「ICO」小論
「ICO」のシナリオの肝は、「意味」だと思います。
イコが少女を助ける意味はあるのか、古城を脱走する意味はあるのか。プレーヤーはイコを操っている最中、少なからずそうした自問に駆られることになります。「『正義の』マリオが『悪者の』クッパから、『ヒロインの』お姫様を奪還する」、といった安易な善悪二元論、安易な解決法が与えられていないからです。
イコは何も判らずに、ヒロインかどうかも判らないヨルダを檻から連れ出し、一緒に逃げようとします。イコこそはピーチ姫を浚おうとしているクッパなのか、救おうとしているマリオなのか? 自分の行動にはどのような意味があるのか。コインを弾いてぐるぐる回っているときのような、表か裏かどちらが出るか判らない不安定さが、「ICO」をプレイする際のプレーヤーの自問に繋がるわけです。
(以下、結末のネタバレを行いますので、不都合がある方は★まで飛ばしてください)
ゆえに私は、安易に「意味」を与えてしまう「ICO」の結末は好きではありません。
ヨルダが闇の女王となり、イコの乗った舟を押すシーンで終わっていれば、このゲームはほとんど完璧な出来だったと思います。イコがヨルダを連れまわした行為に意味はなかった。イコはマリオにもクッパにもなれず、ただ無意味にヨルダを連れまわしただけだった。
しかし、ヨルダが舟を押す際にイコに呟いた言葉(判別不能)は、紛れもなく感謝の言葉だったわけです。
イコのしたことに意味があったとすれば、イコとヨルダの心が通じ合ったことにあった。
「ICO」の結末はこうでなければならないはずで、そう考えると最も使用するアクション、「手を繋ぐ」の意味もぐっと深まるわけです。
しかし、「ICO」は結末で安易にイコに英雄の称号を与えてしまう。全てぶち壊し。チャンチャン。ヨルダが城からどうやって抜けてきたのかもさっぱりわかんないし。この結末を入れたやつは万死に値しますよ、本当に。
(★ネタバレ終了★)
あー、こう書いてると改めてもったいないゲームだったなあ。まあ、プレイする価値は絶対にあるゲームですので、未プレイの方はぜひぜひ。
しかし、「ICO」を宮部みゆき女史が小説化だってね。大丈夫なのか。「ICO」って宮部女史が喜びそうな話ではあるけれど(ショタ少年が出てくるから)、宮部女史の作風の対極にある作品だと思うんだが。
基本的に宮部みゆきという作家は、全員が善人である小説(「魔術はささやく」、「火車」、「蒲生邸事件」など)を最も得意としてた人で、その優しい視点が最高の効果を挙げていた。
最近では「クロスファイア」や「模倣犯」などで悪役を出しているものの、スティーヴン・キング的な善悪二元論の範疇を出ていない。ただ、別にそれは悪いことではない。キングは最高の小説家の一人だし、宮部女史も一緒。要は人には向き不向きがあるというだけのことで。
んで「ICO」なんですが、これは自分が善か悪かすら判らない、パラダイムがふにゃふにゃの世界観で書き進めていかなければいけないわけで、宮部先生の作風とは対極にあるのではないかと思うわけですよ。大丈夫なのかなあ。イコが最初からヒーローとして書かれてたりして。とりあえず出たら読みますけどね。
個人的には乙一か村上春樹に小説化してもらいたかった次第。
2003年4月16日
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