靴底に感じる感触はアスファルトだというのに、靴は先ほどからキュッキュッと音を鳴らす。靴の裏に何かついているのか。クロウはそれを確認することもなく、ぼんやりとその音に耳を傾けていた。
先ほどまで涼しい風が感じられた街角は、今は無風どころかねっとりと肌に纏わりつく。空を見上げれば、快晴だったはずなのに変な色。今にも蕩け落ちてきそうな、それは飴色。
いつの間にか曲がりくねった街道の、街路樹に打ち付けられた、白い看板。先が尖った木の板に、白いペンキを塗りたくっただけの簡素なもの。
There was a crooked man
and he walked a crooked mile
かすれた文字で描かれた歌の一節。
クロウはそれがマザーグースであることを知っている。この街角に来た何度目かに、町の入り口に立っていた男が教えてくれた。
町を象徴する歌
確かに確かに。薄汚れた街道は、車一台走ることなく、ただカラカラとゴミが舞う。真っ直ぐに伸びる道はなく、ビルや家はなんだか道に迫り出していて。まるで漆喰で何重も塗り固めかたのように、黒く重苦しい建物郡。入り口が何処にあるのか、窓が存在するかさえわからないような。
でもそんな光景、寂れた町の景色など、クロウは興味がない。
看板が目指す方向に向け、ただ足を踏み出した。キュッキュッと音を鳴らしながら。
He found a crooked sixpence
upon a crooked stile.
擦り切れた燕尾服を着た男が、路上に放置された蓋付きのゴミ箱を漁っている。出てくるものは全てクシャクシャに丸められた紙。彼は何か大事なものまでクシャクシャにして、丸めて捨ててしまったとでもいうことか。
一度捨ててしまったものなんて、きっと探してももう、元通りにはならないのにね
道端でゴロと喉を鳴らしながら日向ぼっこをしていた猫が、そんなことを呟いた。白と黒のシマウマのような柄の猫。
「それでも足掻くんだぜ、人間てやつは」
パチリと一度指を鳴らして、クロウはにっと笑った。
シマウマ猫は、にゃあんと一鳴き、ひょいと白い看板に飛び移る。
そういえば、これの次は猫を買うんだったっけ。でも曲がった6ペンスなど、何処にも落ちていないから。クロウは一瞬首を傾げ、それからふいと視線を外した。
別に歌の通り、猫を連れていく必要はない。
He bought a crooked cat,
猫は連れてこなかった、だから別に気にしない。ただ看板の矢印が、何故か上を向いている。前は裏路地に続いていたはずなのに。
裏路地に行くと、何故か数人の娼婦が立っていて。どこで商売をするのか、それとも商売をする気があるのか。ごてごてと羽飾りのついた帽子をかぶり、やんわりと視点の合わない笑みを浮かべていたはず。色あせたドレスは、もう何十年も箪笥に押し込んであったかのようにぼろぼろで埃まみれ。なのに帽子だけは新品だ。
クロウはその光景をみたとき、なんとも言えず悲しい気分になったから。だから道筋が変わったのかもしれない。
さて、上。
見上げれば、傍のビルの壁に鉄の梯子。登れということか、ということは猫を連れてこなくてよかった。
which caught a crooked mouse,
ちゅう
ここに来るといつもクロウは、そう呟くことにしている。今まで喋るネズミには出会ったことがないけれど。
梯子を登りきった先、飴色の空からぽつり、金色の雨粒が落ちた。雲ひとつないというのに、天気雨。皮膚に纏わりつく、とろとろの雨。
ありがたいことに、看板はビルの屋上から伸びる吊橋に続いていて、その橋には屋根がある。
屋根の下に飛び込んだと同時、まるで飴を煮込んだ鍋を盛大にひっくり返したような、飴色の膜が出来た。黄色みたいな、緑みたいな、独特の色。もとからぼやけた視界が、もっとひどくて眩暈がする。
でも勿論クロウは歩みを止めないし、橋はちゃんと隣のビルまで続いていた。
and they all lived together in a crooked little house.
