たとえば感情というものが、何らかの形で向こうからこちらに向けられるとき。最低でもその瞬間だけは相手の何割かを独り占め出来る、というひどく安直な考えに取付かれている。
たとえどんな感情であれ、その小柄な身体の、心の何割かを独占出来るならばそれだけで満足だ。
最初は焦っていた。焦って事を急いでしまったけれど。少し冷静になって考えれば答えは簡単だ。薬漬けにしたところで、どんな状態になったとしても、センセイの事は大切に出来る自信があるけれど。
多分。
多分、たった一つだけ満足できない事がある。
薬にひたひた漬け込まれ、意識が飛んだクロウ先生は可愛いと思うけれど。その時点でクロウはもう、誰のものにもならない事。誰のものにでもなれる事。抱え込んでいる者が鬼柳京介という個人であるだけで、もし何らかの要因で鬼柳の手から離れればもう、クロウは『別の誰かのもの』にすり替わる。
己を持たないからこそ誰のものにもならず、逆に誰のものにもなってしまうクロウ。
きっとその事実は、土壇場で鬼柳を苛む。たとえどんな感情でも、クロウから与えられるものならば、とも思うけれど。その他大勢のひとりにだけはなりたくない。
絶対に、なりたくなかった。





Floating, falling, sweet intoxication!





「先生、これなんてどう?眉寄せちゃって可愛いな…スイッチの傍にしようか」
ペタペタと、裸足の足がフローリングの上を歩く。
ペタペタと、引切りなしに話しかけてはいるけれど、返事は不要と思っているのか気にせずに。手にした写真を次から次へ、壁に貼っていく。
気に入った写真は自分の目線の高さに貼って、けれど壁の上から下までぎっしりと。幾枚も幾枚も幾枚もペタペタと。
クロウで埋め尽くされていく壁。自分でもちょっと異常だと思うから、まだ大丈夫かな?思いながら、手は休めることなく貼っていく。
「流石に天井まで、はまだ無理か。ねえ先生、もうちょっと協力してくれますよね?」
一通り貼り終えて、ぐるり部屋を見渡して。満足げにひとつ頷いた鬼柳はここで、漸く部屋の中央に目をやった。
中央。真っ黒なラグの上、きりきりと眉を寄せ、苦しげな呻き声をあげるクロウ。
なんて強情なのだろう
視線が合わさるなり直ぐに目を逸らしたクロウに、鬼柳は知らず知らず、笑みを深めていた。後ろ手に縛り上げられ、ギャグを噛まされ、アナルには媚薬入りのローションを滴るほど流し込み。グロテスクなイボ付きバイブを突っ込まれてもう、2時間ほどだろうか?
鬼柳にとってはもう、何処をどうやればこれだけ我慢が出来るか判らないレベルだ。2時間もの永い間我慢する必要性もわからない。
最初に鬼柳は言ったのだから。
『して欲しい事があったら、なんでも言ってくださいね』
噛ませたギャグのせいで口では言えなくても、ある程度態度に出したら、子猫を可愛がるかのよう。そっとそっと怖がらせないよう、優しく触ってあげたというのに。ここまで我慢されるともう、そんな気も起きないではないか。
いっぱい我慢しても壊れない良い子
そう認識してしまったら最後。嬉しくて嬉しくて、今の自分では想像もつかないほど酷い事をしてしまいそうだ。
ぴたりと閉じた太股を蹴り上げるくらい、平気でやってしまうほど。
「ヴヴ…ッ」
「足開けクロウ、隠していいなんてルールは作ってねぇよ」










クロウを手に入れる為、鬼柳はありとあらゆる事をした。世間ではえげつないと言われる事まで平気な顔で。
まず最初に集めたのは個人情報。それは簡単だった、教室の何処に契約書が入っているかは知っていたし、セキュリティなど皆無だ。名前住所電話番号、ここまで用意したら次は、生徒の家族ひとりひとりの個人情報に移る。ほんの少し機転と根気があれば、調べられない事はない。
網の目のように続く膨大な情報。得れば得るほど、人に知られたくない事実が顔を出す。
家庭崩壊でもいい、生徒の個人情報を裏ルートに流してしまってもいい、多分どちらでもクロウは過度な反応を示すだろう。
あとは鉄蔵。クロウがまるで本当の祖父のように慕う相手は、鬼柳も実は嫌いではない。だから実際は手出しする気はなかったし、手出ししたとしてもあの頑固な老人はきっと応えないだろう。それを見越したうえで、脅せるだけのネタを集めた。どうせ世間に公開する気はないから、嘘をかなり織り交ぜて。嘘とばれにくいよう、法的な書類を偽造までして。
結果は上々。それらを前に面白いほど打ち震えたクロウが、暫くして見せた睨みはまさに、鬼柳が心底欲しかったもの。


