出発(3)



 もう着いたのか……玄関脇の萎れた朝顔を眺めながら知三郎は思った。港ではたまに会うが、網元の家に出向くのは小次郎が高校に入学して以来だ。
懐かしいガラスの引き戸の前に立ち、呼び鈴を押す。返事はない。小次郎アニキはいつもこうしてたっけ…古い曇ったガラス戸を叩きながら叫んだ。
「こんにちわー、犬飼んとこの知三郎ですー」
 おう、入れ……がらがら音を立てながら中に入ると、今度は上がれ、と声がした。小次郎がいないことを除けば、何もかも昔のままだった。
「眼鏡の三男坊か。家に来たのは何年ぶりろう」
 網元はちゃぶ台の前で、ステテコに団扇でくつろいでいる。どこかで風鈴が鳴っていた。風が出てきたらしい。
 きょうこぉ、きょうこ……スイカを持ってきたというと網元は一人娘の名を呼んだ。今年の春、妻を亡くした網元は一変に老け込んだように見えた。
「杏子さん、帰ってたんですか……夏休み……あれ、春から就職したんですよね」
「いんにゃ、あいつはもう東京にゃ戻らん」
えっ、確か官庁に就職したんじゃなかったですか……知三郎の問いかけは華やかな女の声に打ち消された。
「あらチサくん。久しぶりね」
 来年の春には嫁入りじゃ、という父親の声には微笑みを返しただけだった。十人いれば8割方は美人と言うだろう。知三郎も確かに綺麗な顔だとは思うがそれだけで、武蔵がデレデレしていたのを他人事のように感じていた。女性のそういう魅力は、よくわからない。
「野良さんの畑から?ずいぶん大きなスイカね……うち、もう二人しかいないのに。チサくん半分もって帰ってよ。うちよりは人数多いでしょ?小次郎や武ちゃんがいなくても」
 小次郎と同い年の、幼馴染の彼女は兄たちの名前を気安く呼んだ。小学校5年生ぐらいまで野球や喧嘩で小次郎と張り合っていたはちきんな彼女だったが、もはや真っ黒に日焼けしていたその頃の面影はない。
 冷蔵庫にサイダー冷えていたろ、という網元に、すぐに帰りますからお構いなくと知三郎は答えた。
 スイカ切ってくるから待っててね……髪の長い年上の彼女は風呂敷を重そうに持ち上げたが、しかし足取りはしっかりと台所の奥に消えた。
「近頃の若い娘のことはようわからんが……4年も遊きいれば充分だろ」
 最近の網元には学問も必要よ……父親の言葉に不機嫌な口調が帰ってくる。勉強を遊びと言われたのを怒っているのか、スイカが硬くて手を焼いているのか、どちらかよくわからない。
 県議会議員の次男坊との縁談が持ち上がった時、彼女はまだ高校生だった。相手は当時ちゃらちゃらした大学生で、武蔵や港の男たちは大いにむくれたが、小次郎は興味がないようだった。兼任監督やなんかでそれどころではないのだろうと周囲は思っていたが、だけど……どぎまぎした知三郎が落ち着きなく鼻の下をこすった時、麦茶の盆を持った彼女が現れた。
「ごめんね父さん暇だから、相手しててくれない?」片目をつむって笑ってみせる。
 暇とはなんじゃ……再び台所に引っ込む娘の後ろ姿に悪態をついているところを見ると、図星だったのだろう。
「げに知三郎、大学は楽しいか?」
 網元は新しいタバコを咥えると、何の断りもなしに火をつける。そういう年配の男であった。
「え?え、ええ、もちろんです」
 野球部以外は楽しいはずだ。答えに躊躇した自分を、知三郎はこっそり叱りつける。
「兄貴らぁも野球を楽しんどるんろうな。小次郎ののうはどうなが?怪我はすっかり治ったがか?」
 東京暮らしの経験のある娘と違い、その訛りはきつかった。
「もうなんともないみたいですね。小次郎アニキから野球をとったら何にも残らないから、本当によかったです」
「そうか……」
 しかし麦茶をグラスに注ぎながら、網元は少し残念そうに見えた。
「けんどなんやき、結局犬飼んとこは男の子が3人もおったがやき誰も家業を継がなかったがだな。これっちゃあ時代ろうか」
 麦茶を勧められながら知三郎は、俺が船に乗ると言い出したらみんなどのような反応をするのだろうかと考えた。漁師になれとは誰にも言われたことがない。
「土佐犬のブリーダーなら小次郎アニキが継ぐんじゃないですか」
「ブリーダー?ああ、繁殖家か。おんしらはげにまっこと犬好きだな。そういえば嵐は元気か?子供らぁは活躍しちゅうが」
「このところちょっと元気がないので心配です。もう年ですし」
「今年の夏は暑いながら。涼しくなれば元気になるろう」
 風鈴が澄んだ音をたてる。蝉時雨が遠くで聞こえた。
 二人は黙って麦茶を飲んだ。知三郎は、網元がまだ中学生の小次郎にビールを出してやれ、と叫んでいたのを思い出した。武蔵が相手でも同じだったろう。

