トンネルの向こうの異世界――「千と千尋の神隠し」
全国1000万人の宮崎フリーク同様、自分もこのクリエイターを愛するものの一人であるわけで、見に行ったからにはレビューを書いておかなければなるまい。
宮崎駿の最新作、「千と千尋の神隠し」。
前評判はなるべく聞くまいしていたつもりなのですが、ここまでの話題作になるとそうもいかないようで、ことあるごとに耳にしたのがコレ。
「難解」
「なにがなんだかわからない」
「気がついたらエンディング」
んで、見てみて思ったんですが、難解に感じるのは当然で、それは作り手がわざとそういう風に作っているから、なのですよ。以下はこの結論に対する、長い補足のような文章になります。
原典は間違いなく、ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」、です。
「日常のふとしたところに、異世界への入り口が開いている」というコンセプトから、結末の落とし方まで、宮崎が「アリス」を意識して物語を作ったのは間違いないと思います。
トンネルの向こうは、不思議の町だった。
郊外に引っ越すため、車で新しい家へと向かう、荻野一家。
しかし、途中で道を間違えてしまったらしく、気がついたら謎のトンネルが目の前に。
好奇心の強い父親にひきずられるように、トンネルの向こうへ入りこむ千尋だったが、その奥には、人間の存在が許されない、不思議な世界が広がっていた。
物語は全編に渡り、さまざまなレベルで謎が散りばめられています。
なぜか千尋のことを知っていて、守ろうとするハクという少年。
名前の一部を奪うことで、他者を支配する、湯婆婆という老婆。
地下に棲む釜爺、カオナシ、たくさんのカエル、湯婆婆の元を訪れる、謎の神様たち。
これらの存在について、多くが語られることはありません。
なぜ湯婆婆は名前を奪うのか。
なんのために宿を経営しているのか。
そもそも、この世界はなんなのか。
答えが知りたければ想像するしかないし、そもそも答えが書かれていない以上、ソレは存在しないと考えるのが妥当です。
宮崎駿の中には一応の解答はあるのでしょうけど、それはあくまで宮崎駿という一人の「受け手」の答えであって、正しいなどとは誰にも言えません。
過去の宮崎映画が、メッセージ性を強く打ち出した上での娯楽、に徹していたことを考えると、この霧のように掴み所のない作風は、極めて異色と言えるでしょう。
逆に、そこかしこに散りばめられた謎から、受け手はいくらでも解釈を掘り下げることができます。
物語の深さ、解釈の余地、という点では、「千と千尋」は宮崎映画の中でも群を抜いています。
見終わったあとに誰かと語りたくなるような映画なので、私たいに一人で見に逝くという愚行は避ける方向で。
さて、物語は、千尋が元の世界に戻ろうとするさまを、淡々と描いてゆく。
その過程で、上記のような謎が散りばめられていくのですが、あえてここでは無視する。
骨格だけ見ると、「千と千尋の神隠し」とは、荻野千尋という少女の成長物語、と一見思ってしまう。ところが、そうではない。
しかし、この話、成長モノとしては、はっきりいって物足りない。
千尋は最初、湯婆婆に名前を奪われ、「千」になる。
定石からすれば、この名前を取り戻す過程を、成長モノに絡めて感動ストーリーにするのですが、宮崎はそういう手法は取っていない。
最後、名前を取り戻し、元の世界へ戻る描写も、実に淡々としている。まるでどうでもいいことのように描かれているのです。
では、宮崎が書きたかったものはなんなのか。
それは、このスクリーン一杯に広がっていた、「トンネルの向こうのの世界」そのものなのではないでしょうか。
ジブリのアニメーションがスゴイことは百も承知していたのですが、それでも、「千と千尋」の映像美にはドギモを抜かれてしまいました。宮崎駿のイマジネーションも凄まじいの一言ですが、それを完璧に表現しつくしたスタジオジブリのクオリティもお見事としか言いようがない。
また、宮崎は、不思議の世界をより際立たせるために、ひとつの装置を用意しました。
それが、荻野千尋という主人公です。
この主人公、今までの主人公とはだいぶ赴きが違う。
表情がどんどん変化する。全身毛が逆立ったり、目玉が飛び出そうになったり、まるでギャグ漫画のようです。
あと、よく転ぶ。ことあるごとに転ぶので、体には生傷が絶えない。
こういうのは、今まで人形のような可愛い可愛い女の子を書くことに腐心してきた宮崎映画にはなかった現象です。
しかしこれこそが、宮崎駿の仕掛けた巧妙な仕掛けなのです。このような描写を延々と続けることで、受け手を感情移入させるのが目的の仕掛け。
その結果、受け手は千尋となり、あの世界を飛びまわることが出来る。スクリーンの上、エネルギッシュに走り回る千尋とともに、笑ったり泣いたりをすることができる。
今までの主人公のようなキャラでは、こういう感情を抱かせることは無理だったでしょう。傍観者として見ていてハラハラすることはできても、一体となって冒険をすることはできなかったに違いない。
千尋は魅力的な主人公です。
そしてその裏には、こういう作り手側の仕掛けがほどこされているです。実に計算高い。
そう考えてみると、一連の謎さえも、「トンネルの向こうの世界」を引き立たせるための、宮崎の演出なのかもしれません。
我々は見終わった数日後とかに、ふと、謎を考えたりするかもしれない。
そしてそのたびに、トンネルの向こうを思い出すことでしょう。
まるで、自分が体験したことのように。
受け手にこう思わせることで、宮崎の描いた「世界」は、ぐっと存在感を増す。そのために、わざと謎を解決せずに、ほったらかしにしたのではないでしょうか。そんな風にも考えられます。
ともあれ、最高の想像力と、最高のスタッフ。
その全てが存分に奮われ、描かれる「トンネルの向こうの世界」。
「千と千尋の神隠し」が、その世界を描くために作られたのならば、試みは大成功といえます。ここまで強烈に異世界を構築した物語は、めったにないのではないでしょうから。「千と千尋」は宮崎駿の異色作にして代表作に数えられるべき名編だと思う。
しかし、デビュー15年目にして、こういう作品をモノにしてしまう宮崎駿って一体……。
ひとつだけいえることは、彼ももののけの一人であることは間違いない、ということでしょうか。
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