戻る「千と千尋」は売春映画?──町山智浩インタビューを斬る
変なものを見てしまったというのが一番正鵠を射ている気がする。
「映画秘宝」なる雑誌を編集している町山智浩という方がいらっしゃるのですが、彼の書いた(正確にはインタビュー)「千と千尋」批評を読んだ。その内容とはどういうものかというと、「千と千尋」は売春をテーマにした映画である、ということだそうです。
正確な内容はリンク先を読んでいただきたいのですが、簡単に要約すると、
「カオナシが千尋にお金をあげる行為は援助交際、売春行為である」
「父親と母親がビジョンのない投資で豚になり(バブル崩壊)、その変わりに子供が働かなくてはいけなくなった。そんな中でも一生懸命がんばってね、という映画」
「千は源氏名、赤いランタンは売春宿の符丁などなど、全編に渡って売春をアピールしている」
「よって、この映画のテーマは売春であり、バブル批判」
といったようなもの。
湯屋が売春宿をモチーフにしているというのはその通りでしょう。ですが、それだけで「千と千尋」が売春をテーマにした映画である、というのはいささか片手落ちであるといわざるを得ません。第一、その切り口のみで「千と千尋」を判断する場合、ハクの解釈はどうなってしまうのか。あの上に落ちる涙のクライマックスや、「琥珀川」について考えるには、「千と千尋=売春テーマ」というロジックでこの映画を覆うのはかなり乱暴であり、無理があると思います。
カオナシがお金をあげたといいますが、カオナシは千尋の体がほしかったわけではないのです。カオナシは千尋の心が欲しかった。カオナシは世界に居場所を持たないが、金は持っている。そこで、千尋の心を買うことで、世界に居場所を見つけようとした。そういう哀しい存在がカオナシであり、「誰の心にもカオナシはいます」というキャッチコピーは、誰もが持つ臆病で汚らしい心を指してのメッセージでしょう。カオナシは最後に、銭婆のお手伝いという居場所を見つけ、その物語を閉じます。
この姿は、援助交際とは対極であるはずです。援助交際や売春というものは、一般的に金と体という対価関係を持って成立する。客は売春婦の心など欲しくはないし、売春婦は金が欲しい。カオナシと千尋の姿はその対極にあります。
宮崎が本当に、「馬鹿な両親を助けるために頑張って売春をする少女の映画」を撮りたかったのであったら、湯婆婆と千尋が「両親を帰すためには金が幾ら幾ら必要」という契約を結ぶシーンと、千尋が金のために体を売るシーンは必須でしょう。それすらも盛り込まれていないということは、「千と千尋」は売春テーマの映画ではありません。バブル云々に至っては的外れもいいところです。もしも宮崎がそのような意図で作ったとしたら、これは明らかに失敗作です。
前に書いたことがあるのですが、「千と千尋」は宮崎版「不思議の国のアリス」です。千尋は単純に狂言回しであり、観客に感情移入を促す装置であり、映画の目的はトンネルの向こうのあの世界自体を描くことにあります。その世界が何を意味するかは一考の余地がありますが、そのような方法論に従って撮られた映画なわけです。
ではなぜそこに売春宿が登場するのかというと、単純にディズニー的なメルヘンの世界を構築することを嫌い、ちょっと猥雑な空気や毒を混ぜたかったというだけの話でしょう。実際、湯屋が風呂屋ではなく、例えば「魔女の宅急便」風のパン屋であったとしても、「千と千尋」は充分成立する物語だと思います。そういった物語の骨子を見極めずに、表層だけを見て売春だ売春だと騒ぎ立てるのは、はっきり言って視野が狭いです。
以下は蛇足になりますが、恐らく町山という論者は、ひとつのことを発見すると周りが見えなくなるタイプの論者であると思います。今回の論理に関しても明らかに暴論であるのに、
「なんで誰も触れないのか。ほんとに評論する人が鈍くなってきてる」
などと言っているのを見る限り、恐らく自論に自信を持っているのでしょう。これは、湯屋=売春宿という符号を発見し舞い上がってしまい、そのロジックを中心に批評を組み立てようとするがあまり、その批評のいびつさ、傾きに目が回らなくなっているがゆえだと思います。
私の嫌いな茶木則雄と一緒で、読書量、知識だけが売りの、観察眼のないタイプの批評家だと思います。
「侍ジャイアンツ」を見たとしきりに自慢していますが、それを「千と千尋」批評に結びつけることができなければ単純にいらないロジックなわけです。こっちが正論を言うと、「じゃあお前はアレを見たのか? 見てないだろう。俺は見た。見ていないのに語るな」といって煙に巻くタイプの評者というか。私はあまり好きではありません。
2003年3月19日