『花』  南向きの見晴らしのいい部屋を買った。私がまずしたことは、部屋の 四方に植木鉢を置くことだった。壁沿いに様々な形の植木鉢を幾つも置き、 土を入れる。そして私はそこに花の種を蒔いた。この部屋のために特別に 注文した花の種だった。  部屋の中央には座り心地のよい安楽椅子を置いた。本は読みきれない ほどの数を持参した。私はその中から一冊を選び取り、椅子に腰を下ろし ゆっくりと目を通し始める。そして、一日に三度――朝日が昇る時、日が 南中に差し掛かる時、夕日となって落ちる時、私は椅子から置きあがり、 鉢植えに水を与えた。この部屋での私の生活は、そのようにして流れ出した。  美しい部屋だった。海沿いの家。南を向いた窓からは、美しく穏やかな 海を望むことが出来た。日の出の直後に差し掛かる新しい陽光が水面で弾け、 砕ける様子には、生命とは何かの答えが詰まっているような気がした。窓を 開けると暖かな風が海の匂いを運んでくるが、時折潮風特有のべたべたした 感触が私の頬を撫で、それが少し不快だった。閉めた窓の硝子越し、風が 木の葉たちをそよがせる様子を見ている方が心地よく、私はあまり窓を開け なくなった。  植木鉢に撒いた花の種は、読み終えた本が十冊となった時、緑色の芽を 出し始めた。読み終えた本が三十冊となった時、芽は茎となり力強く身を 伸ばし始めた。  読み終えた五十冊にさしかかろうとした時、とうとう最初の花がその 美しい顔を覗かせた。透き通るような青い花だった。私は読んでいた本を 閉じ、何時間も花を見つめて過ごした。それは美味しい物を食べる時よりも、 木漏れ日の当たる道を歩くよりも、私の心を静穏にさせてくれる時間だった。  一日一日と、花はその身を開き始めた。燃えるような赤い花。吸い込ま れるような黄色い花。人間的な桃色の花。精錬な白い花。無邪気な悪意を 感じさせる黒い花。全ての花、ありとあらゆる色の花が咲き、部屋は彩りの 中に落ちた。私は安楽椅子に深く身を沈め、窓から差し込む陽光と、窓の 向こうに見える海と、部屋を埋め尽くす花を愛でた。もう本は必要なかった。 最後の本を閉じ、私は時間が過ぎるのに身を任せることにした。  やがて花は果実のような馨しい香りを放出し始めた。どのような香水も、 どのような果物もかなわない香りの洪水は、私の脳に官能的な喜びすらを 与えた。ありとあらゆる色と、ありとあらゆる香りに囲まれ、私はしばし 陶然とした時を過ごした。  カーテンを閉める。部屋が薄暮の中に落ちる。私は安楽椅子に深く腰掛け、 目を閉じた。この部屋のために、特別に注文した花。その芳醇な香りに含ま れる毒が私を蝕み、食い尽くすまで、一晩もあれば充分なはずだった。美しい 部屋と美しい景色、美しい花とその香り。私を満たす全ての物に、私は感謝 した。生まれてからこの瞬間まで、こんなにも穏やかな心地になれたのは 初めてのように思えた。  全てを祝福するかのような花の香が暗闇の上から私を包み込んでいる。 大いなる感謝を胸に抱き、やがて私はゆっくりと眠りの世界へと沈んで 行った。 ***************************** Trauermarsch http://red.ribbon.to/~kiriko/ *****************************