みんな一緒に暮らしました。
ハッピーエンドだ、間違いない。ただ残念なことに、吊橋の屋根は隣のビルに移ったところでぱったり途切れ。なんだか切り立った斜面に食い込むように立っているビルの向こう、矢印が指す先にはいつもの小さな黒い家が見えるにも拘らず、屋根の下から飛び出すには勇気のいる雨。
でも行かなければならない。クロウはその家に行くために、途中でブラック・バードを捨て、ひたすらに歩いてきたのだから。
勇気を出して一歩を踏み出す。
するとどうだ、とろとろと飴色の雨が、いつのまにかふわふわ甘い雪に変わった。ふわふわ綿菓子のような、事実綿菓子なのだろう雪。足を滑らせると危惧していた雨すらも、いつのまにか雪に変わる。
いつ来ても、本当に変な天気。一度など、ビスケットの雷が落ちた事すらある。地面に到達した瞬間、砕けて散ったビスケットの雷。
別にクロウは、感動も哀愁も何もなかったけれど。
ふわふわの雪、今日はまし。さくさくと雪らしい音のなるビルの屋上を進み、目の前に小さな黒い家。丸くて、窓がなくて、ドアもない。漆喰で塗り固めたばかりのように、つやつやと光り触れたら粘りつきそうな。
「うわああぁぁぁぁ!!」
その家の中、突然響いた絶叫に、クロウはにんまり笑った。
何時も通り。絶叫が響いたと同時、黒い家の入り口がぱかりと開くから。あとはもう、躊躇うことなく飛び込むだけ。
外から見たときは窓などなかったはずなのに、部屋の中は太陽が溢れている。窓の外もなんだか海辺の景色が見えて、今にもかもめが飛んできそう。
部屋の中には、丸い薪ストーブ。ストーブの上に乗ったやかんと、箪笥がひとつ。フライパンや鍋が部屋の隅にかためてあって、その傍には食器が少し。あとは木でできたベッド。黒いシーツ、黒い毛布、黒い枕。そこだけは枠以外全部黒。
ベッドの上には、頭を抱え何かを呻いている男がひとり。
鬼柳だ。
青白い髪は昔のまま。白い肌も、すいと顔を上げたときのレモンイエローも。
「…俺またやった?」
困り果てた声も昔通り。
「ちげぇ、俺がまたやったんだ」
嬉しくなってベッドにごそごそと潜り込みながら、クロウははっきりと言い切った。だって鬼柳はもう、ただの人間だから。もし何かをやらかすとしたら、痣のある自分の方。
最初にこの街を訪れたとき、勿論クロウは混乱した。わけがわからない住人達、変な動物に変な気候。ただ縋るように看板を追って出会った鬼柳もまた、同じように混乱していて。
どうしようなんだこれどうしたらいい?
お互い同じ台詞しか出てこずに。
結局答えは出ず、何故か抱き合って久しぶりの体温を堪能しているうちに、まあそういう事になって。結果どうにかなったのだから、要するにやればいいのだという結論に達した。
それに関してクロウも鬼柳も異存はあるわけがない。今は遠く離れた恋人同士、どんな怪奇現象であったとしても、触れ合うことが出来るのは幸福なこと。
この際どちらが原因かなんて、それはどうでもいい事だけれど。
ぺたりと抱きついたクロウの目の前で、鬼柳が小さなため息をつく。先ほど掻き毟った髪を手で梳いて整えて、それからちゅっとクロウの鼻に触れた唇。
「すっげ、甘い匂い」
「外、綿菓子降ってたぜ」
綿菓子?
ついと窓の外に向いた視線は、海しか写っていない筈。だと思う、多分。
この街は、人によって見えるものが違うのだと、クロウは何回目かでそれに気がついた。一貫しているのはマザーグースだけ、後は全ての景色が同じとは限らない。
だから、鬼柳が自分の髪を梳いたとき。髪がない場所にまで滑った指が、本来の髪型と今クロウが見ている髪形の違いを教えてくれたりする。鬼柳もまた、マーカーをなぞる指が額にしか触れないから。
きっとお互いに見ているのは昔の姿で。
時間から切り離された場所。時間と時間に挟まれた、捻じ曲がった街。
だからなんだというのだろう、こんな街でしか触れることの出来ない想いはある。最低でもクロウの気持ちは、今も変わっていないから。
「…まあいいや、クロウがいれば何処だって」
すぐに視線を戻した鬼柳が、そう言ってやんわり笑うから。鬼柳もきっと、変わっていないと信じて。
すっと目を閉じたクロウの唇に、ゆっくりと降りてきた、少しかさついた鬼柳の唇。
潤したくて、満たしたくて何度も何度も。唇を触れ合わせるだけのキス、とか。
まるでキャベツを一枚一枚剥ぐように、ひどくのんびりと脱がされる服だとか。
今鬼柳が見ているクロウが。今クロウが見ている鬼柳には、出来なかったこと。
でもその変わりに、クロウが出すことの出来なくなった甘え。鬼柳が出すことの出来なくなった独占欲。どちらでもいい、どちらかの欲が出れば聞くことの出来る言葉。
“今何してる?”
“今何処にいる?”