憎しみすら愛おしいですよ、センセ


蕩けそうな声で、優艶な笑みでそんな事を言う鬼柳に、この時点でクロウは逃げ道がなくなっていた。
今は、まだ。





「もう一度おさらいしましょうか?先生。どうやらまだちゃんと覚えてくれてないようだから」
蹴った太股を、そのまま足先でゆっくり開かせながら。言い聞かせるように、一語一句はっきりと。
「一週間のうち2日は、必ず俺のために夜の時間を空ける事」
「ふぅっっ!!」
はっきりと。聞こえるように、けれど悪戯は止めない。鬼柳の足先が、ゆっくりとクロウのペニスをなぞる。裏筋から亀頭にかけてゆっくりと。
「一ヶ月のうち一回は、必ず土日を空ける事。これは今日の事だから、覚えてるのかな」
ガジガジとギャグを食み、恨めしげに睨んでくる気力がまだクロウにはあるようだ。
勿論クロウは、この約束…いや、契約を交わしてから一度も、破ったことはない。ちゃんと覚えている事など、鬼柳はよくわかっている。
それでも説明を止めないのは、何度も何度もクロウに現実を押し付けるため。
「あと、これが一番重要ですよ先生。“俺と一緒にいるときは、命に拘る命令以外何でも聞くこと”」
要は。クロウと共にいるときに鬼柳が発する言葉には全て、縛りがある。
「して欲しいこと、何でも言ってくださいって言いましたよね?俺」
願いではなく、命令。何でもと言っているけれど、クロウが願うべき事はひとつだけ。
鬼柳に縋って、楽にしてくれと頼むこと、だ。



部屋中に貼り付けられた写真のどれもが、熱に浮かされ哀願するようにレンズを見ている。常に前を見ている。その位置まで早く落ちてしまえばいい。常に、落ちてしまえばいい。
思いはしても、鬼柳はクロウが屈しない事もわかっているから。楽しくてしょうがない。
落ちては上がり、また落ちては上がり。絶対に底の底まで沈まないクロウは、一体いつになったら牙をむいてくれるのか。
それが楽しみでしょうがなかった。










ガシガシと食まれて歯型のくっきりとついたギャグ。邪魔そうに首を振るから、すんなり取る。
カチリ、鳴った歯は何度か合わせて顎の調子をみているよう。ボールタイプではないから、口の端はさほど痛くないはず。
一通り満足したのか、口を大人しく閉じ目を上げたクロウはどこか悔しそう。けれど抗う気配はない。
「バイブ…」
少し掠れた声。鬼柳が写真を貼っている間、ずっとクルクルと喉を鳴らしていたから仕方がないけれど。後で蜂蜜を入れた紅茶を飲ませよう、のんびりと考えていた鬼柳には、少し予想外の言葉。
「電池、結構前から、切れてる」
パチリと目を瞬いた鬼柳は、もう閉じる気がないらしい足の間をマジマジと見つめてしまった。
確かに、バイブはピクリとも動いていない。
「ああ、ごめんクロウ、全然イけなかったよな?」
大変だ
口ではそんなことを言っても、鬼柳は何処か嬉しそうに笑った。大変だ。
「全然出してねぇから、薬に免疫出来たのかと思ってた。んなわけねぇよな、クロウはケツ大好きだし」
「ひゃうっ…うぅ!」
可哀想に
可哀想に、可哀想に。口の端を上げながら、鬼柳は躊躇いなくバイブをギリギリまで引き抜き、一気に奥まで突っ込んだ。漸く与えられた快感に、クロウの背が弓形にしなる。
「薬なんてなくても、精子出し切るまでチンポ欲しがる淫乱なケツだもんな?」
「ぃや、ちがッ…あ、あうぅっ!」
「何が違うって?バイブミシミシいうくらい食らいついてるのに。先生このバイブ好きですよね、俺嫉妬しちゃいそう」
最初はそのグロテスクな外見に、クロウが嫌悪と多少の怯えをみせてくれればいい、そんな軽い気持ちで購入したけれど。ここまで嬉しそうに腰を振られるといい気はしない。どんなに否定的な言葉を吐いたところで、クロウの身体は驚くほど快楽に従順だ。
いや、従順になった。
鬼柳の予想に反し、快楽に関してクロウはほとんど抵抗らしい抵抗をしなかった。無闇に強請ることはない、けれど与えられたら与えられた分全部を欲しがる。
何故クロウがこうなってしまったか…鬼柳にはまだ、想像する事しか出来ない。もしその想像が正しければ、ちょっと他にないくらい幸福だ、思うような想像しか。
でもそれはまだ、気づかないフリ。





