翌日。デーゲームが行われ、土井垣はDHで出場した。昨夜の就寝時刻は遅かったが、ぐっすり眠れたのでむしろ調子はよく、オリックス投手陣はいいカモだった。ヤツは今日登板するんだろうか…ダイエーは近鉄とナイターだったな。ふと小次郎のことを思い出したが、すぐに違う男のことを考える。
不知火はベンチ入りさえしなかった。今マスクを被っているのはN口さんだからな…不知火からなんの連絡もないのを、土井垣は寂しく感じる。
試合後、土井垣はホテルの隣の部屋…不知火の部屋を訪れた。
「どうした、守…。体調でも崩したのか?」
睡眠不足の憔悴しきった不知火は土井垣の仏頂面を見ると、顔を赤らめて布団の中に潜った。
「顔が真っ赤だぞ…熱があるんじゃないのか?」
不知火が隠れるかのように頭からすっぽりと布団を被ったので、土井垣は思わず布団を剥ごうとした。不知火は必至で押し留める。
「逢うんじゃなかった…やっぱり、出ていってください!」
「な、なんでだ…どうしたんだ?」ドアを叩いた土井垣に、慌てた口調で、どうぞ、と言ったのは、不知火のほうだったのに。
それなのに布団にくるまったまま、土井垣と顔をあわせようともしないのだ。
だが不知火は長身である。布団をすっぽり被れば、長さが足りなくなるのは当たり前だ。布団の中では短パンなのか、片足が脛の辺りまで見えていた。
土井垣はとっさに、その引き締まった足首を掴んだ。「おいっ」
不知火の体が、布団の中でビクッと動いた。沈黙。人型の布団だけが上下に動いている。その、息遣いに逢わせるかのように。
「おい、引っ張り出すぞ?」不知火の足がやけに熱いのを心配しながらも、土井垣はふざけているような口調で言った。俺に心配かけさせたくないから、こんなことをしているのか?
突然、不知火の手が、土井垣の手首を掴んだ。足首を握っている右手を掴まれたのである。
「なんだよせ…痛いだろ?」お前の右手ほどじゃないが、俺のだって大事な商売道具なんだぞ…土井垣は言おうとして、つかんでいる不知火の熱い手が震えているのに気づく。
「おい?」
「生真面目で女っ気のない土井垣さん…」布団の中で不知火の声がした。嘲るような口調。「俺がキャバクラに行った話とかしたら、目くじらたてて怒ってたくせに」
不意に、引き寄せられた。中途半端に前屈みになっていた土井垣は、容易にベッドに倒れこんだ。慌てて向き直ろうとしたところに…不知火がのしかかる。
「ばか!なんのつもりだ!!」
不知火は薄ら笑いを浮かべる。「あの人にはそんなことは言わないんでしょう?」
土井垣の体が石のように固まった。先ほどの不知火のように、顔が赤くなる。体が熱い。
「な…なんの話しだ…」震える声。
「あんなところであんなこと…俺に聞いてほしかったんですか?」
土井垣は顔を背けた。「な…なんのことかわからん…」
不知火は土井垣の上品な顎に手をかけると、正面を向かせた。「ベランダで…凄かった。昨日の夜」
土井垣の顔は血管が切れたかのように赤くなった。息遣いも荒くなる。「あ、あれは…あれは…、す、すまん、その…お、女の子をつれ込んでたんだ」途切れ途切れの言葉。
「女の子?」不知火がニヤリと笑う。その口脣は、土井垣の目にひどく淫らに映った。「ふーん…。あの、凄い声は女の子のだったのか…。すごくイイ、とか最高、とか…。男のファルセットみたいな声の娘でしたね。じゃあ、あの低い声が土井垣さん?響いてくる程度にしか聞こえませんでしたけど…ウフフ、一番最後に、一瞬だけ吼え声みたいなのがありましたね…」
不知火の指が、土井垣の唇をなぞる。多才な変化球も投げられる器用な指先が。「あの時って、別人みたいな声になるんですね土井垣さん…俺はてっきり、ずっと喘いでいるほうかと思いましたよ」
