奇跡の夏





 もう日付が変わった頃だろうか。
 思いがけないエースのご帰還に沸いた明訓高校野球部合宿所も、今はすっかり静まり返り、明日もまた繰り返されるであろういつもと変わらぬ練習漬けの日々に備え、深い眠りについたらしい。
 積もる話に花が咲いたのか、なかなか明かりの消えなかったバッテリーの部屋も、つい先ほどやっと暗くなったようだ。
 しかし、里中はどうにも寝付けなかった。すでに夢の中にいるような、そんな一日だったからかもしれない。
 所在なく天井に目を向けると、薄明かりの中に見慣れた模様がある。 
 いや、模様と言うよりは汚れ、シミのたぐいだろう。
 明訓野球部は高校創立からほどなくして創部されたそうだから、当然合宿所も年代物なわけだ。
『ちっとも変わってないな』
 里中は合宿所の懐かしい天井をもう一度見上げると、眠りにつくべく目を閉じ、思わず微笑んだ。
『当たり前か』
 
 あれからずいぶん長い年月がたったような気がするが、実際はわずか数ヵ月……せいぜい四ヶ月ほどの間で、それぐらいでは何も変わりようがない。
 春のセンバツを最後に高校生活最後の学年を過ごすことなく、学び舎を去る決意をした里中だった。しかし母親は思いのほか早く回復し、山田の計らいもあったおかげで退学のつもりだったのが結局、家庭の事情で一学期を丸々休校したという扱いになっただけで終った。 
 
 そうだ、何も変わっていない……。
 里中は目を開けると、側らの布団に視線をやった。
 山田の横顔。見た目では眠っているかどうかわからなかったので耳を澄ませてみる。
 野球部に入り一年の大半を合宿所で過ごすようになってから、いつも間近で聞いていた寝息。いや、まだ寝息にはなっていない。
「……山田。起きてるか?」
 ささやき声はやっと聞こえるぐらいのものだったが、横顔はゆっくりとこちらを向いた。
「なんだ、里中」
 もう合宿所の就寝時刻はとっくに過ぎているが、まだ寝入ってはいなかったらしい。
「なんか……目が冴えちゃってさ。久々に岩鬼の演説を聞いたせいかな。あいつの声、あんなにでかくてうるさかったんだなぁ、忘れてたよ。馴れって恐ろしいもんだ」
 エース里中の復帰を祝って、合宿所の夕食はささやかな歓迎会になった。と言っても食堂のおばさんが奮発してくれたジュースで乾杯した後で、四月からの新入部員が自己紹介した程度のものだったけれど。
「そんなもんかな?俺なんて中学の時から一緒だから、あの声を聞かなかったら寂しいよ。でも確かに今日は特別やかましかった、あんなに元気な岩鬼は久しぶりだ。みんなお前が帰ってきて嬉しいのさ。……それとも岩鬼のやつ、ひょっとしてジュースで酔っ払ったのかな?」
 山田がクスクス笑った。里中も小声で笑い出し、ひとしきり布団の中で笑いあった後で。
「なぁ、山田。……その……そっちに行っても、いいか?」
「……。うん……」
 片側を空けようとしているのか身動きをする気配があった。里中はそっと自分の布団を抜け出すと、隣に滑り込む。
「ただいま」
 鼻腔に広がる懐かしい匂いを深く吸い込い込むと、広い大きな胸に向かってささやいた。
「お帰り、里中」
 いつもボールを受けてくれていた分厚い大きな手が、数ヵ月ぶりに柔らかな髪をなでる。
 すりつけるように胸に顔を埋めた後で先に唇を押し付けたのは、里中のほうだった。

 
 
