出発(6)



 大掃除だったか、文化祭の練習だったか。勉強に関係ない学校行事に居残る気はさらさらなくて。でもサボったことには変わらないから、玄関の引き戸はがたがた鳴らないように慎重に開けた。
 母親の見慣れたサンダルの変わりに、小次郎のかかとのつぶれた小汚い運動靴と、それよりずっと細くて華奢な、誰かの黒いローファー。
 市内の靴屋でないと手に入らない武蔵のデカ靴はなかったので、たたきが広く見えた。父親は海上で黒潮でも追っかけているところだったろう。
 わざわざ声をかけなかったのは、多分面倒だったから。でも小次郎の部屋の前まで行ったのは。……少年らしい好奇心?それとも。
 湿った物体のぶつかる音と、小さなささやき声と。たまに、裏返った声にならない声。防音性を配慮するなどという時代以前に作られた、古ぼけた六畳間から漏れる音は室内で何が行われているのか、耳年増な中学生にとって覗く必要もないほど明白に伝えていた。
『ちょっと……もうつけたほうがえいがぁやない?』
『大丈夫だ。俺、外出し上手いんやぞ』
『ほがなこと自慢気に言うな』
 女の声が杏子のような気がして、思わず閉ざされた引き戸に立ち寄ってしまった。子供の頃から喧嘩ばかりしていた二人だったから、こんな組み合わせは予想外だった。 
 なぜかうっすら隙間が開いていて。覗く気はなかったのだけど。
 うつむいた小次郎の顎からは、汗が滴っていた。組み敷かれていたのは確かに杏子で。近くに脱ぎ捨てられていた小次郎のTシャツは汗にびっしょり濡れていた。杏子のセーラー服は喉もとまでまくり上げられ、浅黒い左手が白い豊かな胸をつかんでいて。腰だけが、別の生き物のように動いていた。
『こら、つけろ、小次郎』
 硬く目を閉じ、鼻息の荒い小次郎を、杏子が下から睨み上げた。
『るせぇな……心配しな、萎えることばっか言うがやない』
 ぶつかる音が急に高く激しくなり、杏子のささやきが喘ぎ声に変わった。力強い腰に白い脚が絡みつき、ふいに小次郎が顔を上げる。
 覗かれていたのに、気づかないはずはなかった。確かに目が合ったのだ。
 だがその目はうつろで焦点が合っていなかった。滴る汗と、呆けたように開いた口。腰だけが壊れた機械のように動いていて。
『やい、サル!』
 首に回されていた白い手が、黒く短い髪の毛を引っ張る。
『あ』
 小次郎の顔がのけぞり、大きな喉仏が見えた。
『夢中になんな、バカ!つけるよ、信用できん』
 杏子が急に身体を起こすと、身をよじった。投げ出された学生かばんに手を伸ばす。彼女のかばんのようだった。 
『ぐ。動くな。ああっ』
 く……切羽詰ったような声に杏子がそのままの姿勢で固まる。小次郎は白い腰を押さえつけたまま眉間にしわが寄るほど目を閉じ、歯を食いしばっていた。
『……危ねぇ』
 強張った表情が緩み、深呼吸。
 やっぱつける!杏子がじたばた動いた。
『おんしが急に動くからろう!……あ、バカ、動くなって』
 小次郎は杏子の背中に腕を回すと、これ以上できないぐらい身体と身体を……特に腰と腰を密着させ、激しく揺すり始めた。
 内部(なか)で出したら許さんから……という杏子の声は途中でかすれてしまい。
 後は二人の、言葉にならない声が続いて。
 眉根を寄せ、目を硬く閉じ、歯を食いしばった小次郎の顔は見たことがないほど苦しげで。
 杏子の身体が震えた。
『もう……我慢できねぇ』
 小次郎はつぶやくと、はじかれたように腰を引き離した。かがみこんだまま、片手を動かしている。
『う』
 何かが飛び出すのが見えた。短いうめき声が続き、覆った指の間から白いもの溢れ、畳に滴り落ちる。
 小次郎は杏子の肩に顔をうずめると、腰を半端に浮かしたまま、動かなくなった。
 二人の荒い呼吸だけがしばらく続いて。
 ティッシュどこ……杏子の声がした。やーい、畳にこぼしちゅう。

 二人がごそごそ動き出したのにあわせるように、知三郎は隣の、いつもふすまが開けっ放しの武蔵の四畳半に慌てて逃げ込んだ。大柄な兄たちがまともな部屋を取ってしまったおかげで、知三郎は少し離れた納戸を改造した部屋に押し込められてしまっていたから。
 胸の高鳴りはもちろん慌てただけではなく。
 小次郎のゆがんだ顔、汗に光る浅黒い肌、広い肩、厚い胸板の濃い胸毛、逞しい腰、締まった尻、動く左手の中の……。
 

