「そこ!コードあるんです、引っ掛けないで!」老朽化の目立つ土佐丸高校は敷設工事が不充分で、国語準備室の床はパソコンの電源コードが剥き出しで這いまわっている状態だった。両手に生徒から集めたノートらしきものを抱えた教師が、慌てて立ち止まったので、電源は事無きを得た。
「頼みますよ、去年の学期末の悪夢はもう御免ですからねー」勘弁してくれと言わんばかりの丹座に、周りの教師たちは失笑した。
「おやおや、またフリーズしてる丹座先生が見られるかと思ったのに…」
まだ教師ではなく、正式には講師の身である丹座にあてがわれた教員机は、最も“危険な”場所に位置しており、一昨年、1週間かけて製作した学期末テストが目の前で消失する憂き目にあった丹座は、ギリギリまで徹夜したあげくに、朝方までたった一人で印刷機を操作するはめになった。
「丹ちゃん、嫌なら早いとこ教員試験、受かりなさい…野球部の指導も、ほどほどになさいな」熟年の女性教師がクスクス笑う。
受かったって新入りが入らなきゃ、いつまでたっても俺が下っ端じゃないか…丹座は苦い顔をした。ふん、今度の冬のボーナスでは、絶対マイノートパソコン買ってやる、こんな何年前の備品かわからんような調子の悪い骨董品とはおさらばだ。
国語教師の中では、丹座が一番若かった。卒業してから何年が過ぎただろうか。もう生徒時代の丹座を知っている教職員は、準備室には誰もいない。
「ところで丹ちゃん何やってんの?もう期末テスト作ってんのかい?…対戦相手のデータ?またクラブ活動か」丹座の次に若い、30代半ばの教師は写真部の顧問だった。下っ端の丹座は教職員の間では丹ちゃん、と呼ばれることが多い。
かつては甲子園の常連校だった土佐丸も、最近は他校の台頭で、苦戦をしいられている。データ収集など、犬飼小次郎監督時代には、考えもつかない行為であった。
「本当に熱心だねぇ…でも、夏は教員試験のシーズンでもあるんだよ。君ィ、今年でいくつ?」この胡麻塩頭の年配教師は心配しているのか意地悪をしているのか、いつもいつも同じことを言った。
「28です…高知県の年齢制限は35ですから…」去年も丸きり同じ会話をしたなぁ…丹座は神妙な顔を作り、次の嫌味に備える。
「講師と言ったってアルバイトと同じようなものなんだからね。このままじゃ結婚もままならないよ。甲子園出場もいいが、教える側がフリーターと大差ないんじゃ、生徒に示しがつかんだろう?」一流国立大出のこの教師は、三流の公立大出でしかも一浪した丹座を明らかに見下していた。てめぇこそ、国立大出身のくせに、なんで土佐丸になんていやがるのさ。…10年前の丹座ならぶん殴っているところだが、今や野球部監督もこなす彼は、微苦笑を浮かべながら、有り難く拝聴のフリをするだけの余裕が身についている。
「それとも反面教師のつもりなのかね?高校時代、クラブ活動なんかに打ち込み過ぎると、こんなオトナになるという…」胡麻塩はとうとうと語り続ける。またあの人の悪い癖が出た…。周りの教師も、うんざり顔である。胡麻塩がこの歳になってもヒラなのは、もちろん人望がないせいで、それが彼を更に嫌味な人物にしていた。
「まぁまぁ。クラブ活動に打ち込み過ぎても、大成した人物はいますよ…」写真部顧問が口を開いた時だった。
「監督…じゃない、せんせーい、丹座先生!」突然、国語準備室の引き戸がガラガラと音をたて、野球のユニフォーム姿の少年たちが、顔を覗かせる。
「馬鹿もん!先ずノック、それから失礼します、だろうが!!」一番出口側の、机に向かっていた丹座は、顔を上げるなり怒鳴りつけ…眼を丸くした。
少年たちの後で、鍛え上げられた野球部員でさえ見劣りするほど立派な体つきをした長身の男が、準備室の中を懐かしそうに覗き込んでいる。
「……。キャ、キャプテン……」
わー、監督がキャプテンだってよう…子供達は何が面白いのか、大騒ぎをしている。
「犬飼小次郎?…福岡ダイエーホークスの犬飼投手だ!ほ、本物だぁ!」驚き過ぎた胡麻塩は、持っていた湯のみを取り落としそうになった。
