『マンホール』  ある日のこと。ある国のある街にある、とあるマンホールの蓋が 物凄い音を立てて宙に舞い、中から津波のような勢いで汚水が溢れ 出した。 「わあ、汚ねえ!」  そばにいた男はびっくりして大声を上げたが、その声はどこか 非日常を楽しむ響きが混じっていた。面白いものを見た、今夜の 飲み会の話の種になるかもしれない……などと、瞬間的に思ったの かもしれない。五分後、男は溢れ出る汚水に呑み込まれ、溺れて 死んだ。  たまたまその瞬間、マンホールの近くを歩いていたのは死んだ男 ただ一人だった。それゆえ、最初の死者が出てから二人目の死者が 出るまでに実に三十分の時間を要したが、そこから先は早いもので、 まるでストップウォッチの数字がくるくると変化していくように、 どんどん人が死んでいった。汚水は昼夜問わず溢れ続け、やがてその 街は腐った水の中に没した。  溢れ出る汚水をどうすればいいのか。  その国の議会では臨時の会合が開かれ、原因の究明と対策が超党派 で話し合われたが、結論は出なかった。やがて結論が出ないことの 責任のなすりつけあいが始まり、無駄な時間が延々と流れ、気が ついた頃には国土の三分の一が汚水に呑み込まれようとしていた。 これはいかん、真面目に話し合おうという方向に全員が向いた段階で 国土の三分の二が沈没した。その一週間後、高い山の頂上などを残した 残りの全てが沈没し、国民はほぼ全員死んだ。  マンホールに蓋をすることは出来ないのか。  世界中でこの問題が話し合われた。潜水艦でマンホール付近まで 潜り込み、蓋をする。ちょうど蓋になるぐらいの大きさのミサイルを、 マンホールめがけて打ち込む。その他、うんぬんかんぬん。だがそれ は机上の論理に過ぎず、真面目に実行しようとする人間はいなかった。 もはやそれを実行するには、マンホールが沈んでいる汚水の底はあまり にも深すぎたのだ。 「祈りましょう」  最後は神頼みだった。世界中の偉い宗教家がテレビを通じて神への 祈りを呼びかけた。 「キリスト、アッラー、仏様、神様の種類は関係ありません。皆さん、 祈りましょう。自分の信じている神様に祈りましょう。そうすれば きっと、慈悲ある神はこの未曾有の災害を止めてくださるでしょう」  世界中の人間が祈りを捧げている間、世界の半分が汚水の底に沈んだ。  偉い数学者が計算をした。このままではあと三ヵ月もすれば、世界は 腐った水の底に沈むだろう。  そして三ヶ月が経った。計算どおり、世界はほとんど全て汚水の底に 沈んだ。世の繁栄を謳歌した人類とその文明は、腐った水の中で死に 絶えた。  それから半年が経ち、汚水はエベレストの頂上にまで達した。人間だけ でなく、地球上の生物のほとんどが死に絶えた。空を飛んでいた鳥は汚水 につかまり、また魚たちはその汚い水の中では生きていけなかった。木々 は根こそぎ地上から剥ぎ取られた。  地球上に点在していた命という灯りが次々と消え、世界が暗闇に落ちた 頃。無尽蔵に溢れ出ていた汚水は、とうとうその流れを止めた。それだけ にとどまらず、マンホールは物凄い勢いで汚水を呑み込みだした。ゆっくりと 水かさは下がり、エベレストの頂上が見え、富士山の頂上が顔を出した。  長い長い年月が経ち、世界を沈めていた汚水は、全てマンホールの中に 呑み込まれた。汚水の中を漂っていたあらゆる生物の死体は、全てマン ホールの底へ消えた。最後の一口が呑み込まれる瞬間、汚水のどこかを 漂っていたマンホールの蓋が勢いよくマンホールに嵌り、がちっと小気味 のいい音を立てた。 ***************************** Trauermarsch http://red.ribbon.to/~kiriko/ *****************************