 
 
 
「チサくんって……体臭は、小次郎に似てるんだね」
 気が付くと、杏子の顔が目の前にあった。
 何時の間にか組み敷いていた。あの時の小次郎のように。
「アニキと俺の似ているとこなんて、モミアゲぐらいしかないだろ?」
「そう思っていたけど……。同じ匂いがする」
 どうしてそんな冷静でいるのさ……知三郎は自分の胸の下の、まろやかなふくらみに手を置いた。
「小次郎の匂いがする」
 杏子が腕を伸ばし、知三郎のモミアゲに指を絡めた。
「…………」
 俺も誘ってるわけ?春には結婚するくせに、この淫乱。それとも……そんな目つき、目を開いていても何も見ていないのと同じだ、誰を見ている?
 何処かうつろな杏子の瞳を知三郎は覗き込んだ。ひょっとしてアニキに未練があるの?アニキを愛して。
 愛して。俺は。俺はどうなんだろう。小次郎アニキを愛して……

『そんなわけないだろ!』
 
 アニキはあくまでもアニキだ。そうじゃない小次郎アニキなんて、アニキじゃない。愛しているなんて言葉は恋人たちのためのもので。俺とアニキは。

「小次郎アニキの女って、どんなのかなぁと思ってさ」
 胸に置いた手をゆっくりと内側に折り曲げた。着衣越しに伝わる柔らかな感触よりも、毛むくじゃらの自分より大きな手が鷲づかんでいた思い出が、胸の高鳴りを速くした。
「あいつの女だったことなんか、ない」
 相変わらず睨みつけるでもない、ぼんやりした瞳で。誰を見ているの?
 身近にいたから。手ごろだったから。アニキが野球を選ばなければ、杏子姉ちゃんはどうしていたのだろう。アニキと恋人同士に?幼かった頃、周囲の大人たちが望んでいたように夫婦に?……いやきっと、真っ黒になって遊んでいたあの頃のように、ずっと喧嘩友達のままでいたことだろう。
「アニキってどんなキスしたの?……教えて」
 知三郎は唇を寄せた。

 
 
 
 アニキってどんなキスしたの?
 アニキってどんなふうに触ったの?
 教えて。教えて。アニキってどんなふうに抱くの?
 俺の知らないアニキのことを教えて。
 もっと。もっと。

「ごめん……。その、俺初めてでよくわからないんだ」
 えっ……て驚いた顔して。そんなうんざりした顔しなくてもいいだろ?
「姉ちゃんが乗ってよ……嫌?ごめん。俺、駄目だな、下手っぴで。ホント駄目だ。駄目駄目だ。ごめん、姉ちゃん。やっぱり俺って駄目なんだ」
 ちょ、ちょっと、そんな泣きそうな顔しないで、わかったわよ。……杏子姉ちゃんも小次郎アニキと同じで。昔から俺が泣きべそかく真似をすればころりと騙されたっけ。
 抱いて。俺を抱いて。
「小次郎アニキって上手だった?」
 え?……まぁ上手いほうだったかなぁ。
「教えてよ。アニキってさ、どんなふうに杏子姉ちゃんを抱いたの?」

 抱いて。抱いてよ。小次郎アニキみたいに、俺を抱いて。

「教えて」 
 小次郎みたいにしたら、キスマークいっぱいついちゃうよ。
「いいよ。つけて」
 あいつ、噛むんだよ。
「いいよ。噛んで」
 そんなの覚えないほうがいいと思うけど……。クスクス笑い声がする。

アニキってこんなキスしたの?
 アニキってこんなふうに触ったの? 
 アニキって、こんな、ふうに…………。

「俺、アニキみたいに外でなんて出せないよ」
 杏子が吹き出した。ああ、あいつ、そんなこと言ってたっけ。
 ……笑うと中が微妙に震えて、困る。

 俺を抱いて。俺を揺すって。
 アニキみたいに、俺を抱いて。

 目を閉じて思い浮かべる。

 汗に光る浅黒い肌。
 広く逞しい肩。
 厚い胸板。
 引き締まった腰。
 ……快楽にだらしなく歪んだ顔。

 
 俺を揺すって。もっと、もっと。
 

 小さな鋭い爪が、右肩に食い込んだ。歯形のように残るだろうか、と知三郎は思う。
 コジロウ……杏子が小さくつぶやいたのにあわせて、知三郎も唇だけ動かした。
 アニキ、と聞こえないように。

 
 
