ゲームとしての物語
―3,ゲームと物語の分岐点―
本稿ではゲームと物語との違いについて述べる。「何いってるんだ、物語とゲームなんて全然違う分野じゃないか!」と憤る方も多いかと思うが、とりあえず最後までお読みください。
さて、まずは前回の「アビリティの振り分け」に関して、述べなかった問題を取り上げることにしよう。前回意図的に省略したのだが、実は「駒」に振り分けられる「アビリティ」は、大まかに分けて二種類存在するのである。
ひとつは、「能力アビリティ」。これはRPGにおける「すばやさ」や「攻撃力」といった「数値」から、「〜の魔法が使える」といった特殊能力まで、幅広い能力を指す。これは「その駒が何を出来るか」を規定するアビリティである。「クイーンは縦横斜めに好きなだけ動ける」というのがこれに当たる。ジャイアンは喧嘩が強い、ブラックジャックは手術が巧い、夜神月は頭がいい……といったものも「能力」である。
これらの「能力アビリティ」は、純粋なゲームの中ではデジタルに数値化されている。具体的には、Bボタンを押さずにマリオをジャンプさせたらX軸上を何センチ動く、勇者の攻撃力は120である、といった形である。ただ、物語の登場人物はデジタルなヒットポイントの削り合いをするわけではないので、「能力アビリティ」が数値として読者の前に提示されることはほとんどない(『ドラゴンボール』などの例外はある)。
読者が知ることが出来るのは、「その人物がどのパラメータに特化しているのか、あるいはしていないのか」といった情報である。そしてこの情報はゲームが始まった際、その後の展開を左右する要素になる。ストリートファイトなら攻撃力の強い方が勝つが、素早さが上ならば強者から逃げ切ることが出来る……といった塩梅である。
そして、もうひとつの「アビリティ」が、登場人物の「内面アビリティ」になる。この要素は「能力アビリティ」に比べてアナログ的であり、抽象的であり、自由度が高い。具体的に言うと、登場人物の性格や嗜好、目標、どの人物を好いていてどれを嫌っているか……などなどがこれに当たる。が、これに関しては次のように考えるとすっきりする。すなわち、「内面アビリティ」とは、「一つのシチュエーションに置かれた時、この人物はどのような行動をするか」を規定するものである、と。
例えば、倣岸不遜な独裁者と、臆病な新聞配達の少年がいたとする。試しに彼らに拳銃をつきつけてみるとする。
独裁者は「反乱だ! セキュリティ!」と叫んだり、あるいは「私を殺そうというのかね?」とうそぶく。対して、少年は鳩のような顔をして固まるだろう。ひょっとすると泣いてしまったり、失禁してしまったりするかもしれない。同じ現象を入力しても、帰ってくる反応は「駒」によって違い、こうしたアルゴリズムの集合体が「内面アビリティ」の正体である。そして、この「内面アビリティ」という概念は、ゲームの世界には存在しない。このことが本稿の本題になる。
さて、この二種類のアビリティの最も大きな違いはなんだろうか。
それは、前者が原則的にほとんど変化しないのに対し、後者が生き物のように変化していくことにある。「ジャイアンは喧嘩が強い」という「能力アビリティ」は、基本的に変化しない。 が、「内面アビリティ」はちょっとしたことでどんどん変化してゆく。『さようなら、ドラえもん』において、のび太のジャイアン襲撃時アルゴリズムは、「ジャイアンに襲われる → 逃げる」である。しかし、「ドラえもんが帰ってしまうこと」をバネに、のび太は「ジャイアンに襲われる → 立ち向かう」といったようにアルゴリズムを変化させる。。このように、「内面アビリティ」は物語の中でどんどん変化してゆく。 そして、「物語を読んでなぜ感動するか?」の答えが、この「内面アビリティの変化」にある。つまり、登場人物の「成長」である。ほとんどの物語は成長物語であり、読者は主人公が成長していく姿に感動を覚える。つまり、「内面アビリティ」のアルゴリズムの変化に感動を覚えるわけで、この推移が物語の感動の正体だ。