「なあクロウ、俺そろそろ耐えられない」
「んっ…!」
色々と気づかない事にして、欲望に忠実に。きゅっと抓った乳首に、クロウが大きく肩を揺らした。
どこか覚束ない視線がふらふらと空をさ迷い、鬼柳にたどり着いた途端きゅっと険しくなって。それでも、漸く。熟れたような、溶ろけそうなほどの青灰が顔を覗かせている。
「クロウは?」
もう一息。あえて問えば、きつい視線が少しだけ迷いを見せ。縛られたままの手が、ガリとラグを引っかいた。
「…クロウは?」
そんなクロウの頬を優しく撫でてみる。掴んでいたバイブを少し揺らし、即座に閉じた瞼に唇を寄せ。
ここまで催促したら、もう命令になってしまう事はわかっているけれど。
「…ッおれ、も」
言わせたかったのだから、しょうがないじゃないか。
「俺も、何」
「きりゅ、の…ほしッあぁ!」
聞けばそれで満足。一気に引き抜いたバイブのせいで、クロウのペニスは今にもはち切れそう。それも気にせず性急にズボンの前をくつろげ、そのまま。
ヒゥと喉が鳴る。ズブズブと熱の塊を熱の壁にねじ込んで、沈むところまで。
「あつ…ッうぅ、んん!!ゃ、きりゅ、やす…なぁ!」
いつもならすぐに動き出すのに、少しだけ熱を堪能していたのが悪かったのか。ガジガジと首に歯を立てられた。これは今までにない反応。
けれど考えてみれば、最初に媚薬を丹念に塗りこんでいたのだから、我も忘れるというもの。
「噛み癖あったんだ、クロウ可愛い」
血が滲むほどきつく噛まれたのに、鬼柳はただ嬉しげに。望み通りと大きく腰を振れば、思った以上の反応が返ってくる。
「はふっ、ぁん、あッ!!ゃ、もっ…ほし、ほしいぃ!」
ガリガリとラグを引っかく爪が可哀想で、腕の拘束を外せばするりと絡んできた腕。一応脅しから始まった関係だというのに、これではまるで脅しだけが一人歩きだ。
まあそれでも構わない、鬼柳はそう思う。
「はっ…締めすぎ。もっと抉って欲しいなら、ちょっと緩めろよ」
ぐちゅぐちゅと、狭い部屋中に響くほど突き上げられながら。苦痛のひとつもない声で、言って鬼柳は笑う。
そうすればどんどんクロウが変わると、知っているから。
「ゃあ!やら…ッ無理ぃ!ケツっ、なか、いっぱ…で!!ひうッ!」
ふるふると首を振って。眉を落とすだけ落として。随分と可愛い顔で、何も包み隠さず正直に。



どんどん変わる。どんどん変わって、多分オナニーすらひとりで出来ない子になって。
そこまで変わってしまったとき、クロウはどうするだろう?
なんて。きっと、考えるまでもない事。
「ッ、クロウ、いっぱい欲しい?」
促して。何度も促して。
「んぅ!いっぱ…ッふぁああああ!!」
沢山沈んで、何度も浮き上がって。ただそれの繰り返し。
わかっている。鬼柳はわかっていた。クロウが沈み続けることだけはない事。










