岡崎京子 「リバーズ・エッジ」
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岡崎京子 「リバーズ・エッジ」 ☆☆☆☆☆

物語を読んで、頭がくらくらするほどの衝撃を受けることはめったにない。
ましてや漫画に範囲を限定した場合、その数は両手の指で数えられるほどしかない。

実際に数えてみよう。
手塚治虫「火の鳥」、「ブラックジャック」、、藤子F不二雄の異色短編集、岩泉舞「七つの海」、荒木飛呂彦「ジョジョの奇妙な冒険」、楳図かずお「漂流教室」、松本大洋「GOGOモンスター」、冨樫義博「レベルE」、浦沢直樹「MONSTER」、福本伸行「カイジ」。ちょうど両手のの指だけで数えられた。
しかし、今日からはこの命題を考えるに辺り、足の指も使わなければならなくなるだろう。岡崎京子の「リバーズ・エッジ」は久々に作者に嫉妬を感じたほどの傑作だった。


この物語を読み解くのは本当に難しい。
構造を見てみても、プロットらしいプロットすら存在しない。あらすじを説明しろと言われると非常に困る。
一見して何故この漫画が成立しているのかさえ判らないのである。しかし、滅茶苦茶にならずにきちんと収まるべきところに物語が収まっている。これは何故なのだろうか。


下手をすればすぐにでも破綻しそうな物語をなんとか食い止めているのは、主人公、若草ハルナの存在だ。愛情、嫉妬、憎悪、性欲、感情の種類も大きさも様々だけれど、登場人物たちはそれぞれの物語を生きる中で、若草ハルナに対して何らかの感情を持っている。つまり、非常に間接的な形を取ってはいるが、物語はハルナを吸引力として進んでいく。物語の破綻がギリギリのところで留められている理由はそこにある。


先程登場人部がそれぞれの物語を生きていると書いたが、これは文字通りの意味である。各登場人物が送っている日常と日常は、並列に描かれているもののほとんど関連性はない。
河原に放置されている死体、大量に食物を摂取し全て吐瀉する少女など、意味ありげな描写は多々出てくるが、それらの意味を考えて答えを出したとしても、「リバーズ・エッジ」の全容は見えてこない。外見や骨格から読み解くことのできる物語ではないのである。


それではどう読み解けばよいのか。それには物語の森に一歩踏み込み、登場人物の感情を考えなければならない。

誤解を恐れずに言うのならば、「リバーズ・エッジ」という物語は、「断絶」の物語なのだと思う。
物語を通読してみて見えてくることは、登場人物が抱いている「思い」のその全てが、当の思われている相手に届いていないという絶望だ。観音寺の愛はハルナには届かず、ルミの愛は観音寺には届かない。カンナの愛は山田に届かず、山田の愛もまた相手に届かない。そう、間に大きな川が流れているかのように。

相手はすぐ近くにいるのに、二人の間には空虚な断絶が存在している。この絶望。
しかもこれは戦時中や、「倫敦消息」を書いていたころの夏目漱石の話ではない。現在の、日本の、私たちの、日常の話だ。
「リバーズ・エッジ」の登場人物は、私であり貴方だ。彼らの絶望は、そのまま私たちの絶望に置き換わる。

実際、「リバーズ・エッジ」を読んだ人のほとんどは、しばらくの間言いようのない不安に襲われるだろう。それは正しい反応である。断絶は、絶望は、私たちの日常のすぐ裏側にべっとりと張り付いて、その細かい無数の根をウジウジと下ろしている。私たちは大きな川を挟み、その淵と淵で届かない通信を試みているだけの矮小な存在だ。そして、それが届かないだろうことを薄々知っていながら、轟々と音を立てている濁流から目をそむけている。誰もが見てみぬ振りを続ける岸壁の底を、岡崎は傷口にペンの先を突っ込んでほじくり返すかのように書き殴る。だから、「リバーズ・エッジ」は本当に痛い。
このタイプの物語は、登場人物に読者が自分を重ね合わさなければなんら意味をなさないが、「リバーズ・エッジ」はその困難を見事に達成している。岡崎京子は紛れもない本物だと思う。


偶然なのか意図的なのか、結末の舞台は橋の上だった。
結末でハルナが泣いた意味は、山田のさりげない通信がハルナの心に届いたからではないだろうか。

延々と絶望を描きつつ、最後にささやかな希望を残す。
非常にありふれたタイプのラストだが、絶対に陳腐とは感じさせない。ベタな結末にすがりたくなるほど、それまで描かれてきた絶望が絶望的だったからだ。私は心から橋の上に立ちたいと思った。お勧め。


2003年4月17日



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