それでは、「内面アビリティ」が変化するにあたり必要なものはなにか? それは、アビリティが変化するための「説得力のある理由」である。現実世界では、気分によって人はその日の行動を変える。ある女の子を見て可愛いなと思う日もあれば、こんなにブサイクだったっけ? と思う日もある。だが、物語の中ではそういった不合理な要素は認められず、のび太が静香ちゃんを見たらいつでも可愛いと思わなければならない。「内面アビリティ」は、変化のスイッチが入らない限り、勝手に変化してはならない。
父親の遺言に「強くなれ」と書いてあったとか、いじめっ子に好きな女の子をレイプされたとか、ドラえもんが未来に帰っちゃうとか、説得力のある理由なら何でもいい。この理由に読者が共感を覚えた場合、読者は登場人物に感情移入し、彼の「内面アビリティ」の変化に感動することになる。
さて、ここでひとつゲームの話をしよう。題材は『スーパーマリオ・ブラザーズ』。
このゲームは、誰もが一度はプレイしたことがあると思う。あのゲームは、マリオが幽閉されたピーチを助けに行くという「物語」が設定されている。「囚われの君を助けに」というのは、宮崎駿が『カリオストロの城』や『天空の城ラピュタ』で書いたお話である。この二作は掛け値なしに傑作であり、私も見るたびに感動して、「シータよかったね」、「クラリスよかったね……」と思ってしまう。
それでは聞くが、貴方は『スーパーマリオ・ブラザーズ』の結末で感動しただろうか? 「ピーチ姫よかったね、マリオよかったね……」と思っただろうか?
断言してもいいが、そうは思っていないだろう。ゲームシステムに感動した人は何万人といるだろうが、物語としては『カリオストロ』の一万分の一も感動しなかったはずだ。これはマリオに「内面アビリティ」が設定されていないからである。
通常、ゲームの駒というのは「能力アビリティ」しか設定されていない。将棋の駒はどう動けるかは決められているが、何を考えているのかなんてわかるはずもない。「敵が前に迫ってきた→震え上がる」/「敵が前に迫ってきた→殺してやる! といきり立つ」などが「内面アビリティ」に当たるが、無機質な駒がそんなことを思うはずがない。
『スーパーマリオ・ブラザーズ』もこうした純ゲームであり、「能力アビリティ」のバランスのよさや美しさなどへの感動は生まれるが、物語的な感動は生まれない。逆に言えば、物語的に感動するゲームというのは、きちんと「内面アビリティ」が設定されており、ゲームが進行するに当たって変化していくものであるといえる。その変化が巧い形で行われれば、プレーヤーである我々は感動することが出来る。
つまり、ゲームと物語の違いというのは、扱う「アビリティ」の性質の違いなのである。ゲームは「能力アビリティの駆け引き」によって成立し、物語は「内面アビリティの変容」によって成立する。
また、これまで述べてきたように、数多くのエンタテインメント小説のように「能力アビリティの駆け引き」を物語の中に組み込むことは出来るし、『ファイナルファンタジー』や『メタルギア・ソリッド』のように、「内面アビリティの変化」をゲームの中に取り込むことも出来る。ただ、ゲームには必ず「能力アビリティ」が設定されていなければならず、物語には必ず「内面アビリティ」が設定されていなければならないのである。
「内面アビリティの変化」は読むものに深い感動を与えるが、ハラハラドキドキ(=サスペンス)が発生しないので読んでいて退屈に陥るときがある(※)。「能力アビリティの駆け引き」はエキサイティングであるが、それ自体はただ単に数値が動いているだけなので、ゲームが終わった時点で「面白かったー」で終了である。
小説であれ映画であれビデオゲームであれ、手に汗握り、最後に涙をしてしまうような作品は、この両者の要素が実に巧く絡み合っているものである。エンタテインメント小説・映画の中でしばしばゲームが行われる訳は、上記のような理由による。
さて、ここまでで「物語の中でゲームが行われている」こと、「どのように行われているか」の方法、そして「物語とゲームの分岐点」について説明した。以上で総論は終了にして、あとは具体的な物語を取り上げながら説を掘り下げていくことにする。これに関してはあと5〜7回程度を予定していますので、最後までお付き合いください。
※ゲームが行われず、「内面アビリティの変化」が延々と行われている物語を「文学」と呼ぶ。
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