聞いてしまったら、この捻じ曲がった街ですら、もう会うことが出来なくなりそうで。
そう感じる思考すら、捻じ曲がっていると思うけれど。
「甘い」
ぺろりと頬を嘗めた鬼柳が笑う。一粒だけかかった飴の雨、落ちずに残ったそれを鬼柳が嘗め取った。
途端に広がった安堵感。意味のわからないその感情を持て余し、クロウは困ったように笑う。
「今日のクロウ、全身甘い」
ぺろり、ぺろりと。愛撫というより味見するように動く舌。綿菓子の効果は絶大で、いつもは触れない指先まで。舌を這わせる鬼柳は滑稽。でも物足りないと思うクロウも滑稽。
「鬼柳…」
名を呼べば、すぐに顔をあげぱちと瞬き。それからやんわり笑う顔。嬉しそうな顔。
ぱさりと黒いシーツの上、押し倒されてまた降ってきた唇は、今度こそ性急にクロウを貪った。
「…んぅ」
絡んできた鬼柳の舌は、確かに甘い。甘くて甘くて、酔ってしまいそうなほど。何故だろう、なんだかそれは、クロウにとって切ない甘さで。
ぎゅうと抱きついた鬼柳の身体は、もう火照っていて。本当はもっと早く、クロウを求めたいのだろう。それでも何かが彼の邪魔をしている。何か…なんて、終わりしかないことは、クロウにもわかっていること。
触れ合ったらそれで終わり、いつもそう。
「鬼柳」
名を呼んで、そっと頭ごと抱きしめた。さらさらと優しい感触の髪。むき出しのままの、少し冷えた肩。
「俺達、ここにいちゃ駄目なんだ」
顔を上げた鬼柳の、一瞬見せた寂しそうな表情とか。マーカーのない白い頬とか。長い睫とか。
全部全部残すため、い続けてはいれない街。全てが捻じ曲がり、間違っていて。何度開き直ってみたとしても、それは間違いようのない事実。
肯定してみたり、否定してみたり。この街に来るたびに、クロウの思考は混乱するけれど。
みんな一緒に暮らしました。
それはもう、昔の話。それだけは忘れないこと、最初に二人で決めた、確固たる事実。
「…クロウは相変わらず、強いな」
いつも鬼柳はそう言って、寂しそうに笑うけど。
強いわけじゃない
「お前とまた会える…その希望ごと、なくしたくねぇだけ」
クロウは気付いていた。
この街に呼ばれるとき、鬼柳は酷く混乱していて。悲しくて、孤独。クロウを強く想ってしまうほど。
そこから抜け出すために、絶対に必要な存在がクロウ。だからどんなに甘くても、間違った場所で幸せを見つけてみても。それはきっと、救いにはならない。
誰も救われない。
「鬼柳」
するりと手を伸ばした先、反り立ったペニスは今にも先走りを流しそう。やんわり掴んで、アナルに当てる。
慣らしてなんていないけど、多分お互いに苦痛しか感じない行為になるけれど。
「入れてくれ」
残酷な宣告。
いつもそうだ、最終通告はクロウから。でもそれでも、最終的に動くのは鬼柳から。
大きく息を吸う。それから、強く強くクロウを抱きしめる。
「いっ…ああああっっ!!」
「っっクロウッ!」
引き裂かれるような痛みと、これでまた離れ離れだと感じるぽっかり空っぽの心。ただ最後まで、離したくないと互いを抱きしめる腕だけが救い。
ぱちと目を覚ます。目を覚ましてクロウは、咄嗟に胸を押える。
劈かれる痛みも、抱きしめた鬼柳の肌の感触も熱も。何も残らない目覚め。
のろのろと起き上がれば、太陽はまだうっすらと顔を出した頃。無機質な部屋には、まだ仲間の寝息が聞こえていて。
のろのろと向かったまだ薄暗いガレージの、ひんやりしたレンガの感触。掌で感じながら、クロウが向かったのは壁にかかったカレンダー。
日付をひとつずつ指で追って、今日。
「はっ」
馬鹿じゃねえ?
恋人達の日だって、馬鹿じゃねぇ?
