ディズニーランドの方法論
実に2、3年ぶりにディズニーランドなんぞに逝ってきたわけですが、なんつーかすごかったですよ。圧巻。
昔逝ったときも、その世界の完成度の高さに圧倒された記憶があるのですが、「ライツ・オブ・ロマンス」と題された期間限定の光の饗宴が美しすぎて、誇張でもなんでもなく夢のような時間でした。
同時に思ったのが、ディズニーランドというのは実にボロい商売だな、ということ。
入場料でガキや老人からも4000円以上を搾り取り、中に入っても食事やらお土産やらでまた搾取。平日にもかかわらず歩くのが困難になるくらいの人を集め、一人から平均1万くらいをもいでいくわけですから、TDLというシステムの中では物凄い量の金がすさまじい勢いでめぐり続けている。平井銀二風に言えば「金を無尽蔵に積もらせるシステム」を築いているといえるでしょう。そら、USJなんていう二匹目のドジョウ狙いも出てくるってもんです。
私は長いことTDLをヌルい設定のガキんちょ向け遊園地と思い込み、心のどこかで「ディズニーなんて」と敬遠していました節があるのですが、今日色々とアトラクションに乗ってみて、これは他の遊園地とはそもそも方法論のレベルで全く違う遊園地ではないのか、と思いました。遊園地というか、TDLはTDL、唯我独尊の存在として他の遊園地とは別格として語られるべきではないのか、と。
たとえば、「スプラッシュ・マウンテン」というアトラクションがあります。
川を船で滑っていって、最後に水の中に落ちるというありがちなものですが、あのアトラクションは滝から落ちるに至るまで、「うさぎどんの物語」が延々と展開します。滝から落ちる理由も、物語の中できちっと設定されている。つまり、滝から落ちる=絶叫を、ひとつの物語の中に組み込んでいるといえます。絶叫がアトラクションの「目的」ではなく、アトラクション(空間)を構成する「手段」として選択されている。
この傾向は非絶叫系のアトラクションに顕著に現れていて、中にはただ乗り物に乗って人形劇や箱庭を巡るだけというようなものもあります。
たとえば「ホーンテッド・マンション」。
これはお化け屋敷の癖に全く怖くないことで有名なアトラクションですが、そもそもあれが怖くない理由は、お客を怖がらせることを目的に作っているのではなく、お客に「お化け屋敷」という空間を提供するために作られているからなのです。「スプラッシュ・マウンテン」以下絶叫系のアトラクションも、基本的にこの方法論に則って作られている。要するにTDLのアトラクションは全てが「人形劇巡り」、「箱庭巡り」であり、滝から落ちたり回転したりするのは単に箱庭を演出するための手段にすぎない。「フジヤマ」や「ドドンパ」が絶叫を目的に作られているのと対照的に、「スプラッシュ・マウンテン」や「ホーンテッド・マンション」は空間を提供するために作られている。
ではなぜ空間を提供するのかというと、TDLが謳い文句にしている、「夢を提供するため」です。夢の対立項は現実なので、平たく言うとTDLは「現実逃避を提供している」ことになります。
ディズニーランドに逝ったことのある人は、あそこのスタッフがどういうスタンスで仕事をしているかを思い出してください。TDLのスタッフは全員「演技」をしている。「スター・ツアーズ」の従業員はあくまでアトラクションを「宇宙旅行」といい、「ハヴ・ア・ナイス・トリップ!」といってお客を送り出します。「ジャングル・クルーズ」も「ホーンテッド・マンション」も、そこに携わるスタッフは全員臆面もなく演技をしています。TDLは、そこに携わる人間ごと現実逃避を促す装置として機能しているといえるでしょう。
私はTDLで楽器演奏をしたことが2回あるのですが、楽屋からステージに向かうまでTDLの裏側が丸見えになっている部分があります。着ぐるみの倉庫もあるし、ビッグサンダーマウンテンの張りぼても見えます。演奏者はスタッフに、
「絶対にこの裏側は撮影したりしないでくださいね!」
と厳重注意をされ、四六時中スタッフの監視下に置かれます。これはTDLが頑ななまでに「現実逃避を提供する装置」としての側面を保とうとしているが故の行動なのです。
石橋貴明は、「ミッキーマウスなんてただの縫いぐるみだろー!」みたいな発言をして、TDLに出禁を食らっているそうです。そこまでしてTDLは、「夢を提供する」、「現実逃避を演出する」という原理を保っている。だからこそ私のような人間も心のどこかで「馬鹿馬鹿しい」と思っていながらも、真面目に楽しんだり感動したりできるのでしょう。久々にプロフェッショナルな仕事を見た気がします。TDL、浅いようで奥が深い。
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