moon
アスキー(ラブ・デ・リック)「moon」に関するネタバレがあります。
未プレイの方はご注意を。
「moon」というゲームで提出されるメッセージは、冒頭、主人公の母親が怒鳴る、
「ゲームなんかやめて早く寝なさい!」
の一言に集約されている。
繰り返し提示される「光の扉を開けて……」というメッセージ、ゲームを続けることがバッドエンディングに繋がる構成、これらは全て、「ゲームをやめて現実に戻ろう」というメッセージに結びついている。
「moon」には最後、以下のような選択肢が与えられる。
「CONTINUE?
YES NO」
ここでNOを選択肢、ゲームをやめることにより、「moon」は本当のエンディングを迎える。主人公は現実に戻り、ハッピーエンドとなる。
だが、このメッセージ自体はさして斬新なものではない。
寺山修二はかつて、「本を捨て、街へ出よう」と唱えた。同じような言葉は音楽の世界にもある。これらのメッセージが意図するところは、部屋に引きこもってないで他人との繋がりを持ちましょう、というものである。
「moon」の最終的なメッセージもこうしたステレオタイプなものであり、これだけを取り上げてどうこういう性質のものではない。こういったメッセージは、他メディアで散々言われてきたことであるし、何より我々も母親に散々言われたことであろう。
それらのメッセージと、「moon」の発したメッセージはどのように違うのか。
以下はこの問題に対する、簡単な私見を述べたいと思う。
「moon」が世に出た際の宣伝文句は以下のようなものだった。
「戦闘のないRPG」
事実、「moon」には、従来のRPGのような戦闘シーンはない。
主人公は勇者に殺されたモンスターの魂を捕獲したり、登場人物の人助けをしたりしながら「ラブ」を集め、ストーリーを進行させてゆく。
RPGらしい箇所は、ラブを集めることでレベルがあがり、行動時間が増えることぐらいだが、基本的に「moon」はRPGではなく、アドベンチャーゲームである。謎解き要素の強さを考えても、このゲームはアドベンチャーとして売り出されるべきだった。
では、なぜこのような売り出し文句をつけられたのか。
理由は簡単で、「moon」にはドラゴンクエスト、ファイナルファンタジーに対する皮肉や毒気がふんだんに盛り込まれているからだろう。
冒頭、主人公の少年は、プレイしているRPGの中に取り込まれてしまう。
そこでは、主人公が操っていた世界を救うはずの勇者が、邪気のないモンスターを殺害しまくる殺戮者として登場する。
つまり、「moon」では、善悪の概念が逆転しているといえる。
と、断定してしまいたいところだが、ことはそう簡単ではない。
勇者が殺人鬼になってしまった理由は、大臣によって白羽の矢を立てられ、戦いを繰り返す呪いの鎧を着させられてしまったからなのだ。善良な一人の少年が、無理やり殺人鬼に変えられてしまったのである。勇者のおばあさんは、町外れの小屋で今も勇者の帰りを待っている。
ゲームを進めるに従い、断片的な情報からプレイヤーはその事実を知ることになる。
つまり「moon」は、勇者=悪、モンスター=善という、安易なアンチテーゼの構図を取らなかった。アンチ勇者の子供っぽいゲームにはしなかったのだ。
ゆえに「moon」の「現実に戻ろう」は、「RPGの世界は嘘だから、現実に戻ろう」ではない。
では、「moon」で語られている「現実へ戻ろう」のメッセージはどういう文脈で読むべきなのだろう。
ここに、光の扉が開いたシーン、という補助線を引いてみる。
光の扉とは、プレイステーションのCDドライブの蓋のことである。
主人公は最後にそれを開き、ゲームをやめることでエンディングを迎える。
主人公が最後の選択肢を選んだあと、光の扉が開くシーンが映し出される。
このシーンで非常に興味深いのが、登場キャラクターが全員、光の扉をくぐって扉の向こう=ゲームの外側に出るくだりである。
このシーンはどのような意味を持つのだろう。
光の扉の奥から、神々しいばかりの光が満ちていて、それに向かってキャラクターたちはあるいている。このシーンから想起される単語は、「解放」である。「救済」といってもいい。
では、登場人物たちは何から解放されたのか。
「moon」のゲーム中、登場人物を制御している装置として、「基盤」という言葉が頻繁に登場する。
「基盤」とは文字通り、ソフトウェアの中に組み込まれたプログラムのことである。登場人物は基盤に書かれたアルゴリズム通りに毎日行動し、イベントをこなす。
クライマックス、月に降り立った主人公を待ち受けていたのは、積み上げられた基盤の山だった。勇者や大臣すらも、基盤に書かれたとおりに行動し、動くだけのプログラムだったのである。
「光の扉」を通るキャラクターたちは、この「基盤」から解放されたのである。作り物の存在である自己からの脱出、決められた通りにしか動くことのできないプログラムからの脱却。
エンディングでは、実写の日本で生き生きと生活する登場人物たちが描かれて幕となる。ゲームから解放されることで解放を得る登場人物の姿からも、作者があらかじめ「全てが決められた世界からの解放」を描きたかったのは明らかである。
そして、「基盤」から解放されるのは、何も登場人物だけではない。
光の扉をくぐるのは、主人公=プレーヤーも同様だ。
RPGに対し、何の疑問も持たずにレベルをあげまくったり、全てのジョブをマスターにしたり、そうしたプレイヤーを、「moon」というゲームは痛烈に批判している。その批判が正当かどうかは置いておくことにして、作られたプログラムを外部から動かしている人間が、気がつかないうちにプログラムの一部としてゲームの中に取り込まれてしまう滑稽を、「moon」というゲームは最終的に非難したかったように思える。
「moon」における、「現実へ戻ろう」は、こうした複雑な経緯を持って発せられたテーゼであり、寺山のそれとは一線を画す。このメッセージはゲームにおけるメタフィクションという形をもってしか発し得なかっただろうし、「moon」をノベライズしたからといって、どれほどの説得力を持つかはわからない。苦楽をともにした登場人物と一緒に光の扉をくぐることで、「moon」のメッセージはプレイヤーの心を打つのである。
ゲームは面白い。でも、自分がゲームに組み込まれてはいけない。
作り手の側からこうしたメッセージが発信されたゲーム、「moon」。これはひとつの事件であったと思う。
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