批評と土俵の問題
綾茂さんが夏目房之介氏のコラムを紹介してくださったので、今回はそのコラムの前半に関しての一筆。
創作者と批評者にまつわる問題というのは色々と複雑な事情を含んでいて、私も度々話題にしているがどうも巧いこと結論をつけることができないでいる。
創作者と批評者にまつわる問題というのは簡単に言うと、
「偉そうに批判するけど、んじゃてめえは俺と同じものを書けんのか?」
という議論が有効か、無効かという問題である。
有効であるならば自由な批評空間の構築が出来、意見交換がスムースに行われる反面、稚拙な罵詈雑言の台頭を許してしまうことになる。逆に無効であるならば、優れた創作者のみに批評権が与えられることになり、創作空間は閉鎖的になる。
要はシーソーの支点をどこに置くかという問題なのだが、私は夏目氏のように、発言者の氏素性と発言内容とは完全に分離させ、誰が何を発言してもその意見が正等ならば許される……と決定することは、やはり出来ないと思う。
例えば、毒舌批評で有名な井筒和幸という監督がいる。私は彼が大嫌いである。彼の批評が面白いかどうかは私にはわからないが、それなりにウケているのだから需要はあるのだろう。
ところが、「そんな偉そうなことを言うならいっちょ見てやるか」と思ってみた彼の映画は恐ろしくつまらなかった。「のど自慢」、「岸和田少年愚連隊」辺りしか見ていないが、いずれも最後まで見るのが苦痛なほどつまらない。現在公開中の「ゲロッパ!」も友人筋によると最悪と聞く。
私が彼を嫌う理由はここなのだ。つまらない映画しか捕れないくせに、他人の創作に対してイチャモンをつけている。彼に対し、「一作でもいいから傑作を撮ってからモノを言えよ」という批判は有効であると思う(ていうか誰か言えよ)。
勘違いしないでもらいたいのは、彼が偉そうなことを言っているから(批評家であるから)嫌いなわけではない。
創作者として稚拙であるのに、他の創作を批判するから嫌いなのである。このように、同じ土俵に片足を突っ込んでいる人間に対しては、「んじゃてめえは同じレベルのものを作れるのか?」という批判をしてもよいと思う。
同じ土俵に上がらないことに対しては非難すべきではない。私の尊敬する瀬戸川猛資先生のように、本編よりも面白い批評をする人間もいる。彼に対し、「んじゃお前がミステリを書いてみろ」と批判する人間がいたとしたら、ナンセンスだ。
ただ、一旦同じ土俵に上がってしまった以上、「んじゃてめえが書いてみろよ」という批判を受けることは覚悟すべきである。創作家が批評を行うこと(またはその逆)は茨の道である。表現の自由を盾にした無責任な放言は許されない。
■追記
私は茶木則雄や関口苑生などの「毒舌評論家」も大嫌いである。
が、それは単純に彼らの批評内容がお粗末だからであろう(彼らは半年に一度「10年に一度の傑作!」と叫び出すという奇病にかかっているw)。彼らに対しては「んじゃてめえが書け」というよりも、「チミの書く批評はどうしようもないので筆を折れ」という批判が有効である。
2003年8月26日