『いつもそうだ。アニキたちと俺とでは、誰もが扱いを変える』

「チサくんお待たせ」
 物思いを華やかな声が打ち破った。自宅から持ってきたのに加え、風呂敷包みがもう1つ増えている。頂きものの酒でも包んでいるのだろうか未練たらたら文句を垂れる父親を尻目に、杏子はチサくんを送っていくと言って一緒に玄関を出た。

 
 
「別に送ってくれなくてもよかったのに」 
一升瓶の包みは彼が下げ、スイカ半分は彼女が持っていた。並ぶと同じぐらいの背丈。知三郎は男としては小柄だし、杏子は女としては背が高かった。
「送るのは口実。タバコ買ってこようと思って」
 長い髪を払う白く細い指先に、ふいに褐色の毛深く力強い指が重なって見えた。無骨な指なのに女よりも滑らかに整えられた爪。絡み合う指先、押し殺した声、誰もいないはずの自宅。蝉が鳴き出すには間のある季節で。
……知三郎は白い指先から目を逸らすと、また鼻の下をこすった。
「タバコ、お父さんの?」
 眼鏡の位置を直しながら口を開いた。沈黙よりはつまらなくても会話があったほうが有難い。
「親父のならコソコソしないわよ。私の」
 杏子は白のタンクトップにブルージーンズという軽装だったが、地元の娘たちよりははるかに垢抜けて見えた。別に東京帰りだからというわけではなく、もともとそういう雰囲気のある女だった。かわいいというよりは整った顔立ちが知三郎のほうを向いた。
「チサくんさ、T大に入って私の後輩になるのかと思っていたのに」
 杏子はスイカの包みをブラブラ揺らしている。
「どういう心境の変化?M大で野球やってるなんて。高校で野球に打ち込みすぎた?文武両道ができないようなチサくんじゃないでしょう」
「別に。変化なんかしてないさ」
「ふうん。てっきり高級官僚を目指していると思ってたんだけどな。……それとも野球選手になる夢を捨ててなかったってこと?」
「あんなもの幼稚園児の見果てぬ夢さ、アニキたちに影響されていただけだよ。それにM大から上級公務員になるやつも結構いるんだぞ」
「絶対数は少ない。人脈作りには役立たないね。野球ならT大よりは強いけど。でもT大野球部なんて中学生にも負けそうだから、それより強くってもね」
「野球なんかどうでもいいよ。杏子姉ちゃんこそ……内助の功のためにT大行ったのか」
 そんな言葉がこれほど似つかわしくない女も珍しい。小、中学生の頃の小次郎との派手な大喧嘩を知っていれば、誰も嫁にもらいたいなんて思わないだろうと知三郎は思った。2人は絶対に、いがみ合っていると思っていたのに。
「……。5年後に町議会議員に立候補したら、清き一票投票してくれる?」
 知三郎は横で取り澄ました笑顔を浮かべている杏子を、驚いて見つめた。
「マジ?」
 答えはない。笑い声だけ聞こえた。
「家、着いたよ」
 スイカを渡される。下り坂はあっと言う間だった。
「それじゃ」
「待って」
 家に入ろうとした知三郎に杏子が声をかけた。
「人ってさ、結局回りまわって元の道に戻ってきてしまうものみたい」
「何?」
「子供の頃から議員になりたかった、なんて言ったら笑う?でも、町のためになるような仕事をしたかったのは確か。網元の娘に生まれたおかげで普通の人が知らない、いろんなことを見てきたもの。議員なんて具体的な言葉になったのは最近だけどね。ずっと内助の功で満足しようと自分に言い聞かせてきたけど、夫婦で出馬も面白いって向こうのお義父さん乗り気でさ。網元の娘という立場は票が集まるだろうしね。こっちの父さんはびっくりするだろうけど」
 うつむき気味に目を伏せていた杏子が顔を上げた。知三郎は自分の眼鏡をかけた顔が、その見る人を引き込むような力のある瞳に映りこんでいるのを認めた。
「人って結局好きなことしか続けられないのかもしれない。やめようとしてもやめられないぐらい好きなものだったら、それと心中しても本望なのかもね。たぶんそのほうが楽しいだろうし。元の道に戻ってきてしまうというのは、つまりそういうこと」
「一体なにが言いたいわけ?」
 知三郎はズボンのポケットにだるそうに空いたほうの手を突っ込んだ。眼鏡の奥の瞳は冷めている。
「まぁ、あんまりおばさんやおじさんに心配をかけるな、ということよ。小次郎や武ちゃんは単純だから回り道もしないんだろうけどさ……。チサくん、いろんなものが見えすぎるから」
「ただのスチューデント・アパシーさ。今年の夏が暑すぎるんだ」
「うん。ホントに暑いね。こんなところで立ち話してたら日に焼けちゃうわ」
 杏子は顔の前に手をかざし、くるりと後ろを向いた。
「小さかった頃、本当に楽しかったね。しょっちゅう野球ばっかりだったね、私たち。あれ、野球とは言わないのかな、4人だったり5人だったり」
「楽しくなんかなかったよ、俺。いつも入れてもらえなかったもん。チビだからって」
「今なら一緒にできるんじゃない?チサくんだって甲子園に行ったんでしょう?小次郎や武ちゃんみたいにさ」
小さく手を振ると、タンクトップの後ろ姿は炎天下の中を行ってしまった。なんだってんだよ、一体。知三郎は舌打ちすると急に重さを増した風呂敷包みを持ち替え、家の中に入った。