黒い厚手の和紙に、金の墨。
写経なんてものを好む渋い趣味のクロウは、自分の写真が壁一面に貼られた部屋にも拘らず、淡々と文字を描き出している。その背中をぼんやりと眺めながら、鬼柳はそっと口の端を上げた。
昨晩散々抱かれた部屋だというのに、文字に対する姿勢は乱れる事がない。どんな場所でも、どんな相手が傍にいようと。筋を通したそれは、きっと何をしても崩れる事はないだろう。
何をしてでも、きっとクロウは負けない。





契約の終了を、鬼柳は既に決めている。
『自分がやった全てを覆す事が出来たら、その手を離す』
クロウにも伝えたその条件を、きっと彼は理解しているだろう。理解していつか、確実に結果を出してくる。
集めた個人情報は、出入りが自由でひとりになる可能性もある、鬼柳の家の何処かにある。鉄蔵の不名誉な汚名に関しては、調べようと思えばいくらでも調べられるのだから、いつか嘘がばれるだろう。
全て揃え、クロウが自由になったとき、残るのは何だ?
ぐるり部屋を見渡して、またくっと口の端が上がった。
もしこんな部屋を警察にでも見られたら、確実にストーカー条例とやらが執行されるだろう。これ以上に確固たる証拠はない、強姦罪だって適応されるかもしれない。
人ひとりの人生を狂わせることは、わりと簡単。ちょっとの行動力と機転で案外どうにかなるものだ。クロウにはそれをするだけの行動力と機転があるはず。
…そのときが楽しみで仕方がないと知ったら、クロウはどう思うだろう?
鬼柳が考えている結末は2つ。
全てを手にしたクロウが、なんの躊躇いもなく自分の身に起こった全てを警察にぶちまける可能性。そうなったらきっちり責任をとって、強姦罪までつけて貰おうと思っている。クロウがこちらの可能性を実践するときは、徹底的に鬼柳京介という存在を抹消したいと望んだ場合だろうから。
けれどもうひとつの可能性。
もしかしたらクロウは、何もかもをやり直したいと言うかもしれない。許す、という可能性。こちらの方が、今のところ鬼柳にとっては有力な可能性だ。
こんな関係になる前、クロウは多少なりとも鬼柳に憧憬のような感情を持っていた…これは自惚れではなく事実だろう。一度でもそんな感情を向けた相手に、一瞬でも懐に入れてしまった相手に。クロウは決定的な決別を望まない、そう思う。
もしどんな形であれ許され、やり直しが可能ならば。鬼柳はクロウが望む形で、その許しを受けようと思っている。許され、その大きな懐に癒されたいと。
でも、なぁ。



多分、ではなく、確実に。
今のクロウは、その最後の瞬間、そして始まりの瞬間、別のクロウに変わっているだろう。
毅然とした態度は崩さずに、それでも快楽には従順という柔軟性をみせているのだから。人を貶めるという選択を、今まさにさせられているのだから。
変わらないはずがない。どんなに正当な理由があったとしても、一度徹底的に何かを壊す経験をつめば、今まで通りなどと言ってはいられないから。
もし鬼柳を許したとしても。もしかしたら、愛を指し示してきたとしても。少し前までの純朴な気持ちではない、絶対に。
もし純粋な恋人になれるなら。それをクロウが望んだ場合は。鬼柳は全てを打ち明けようと、それも決めていた。


今まで真っ直ぐにひとつの場所に浮かび上がっていたその場所が、いつの間にかすり返られていた…そうなったときのクロウを見てみたかったんだよ?


そう言ったら、そのときのクロウはどんな行動をとるだろう。
最低だと罵るだろうか。それとも今度こそ、鬼柳に絶望し決別を選ぶだろうか。もしかしたら、それでもまだ鬼柳のどろどろとした何かを変えようとするかもしれない。
たとえどんな態度をとられても、クロウの全てが愛おしいと言うだろう。結局は、その想いだけ。クロウの中の何割かを独占したいという、それだけ。
それでも、もし。もし、全てを打ち明けたとき、クロウが鼻で笑い蔑んだりしたら。
くだらない男だと、鬼柳を笑い飛ばしたら。
そのときは喜んで、その足先に口付け跪こう。
鬼柳は実のところ、それが一番楽しみで仕方がない。



END




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