『鳥男』  袋から小麦粉を一掴み取り出し、宙にばら撒く。人差し指の先を舐め、 風に当てる。目的の気流は、三リゴレットほど上のほうにあるようだ。 私はバーナーの火力を上げた。心もち球皮が広がり、気球はゆっくりと 上昇を始める。ヘリオスからユールタイドまでは、渓谷の急流のような、 狭くて早い空気の流れがある。その通り道を掴んでしまえば、あとは瞬き をしているだけで目的地に着くという寸法だ。  吹き出た汗を拭う。喉が渇くが、今は気球の操作に集中したかった。 単調なバーナーの音のみが耳内にこだまし続ける。普段と変わらない、 いつもの音。  その音の中に奇妙なノイズを感知したのは、火力をあげてから五オー デンほど経った時だった。それは、羽音だった。耳元で小さな羽根が 動いているのではなく、遠くで大きな羽根が動いている音。嫌な予感が した。気がつかぬ間に、ゾウワシの巣に入ってしまったのだろうか。 ゾウワシは目がいい。遠くから獲物を察知し、その大きな羽根で瞬時に して近づき、襲って食べる。縄張り意識も強く、自分のテリトリーに 入ってきた異物への攻撃性は他に類を見ない。戦いたくない相手だ。 だが、この気球が狙われているのなら、戦わざるを得ない。  床に寝かせたライフルを、足で手繰り寄せる。弾は入っていただろうか。 入っていなかったかもしれない。弾を装填し、打つまでに必要な時間は どれぐらいだろうか? 心が灰色に染まる中、羽音は近づき、ふいにその 音の主は姿を現した。それはゾウワシではなく、鳥男だった。 「やあ、こんにちは」  羽を器用に操り、ホバリングをしながら鳥男はつぶやいた。バーナーの 火力を緩め、上昇するに任せていた気球をいったん止めた。 「こんにちは、鳥男さん。はじめまして」 「確かに君には会った記憶がない。はじめまして」  喉の奥にたくさんの子虫が紛れ込んでいるような、ざらざらとした声 だった。鳥男は気球を上から下まで眺めた。 「なかなかいい気球だ」 「ありがとう」 「おまけに手馴れているように見える」 「もう乗り始めて長いですから」 「面白い話を聞きたくないか?」  早速鳥男は切り出してきた。  鳥男は全世界を飛び回る。その速さはカゼキリタカより早く、その体力 はウミワタリより強い。  鳥男は物語を集める。全世界を飛び回り、各地で色々な話を聞き、頭の 中に蓄積をする。そして空の上で人々に出会うと近寄り、様々な物語を 語り、その対価として食料を得るのだ。話には聞いていたが、会うのは 初めてだった。  私は、腰元の麻袋を開けた。 「ぜひ聞きたいですね。こちらには子山羊の干し肉があります。よかったら 三枚ほどつけますが」 「黒唐辛子の粉はあるだろうか。あるのならたっぷりと振りかけてもらい たい」  干し肉に黒唐辛子を降りかけ、鳥男に向かって投げる。鳥男は器用に嘴で それをくわえ、ばりばりと噛みだした。 「いい肉だ。景気がいいみたいだな」 「おかげさまで」 「景気がよくなくては、こんないい気球は買えない」 「鳥男さんも乗りますか?」 「遠慮しておこう。それよりも、干し肉のお礼だ。たっぷりと面白い話を 聞かせてあげよう」  鳥男は話し出す。ある日突然「黄色い夜」がやってきて、人々が全員 狂ってしまった街の話。百年に一人だけ入ることの許されている「時の 図書館」の話。花札好きが高じ、ついに国と国とをかけてゲームをした という二人の王様の話。それらはあまりに刺激的で面白く、乾燥していた 脳が水を与えられ、潤っていくかのような知的な興奮を覚えた。  干し肉三枚分の話が終わると、鳥男は言った。 「何か面白い話があったら教えてもらいたい」  鳥男は最後に話をねだる。それには答えても答えなくてもいい。本来、 答えないほうがよかったのだろう。さっさと気流を掴んで、ユールタイド まで戻ったほうが。だが、鳥男の語る様々な物語に、私はすっかり魅了され ていた。 「こんな話がありますよ。絶対に乗り物酔いをしない男の話」 「ほう、興味深い」 「あるところに、馬車に乗っても船に乗っても、全く酔わない男がいたん です。ゴブルからカイアセンまでの長い船旅、その男は聖レキル記を ずっと読んでいたのですが、時化の中大揺れする船に乗りながら、あの 分厚い本を二度も読み通してしまった」 「いい耳をしているのだろうな。酔わない人間はえてして耳がいい」  私は苦笑をする。鳥男はつまらなそうに首を振った。 「だが、その話なら、恐らく知っている」  興奮して覚えていた微熱が、すっと引いていくような感覚を覚えた。鳥男は 構わず続ける。 「やがて戦争が始まった。船酔いをしない男、揺れる船の上でも平衡感覚を 保てる才能。男は優秀な狙撃手になった。どんな条件の中でも、男はその平衡 感覚で冷静に狙いを定め、人を殺していった。この間にも面白い話があるのだが、 ここでは割愛しよう。やがて、戦争が終わった。男の国は敗れ、軍人たちは食い 扶持がなくなった。だが、腕のいい人間は腕がいいというだけで食っていくこと は出来るものだ。優秀な狙撃手。その腕を買われ、男は徐々に闇の世界へ身を 没してゆく。一年もあれば充分だった。男は優秀な殺し屋となった。彼の得意と する殺しの方法は、六種類。そのひとつが何か知っているか?」 「……知っているさ」 「そうだ。気球を使う、というものだ。正確に言えば、気球の上から狙撃をする。 大きく揺れる気球から遠く離れたターゲットを撃つことなど、普通の人間は出来 ない。だが、彼には出来た。その驚異的な平衡感覚で。生活をしているだけで 突然空からの銃弾に撃たれる被害者。誰も気球から撃ったなどと思わないし、 よしんば思っても後の祭り、証拠は何も残らない。男がこの方法で殺した人間の 数は、実に十人以上。私の聞いた限りではね」 「……誰に聞いたんだ?」 「それは言うことは出来ない。鳥男の大切な掟のひとつだ。この男が二晩目の 殺しをした時の話が傑作だ。今からその話をしてあげよう」 「もういいよ」  私は静かに、それでいてしっかりと声帯を振るわせた。 「もういい。その話は聞きたくない」 「どうした? これからが面白いところだぞ」 「もういいんだ」  その瞬間、私は素早い動きで床に寝かせていたライフルを取り、構え、鳥男 の頭めがけて打った。鳥男の頭部が大きく後ろにのけぞった。殺した……と 思ったのも束の間、鳥男はのけぞった頭を勢いよく元に戻した。  ライフルの弾丸は、鳥男の嘴に挟まれていた。鳥男はそれをぼりぼりと食べ 始めた。 「これはなかなか美味だな。だが、いささか渡し方が手荒いように感じた。 以後気をつけるように」  銃弾をごくりと飲み込むと、鳥男は大きく羽根を動かした。 「ごちそうさま」  言うや否や、鳥男は物凄い速度で飛び去り、あっという間に見えなくなった。 ***************************** Trauermarsch http://red.ribbon.to/~kiriko/ *****************************