「ほら!大成した見本だ!丹座先生は彼と甲子園へ行ったんですよ…土佐丸野球部黄金時代の立役者の一人なんですから」写真部顧問はしてやったりの笑み。「野球漬けの3年間の後で、たった1年浪人しただけで国公立ですよ…どっかの誰かさんみたいに勉強だけしてたんじゃなくてねぇ」
「そうか昨日、坊ちゃんスタジアムでダイエー対日ハム戦やってたんだ…」
「きゃあきゃあ、卒業生だとは聴いていたけど、サ、サイン、サイン!」慌てふためく教職員たちをいいことに、子供達は会釈する小次郎を連れ、大威張りで準備室に入ってきた。
「おい、呑む約束7時からだったろ?」すっかり羨望の眼差しの胡麻塩に、丹座はイイ気分だった。全く絶妙のタイミングで来てくれたぜ。
「ツレに母校を見せたくてな…」小次郎は廊下のほうへ顎をしゃくった。
丹座は準備室の外で、所在無さげに辺りを見まわしている坊主頭の男に気がついた。
「土井垣!」
日ハムの土井垣選手を呼び捨てにしたぞー…子供達はさらに騒いでいる。室内の視線が今度は一斉にそちらに向かったが、馴れたものなのか表の男は動じる風でもなく、片手を上げた。
「よう、久しぶり…。しかし、国語の先生をしているって、本当だったんだな。驚いたよ」
「学校中大騒ぎだったな…だけど丹座が先生なんて…どうにも信じられん。高校時代は殺人野球で…大学では講義にも出ないで…女の子追っかけまわしてたようなヤツなのに…」土井垣がこうつぶやくのは、何回目だっただろうか。もうかなり酔いが回っているらしい。しかし、小次郎はかまわず、空になりかけたグラスに、酒を注いでやっている。
丹座は土井垣の坊主頭をはたいた。
「人聞きの悪いこと言うんじゃねぇ。大学野球の話とか、変体仮名ひいひい覚えた話とか教育実習とかよう、俺が話してやったキャンパスライフは合コンだけじゃなかったはずだぜ!おめぇが女の話以外は忘れちまってるんじゃねぇか」はたかれた坊主頭は、カクン、と垂れたまま。「…まぁ、土井垣とは俺が高知に帰って以来会ってなかったからなぁ。…でも四国にもよう、公式戦のできる立派な球場ができたことだし、日ハムダイエー戦の後には、また俺が学生の時みたいに3人で飲もうぜ…。おい?おい、土井垣」丹座の話も終らぬうちに、土井垣はずるずるとテーブルに突っ伏してしまった。
「やれやれ…。おい、キャプテン、あんた、わざとつぶしたろ?」酔いつぶれて寝息を立てている土井垣を見ながら、丹座はニヤニヤ笑った。
あの夏が終り丹座が誘わなくなると、小次郎との仲は自然にもとの友人同士へと落ちついた。それを寂しいとは思わなかった…むしろ、仲がぎくしゃくして友情さえ失われることを怖れていた丹座は、小次郎が屈託なくもとの関係に戻らせてくれたことを、感謝したくらいだった。小次郎と絶縁状態になることさえなければ、丹座には文句を言う筋合いはない。そしてプロに入ると小次郎は、丹座の予想していた通り、土井垣と、上手くやったらしい。
「W杯のせいでしばらく試合はないは、シーズン中で弟たちは不在だは…まさか実家に連れ込む気か?」つっついても土井垣が目覚めないことを確かめている小次郎に、丹座は言った。
「ふふん、それもいい…。目が覚めて俺の実家だと知ったら、コイツ、驚くだろうな…」
「素直に泊まってくれないもんかね?相変わらずツレないヤツだ」土井垣の高校時代と変わらぬ坊主頭を、丹座は眺めた。「付き合って何年目になるんだよ…周りにだって薄々感づかれていることに、コイツ気がついていないのか?」
「…天然野郎だからなぁ。この野球バカが何考えてんだか、俺にはさっぱりわからん」テーブルに突っ伏したままの土井垣を抱き起こすと、優しく自分にもたれかけさせる。「二人で飲む時だったら、絶対こんなに乱れねぇ。すっかり警戒しててよ」
「…普通なら、女と付き合うようなタイプだからな。キャプテンに素直になれないんだよ。色々へ理屈つけなきゃ、自分が恥ずかしいんだろ」
「普通なら、か…」小次郎の顔つきが少し曇ったので、丹座は慌てて話題を変えた。
「コイツ、昔とちっとも変わらねぇな。相変わらず坊主頭でよ。今日び、高校球児でも髪を伸ばしているヤツは大勢いるぜ…未だに初めてあった甲子園大会の時と、同じ髪型なんて」