 やっと唇が離れた時、山田は息を切らしていた。
「里中……」
「ごめん」
 しかし里中は山田を布団に押えつけるように体を寄せると、また唇を押し付けた。
 やがて離したが、今度は耳元に顔を寄せる。
「里中」
 困惑した声に、動きが止まる。
「ごめん山田。その、……絶対声はたてないから。だから、さ」
 沈黙。
 暗がりの中で、太い眉をしかめて困った顔をしている山田を里中は想像した。
「ずっと、とても逢いたかったんだ」
「俺もだよ」
「もう、二度と逢えないんじゃないかと思ってた」
「バカだな。そんなわけないだろ、俺たちは……」
「だってバッテリー、解消したんだぞ」
 山田の分厚い手のひらが里中の頬をなでた。1年の時に比べ、肩や背中はずいぶん逞しくなったと思うが、目鼻立ちの整った繊細な顔つきは変わらない。強烈な陽射しに晒され続けていたにもかかわらずキメの細かい滑らかな頬にも顎にも、まだ髭の生える気配はないようだ。
 もっとも、逞しくなったと思うのは山田ら三年生だけで、どちらかと言えば長身の選手が多い野球部の下級生から見れば、彼は相変わらず『小柄な里中さん』なのだろうが。
 なおも言葉を続けようとする形の良い唇に山田の指が触れた。里中ははっとしたように黙り込む。
「でも戻ってきた。俺は信じてたよ、里中はどんな時でも戻ってくるって。だって、いつもそうだっただろ?」
 山田の静かな優しい口調には、もう困惑の響きはなかった。
「そうだったな。確かにいつもそうだった。そして今回も……でもな、俺は退学したつもりでいたんだぜ。今後、野球とは無縁の人生を送るつもりだった、とまでは言い切れないけど、少なくとも高校野球は終ったと思っていたんだ。……それがまたこうしていられるなんて、まったく夢みたいだよ」
 そうつぶやくと里中は起きあがり、パジャマ代わりのTシャツを脱ぎ捨てた。地区予選も始まった七月の夜である、肩を冷やす心配はなかった。
 里中は再び布団にもぐり込むと山田のシャツをめくりあげ、素肌を合わせた。
「あったかい……。夢じゃないんだよな。また野球ができて、またお前とこうしていられるんだ。明訓で」
「ああ」
 里中が体をこすりつけてきた。切ない溜息が唇から漏れ、体に硬いものがあたるのを山田は感じた。
「なぁ山田、ちょっとだけだからさ……。お前と会えなくて、本当に寂しかったんだ。自分で決めた事だったからなおさら……確かめたいんだ、今確かにお前と一緒にいる……」
 言葉を続ける変わりに里中は仰け反った。山田のごつごつとした大きな、しかし器用な手に敏感なあたりが包み込まれるのを感じた。
「山田……あっ……」
 慌てて唇を噛み締める。
「やっぱり山田の手がいい……ひとりは寂しかった……あっ……く」
 手をほんの少し動かしただけで、しなやかな細い体は過敏に反応した。食いしばった歯の間から小さなうめき声が漏れ、小さな手の小さな爪が山田の肩に食い込んだ。
「あっ……もう……。ま、待って、嫌だ、まだ終りたくない……二人一緒に……な?」
「でも」
「大丈夫だよ、色々準備してあるから。……山田だって、もうこんなに」
「わ、わかったよ里中。でもちょっとだけだぞ、大会中なんだから」
 唇を尖らせると指でいたずらをはじめた里中に、山田は観念したような声を出した。

