ルールが取り払われる恐怖――スティーヴン・キング 「ミザリー」



多くの活字中毒者の例に漏れず、私もキングには幾度となく魅了された者の一人です。
ただ、信者と名乗るには修行不足です。何より「呪われた町」を読んでいないし、「IT」も「ファイアスターター」も「デッドゾーン」も「キャリー」も未読。「ザ・スタンド」なんてのも出てましたね。勿論読んでいません。

そんな私の言うことなので話半分に聞いてもらいたいのですが、「ミザリー」は大傑作です。キングの作品の中では一番好きかもしれません。

とあるベストセラー作家が自動車事故で動けなくなっていたところをそのファンがたまたま発見し、介護のために家に連れ込む……そこまではいいのですが、そのまま監禁されて、自分ひとりのために小説を書かされるというプロットは今読んでも非常に斬新ですし、作中作が入り混じる独自の構成も非常に興味深い。文体も相変わらず爆発しまくり。
本当に面白い小説は年月が経っても色あせないといいますが、87年の発表から15年、未だに「ミザリー」は眩い光芒を放っています。仮にこの作品が新作として現在発表されたとしても充分通用するどころか、最先端の傑作として評価されることは間違いないと思います。キングは凄い。天才です。

私の体験に話を戻させていただきますが、大好きな「ミザリー」の中でも、得意一箇所、心の底から震え上がったシーンがありました。本当に怖くなったと同時に、「この物語は一体どうなるんだ?」という不安めいた感情すら覚えました。今回の文章はそのシーンに関する小文ですが、以下、そのシーンのネタバレを行います。未読の方はいったんブラウザを閉じ、本屋の文春文庫の棚に向かい「ミザリー」を読破の上、お読みください。







よろしいですか? この先はネタバレになります。

私が戦慄を覚えたシーンですが、アニーがシェルダンをいじめぬくシーンではなく、終盤、たまたまアニー邸を訪れた警察官がアニーに殺されてしまうシーンでした。「ミザリー」には怖いシーンが多々ありますし、映画で話題になったのはシェルダンの足が折られるシーンでしたけれど、私に言わせれば最大の恐怖はこの箇所です。本当に怖かった。今でも思い出すだけで背筋が冷たくなります。

このシーンは単純に人が殺されるから怖い、というのとは違います。なぜ私は戦慄を覚えるまでに恐怖をしたのか。
それは、ルールが取り払われることに対する恐怖があったからです。



物語は当初から密室劇の様相を呈して進行します。
登場人物はアニーとシェルダンの二人だけで、シェルダンは事故により下半身を動かすことができなくなっている。
このような状態では必然的にアニーが強者のポジションに立ち、シェルダンにイニシアチブはありません。シェルダンはアニーに言われるままに、ベストセラー小説「ミザリー」の続編をタイプライターで書くことになります。
しかも中盤からアニーはシェルダンを麻薬漬けにし、ほとんど奴隷のような状態にしてさらに支配を行います。更にアニーの立場は磐石になる。どうする、シェルダン! 「ミザリー」は基本的にこのようなプロットで進行していきます。

忘れてはならないのは、アニーは基本的にその辺にいるおばちゃんである、ということです。
シェルダンが健康体ならばひとひねりできるような、普通の人間。アニーがシェルダンの上に立てるのは、シェルダンの事故や麻薬中毒によるものなのです。

事件が密室劇になるのも当然で、二人以外の人物が登場するとこのパワーバランスが崩れるからです。外部から人が助けに来た時点で、物語は終了してしまう。読者も当然その辺は了解し、暗黙のルールとして読み進めます。

ところが、終盤に至ってアニーの家を一人の人間が通りかかる。それも警官という屈強な人間が。
誰もが「え? これで終わり?」と思った瞬間、警官はあっさりとアニーに殺されてしまいます。しかも芝刈り機で轢殺されるという残忍な方法で。これだけでも相当な怖さなのですが、このシーンの恐怖はこれだけではありません。プラスアルファは何か。それが、先程あげた暗黙のルールがいともあっさりと破られる恐怖です。暗黙のルールなどどこにも存在はしなかった。物語のパラダイムがガラガラと音を立てて崩れ、読者は無重力空間に投げ出されたかのような不安感を覚えます。

そして、ルールを破ったのがアニーの狂気であるという事実。物理力では警官の方がはるかに強いのに、アニーはなぜ警官を殺すことができたのか。警官の油断もありましたが、基本的にはアニーが殺人を犯すことをためらわなかったからであり、つまりアニーの狂気であるわけです。

アニーはシェルダンが弱いから強者として君臨していた精神異常者ではなく、本物の化物だった。
それまで読んできた物語の枠が取り払われ、それまで密室の中で語られていたアニーの狂気が一気にクローズアップされる。
「ミザリー」のあのシーンは大まかに言ってこのような構造になっていると思います。
そして物語が今後どのように展開していくかが完全に予想不可能となり、トップスピードでクライマックスまで突っ走ります。このような目くるめくような読書体験はキングでしか味わえないと同時に、私が心の底から恐怖を覚えたのは上記のような理由があるからだと思います。

キングは力業の作家であり、ここまで計算して書いていたとはとても思えません。
恐らく、天性の勘がこのシーンに恐怖の存在を感じさせ、書かせたのだと思います。偶然か必然かは判りませんが、非常に複雑な構造を持って書かれてしまったこのシーン。本当に、本当に怖いです。

2003年4月4日



■追記
この「ルールが取り払われる恐怖」は、宮部みゆきの「模倣犯」の中でも使われていました。
すなわち、女性ばかりを殺していた犯人が、屈強な男をあえて選んで殺害した点です。

「模倣犯」のような、ラスコーリニコフ的犯人は知能犯であるケースが多く、実際ピースは知能犯であったわけですが、その分力が弱いせいか女性を好んで殺す傾向があります(これは現実でも同じ)。ところが、あえて屈強な男を監禁し、殺してしまう。これも明らかに「ルールが取り払われる恐怖」であり、キングの「ミザリー」と同じ構造を持っていると思います。
宮部女史も大のキングフリークなので、いつか同じような奇手を、と考えていたのかもしれませんが、これは恐らく私の勘ぐりすぎでしょう。

2003年4月4日



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