配そうに見開かれた、三平の瞳に映り込む自分の素顔を恥じるかのように、魚紳は顔をそむけた。
「キミは、俺のことなど心配する必要はない……」
「そんなこた無理だ!さっきオラがお玉ぶっ飛ばした時も、すぐ足元に落ちていたのにわからなかったべ。あれから今までオラ、どうしようか、黙っていようかずっと考えていただ。こんただこと魚紳さんにとっては大きなお世話ってことわかってるべ、確かにグラサンかけるのは魚紳さんの自由だ、だども目に悪いことを知ってて黙ってみてるだなんて、……オラ、できねぇ。魚紳さんの片方の目が不自由だから言ってるんじゃねぇべ。魚紳さんはオラにとってとても大事な人だ。その人の体に悪いことなのに……」
「三平くん。ちょっと待ってくれ」
 魚紳はランタンを吊るすと、グラサンをベストのポケットにしまった。しかし顔はそむけたまま、三平のほうを見ようともしない。視線が合うのを恐れるかのように。
 ベストを脱ぐと荷物の上に載せ、魚紳はランタンに手を伸ばした。
「さぁ、これでいいかい?」
もう充分だろう、と言わんばかりの調子だった。明かりのほうに顔を向けているのでどんな表情なのか三平には見えない。
 少年は不安な顔つきになったが、顔を上げ、きっぱりと言った。
「明日もそうしてケロ。オラの前では、これからもずっとそうして欲しいだ。昼間でも」
 魚紳の手が止まった。
「他の人がいる前では仕方ねぇけどオラの前では、なぁ魚紳さん。そうすればちょっとでも目にいいんじゃねぇべか?」
 相変わらず上を向いたままなので、魚紳の表情はなんとも判別がつかない。
「魚紳さんはハンサムだや」
 三平は、はにかんだように笑った。
「ああっ、その別に同情したりして言ってるんじゃねぇべ、ずっと前からホントにハンサムだと思ってるんだ、そのう、そのまんまで……ははは、オラァなんかスンゴク恥ずかしくなってきただ、はははは……」
 魚紳はうつむき加減に鼻の下をこすると、再びランタンに手を伸ばす。
「もう休むとしよう。明日は早いぞ」
 三平が答える前に、辺りは真っ暗になってしまった。
 布地の擦れる音がした後、テントの中は静かになった。
 しばらくは虫の鳴く音、沢のせせらぎ、野猿のなく声などが聞こえてくるだけだった。やがて寝返りの気配がして、横たわる魚紳の耳元で、三平のささやき声が聞こえた。
「もう寝たべか?……魚紳さん」
「……なんだい」
 なんとなく不安な声に、魚紳は顔を向けた。暗がりだから、顔ははっきりとは見えないだろう。
「ごめんなさい、あげなこと言って。ひょっとしたら日の光が右目に悪いのけぇ?だったらオラ……」
「右目はもうどこも悪くないんだよ、って完全に見えないのにおかしな言い方だな。心配することはない、もう二十年以上前の古い傷だから別に痛みなどはないんだ。すっかり治ってるのさ……ああ、これもおかしな言い方になるかな」
「右目……ぜんぜん見えないのけ?」
「ああ。完全に摘出して義眼を入れたらどうだ、と勧められているぐらいさ。でも、ほとんど眼窩から飛び出しかけていたのを手術でなんとかきれいに納めた、って話を聞くと、無下に取ってしまうのもなんだか……それに顔の傷のほうはこれが精一杯だそうだし……ああ、すまない、こんな話をして」
「オラのほうこそ申し訳ねぇだ」
 夜目に慣れてきて、横たわる三平のすまなそうな顔つきが魚紳の目に入った。
 彼は真横にいた。暗い中、瞳孔の大きくなった瞳は明るい中にいるよりも沈んだ色合いだったが、それは三平の心の色だったのかもしれない。
 ふいに瞳が揺らめくと、少し上目遣いに見つめながら、頬に残る傷跡に触れようと小さな手が魚紳の顔のほうに伸びてきた。
 魚紳の左目には近付いてくる指先が映り込んでいる。半ば開いた唇は、閉ざすのを忘れてしまったかのようだ。
 しかし触れようとした瞬間、三平の手は虚しく宙をさまよいやるせなく握られた後、すごすごと離れていった。
 魚紳が、顔を背けてしまったので。
「あっごめん魚紳さん、オラ思わず……。そっか、もうぜんぜん平気なのか。それはよかっただ」
 奥歯にものの挟まったような調子で言うと三平は元の位置に戻りテントの天井を向いた。
「ごめんな、魚紳さん。オラ、あんただこと言ったけど、……魚紳さんの好きにすればいいだ。本当にごめんな、魚紳さん……。さっ、ホントに寝るべ寝るべ。明日もイワナが待っているだ」
 魚紳は何も、答えなかった。
川のせせらぎとともに、また虫のささやく声がテントの中に戻ってきた。何処かへ移動したのか、野猿の叫びは聞こえない。三平は徐々に、眠りに引き込まれていった。
 魚紳さんに悪いことしちまっただ……明日、どんな顔さすればええだ……体は重く、眠りに支配されつつあったが、三平の心は魚紳へのすまなさで一杯で、夢うつつのような、奇妙な気分であった。
 ――三平くん、もう寝たかい――
 とても優しい魚紳の声に三平は答えようとしたが、まるで金縛りにあっているかのように声が出なかった。きっと夢を見ているんだべ……それにしては暖かい大きな手のひらが、自分の、さっき拒絶にあった指先を包み込むのが感じられた。
 ――さっきは、すまなかった――
 引き寄せられた三平の指先が、ゴツゴツしたものに触れた。魚紳の鼻のようだ。暖かい吐息を手首のほうに感じ、酒臭い匂いがした。やがて密生した短い毛に触れたが、その下の骨が隆起しているところをみると眉毛らしい。眉は途中で途切れ、また続いた。途切れた部分が傷跡なのだろう。
 魚紳の手が、三平の指先を誘導した。傷跡が目の窪みを通って、頬まで抜けているのがはっきりわかる。妙につるりとした手触りの線が走っていて周囲に凹凸があり、その回りの、三十過ぎの男のざらりとした皮膚の感覚とは、明らかに異なっていた。
「……。痛く、ねぇべか?」
 やっとそれだけ、三平は口にすることができた。ぼんやりと霞んだ魚紳の顔が、自分の目と鼻の先にあった。グラサンをかけていない、素顔の魚紳の顔が。もっと話をしていたいのに、眠くて眠くて仕方がない。
 魚紳の手の動きが、ぴたりと止まった。息遣い聞こえるが、自分のものなのか魚紳のものなのか、三平にはわからない。
 ――痛くはないよ。感覚がないというか、少しくすぐったいぐらいさ――
 三平の耳には、魚紳のかすれた声がずいぶん遠い場所から聞こえてくるような気がした。
 ――ごめんな、魚紳さん、ごめんな――
 自分の話し声もやけに遠い。魚紳の顔がぼやけ、あたりが真っ暗なる。もう目蓋を開けていられない。
 ――おやすみ、三平くん。心配してくれてありがとう。嬉しかった――
 おやすみなさい、魚紳さん……穏やかな魚紳の声に三平は精一杯答えようとしたが、唇はもう動かず、暖かい眠りの中に引き込まれていった。
 
