手に持つ剣と天秤を捨て、でも目隠しはそのままで
こちらにおいでユスティティア
躓き大地にひれ伏そうとも、目隠しはそのままで
手の鳴る方へユスティティア


そしてユスティティア
ネメシスの刃を受けておくれ










「秩序、正義、平和…星も見えないこの街で、どの神が誰を正すんだ?ユスティティアの天秤はぴくりとも動かねぇ。こんな汚ぇ街に降りてくる女神がいるとすれば、それはネメシスくらいのもんじゃねえ?復讐の女神・ネメシス…俺の神様にはぴったりだ!」
くるり、くるりと。クロウの周りを、京介が軽い足取りで回る。
一定の間隔をあけて、けして近づこうとはしないけれど。いつ気が変わるか、いつ飛び掛ってくるかはわからない。
だからこそ背後に移ったとき如実に肩を震わせるクロウが、京介は楽しくて仕方ない、そんな風に笑う。
「是非とも遊戯をしたいところだクロウ、お前となぁ。何がいい?俺の中で追いかけっこは決定だ、ただそれに付属するアクセントが思いつかねぇ。何がいい?」
何がいい、何がいい
歌うように呟きながら、しかし京介は急かさない。ひらりひらりとマントを広げ、楽しげに。
先に耐えられなくなったのは、クロウだ。
「天秤は…」
天秤は、公平
言った、確かにそう言った事を覚えている。
「アストレア、じゃねぇのかよ…」










透き通ったピンクの飴
ハート型の飴
赤が少しきついと言って笑った人は
心を粉々に崩し溶かして消した










「ユスティティア、アストレア、テミスでもいい。何でもいいぜ、世の中どれも千差万別。でもそうか、お前覚えてたのかぁ」
クツクツクツクツ
喉の奥で音が震える。
「おままごとだったなぁ」
ひらり、ひらりとマントが舞う。
「可愛くて可愛くて、反吐が出そうだったぜクロウ?」
クツリ、クツリと笑いながら。思い出を粉々に砕きすり潰して、なおも笑う。
「あの頃からだよなぁ、お前が俺の特別になったのは。つっても知らねぇだろうけどな」
ピタと、唐突に止んだ笑い声。
クロウが顔を上げれば、真正面に京介が立ち、口の端だけを微かに上げていた。
更にその向こう。崩壊したビルの隙間から、まるで津波のようにこちらに向かう、黒い霧。
その霧を目にし、漸くクロウは息を呑んだ。

何故目の前に鬼柳が
何故死んだはずの鬼柳が
何故

「逃げて、逃げて、逃げてみろよクロウ。追いかけっこだ、俺が勝ったらお菓子を貰うぜ?」
「んなもん…っ!」
「まあ悪戯とお菓子どっち選んでも、答えは“クロウ”なんだけどな」
わかりやすいだろ
クツクツと、喉を鳴らしながら京介が笑う。
そんな笑い方はしなかったはず、強要するようなこともなかった。
ちゃんと拒否権は与えられていた。
ちゃんと、最後まで。



そのとき、転がっていた石が蹴り上げられ、クロウに向かって飛んできて。
咄嗟に後ろに飛び退き睨めば、そこにはもう笑みを浮かべてなどいない京介がいて。
「お前が逃げねぇと、始まんねぇだろ。さっさと行けよ」
黒に浮かぶレモンイエロー。
向日葵みたいな色
なんて。本でしか見たことがない花に重ねて、こっそり思っていた…大好きだった色。
その色が、射抜くようにクロウを見つめ、すっと息を吸う音。
「クロウ、逃げろ!」










逃げて逃げて逃げてユスティティア
目隠しは取り払えない
剣も天秤も返せない
だから逃げてユスティティア


復讐に目が霞んだネメシスに
けして捕まってしまわぬよう










気付けば、駆け出していた。
多分走っても無駄だと、クロウはわかっていたけれど。
きっと京介も、わかっていたけれど。
逃げろと言った、名前を呼んで逃げろと。
逃げるしか、ないじゃないか。


気まぐれで唐突な性格とか
我を忘れて何かを喚く姿とか
一貫性のないように見せかけた理論とか
無駄に博識なところとか
本当にくだらないことに延々腹を抱えて笑うとか
自分を止められない弱さとか


もう何もかも失われていたとして。
でもついさっき、今さっき叫んだ鬼柳京介は。彼だけは、知っていた。知っていたから。
クロウは走る、惑わされぬよう。
だって、あのピンクの飴を作ったのは京介だ。


心中何を考えていたかなど、クロウにはわからない。
あのときから既に、何かが変わり始めていたのかもしれない。かもしれない、けれど。
あの時確かに、京介はクロウのためだけに飴を作った。ティッシュじゃなくて、ガラス瓶に入ったピンクの飴。
全開の笑顔で頭を撫でて、少し恥ずかしげに目を細めた。
何を言われようと、例え京介本人から言われようと。クロウは認めない、気にもならない。
あの時確かに、全部受け止めたから。残らず全部を、貰ったから。
「間違ってるのは、今だ…」
呟いて、歯を噛み締める。
そう判断したならば、残る選択はひとつだけ。
終わらせる、全部
例えそれが、胸を掻き毟るほど辛い選択だとしても。
お菓子なんてあげない、悪戯もさせない。きっと彼は、それを望んではいない。本当の本当は。
「あいつ最悪」
何て性質の悪い代償。飴の代金は高すぎる。何だこの時間差は?
悪態を付いても付いても付き足りない、けれど。
仕方ない。放棄なんて選択、最初から頭の片隅にもないのだから。
じゃあもう逃げて逃げて逃げて、逃げ切って。噛み付く牙を研がなくちゃ。
飛び切り鋭くて、飛び切り強固な特性の牙。
何を感じても、何を見ても、何と立ち向かったって砕けない、超特性。
それくらいしないと、きっと立ち向かうなんて無理だから。
どうせ忘れることなんて、無理だから。











霧に飲み込まれながら、京介は自分の喉を強く掴んだ。爪が食い込むほど、苛立たしげに。
「…足りねぇ」
憎んで、憎んで。復讐以外価値なんてないと、そう思い込むほどに憎んでいるはず。
なのに動かない足、勝手に動く口。
「全部、全部だネメシス…この世界にある全部の憎しみ」
全ての憎悪
それくらいないと、足りない。
クロウを捕まえるには、それくらいないと無理。
「全部寄越せよおおおぉぉ!!」
欲しくて欲しくて、仕方がないのに。
どうして己が己を拒むのか。考えても考えても、京介はわからない。わかりたくもないことが、わかっただけ。
「…しゃあねぇ、周りから潰すか」
だとすれば、この問題はとりあえず保留。やることは沢山あるから、少し保留しても問題ない。
問題ない、はず。
馬鹿みたいだ…
そんな言葉が頭を過ぎって、しかし京介はそれも見ないふりをした。



END




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