呟いた、つもりだったのに。クロウの口から零れる音は、声には鳴らず。ただ嗚咽だけが、あとからあとから。
「きりゅっ…!」
さらさらと優しい感触の髪
少し冷えてしまった肩
マーカーのない白い頬
長い睫
寂しそうな顔。
笑顔も沢山見せていたはずなのに、そのどれもが黒く塗りつぶされ、もうわからない。
正しいことをしているのか、答えが間違っていないのか。そんなこと、誰にもわからないから。せめて笑顔だけでも、記憶に残して来たいのに。
どれひとつとして与えられたことはない、漆喰で塗り固められた黒い顔だけ。
最初から存在などしなければいい。何度も思った捻じ曲がった街。なのにそこに放り出されたとき、いつもクロウの胸は幸福でいっぱいで。その後の痛みを知っているはずなのに、そんなこと考えもしないで。
包まれていると思うから。鬼柳の中に、包まれていると。
黒い街に降り積もる、綿菓子の雪のように柔らかく。
There was a crooked man
and he walked a crooked mile
捻じ曲がった街の入口。ブラックバードを捨て、クロウはそこまでたどり着いた。
街に入った途端ねっとりと重い空気、飴色の空。黒い町並みと、寂れた街道。
そこに一匹のネズミ。
咄嗟に手を伸ばしたクロウは、簡単にネズミを捕まえた。
白くて小さな、小さな小さな尻尾の切れたネズミ。
寂しい
そのネズミは小さな小さな声でそう呟いて、クロウの掌の中で蹲った。
柔らかい毛の感触は優しくて、小さな小さな掌はひんやりと冷たい。
「クロウ」
名を呼ばれ、振り向けば鬼柳がいる。シマウマ猫を抱いて、鬼柳が笑っている。
さらさらと長い髪、白い頬に刻まれたマーカー。飴色の空の下、キラキラと光るレモンイエローの目とやんわり優しい笑み。
鬼柳の姿を見た途端降り出した、飴色の雨。
「Sweet Sweet Candy Rain」
まるで歌うように、流れる言葉とひらり猫の上を滑った大きな手。瞬く間に猫が、黒とオレンジのシマウマに変わった。ぱらぱらと街道に散らばった白は、ペンキだろうか?
「これ、お前の」
すっと差し出された猫。
一度捨ててしまったものなんて、きっと探してももう、元通りにはならないのにね
そう呟いた猫は、困ったような顔でクロウを見ている。
「んで、それは俺の」
すっと差し出された、大きな手。
クロウは一瞬躊躇して、それでも小さな小さなネズミを鬼柳の掌に乗せ、猫を受け取った。
鬼柳はネズミを両手で包み、ゆっくりと目を閉じる。まるで祈るように、その両の手を胸に押し当てて。
「言えなかったんだよな…俺、言えなかったな、誰にも。だから隠れて、今まで出てくる勇気すらなかった…ごめんな」
言い聞かせるようにそう、呟いて。ゆっくり手を開いたとき、もうそこにはネズミの姿はなく。目を開いたとき、それでも鬼柳は綺麗に笑っていたから。クロウもゆっくり、猫を抱き上げる。
今まで触ろうとすらしなかった。触ったらきっと、ペンキは剥げたから。それを心のどこかで、知っていたから。
「…もう元通りにはならない、わかってる。わかってるけど…足掻いていいか?」
呟けば、猫はゴロと喉を鳴らし、にゃあおと鳴いて。それからすっと、クロウの中に消えていく。
黒い漆喰で塗り固められた、捻じ曲がった街。
突然降り出す雨や雪。砕け散る雷も。
全部、全部。作り出したのは二人。
黒い街を鬼柳が、異常気象をクロウが。
何故そんなものが出来てしまったのかはわからない。一応の理由をつけることは出来るけれど、きっと解明する必要はないこと。
猫やネズミと同じ事。
またすっと伸びた大きな手。今度は渡すものがないから、代わりに自分の手を重ねてみる。
「濡れない雨って便利だな」
鬼柳がそうおどけて言うから、漸くクロウも自分達の周りだけが濡れていないことに気がついて。でももう、それもどうでもいい事。
「どうする?」
聞けば、さらり髪を揺らして鬼柳が笑う。ぎゅっと手を握り引かれた先は街の外。
「帰ろうぜ」
なんでもないことのように言い切るから。別に全く疑っているわけではないけれど。
「帰れるのか?」
聞けば、即座に帰ってくる握った手の強さ。
「クロウがいれば何処だって、行けるとこまで。俺今、信じられないほど怖いもんねぇし」
歩き出した鬼柳は、その言葉通りどんどん進む。振り返りもしないで、ただ確りとクロウの手を握り締めて。
…そっか
小さく小さく呟いたクロウは、一度だけ呟いて。それからひっそりと、笑って見せたけれど。鬼柳は振り向かないからその顔は見れなかった。ただクロウも、鬼柳の清々しい程に透明な笑みを見ることが出来なかったから、お相子。
ぱちりと目を覚ます。二人同時に、ぱちりと。
クロウを抱きしめるように伸ばされていた左腕と、何故か鬼柳の髪を掴んでいた右腕。
ぱちぱちと瞬きをして、互いの顔を覗き込み。どちらからだろう、うっすら浮かんだ笑みとクツクツ漏れた笑い声。
「せぇの、で」
「おう」
ひっそりと囁きあった後、せぇの、呟いた鬼柳の声に合わせ毛布の中から飛び出した右手と左手は、確りと握られていた。
END
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