 半ば開いた三平の口元から、やがて穏やかな寝息が漏れてきたが、魚紳は肘をつき三平に寄り添った姿勢のまま、小さな手のひらを自分の頬に押し当てていた。
 まだ大人の男の指先には程遠くほっそりとしているが、骨のしっかりしたしなやかな指を、自分の唇の方へと移動させる。伸びかけたヒゲに指先は確かに触れたはずなのに、何の反応もなかった。本当に、眠ってしまったに違いない。
 小さな手を、自分の唇に押し当てる
 魚紳は目を閉じると、しばらくそのままでいた。やがて名残惜しそうに三平の意識のない手を離すと、苦い声音でつぶやいた。
「オレの素顔は、汚れすぎているんだヨ」
 魚紳は三平の手を宝物のように注意深くブランケットの下に収めると、引き剥がすように、寄り添う自分の体を離した。
 ……呼吸を整えると、荷物の上に置いたベストを手にとり、テントを後にする。
 
 
 空には、満天の星が広がっていた。
 魚紳は清々しい夜空を仰ぐ。
 虫の合唱とせせらぎの独唱と。川の中で何かの飛び跳ねる音。
 黒々とした焚き火の跡は、すっかり冷え切っていた。
「今夜は少し飲みすぎちまった」
 頭を冷やさなきゃな……。魚紳はつぶやくといつものようにグラサンをかけ、冷たい石の上に腰を下ろした。
 
                 
 


 





 初書きさんぺーでございました。
 前半は平成版を、後半は初期のイシダイ編を読んでいたので魚紳さんの性格づけがなんとなく妙です(汗)。
 初期のやさぐれ魚紳さん、どうにも堅気に見えません…勝手に素顔は『悪徳弁護士』設定なぞ。





 

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