ゲームとしての物語
―1. 「物語のルール」とサスペンス―
最近考えている「ゲームとしての物語」という題材について、現時点での考えをまとめておくことにする。多分10回程度で終わると思うので、興味のある方はお付き合いください。とりあえず第1回は、ゲームを規律する「ルール」と、ルールが生み出すサスペンスについて。
まず、サスペンスとは何かについて説明する。これは読者を物語に引き付けるスリル、ハラハラ、ドキドキ、といった要素を包括した概念であると考えてもらいたい。簡単に言えば「ああ、この先どうなるんだろう。気になって仕方がない」という具合に読者を物語に繋ぎとめる力のことを指す。
物凄く大雑把に言ってしまうと、エンタテインメントというのは「不安−安堵」の繰り返しで成立している。登場人物を危機的な状況に陥れることで読者に不安を抱かせる(サスペンスの発生) → 解決を与えることで、読者に安堵を与える(カタルシスの発生)。大小様々なこれらの要素を組み合わせることでプロットが作られ、この受け渡しが巧くいかない作品が「ご都合主義」の烙印を押され、読者に嫌われることになる。
さて、それではサスペンスはどのように発生するのだろう。
ここでひとつ想像をしてもらいたいのだが、若いカップルが観覧車に乗っている映像を思い浮かべてもらいたい。そして、観覧車が一周する15分間を納めた映画があったとして、貴方はそれを面白いと思うだろうか? 恐らく貴方が途中で寝てしまうか、ビデオを切ってテレビにチャンネルを替えてしまうであろう理由は、この映画の中でサスペンスが発生していないからである。
では、その映像に次のようなシチュエーションが加わったらどうだろう。
(1)観覧車の中には音楽を選べるスイッチがある。
(2)その中には無差別テロリストが仕掛けた爆弾が入っている。
(3)1番のスイッチを押した瞬間、観覧車は爆発してしまう。
以上の3点がシチュエーションとして存在していたとすると、ここからは「1番のボタンに触ったらゲームオーバー」という死亡条件と、「触らずに観覧車を降りることが出来ればゲームクリア」といったクリア条件が暗黙のうちに提出される。この条件の対が「物語のルール」に当たるわけだ。
作者はこうして捻出したルール上でプロットを作成する。例えば、「お、この曲好きなんだよねー。ちょっとかけていい?」と1のボタンを押そうとする男と、「それ嫌い! こっちがいい!」と3のボタンを強引に押してしまう女性。ここで小さなサスペンス → カタルシスが発生する。イチャイチャしてる際に当たりそうになったり、彼女が外ばかり見ていて退屈な彼氏が意地悪で1に変えようとしたり、何でもいい。ルールの上でプロットを展開することでサスペンスが発生し、観客を引き付ける仕組みが出来上がる。最後、カップルが観覧車を降りるなり、観覧車が爆発するなりのオチがつくことでゲームは終了し、ルールはその役目を終える。
全てのエンタテインメント作品は、作者が設定した「ルール」に乗っかって動いている。どんなに過激な作品でも「ルール」が存在しなければ「サスペンス」は発生せず、退屈に陥る。例えば、武装テロ団がが機関銃を持って、マンハッタンの街中で延々と人を殺害していく映画があったとして、ひたすら殺害の描写が続いてしまっては、見ている人間もいい加減飽きてくる。ここに機動隊を登場させ、FBIの凄腕ネゴシエーターを登場させ、テロリストに人質を取らせてどこかに立てこもらせ、「人質を無事に奪還できればクリア」←→「人質が死んでしまってはゲームオーバー」といった「ルール」を設定することでサスペンスが発生し、観客はやっと物語に興味を持ってくれるのである。
以上が大まかな「物語のルール」と「サスペンス」の概要である。次項は「ルール」の上に配置される駒についての概論を述べる。
2004年1月24日
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