「さ、山田。もういいよ。早く」
「うん」
 山田は腰を沈めながら、ほっそりとした体を抱きしめた。いや、もうほっそりとした、とは言えないと思う。一年の時の少年らしいしなやかな柔らかい筋肉は、男らしい固いものに変わりつつある。腕も首も太くなり、背中や肩、胸もずいぶん逞しくなった。何よりも、背が高くなった。いまだに小さな巨人と呼ばれ、確かに甲子園球場では小柄に見えるものの、一般生徒に混じれば充分普通の身長になった里中である。女生徒に囲まれると姿の見えなくなってしまった一年の夏とは違う。
 もともとの体質が晩生(おくて)だったこともあるのだろうが、たゆまない走りこみやトレーニングが、ピッチャーには向かないと見放された肉体を変えた、ともいえる。
 来年の今ごろはどう変わっているだろう。   そう思った時、山田の胸に小さな痛みが走った。来年のことはわからない。俺たちはもう三年だ。……だからこそ、どんなことをしても、最後の夏のエースは里中でなければならなかった。
『おふくろさんの手術が成功して本当によかった』
 山田は心からそう思った。なぜならたとえ母親が危篤でも、自分は里中をマウンドへ引きずり出したに違いないから。故障のない、万全の里中がいるのに、渚のボールを受ける気にはどうしてもなれなかった。
『最後の夏も甲子園に行くには、ピッチャーは里中でなければならない』
 そもそも里中の将来のことを考えても、高校中退よりはきちんと卒業していたほうがいい。甲子園の最多優勝投手ともなれば、うまくいけばプロ、間違いなくノンプロから声がかかるだろう。奨学金がでるなら進学の手もある。
 だが、野球に興じている間に母親にもしものことがあったら、里中は自分自身を許さないだろうし、当然俺のことも許しはしないだろう、とも思っていた。
しかしどんなに恨まれても、里中の将来にとって明訓野球部に復帰するのが一番いいという結論に達し、理事長や校長に退学を休学扱いにしてくれるよう頼みこんだ山田だった。
本人の了解を取っていないということで、当初彼らは難色を示したが、中学三年のあの日、自宅の畳の上で正座して待っていた小さな里中の姿を思い浮かべ、山田は諦めなかった。里中は明訓のマウンドに絶対帰ってくる、と信じて疑わなかった。
それが君の運命です、と言い切ったあの日の里中が自分に乗り移ったのかな、と可笑しいような気がするほど。
『おふくろさんの手術が成功して本当によかった』
 ずいぶん逞しくなったその背中に腕を回し、抱き寄せてみる。最悪の結果も予想していただけに、山田にとって里中の笑顔の帰還は本当に嬉しかった。里中を再び抱きしめられて、本当に嬉しかった。
思わず腕に力をこめると、里中の眉間に皺がより、苦しそうな息が漏れる。
「ご、ごめん。無理しなくていいよ。久しぶりだし……」
 我に返った山田が慌てて腰を浮かそうとすると、脚が絡みついた。
「嫌だ。一緒になりたいんだ。平気だよ、すぐ慣れる」
 絡みついた脚が太い腰を引き寄せた。辛そうな吐息が漏れたが、腕は構わず、大きな広い背中を抱き寄せる。
「大丈夫?」
「平気だっていってるだろ。……ああ……お前と今、一緒なんだ……嬉しい」
「うん俺も。……重くないか?」
 のしかかりながら山田が気遣って声をかけると、しなやかな指が太い眉に触れてきた。女の子と比べてもさほど差のない、男にしては小さな手。だがその強靭な腱はフォークボールさえ可能にする。
「重いのがいいんだ」
 里中の返事に山田は微笑むと、口づけた。
 二人は重なりあったまま、固く抱きあった。
「山田。俺もうどこにもいかない。これからは、いつもどおりずっと一緒だ」
「ああ……」
 卒業まで、と言いかけた山田の唇をふさぐように再び口づけをした後で里中はつぶやいた。責めているようなまなざしで。
「これからもずっと、一緒だろ」
「もちろんさ」
 山田は嘘をついた。
 里中も、嘘をついていた。

 神様がくれたこの奇跡の夏の間は永遠のバッテリーでいよう……。

 二人とも気持ちは、同じだった。
 





End









 ごめんさい、まったくもって力不足でした(猛省)。
それにつけても、スーパースターズでのラブラブぶりが目に浮かびます。





 

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