「ヒカルの碁」第2部がつまらない理由



「ヒカルの碁」第1部は、少年漫画の歴史において画期的な作品だったといえる。
碁という難解なゲームを題材にしたと言う点もあるが、一番画期的だったのは、囲碁漫画なのに囲碁の面白さを前面に出していないという点だった。

「ヒカルの碁」の対決シーンを思い浮かべてみるとよい。
「右上スミ小目」とか、「一手目に天元!?」とか台詞として書かれてはいるが、囲碁に詳しくない大半の読者にとっては、それらが試合の流れ上どのような意味合いを持つのか、ほとんどわからない。
例えば、実際に碁打ちが試合の攻防を楽しんだり、名人戦の棋譜を眺めてウームと唸ったりといった、本当の意味での囲碁の面白さ、奥深さは、「ヒカルの碁」という漫画からは全く読み取ることができない。

このは、往年のジャンプ漫画とは異なるものだ。
例えば、「スラムダンク」。
あの漫画はまず、バスケットボールを通して魅力的な人物を描くことに主眼を置いた。
そして最後に、作り上げられたキャラクターを通してバスケットボールを語ることで、バスケットボール賛歌へと物語をアクロバットさせた。
ルールに対する注釈はその都度差し込まれ、ディティールも緻密に描かれる。試合の進行は非常に面白く、バスケットボールという競技の面白さが素人にも伝わってくる。
作者、井上雄彦のバスケットボールに対する愛情が注ぎ込まれた名作が「スラムダンク」であり、今までのジャンプのスポーツ漫画は基本的にそういったあり方を示してきた。

スポーツ漫画を、「特定競技による対決によって進んでいく物語」と定義すると、「ヒカルの碁」もその範疇に入れることが出来るのだが、井上雄彦に比べてほったゆみのスタンスはかなりクールである。
「スラムダンク」がバスケットボール自体を語る漫画であるのに対し、「ヒカルの碁」は先程も言ったように囲碁自体を語ってはいない。囲碁を通して「何か」を語る漫画である。



その「何か」とは何だろう。
それが、繰り返し提出される「神の一手」というテーゼである。
「ヒカルの碁」の世界において、「神の一手」というテーゼは、様々な棋士が目指すべき最高の位置にある一手とされている。
最強の棋士である佐為も、塔矢親子も、主人公のヒカルも、とどのつまるところこの境地を目指し、上昇していく。

言ってみれば「ヒカルの碁」とは、「上昇の物語」なのである。
ヒカルとアキラ、そしてその背後にいる佐為と塔矢公洋を主軸にし、アマからプロまで様々な棋士の姿を描いて行くわけだが、彼らの全てが「より強く」を念頭に、つまり「神の一手」を念頭に物語に参加している。
それらの物語が全て、最終話のヒカル対アキラの対決に収斂していく。このダイナミズム。「ヒカルの碁・第1部」は、小さな物語を積み重ねていくことで、「神の一手」という大きな物語を描きあげ、見事成功を収めた傑作である。

逆に言えば、この「上昇の構図」さえ描くことができれば、「ヒカルの碁」は「ヒカルの将棋」でも、「ヒカルのドッヂボール」でもなんでもよかったわけである。碁が選ばれたのは、たまたま原作のほったゆみが囲碁をたしなんでいたから、という理由にすぎない。



前置きが長くなってしまったが、現在ジャンプで連載されている「ヒカルの碁・第2部」は駄作である。
もともと作者が第1部までしか想定していなかったということもあるが、つまらなくなった最大の原因は、この「上昇の構図」が全く描かれていないことにある。

第2部で描かれているのは、ヒカルと御木曽プロの対決や、日中韓Jr.杯といった、極めて小さな物語だけである。
しかも、小さな物語を積み重ねてより大きな物語を作ろうという姿勢もなく、小さな物語は小さな物語として収束してしまう。佐為という最強の棋士がいなくなったことで、「神の一手」という幻想がはるか彼方へ消えてしまったせいだろうか、第2部は進藤初段の極めて小さい成長物語を描きながら進行している。

「ヒカルの碁」がつまらなくなった最大の要因は、間違いなくここにある。
もともと囲碁のシーンなど記号として描かれているだけだったので、それを延々と見せられても読者は面白くない。その向こうにより大きな物語を見せてくれなければ読者は満足しないのだ。
ダイナミズムの欠如。「上昇の構図」の欠如。

「ヒカルの碁」がつまらなくなったのは、「ヒカルの碁」という漫画がその目標を見失ってしまったことにある。


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