「ば、ばかやろう…」土井垣は体を起こそうともがいたが、不知火はがっちり押さえ込んでいる。「俺、右で押えているんですよ。腕にはすごい負担だ」土井垣の動きが止まる。「俺の右腕を気遣うなら、動かないでいてください」
不知火の思惑通り、土井垣は動きを止めた。こちらを睨んでいる。
「す、すまなかったな、安眠妨害しちまったか。悪かった」
「俺今日の試合休んでしまったじゃないですか…責任とってください」
「せ、責任?わかった、遊びに行ってこいよ。…今日は、うるさいことは言わないから」
「嫌だなぁ、何にもわかっていない…土井垣さん、大うそつきですね」不知火は土井垣のTシャツの襟首を引っ張ってずらした。「ここに一つ…ここに二つ…三つ…ここにもある…これは歯型かな?」
「やめんか、シャツが伸びるだろ!」
「歯型…あの人、犬みたいだ。そう思いませんか、土井垣さん」
土井垣の息が止まる。
「ねぇ、どうしたらあんな声でないてくれるんです?教えてくださいよ」そういうと、シャツの中に手が侵入してきた。目的のところを、探り当てる。「ここ、ですか?」
たったそれだけのことなのに、体が仰け反る。開発された反応。
「ねぇ。俺土井垣さんに悦んで欲しいんですよ…こっちですか?それともここ?」
「ば、ばかもの!」声が上ずっている。
「真面目な土井垣さん、純粋培養の土井垣さん、精錬潔白な土井垣さん…みんなうそばっかりですね」不知火が耳朶を噛んだ「こんなに愉しんでいるじゃありませんか」
「や、やめろ不知火…」しかし声は消え入りそうだった。
「あれ、やめてもいいんですか?」不知火の指が土井垣のズボンのベルトに掛かる。身をよじって逃れようとするので、その辺りを掴んだ。もうズボンの上からはっきりわかる。
「…………」
「ねぇ、息ばかり吐いてないで、何か言ってくださいよ。あの時みたいに」指先がジッパーにかかった。引き下ろす音が、鋭く響いた。「ほら、飛び出してきましたよ…」
土井垣の手が不知火の短パンの辺りに伸びる。「土井垣さん…」不知火は満足そうにつぶやいた。
本当は、あの夜以来、ズボンがきつくて苦しんでいたのは不知火のほうだった。「あ…」やっと。満足そうなうめき声が、思わず漏れる。
しかし。
「いっ………」次の瞬間、下腹部を押えて不知火は体を二つ折にした。つかみ、上げられた。
「ばっかやろう!」土井垣はベッドから跳ね起きる。「お、大ばかやろう…何考えてんだ。あ、あんな変態にお前はなるな!!」
『あんな変態って誰なんですか…』不知火は問い詰めたかったが、息をするのが精一杯だった。
「その様子だったらものすごく元気そうだな。心配してソンした…」窮屈そうにジッパーを引き上げると、
「俺はお前が大好きだよ。お前のキャッチャーになれて本当に嬉しいと思っている。お前が喜ぶならどんなことだってしたい…でも、こんなのは……困る」そして心配そうに不知火の顔を覗きこんだ。「まだ痛むのか?」
不知火は素早く土井垣の顔に口唇を寄せる。次の瞬間、ベッドの上ではじき飛ばされた自分の体が虚しくバウンドするのを感じた。揺れる天井。
「ばかやろ!」
不知火がようやく体を起こした時には、部屋のドアはもう閉まろうとしていた。突き放されたような音をたてながら。
ベッドには、鳥の羽でくすぐられたような、軽いささやかなくちづけを噛み締めている不知火が残された。
口唇を手で触れてみる。ぼんやりした顔で。
『なんであんなことに…』土井垣さんが悪いんだ。
さっきの言葉を思い出す。
−俺はお前が大好きだよ−
だけど、拒絶した。ダイエーのエースには許しているのに。
『俺も土井垣さんも、わけがわからん!!』きっと明日は、何事もなかったような顔でグラウンドで逢うんだ、俺たちは。
……不知火はまた布団を被った。