「あの、高3の夏か…」小次郎は遠くを見る目つきになったが、やがて何事か思い出したような顔をした。「お前、あん時よう…。ずいぶん土井垣の事、気にしてたよな」
「え?気にしてたのはキャップのほうだろ?」
「あの頃はまだ…。お前、コソコソ土井垣のこと嗅ぎまわっていたろうが。俺が知らないとでも思っていたのか?」
「へへ、そうだっけ?忘れたよ」
「…お前さ、あの時…土井垣に、何かしたんじゃねぇだろうな」小次郎は丹座には視線を向けず、無邪気に眠る土井垣を見守っている。
「はあ?な、何かするって、何だよ?」エアコンの効いた店内なのに、丹座は脇の下がじっとり汗ばむのを感じた。
「あの時さ、きっとチェリーだって噂したろ?確かにコイツ、小学生並の無知だったけどよ…。何て言ったらいいのか…体の反応がな、こう…開発されているというか、その…」
「……」丹座は頬杖をつくと、自分のグラスに酒を注いだ。「もし俺が先にいただいていたら…気に入らんのか?」
小次郎がゆっくりと丹座に目をやった。片眉が吊り上り、面白がっているような顔つきになる。
「お前と土井垣がなぁ…ははは、お前と土井垣が!今まで考えもしなかったなぁ…マジか?」
「どう思う?」
「……ウソつけ、この野郎。下手な冗談はよせ。もしそうだったら、この坊主はもっと目に見える反応してるだろうよ。コイツはすぐ顔に出るからな」
丹座は苦笑いの表情のまま、グラスに口をつけた。小次郎は話しを続ける。
「しかしそんなこと言われても…何でだろう、別に腹は立たんな。お前だからかな?」
「何で俺だったら腹が立たないんだ?」丹座は無表情にグラスを見つめた。
「……。土井垣よりもお前とのほうがよっぽど付き合いが古いから、かなぁ…だいたいどんなことやるか察しがつくからかもしれん…。…まぁコイツの、俺と付き合う以前のことなんぞ知ったこっちゃねぇがな」
「………」丹座はしばらく何も言わずに酒を味わった。何故だか、ひどく旨く感じる。「…じゃあ今いただいたら?」笑いながら、思わず口がすべった。
「調子に乗んじゃねぇ。…てめぇ、俺に殺されたいか?」顔にこそ出ないものの、小次郎もかなり酔っているらしい。笑ってはいるが目が据わっている。
「じょ、冗談だよ…ところで以前の相手が、例えば…、不知火だったらどうよ?」
「!そ、そんなこと絶対あるか!あってたまるか!!」
「絶対ないとも、言えないねぇ」
小次郎にもたれている土井垣の口元に、ふいに笑みが浮かんだような気がした。ひょっとして狸寝入りか…と丹座は思う。お似合いのくせに素直になれない関係…でも、あんたら幸せそうだな。よかったよ。
やがて、丹座はちらりと腕時計を見た。
「……さてさて、お邪魔虫は消えるとすっか。俺は明日も仕事だからなぁ、そろそろ帰るよ。…そうだ、いつでもいいけどよう、T原にサイン貰っといてくれんか?」
「また彼女の親父にゴマすりか?パパさん、南海時代からのホークスファンだったよな…。彼女とは在学中から付き合ってるんだっけ、もういい加減、結婚、だろ?親父さんが反対してんのか?」
「俺がハレて教師になったときか、甲子園に行ったときか。…案外T原のサインでOK出るかも」
「式はなるべくシーズンオフにして欲しいもんだな」
「だったらマジでスキー場で結婚式だ…冬休みはスキーと雪山登山のことしか頭にないような女だからなぁ」
「頼もしいこった…さっすが体育大出身、バリバリの体育教師だ。野球部の監督の女房には相応しい」二人は、笑いあった。
居酒屋に入った頃にはまだ紫色の空だったが、今はもうどぎついネオンが映える暗さに変わっている。
丹座は一人、店の外に出た。小次郎は店内でタクシーを待っている。飲み代は小次郎が奢ってくれるらしい。貧乏な、しがない講師の身には大変あり難いことだった。
『その代わり土佐丸野球部は任せてくれ』
ほろ酔いの良い気分で、空を仰いだ。
繁華街を抜けて、暗い裏通りに出ると、夜空に天の川が広がる。
『いよいよ夏の予選だな…今年こそ、出場いただくぜ!』そうすりゃ結婚OKだろ?
相変わらず教員採用試験の存在を、忘れている丹座であった。……