 
 
 


 数日後、早朝の犬飼家。
 水の流れる音が辺りに響いた。
 洗面台に屈み込み、顔を洗う男。
 蛇口のそばには眼鏡。
「あれ?知三郎」
 頭を下げたまま宙を探る手に、武蔵は後ろからタオルを渡した。
 家族の中では最も宵っ張りなため、必然的に朝に弱い末弟が、今朝は何故かやけに早い時間に洗面所で身づくろいをしている。
「珍しいな。お前に先越されるなんて」
 タオルをハンガーにかけると眠たげな顔が鏡に映る。眼鏡をかけてもしょぼしょぼしている目つきは変わらない。ブラシを取り上げて、左手が止まった。
「髪、伸びたなぁ」
「男らしく短くしろや。俺やあんちゃんみたいにさ」
「そうだな」
 知三郎は洗面台を譲るために一旦洗面所から廊下へ出た。すれ違うには、武蔵には狭すぎる。
「床屋、ついでに寄っていこう」
 寝癖を面倒臭そうに整えながら、知三郎がつぶやく。
「ついで?どっかに出かけんのか」
 歯ブラシを片手に、武蔵が蛇口をひねる。知三郎の方は見ようともしない。
「埼玉」
「……そっか」
 それだけ言うと武蔵は口に練り歯磨きをたっぷりつけた歯ブラシを突っ込んだ。
 髪をとかし終わった知三郎がブラシを渡すと、左手で受け取った武蔵は口を尖らせたまま棚に戻した。三兄弟の中では、唯一右手で歯を磨く武蔵である。
「小次郎アニキはまだ寝てんのかな」
 武蔵が何かモゴモゴと返した。肯定の返事らしい。
 兄の横顔を見つめながら、知三郎は自分のモミアゲをつまんだ。
 自分が兄たちに似ているところといえば、ここぐらいしかない。いや、小次郎アニキには体臭も似ているんだったな……数日前の出来事を思い出した知三郎は、少し身体が熱くなった。
「……髪を切る、か。里中みたいな髪型にしてやろうかな」
 つぶやく知三郎に、武蔵はちらりと目をやった。すぐに正面の鏡に視線を戻し、しばらく考え込むように歯磨きの動作を続けた後、洗面台に身をかがめる。吐き出す音がやけに騒がしい。
「里中みたいにしたら山田が喜ぶだろうぜ。お前小柄でタイプ似てるしよ。カーワイイもんな」
 分厚い大きすぎる手が小さなプラスチックのコップに伸びた。 
「あいつら、やっぱそうだったのかなぁ……。お、俺は冗談じゃないぜ、山田なんか」
 慌てて言い添えた知三郎声に、武蔵の笑い声が重なる。
「山田は厭か」
 武蔵はまだ笑っている。
「J島さんならいいんだけど。あっ冗談だって」知三郎も笑った。「しかしどうのこうの好き嫌い言える立場じゃないんだよな。一年後どうなってるかわからんし。西部はどうしても入りたくないチーム、というわけでもないからなぁ」
 ガラガラうがいをしていた武蔵が大人しくなり、水を吐き出す音が続く。
「……そうか。で、何時ごろ出かけるんだ?」
「朝飯食ったら、すぐ」
「ずいぶん早く出発するんだな……あんちゃん昨日久しぶりに飲んでいたからよう、昼過ぎまで起きてこないかもしれんぜ」
「ああ」
「いいのか?」
「いいのか、って何が?今生の別れじゃなし、見送りなんかいらないよ」
「まぁそうだけどよ。でもな、その……違う球団に入っちまうと、なんつーか……ちょっと変わっちまうぞ、今までとは。……お前は特に、同リーグだしよ」
 気遣い、などという馴れぬことをしたのを恥じるかのように、武蔵はそっぽを向いた。
 朝ご飯できたわよー、と母親の声が聞こえる。知三郎は今行く、と返事を返す。
「小次郎アニキのことはさ。取り合えず満足したことにするから、もういいんだ」
「はぁ?」 
「こんなに野球が好きだったなんて自分でも思わなかったよ、参ったな。なんか悔しいぜ。……早く飯食いにいこう、母さんが怒り出すぞ」
 きょとんとしている武蔵に、知三郎は吹っ切れたような微笑を浮かべた。でも何故か、少し寂しげに。

「小次郎アニキのことはもういいのさ。……ゆっくり、寝かせてやろう」

 
 
 

END





 注意;外だし(膣外射精)は正しい避妊法ではありません!
 パートナーが本文中のようなことを言ってたら、頭ぶん殴ってやりましょう。
 くれぐれもご注意ください。 


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