 
 
 
 
「母さん。俺、福岡に行ってくる。小次郎アニキのマンションに泊まるつもりなんだけど、ひょっとすると駄目かもしれないから。飛行機代はあるんだけどさ。諭吉さん2枚……3枚だったらもっと嬉しいんだけど……ね?」
デイバッグに荷物を詰め終わった知三郎はかわいらしく上目遣いをしつつ、揃えた左手を母親の前に突き出した。当然のように宿泊費を出してもらうつもりらしい。
「どうして?何で泊めてもらえないかもしれないの?一体何の用事?」

 知三郎はしばらく、何もせずゴロゴロとすごした。ただ、野球の試合だけは観たり聴いたりしていた。別に兄たちの活躍を見たい訳ではないのか、プロ野球であればなんでもよかったらしい。微笑なんかはどうでもいい、里中を見たいんだがな、とぼやいていたが、ロッテの試合など滅多に中継されるものではなかった。
 母親は色々と口を挟みたいことは多々あったが、取りあえず体を壊すぐらい冷房を利かせることはなくなったので、もうしばらく様子を見ることにした。確かにこのところの知三郎は不穏だが、兄二人の中学時代に比べればはるかに大人しいものであったから。
 それにもうすぐ父さんが漁から戻ってくるし……母親がカレンダーの日付を気にしだした頃、おもむろに知三郎が切り出したのが先の台詞であった。

「福岡ドームにダイエー対ロッテ戦を見に行くのさ。まぁアニキにも会うけどね」
「なんだ、野球を観に行くの。だったら泊めてくれますよ。だいたいホテルの予約取っていないんでしょう?試合観戦の時はいつも泊めてもらっているじゃないの」
「うーん、今回はどうかな。男に二言は無しとか、一度決めたことは覆すなとか、最後までやり通せとか、ガミガミ言いそうだ」
「え、何よ?何の話?」
「だいたい基本的にアニキはケチなんだよな。きっと入学金やら授業料やら勿体無いとかなんとかブツブツ言うに決まってる。やっぱ無理っぽいよ、母さん」
「ちょっと何よ!母さんに話してごらんなさい」
「どうしたもんかな。アニキ以外に泊めてくれる人いないかな。J島さんは駄目かなぁ……。岩鬼がいたな。ああ、あいつならおだてりゃ泊めてくれそうだ。あんなやつ、ちょろいちょろい。母さん、やっぱりお金はいらない」
 知三郎はデイバッグを引き寄せた。やきもきしている母親のことはどうも上の空らしい。
「岩鬼をおだてて味方につける、というのはいい考えだ。あいつやたら王さんに買われているようだし、なんだか神さまにとても好かれているみたいだいしな、きっとご利益があるぞ。せいぜい尊敬する岩鬼さん、とでも呼んでやろう、ウフフフ」
「知三郎、一体なんなのよ!」
「大変だ、急がないと飛行機に乗り遅れちまう。母さん、1万円でいいよ」
 追い立てられるようにお金を渡してしまい、何か腑に落ちない表情の母親を尻目に、知三郎は部屋を出ると玄関に直行した。どうも調子よくはぐらかされてしまったらしいと彼女が気づいた時には、息子はすでにたたきで靴に足をつっこんでいた。
「知三郎!もう……。連絡は小次郎のマンションじゃなくて携帯のほうがいいのね」
「うん母さん。じゃあ行ってきます」
 母親はため息をつきながら引き戸を開ける息子の背中を見た。大男の兄たちに比べるといつまでたっても小さくてかわいいと思っていた末息子だったが、それでも何時の間にか、自分より大きくなってしまっていた。
「いってらっしゃい」
 音をたてて閉まった引き戸に、彼女はぽつりとつぶやいた。
 
 
 


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